2022年12月18日(日)
#399 FLOWER TRAVELLIN’ BAND「SATORI」(ワーナーミュージック ジャパン WPC6-8425)
日本のロック・バンド、フラワー・トラベリン・バンドのセカンド・アルバム。71年4月リリース。内田裕也、折田育造によるプロデュース。
フラワー・トラベリン・バンド(以下FTB)は、グループ・サウンズのひとつ、内田裕也とザ・フラワーズが1970年2月にメンバー再編成により改名、再出発したバンドだ。
内田はこれを機にプレイヤーから、プロデューサーへと転身した。
メンバーは石間秀樹(G)、上月ジュン(B)、和田ジョージ(Ds)、そしてジョー山中(Vo)である。
GSから本格的なロック・バンドへの脱皮、それがFTBの目指すところだった。
それまでの日本語歌詞による歌謡曲的なGSではなく、海外でも通用するロックを目指して、歌詞は英語に変わった。
サウンドの方は、いわゆる英米ロックのメインストリームであるブルースに根差した音というよりも、外国人のイメージするところの和風、あるいはアジア的な旋律をベースにした、独特のエキゾチックなものとした。
日本の中で受けているだけでは意味がない、海外のリスナーにもアピールする要素を、前面に押し出したのである。
70年10月、日本フォノグラムよりファースト・アルバム「ANYWHERE」で国内デビューは果たしたものの、さほどの反響はなかった彼らだったが、転機は意外なところから転がり込んで来た。
FTBは同年に開かれた大阪万博のイベントに出演、その時に競演したカナダのロック・バンド、ライトハウスから「カナダでライブをやってみないか」と誘われたのである。
この誘いを受けてカナダへ渡り、しばらくそこで地道にライブ活動を続けているうちに人気が出て来た。
その評判を聞きつけた米国大手のアトランティック・レコードとの契約がまとまり、アルバムを出すことになった。カナダでもGRTレコードとの契約に至った。
発売後、特に人気の高まっていたカナダでは、アルバムとシングル「SATORI PART II」がチャートインを果たす。
日本でシコシコ活動しているよりは何倍ものスピードで、彼らは一躍世界の注目を浴びることとなったのである。
世界に認められるためには、とにかく現地に行って、自分たちのパフォーマンスを見てもらうのが早道ということか。まさに戦略の勝利だな。
翌72年2月にはライブ・アルバム「MADE IN JAPAN」をリリース。もう完全に「ワールド・クラス」の貫禄を備えて来たFTBであった。
しばらく米加でライブ活動を続け、EL&P、ドクター・ジョン、といったトップ・ミュージシャンらとも競演を果たした後、FTBは72年3月に凱旋帰国した。
彼らは、日本国内でも全国コンサートを続けていく。そしてまたとないビッグ・チャンスが訪れるのだが…。
73年1月、ローリング・ストーンズの初来日公演が予定され、FTBはそのOAに出るはずだった。
だが、メンバーのドラッグによる逮捕歴などが災いして入国許可がおりず、公演は中止となる。世界的なバンドとの競演へとあと一歩のところで、FTBの夢は潰えてしまったのだ。
73年2月、4枚目のアルバム「MAKE UP」をリリース、バンドは4月の京都のコンサートを最後に解散してしまう。
海外進出、米国メジャーレーベルでのレコード・リリースと、それなりの成功を達成しながらも、あまりにあっけない幕切れを迎えたFTB。
いまその早過ぎる解散の理由を推測してみるに、彼ら、つまりメンバー本人たちも、プロデューサー内田裕也氏も、バンドとしての長期的展望を持っていなかったからではないかと思うのだ。
つまり、アルバムにして2、3枚程度のアイデアしかなかったということだ。
オリエンタリズム、アジア趣味をバンド最大のアピール材料としてフルに活用して人気を博したのはいいのだが、その次に打つべき手を考えていなかったから、結局、バンドを終了せざるを得なかった。そういうふうに推測する。
とはいえ、FTBのサウンドには、それまで聴いたことのないような、得体の知れない魅力、オリジナリティが満ちていた。
本盤は「サトリ」といういかにも東洋哲学、宗教的なテーマを、5つのパートの組曲に仕上げている。
どのパートも、石間のオーバードライブ・ギター、そしてジョーの甲高いシャウトがメインにフィーチャーされている。
中にはハープを用いてブルース・ロック的なスタイルをとる部分(パート4)もあるにはあるが、大半は東洋的なメロディ、リフを執拗に繰り返すことにより、リスナーにトランス状態を引き起こすことに成功している。
アルバム1枚ごと、ある種のヤバいドラッグなのだと言っていい。
GSの低迷後の70年代前半、日本ではまだフォーク系の音楽がまだ主流を占めており、英米のそれらと見劣りしないサウンドを持ったロック・バンドはほとんど存在しなかったことを考えると、彼らの登場と成功は早過ぎたとしか言いようがないね。
バンド解散後、メンバーたちは石間、和田がバンド「トランザム」に参加、ジョーはソロ・シンガーへ、そして上月は実業家へと転身していく。
音楽スタイルは変わっていったが、フロンティア・スピリットは変わらずに、彼らはその後も疾走を続けたのである。
ほんの数年の活動ではあったが、日本のロック史にエポックを刻んだバンドとして、FTBはこれからも記憶されていくに違いない。
<独断評価>★★★★
日本のロック・バンド、フラワー・トラベリン・バンドのセカンド・アルバム。71年4月リリース。内田裕也、折田育造によるプロデュース。
フラワー・トラベリン・バンド(以下FTB)は、グループ・サウンズのひとつ、内田裕也とザ・フラワーズが1970年2月にメンバー再編成により改名、再出発したバンドだ。
内田はこれを機にプレイヤーから、プロデューサーへと転身した。
メンバーは石間秀樹(G)、上月ジュン(B)、和田ジョージ(Ds)、そしてジョー山中(Vo)である。
GSから本格的なロック・バンドへの脱皮、それがFTBの目指すところだった。
それまでの日本語歌詞による歌謡曲的なGSではなく、海外でも通用するロックを目指して、歌詞は英語に変わった。
サウンドの方は、いわゆる英米ロックのメインストリームであるブルースに根差した音というよりも、外国人のイメージするところの和風、あるいはアジア的な旋律をベースにした、独特のエキゾチックなものとした。
日本の中で受けているだけでは意味がない、海外のリスナーにもアピールする要素を、前面に押し出したのである。
70年10月、日本フォノグラムよりファースト・アルバム「ANYWHERE」で国内デビューは果たしたものの、さほどの反響はなかった彼らだったが、転機は意外なところから転がり込んで来た。
FTBは同年に開かれた大阪万博のイベントに出演、その時に競演したカナダのロック・バンド、ライトハウスから「カナダでライブをやってみないか」と誘われたのである。
この誘いを受けてカナダへ渡り、しばらくそこで地道にライブ活動を続けているうちに人気が出て来た。
その評判を聞きつけた米国大手のアトランティック・レコードとの契約がまとまり、アルバムを出すことになった。カナダでもGRTレコードとの契約に至った。
発売後、特に人気の高まっていたカナダでは、アルバムとシングル「SATORI PART II」がチャートインを果たす。
日本でシコシコ活動しているよりは何倍ものスピードで、彼らは一躍世界の注目を浴びることとなったのである。
世界に認められるためには、とにかく現地に行って、自分たちのパフォーマンスを見てもらうのが早道ということか。まさに戦略の勝利だな。
翌72年2月にはライブ・アルバム「MADE IN JAPAN」をリリース。もう完全に「ワールド・クラス」の貫禄を備えて来たFTBであった。
しばらく米加でライブ活動を続け、EL&P、ドクター・ジョン、といったトップ・ミュージシャンらとも競演を果たした後、FTBは72年3月に凱旋帰国した。
彼らは、日本国内でも全国コンサートを続けていく。そしてまたとないビッグ・チャンスが訪れるのだが…。
73年1月、ローリング・ストーンズの初来日公演が予定され、FTBはそのOAに出るはずだった。
だが、メンバーのドラッグによる逮捕歴などが災いして入国許可がおりず、公演は中止となる。世界的なバンドとの競演へとあと一歩のところで、FTBの夢は潰えてしまったのだ。
73年2月、4枚目のアルバム「MAKE UP」をリリース、バンドは4月の京都のコンサートを最後に解散してしまう。
海外進出、米国メジャーレーベルでのレコード・リリースと、それなりの成功を達成しながらも、あまりにあっけない幕切れを迎えたFTB。
いまその早過ぎる解散の理由を推測してみるに、彼ら、つまりメンバー本人たちも、プロデューサー内田裕也氏も、バンドとしての長期的展望を持っていなかったからではないかと思うのだ。
つまり、アルバムにして2、3枚程度のアイデアしかなかったということだ。
オリエンタリズム、アジア趣味をバンド最大のアピール材料としてフルに活用して人気を博したのはいいのだが、その次に打つべき手を考えていなかったから、結局、バンドを終了せざるを得なかった。そういうふうに推測する。
とはいえ、FTBのサウンドには、それまで聴いたことのないような、得体の知れない魅力、オリジナリティが満ちていた。
本盤は「サトリ」といういかにも東洋哲学、宗教的なテーマを、5つのパートの組曲に仕上げている。
どのパートも、石間のオーバードライブ・ギター、そしてジョーの甲高いシャウトがメインにフィーチャーされている。
中にはハープを用いてブルース・ロック的なスタイルをとる部分(パート4)もあるにはあるが、大半は東洋的なメロディ、リフを執拗に繰り返すことにより、リスナーにトランス状態を引き起こすことに成功している。
アルバム1枚ごと、ある種のヤバいドラッグなのだと言っていい。
GSの低迷後の70年代前半、日本ではまだフォーク系の音楽がまだ主流を占めており、英米のそれらと見劣りしないサウンドを持ったロック・バンドはほとんど存在しなかったことを考えると、彼らの登場と成功は早過ぎたとしか言いようがないね。
バンド解散後、メンバーたちは石間、和田がバンド「トランザム」に参加、ジョーはソロ・シンガーへ、そして上月は実業家へと転身していく。
音楽スタイルは変わっていったが、フロンティア・スピリットは変わらずに、彼らはその後も疾走を続けたのである。
ほんの数年の活動ではあったが、日本のロック史にエポックを刻んだバンドとして、FTBはこれからも記憶されていくに違いない。
<独断評価>★★★★