NEST OF BLUESMANIA

ミュージシャンMACが書く音楽ブログ「NEST OF BLUESMANIA」です。

音盤日誌「一日一枚」#115 スティーリー・ダン「AJA」(MCAビクター MVCM-18520)

2022-03-09 05:03:00 | Weblog

2002年8月24日(土)



スティーリー・ダン「AJA」(MCAビクター MVCM-18520)

(1)BLACK COW (2)AJA (3)DEACON BLUES (4)PEG (5)HOME AT LAST (6)I GOT THE NEWS (7)JOSIE

スティーリー・ダン、6枚目のアルバム。1977年リリース。

筆者はこれを大学在学中によく聴いたものだが、今回CDで購入し聴き直してみて、改めてさまざまな感慨にふけることになった。

まず、発表されて四半世紀が経ったにもかかわらず、まったくサウンドが「古く」感じられないということだ。

この「サウンド」という言葉は、単に演奏内容、アレンジ(編曲)といった意味だけでなく、「録音技術」的な意味、「音場」というような意味も含むと考えていただきたい。

そういう「総合的」な意味でも、この77年のサウンドはまったく「過去」のかけらも感じさせない。これは驚嘆すべきことだろう。

このアルバムの内容については、ネットを含めて実にさまざまなメディアで、幾度となく紹介されてきたので、皆さんご存じであろうが、まず、レコーディングに参加したメンツがスゴい。

スティーリー・ダンのふたりを核に、リズムはチャック・レイニー(b)、ポール・ハンフリー、スティーヴ・ガッド、バーナード・パーディ、リック・マロッタ、ジム・ケルトナー(ds)ほか。

ギターはラリー・カールトン、デニー・ディアス(元スティーリー・ダン)、リー・リトナー、スティーヴ・カーン、ジェイ・グレイドンほか。キーボードはジョー・サンプル、ヴィクター・フェルドマン、ポール・グリフィンほか。

そして極めつけは、ホーン・セクション。すべてのホーン・アレンジをまかされたトム・スコットを筆頭に、ウェイン・ショーター、ジム・ホーン、ビル・パーキンス、プラス・ジョンスン、チャック・フィンドレーら、ジャズ/フュージョン界での名うてのプレイヤーぞろいなのである。

こういった綺羅星のごとき名手・達人たちを、スティーリー・ダンのふたりは、それこそ自分の手足のごとく使って、この恐るべきアルバムを完成させたのだ。

たとえば、のっけの(1)から、「ファンク」な音で聴く者をいきなりノックアウトする。

レイニーのベース、カールトンのギター、スコットのテナー、いずれも達人ならではの技だが、それらに「食われる」ことなく、フェイゲンの力強いヴォーカルや女声コーラスがしっかりと曲を「仕切って」おり、本盤を決してジャズやフュージョン・アルバムにはしていない。あくまでも「歌」中心の「ポピュラー・ミュージック」のスタンスなのだ。

もっとも、この「ポピュラー・ミュージック」、その歌詞世界は、かなりひねくれた代物ではあるのだが。

タイトル・チューン、(2)はスティーヴ・ガッドの見事なプレイに支えられた一曲。

特に聴きものは間奏での、彼とウェイン・ショーターの、壮絶なバトルだろう。

だがやはり、メインはあくまでもスティーリー・ダンの生み出した「曲」そのものだと思う。

フェイゲンの独特の翳りのある歌声にマッチした、ひねりのある旋律とシュールな歌詞、これこそがスティーリー・ダン・ミュージックなのだ。

(3)では、当時フュージョン・ギター界の人気を二分していたカールトン、リトナーが共演。

安っぽいPRをするなら「夢の競演」ということになるのだが、もちろん彼らのプレイも、スティーリー・ダン・ワールドの構築のために使われている1コンポーネントに過ぎない。

この曲はどちらかといえばオーソドックスな8ビートで、バックにはジャズィなセンスが横溢している。

もちろん歌の中身は例によって、退廃的な生活を送るジャズマンに自らをなぞらえた、屈折した青年の心情をうたったものだが、あくまでもバックは正統派の音、これがいいのだ。ピート・クリストリーブのテナー・ソロも、実によく「歌って」いる。

ほぼ同時期に発表された、ラリー・カールトンのアルバムに収められていた「ルーム335」に曲想がよく似ているのは(4)。でも、インストの前者とは違って、こちらは彼らなりの洒落た料理がなされており、有名モデルになった別れた恋人へ送るラブソングへと仕上がっている。

ま、当時はこれを女子大生あたりが「オッシャレー」と言って好んで聴いておったワケ(笑)。

たしかに、ジェイ・グレイドンのソロも、(その速弾きといい、絶妙なハズし技といい)むちゃカッコよかったもんな~。

しかし、彼らは単にハイセンスでシティ感覚あふれる音楽を作る集団ではないのであり、歌詞を聞こうとしない(あるいは出来ない)わが国のリスナーには、その本質は理解できていなかったはずだ。

これは別にスティーリー・ダンによらず、わが国の洋楽受容のおおかたの実態なんですけどね。

実際、この高精度サウンドのおかげで、彼のレコードは「サウンドチェック用」として、いわゆるオーディオ・マニアに愛好されていたフシもある。やれやれ、という感じだが。

(5)は、レゲエ風スロー・シャッフルでの一曲。

「安らぎの家」を得たかのように見えた主人公は、結局何処へかと去っていく。「自分の運」をもう一度試すために。

相変わらずわかったようなわからないような、人を食った歌詞が彼ららしい。

彼らは、聴き手の理解を助けるようなフォローを決してせずに、考えたままに歌詞を書いていってしまうタイプのクリエイターなのだ。たぶん。

ここでのカールトンの、シブめの、どこか「独り言」を思わせるソロもなかなか味があってよい。

続く(6)は、性的な暗喩に満ちた歌詞が印象的な、ファンキーなビートのナンバー。フェルドマンのピアノのノリがいい。

ギターはベッカーとカールトン。ペナペナ系のソロがなかなか「気分」である。

ラストの(7)はジョージーという気風のいいイカした女のことを歌ったナンバー。こちらもまた、レイニーが弾き出すファンクなリズムが心地よい。

ジャズ好きなフェイゲンのアレンジが、なんともグー。こういう、不協和音系の音使いのカッコよさにおいて、スティーリー・ダンをしのぐロック・バンドはいないだろう。

以上、彼らの音楽の最終的到達点ともいえる、非のうちどころのない「完璧」な音作りが堪能できる一枚。

まったく「古さ」を感じない音だということは、裏返していえば、「この四半世紀、ポピュラー・ミュージックは、まったく進歩していない」という証拠にもなるかも知れない(笑)。

再聴、再々聴に耐えうる、まれなる一枚。やはり、ふたりの才能は、ただものではないね。

<独断評価>★★★★★


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