会津市街地から少し外れた小高い丘
車が通れるくらいの細い山道を進む
辿り着いた目的地は天寧寺
天寧寺の裏手の墓地には、新選組の近藤勇の墓があります
土方歳三が遺髪などを持っていて会津戦の折、ここに仮埋葬したという
また、藩主松平容保が京都守護職にあった際の国家老で
戊辰戦争の責任者となり明治2年に切腹した萱野権兵衛と、その次男郡長正の墓もある
新選組は、江戸時代末期の京都で尊王攘夷運動の弾圧に活動した浪士隊
戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いに敗北したあと四散し、甲州において新政府軍に敗れて解隊
局長の近藤勇は捕らえられ斬首刑に処せられた
遠く見下ろすは会津若松市
日射しの強い、細い山道を進んで
八重ムクゲの木陰を通って
会津でよく見かけた五輪塔、供養塔の五輪卒塔婆
歴史を感じる形の、墓石も、、、
緩い坂道を上がって行く
辞世の句碑(七言律詩)
辞世二詩
孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流
- 一片丹衷能殉節 睢陽千古是吾儔
- (書き下し文)
- 孤軍 援(たす)け絶えて俘囚となる 顧みて君恩を思へば涙 更に流る
- 一片の丹衷 能(よ)く節に殉ず 睢陽(すいよう)は千古是れ吾が儔(ともがら)
- 靡他今日復何言 取義捨生吾所尊
- 快受電光三尺劔 只將一死報君恩
- (書き下し文)
- 他に靡き今日復た何をか言はん 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所
- 快く受けん電光三尺の剣 只に一死をもって君恩に報いん
画像出典:wikiより
幕末京都を騒がせた新選組の隊長近藤勇
慶応四(1868)年1月の「鳥羽伏見の戦い」の最中に総大将の徳川慶喜が突然、
江戸に逃げ帰る事件がおき、幕府軍は総崩れとなった
逃亡直前まで、慶喜は「最後の一人になっても戦い抜くのだ」と言っていたのだが、、、
「孤軍奮闘してきたが、援軍は得られず、わたしは捕虜となった
しかしこれまで(多摩の農民出身にすぎない)私を
武士として扱ってくれた将軍家の御恩を思い出すにつけ、また涙が流れるものだ」
戒名 「貫天院殿純忠誠義大居士」
享年35(満33歳没)
※4月11日、江戸城が「無血開城」された
近藤の助命嘆願を勝海舟らの手で握りつぶされた土方歳三らは、
江戸を離れ、各地の旧幕府軍の残党とともに再度、戦いに加わっています
斬首された新選組長・近藤勇!その波乱と最期とは?
歴人マガジンより
昨夜は「さらし首」「生首」とか「遺髪」とか資料を読んでいると眠れなくなり
投稿を躊躇っていた
なぜ、近藤勇の墓参に出かけたのか?
それはよく知らなかったから、、、
切腹も許されず、斬首に処せられた近藤勇の最期は、、、
激動の幕末、己の信じる道を貫いた近藤勇とその盟友たちの、あまりに潔い人生でした
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