日光の陽明門を形どっている荘厳な山門
浦佐駅から徒歩5分の距離にある、上杉謙信公、上杉景勝公、直江兼続公ゆかりのお寺
越後浦佐 毘沙門堂・普光寺に参りました
大正時代の表記があります
山門の天井画
「八方ニラミの龍」双龍図板絵
江戸下期を代表する絵師谷文晁師
山門ニ階には、
毘沙門天28使者像と24面の天井画天女の舞絵姿、釈迦出山の図、16羅漢図
江戸幕府御用絵師板谷桂舟筆
只今、貸出中 ⇩
普光寺本堂は延宝八年(1680年)に建立、毘沙門堂とは回廊でつながっています
回廊に両サイドの白い大きなローソクは、初めて見ました
本堂にもズラッと奉納されています
本尊は大日如来
庫裡の一角の寺宝館には、鎌倉時代より伝わる古文書など寺宝が展示されています
これはもしかして「太良兵衛」の石仏では?
長廊下(回廊)をまっすぐ進むと正面に
「不動明王」と「うがい鉢」
この不動明王は石像仏としては日本最大と言われており
明治初年に南魚沼市旧六日町の石工富八郎によって作られたそうです
うがい鉢は大崎の坊谷山(ぼたんやま)産出の大石をくりぬいて作られています
日本三大奇祭の一つ「裸押合大祭」
国の重要無形民俗文化財である裸押合大祭の始まりは、今から約1200年前に遡ります
坂上田村麻呂将軍が自身の守本尊「毘沙門天」を祭った御堂を浦佐の地に建てて
「国家安穏」「五穀豊穣」「家内安全」を村人とともに祈り
そして祝宴の中で歌い踊って士気を鼓舞したことが始まりと言われています
かつては年一回初詣の正月3日に行われており、
多くの信者がほかの人より早く参拝しようともみ合い押合うその熱さと
年頭にその年の除災招福を願う心から、水行(すいぎょう)をして参拝することがまじりあって
次第に裸になる人が多くなり、全員裸で御本尊に額づくようになったことが
今の裸押合大祭に受け継がれてきているそうです
(TV放映されたのを見たことがあります)
白山神社に向かう途中にみた、古の閻魔様たち
慶応4年4月、戊辰戦争の戦火が魚沼の地にも及んだようです
会津は只見を越えれば魚沼からは近い場所
薩摩藩8名、長州藩8名 が亡くなられ手厚く埋葬されたそうです
車もない時代に、命がけの戦い!をしたのですね、
慶喜の優柔不断さから・・・逃げてしまったヤツ!
萱葦屋根は昭和44年8月
萱葦の上に亜丹で覆い、 冬期間雪は自然落下になる様にした
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越後浦佐 普光寺 公式サイト
朝からの雨もあがり、村人に愛されたお寺さん
雪国の温かい人柄を見たようでした
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