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音曲日誌「一日一曲」#398 藤竜也「ヨコハマ・ホンキー・トンキー・ブルース」(RCA)

2024-05-08 09:24:00 | Weblog
2024年5月8日(水)

#398 藤竜也「ヨコハマ・ホンキー・トンキー・ブルース」(RCA)





藤竜也、1977年リリースのシングル・ヒット曲。藤本人の作詞、エディ藩作曲。

俳優、藤竜也は1941年中国北京市の生まれ、本名・伊藤龍也。映画「Death Note」の夜神月役の人ではない。念のため(笑)。

父親の戦死により植民地の中国より日本に引き揚げ、おもに横浜や葉山で育つ。日大芸術学部演劇科在学中にスカウトされて日活に入り、62年にスクリーンデビュー。個性的な脇役、ライバル役を演じて、独特の雰囲気で人気を獲得する。

彼が最も注目されたのは1976年、30代半ばで大島渚監督の映画「愛のコリーダ」で主役吉蔵を演じた時だ。あえてその詳細を書くことは避けるが、その演技は一大センセーションを呼ぶ。

この作品は藤の知名度を一気に押し上げることになったものの、「初の◯番俳優」的な扱いを受けることに相当なストレスを感じたのであろう、藤はしばらく映画制作の現場から離れることになる。

そのかわりに藤が選んだのが、音楽活動である。藤はもともと俳優の余技として、レコードを出していた。1974年にシングル「花一輪/夢は夜ひらく」でデビュー、翌年には「茅ヶ崎心中」もリリース、アルバム「藤竜也」も出している(74年)。

これらはどれも演歌調やフォーク調で、いかにも日本的なイメージの曲であり、語り・ナレーション中心だった。流行歌というよりは、藤竜也ファン限定の、ファン・サービスだったというべきだろう。

この路線は、藤自身としては正直あまり好みではなかったのか、サード・シングルで、思い切ったイメージ・チェンジを図った。それが本日取り上げた76年リリースの「ヨコハマ・ホンキー・トンキー・ブルース」である。

ここで「あれ?」と思われた方も多いに違いない。「ヨコハマ・ホンキー・トンク・ブルースじゃあないの?」と。

実はそのタイトルは、のちにこの曲を他のアーティストがカバーした時に改題された時のものなのである。オリジナル・シングルは、あくまでも「ヨコハマ・ホンキー・トンキー・ブルース」なのだ。(下の画像はそのジャケット)


この曲は、語りの部分を含めて歌詞を藤本人が書き、作曲を元ザ・ゴールデン・カップスのギタリスト、エディ藩(1947年生まれ、本名・藩廣源)に依頼した。

藩は1972年1月のカップス解散後、オリエント・エクスプレスというバンドを率いて、新たな音を模索しているところだった。

藤は若干の年齢差はあるものの、同じ横浜育ちの藩の活動に対して強いシンパシーがあったのだと思う。傍目にはちょっと意外と思われるコラボレーションだったが、これが実に上手くいった。

ヘミングウェイに憧れて、夜のハマの酒場(決して居酒屋ではなく、あくまでもバーである)でひとり呑み続ける男。これが、本来の藤竜也の姿だった。

筆者は格別の藤ファンではないので、当時のファンの人たちがこの曲をどのように受け止めたかは、想像してみるより他にないが、おそらくボカーンと口を開けて聴いていた、そんな感じではなかったかと思う。

この曲で藤竜也は、これまでの「居酒屋で日本酒を呑む男」のイメージを見事に覆し、アメリカ風の酒場でバーボンウィスキーを嗜み、演歌ではなくブルースを口ずさむダンディとなったのである。

さっそく、この藤のダンディズムに心酔した男がいた。同じ俳優、松田優作である。

1949年生まれの彼は、当時25歳。前年、テレビドラマ「太陽にほえろ」に出演して以来注目されていた若手俳優だった彼は、この「ヨコハマ・ホンキー・トンキー・ブルース」の世界に惚れ込んだ。

76年に歌手としてもデビューした松田は、4年後の80年にリリースしたサード・アルバム「TOUCH」で、ついにこの曲をカバーする。「YOKOHAMA HONKY TONK BLUES」のタイトルで。語呂としては、こちらの方がよかったからだろう。編曲は竹田和夫。

翌81年には工藤栄一監督の映画「ヨコハマBJブルース」で、売れないブルースシンガーにして私立探偵のBJという役どころで主演するが、この挿入歌のひとつとして、上記の「YOKOHAMA HONKY TONK BLUES」が選ばれた。

このアルバムと映画のダブルコンボにより、本曲はスタンダードとなったと言っていい。

82年には、松田も畏敬する先輩俳優、原田芳雄がライブ・アルバム「原田芳雄ライブ」にて、この曲を取り上げて歌っている。原田をプロデュースした宇崎竜童も自分のレパートリーとしている。

さらには、作曲したエディ藩も現在に至るまで、メインのレパートリーとして歌っているのだ。

藤竜也という、歌い手としてはプロといえない人の50年前の持ち歌が、ここまで支持されたのは、歌詞、メロディ、それぞれの持つ魅力によるものだろう。

米国の黒人ブルースを下敷きとしながらも、日本語ならではの響きを生かした、ジャパニーズ・ブルースの稀有な成功例だ。

今日もこの国のどこかで、有名・無名を問わず多くのミュージシャンによって、この曲はオーディエンスの心を震わせることだろう。





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