2024年5月19日(日)
#409 ヒューバート・サムリン「Killimg Floor」(Blues Special)
#409 ヒューバート・サムリン「Killimg Floor」(Blues Special)
ヒューバート・サムリン、1994年リリースのライブ・アルバム「Made In Algentina 1993」からの一曲。チェスター・バーネット(ハウリン・ウルフ)の作品。アドリアン・フローレスによるプロデュース。
米国のブルースマン、ヒューバート・サムリンについては、何度かハウリン・ウルフを取り上げる時にふれたことはあるものの、本人のみでは一度もトピックにしたことがなかった。
筆者が最も敬愛するブルース・ギタリストなのに、なんたる失態だろう。罪滅ぼしに、今日はぜひ彼について語りたいとおもう。
ヒューバート・チャールズ・サムリンは1931年ミシシッピ州グリーンウッドに生まれ、アーカンソー州ヒューズで育つ。8歳でギターを買い与えられて弾き始める。
その後、有名ブルースマン、ハウリン・ウルフ(1910年生まれ)が巡業に来た時に、ジュークジョイントに紛れ込んでその演奏をこっそり聴いていたのが見つかり、それがウルフとの最初の出会いだったという逸話が残っている。
ウルフは1953年にそれまでのメンフィスからシカゴに本拠地を移した。その際、古い付き合いのギタリスト、ウィリー・ジョンスンが移住を拒んだので、代わりにシカゴでジョディ・ウィリアムズを雇う。翌年、サムリンがセカンド・ギタリストとして呼ばれる。ときにサムリン、22歳の出来事である。
ウィリアムズが55年にバンドを抜けてからは、メイン・ギタリストに昇格。以後、56年頃にマディ・ウォーターズのバンドに一時的に移籍した以外は、1976年にウルフが65歳で亡くなるまでの約22年間、サムリンは文字通りウルフの片腕として行動を共にすることになる。
ウルフの死後は、80年頃まで彼のバック・バンド(ウルフ・ギャング)のメンバー達と一緒に演奏を続けた。80年代にはブラック・トップ、ブラインド・ピッグといったレーベルで、ソロ・レコーディングを開始する。
ソロ活動の当初はギターのみ弾き、他のアーティストに歌を任せることが多かったが、次第に自分でも歌うようになる。プロシンガーのように技術的に上手い歌ではなかったが、独特のほのぼのとした味わいがあった。
本日取り上げた「Killing Floor」は、ソロ活動が軌道に乗ってきた93年頃、アルゼンチンのブルース・ミュージシャン達に呼ばれて、現地で共演コンサートを行った時の一曲。
この曲はいうまでもなく、サムリンの元ボス、ハウリン・ウルフの代表曲だ。オリジナルは64年にレコーディング、シングルリリースされている。
先日、カーティス・ナイトとジミ・ヘンドリックスの共演バージョンも取り上げた本曲は、多くのブルースマン、ロッカーによってカバーされ、スタンダードとなった。それをオリジナル・プレイヤーであるサムリンが、30年ぶりにライブ録音したわけである。
バックメンバーは全てアルゼンチンのブルース・ミュージシャンだ。プロデューサーでもあるドラマー、アドリアン・フローレスをはじめ、ギターのレオン・アルマラ、ベースのカチョ・ガラルドなどの5人。
アルゼンチンのブルース・シーンについては筆者はまるきり知らないが、この演奏のレベルを聴くにそれなりに盛んのようだ。少なくとも、米国本国のプレイヤーと遜色はない。
そんな異国のプレイヤー達にもすぐに溶け込んで、サムリンは伸び伸びと演奏、そしてリード・ボーカルも取っている。さすが、音楽は世界の共通言語である。
サムリンのギタープレイは、いわゆる三大ギタリスト、キース・リチャーズなど白人ロック・ミュージシャンにも愛好する者が多い。その理由はやはり、その「型にはまらない自由さ」にあると筆者は考える。
ブルースは、ともすれば型にはまりがちで、パターン化しやすい音楽だったが、そういう固定観念を見事に打ち破って、サムリン流ともいうべき過去のパターンにとらわれないフレーズを、インスピレーションの湧くがままに紡ぎ出したのがサムリンだった。
そんな自由さが、多くのプレイヤーを惹きつけてやまないのだ。
このライブ版のパフォーマンスでも、そんなサムリンらしさが存分にあらわれている。時にはちょっと不安定なところも見せるが、細かいミスは気にせず、勢いでグイグイと弾きまくるのがなんとも頼もしい。
サムリンならではの、ビビッドでトリッキーなフレージングに満ちた一曲。この彼のスリリングなプレイこそが、ロック・ギターの源流となったのだ。
米国のブルースマン、ヒューバート・サムリンについては、何度かハウリン・ウルフを取り上げる時にふれたことはあるものの、本人のみでは一度もトピックにしたことがなかった。
筆者が最も敬愛するブルース・ギタリストなのに、なんたる失態だろう。罪滅ぼしに、今日はぜひ彼について語りたいとおもう。
ヒューバート・チャールズ・サムリンは1931年ミシシッピ州グリーンウッドに生まれ、アーカンソー州ヒューズで育つ。8歳でギターを買い与えられて弾き始める。
その後、有名ブルースマン、ハウリン・ウルフ(1910年生まれ)が巡業に来た時に、ジュークジョイントに紛れ込んでその演奏をこっそり聴いていたのが見つかり、それがウルフとの最初の出会いだったという逸話が残っている。
ウルフは1953年にそれまでのメンフィスからシカゴに本拠地を移した。その際、古い付き合いのギタリスト、ウィリー・ジョンスンが移住を拒んだので、代わりにシカゴでジョディ・ウィリアムズを雇う。翌年、サムリンがセカンド・ギタリストとして呼ばれる。ときにサムリン、22歳の出来事である。
ウィリアムズが55年にバンドを抜けてからは、メイン・ギタリストに昇格。以後、56年頃にマディ・ウォーターズのバンドに一時的に移籍した以外は、1976年にウルフが65歳で亡くなるまでの約22年間、サムリンは文字通りウルフの片腕として行動を共にすることになる。
ウルフの死後は、80年頃まで彼のバック・バンド(ウルフ・ギャング)のメンバー達と一緒に演奏を続けた。80年代にはブラック・トップ、ブラインド・ピッグといったレーベルで、ソロ・レコーディングを開始する。
ソロ活動の当初はギターのみ弾き、他のアーティストに歌を任せることが多かったが、次第に自分でも歌うようになる。プロシンガーのように技術的に上手い歌ではなかったが、独特のほのぼのとした味わいがあった。
本日取り上げた「Killing Floor」は、ソロ活動が軌道に乗ってきた93年頃、アルゼンチンのブルース・ミュージシャン達に呼ばれて、現地で共演コンサートを行った時の一曲。
この曲はいうまでもなく、サムリンの元ボス、ハウリン・ウルフの代表曲だ。オリジナルは64年にレコーディング、シングルリリースされている。
先日、カーティス・ナイトとジミ・ヘンドリックスの共演バージョンも取り上げた本曲は、多くのブルースマン、ロッカーによってカバーされ、スタンダードとなった。それをオリジナル・プレイヤーであるサムリンが、30年ぶりにライブ録音したわけである。
バックメンバーは全てアルゼンチンのブルース・ミュージシャンだ。プロデューサーでもあるドラマー、アドリアン・フローレスをはじめ、ギターのレオン・アルマラ、ベースのカチョ・ガラルドなどの5人。
アルゼンチンのブルース・シーンについては筆者はまるきり知らないが、この演奏のレベルを聴くにそれなりに盛んのようだ。少なくとも、米国本国のプレイヤーと遜色はない。
そんな異国のプレイヤー達にもすぐに溶け込んで、サムリンは伸び伸びと演奏、そしてリード・ボーカルも取っている。さすが、音楽は世界の共通言語である。
サムリンのギタープレイは、いわゆる三大ギタリスト、キース・リチャーズなど白人ロック・ミュージシャンにも愛好する者が多い。その理由はやはり、その「型にはまらない自由さ」にあると筆者は考える。
ブルースは、ともすれば型にはまりがちで、パターン化しやすい音楽だったが、そういう固定観念を見事に打ち破って、サムリン流ともいうべき過去のパターンにとらわれないフレーズを、インスピレーションの湧くがままに紡ぎ出したのがサムリンだった。
そんな自由さが、多くのプレイヤーを惹きつけてやまないのだ。
このライブ版のパフォーマンスでも、そんなサムリンらしさが存分にあらわれている。時にはちょっと不安定なところも見せるが、細かいミスは気にせず、勢いでグイグイと弾きまくるのがなんとも頼もしい。
サムリンならではの、ビビッドでトリッキーなフレージングに満ちた一曲。この彼のスリリングなプレイこそが、ロック・ギターの源流となったのだ。
そして、長身でスーツ・スタイルがビシッと決まる伊達男というのも、彼が多くのファンを持つ、もうひとつの理由だろう。
「ギターは自分の弾きたいように弾けばいい」。このことを自らのプレイにより教えてくれたヒューバート・サムリンは、筆者に取って最高の、そして永遠の師なのである。
「ギターは自分の弾きたいように弾けばいい」。このことを自らのプレイにより教えてくれたヒューバート・サムリンは、筆者に取って最高の、そして永遠の師なのである。