私が「いとこ達を訪問しよう!」と思い立ったのは、
2011年8月、宗谷岬を訪れた時だった。
日本最北端の地に建っていた案内図を見ると、
宗谷岬からサハリン(樺太)までは43kmで、
よく晴れた日はサハリンが見えるとのこと。
そして、稚内からフェリーに乗れば
6時間でサハリンに行けるとあった。
私はこれを見た時「サハリンに行ってみたい!」と思った。
なぜなら
戦前~戦時中、伯父(父の兄)の家族が
樺太に住んでいたことを、両親から聞いていたから。
その訳は、
父の叔父(母親の弟)が樺太でパルプの原料となるチップを
製造する会社を経営していたのだが、後継ぎがいないために、
父が樺太に行って働くことになっていた。
ところが、父の兄が「自分がまず樺太まで行って見て来る」と
石川県から下見に行き、帰って来ると
「あんな大変な仕事を、年端も行かない弟にできるわけがない。
自分が行く」と、樺太に行った。
とのことだった。
樺太での生活がどんなものであったかについては、
伯父はほとんど語ることはなかった。
ところが、1991年8月7日、日本テレビで
「愛と哀しみのサハリン」を見て、
私は激しい衝撃を受けた。
伯父はまさにこのサハリンで、多くの朝鮮の人達
(強制徴用され、日本各地からさらに「反抗分子」として
懲罰的に樺太に送られて来た人達)を、
自分の会社に送り込まれ、
その人たちを働かせなければならないという立場で、
働いていたことを知った。
家族から聞けなかったことをテレビで知るなんて、、、。
私はあの時の衝撃を、今も忘れられない。
幼い頃の私が着ていた服といえば、ボロばかり。
なのに、オーバーコートだけは立派だった。
それは、伯父の家族が樺太から持ち帰った
従姉のお下がりを姉がもらい、
さらに私に下がってきたものであった。
赤い羅紗で、ウサギの毛皮が襟と手首に付いていて
トナカイの角で作ったと思われる、
きれいに彫刻された大きなボタンが付いていた。
きっとロシア製のものであろう。
当時の日本の庶民では
決して着ることのできない高級品だった。
私がそれを着ているのを見ながら、母が時々呟いていた。
「おじさんは朝鮮の人達をいつも大切に扱った。
戦争に負けた時、朝鮮の人達に
引揚げて来るのを手伝ってもらえたから、
荷物も持って、生きて帰って来られたんや。
このオーバーもその一つなんや」と
話していたことの意味を、やっと理解することができた。
私は宗谷岬で「サハリンに行ってみたい」と思ったと同時に
伯父の長子である従兄(私のきょうだいも「喬にいさん」と呼んでいた)
に会って、もっと話を聞いてみたいと思った。
でも、忙しい毎日に戻ると、すっかり忘れてしまっていたが
1年ほどたった昨年の夏、
「私も歳をとるが、従兄はもっと歳をとる。
最後に会ったのは、私が高校生の頃だったか?
お互いに、生きているうちに会わねば…」
東京で会社をやっていると聞いたから、
ネットで調べれば連絡先が見つかるかもしれないと
「吉田喬」と名前を入力したら、見つかった。
思いきって電話をしたところ、
話すことができ、思い出してもらえた。
品川と渋谷という近距離なのに、
なかなか訪問する時間も取れず。
電話をしてから半年も経った2/5(火)、
ついに、一日休みができた。
アポも取らずに、手土産に快眠枕一個と名刺を持って、
「会えなくてもいいや、どうせこの日しか行けないのだから」と、
気楽な気持ちで山手線に乗った。
事務所に着いて社長の従妹であることを告げると、
女性の事務員さんが「似てらっしゃいますね~」と
隣の部屋に案内してくれて、ついに、会うことができた。
私とは18年上↑
聞きたかった樺太からの引揚げの時の話も聞けた。
・・・・・・・・
樺太から船で函館まで行き、
函館で2週間ほど、いろいろと調べられた。
函館から汽車で北陸経由で石川県まで帰って来た。
おばさん(私の母)に白いご飯を食べさせてもらった時は、
本当にうれしかった。
小松高校に入ったが、家族のことを考えると、
働かざるを得ない状況で、10日間で退学。
小松製作所に就職し、会社の中にある学校で勉強し、
高校卒業と大学受験の資格を取った。
東京に出る決心は、なかなかつかなかったが、
おばさん(私の母)に「男ならやろうと思うことはやり抜け」と、
背を押され決心。
昭和24年(私が生まれた年)、東京に出た。
夜間定時制の大学に通い卒業。
様々な仕事をしたが、50年前にサンフランシスコに行った時
「こんな国と戦争したら負けて当たり前だ。
これからはこの国と関連のある仕事をしよう」と決心。
小松製作所でステンレスを学んだことと
昭和40年、アメリカ製の高級なステンレス鍋に出会って、
これを本格的に仕事として取り扱うことにした。
(株)ロイヤル・プロダクツは、ロイヤルクイーンの鍋の、
輸入元となっている会社である。
かつてはどんどん関連会社を立ち上げ、
従業員も千人ほどになったが
歳とともに整理し、今は鍋の会社だけにした。
・・・・・・・・
耳も全く遠くなく、歯もとてもきれい。
昨年「80歳で20本」の表彰を受けたとのこと。
姿勢も肌も美しく、髪も白いがしっかりある。
質問に対する答えも素早く、弁舌さわやか。
社長室の片隅には、ロイヤルクイーンの良好な営業成績を
表彰する症状やトロフィーが飾ってあるが、
「こんな物より、お金をもらえる方が有難いのに」と。
ほんまや、同感。
「これからは、もっともっと全国で、
ロイヤルクイーンの鍋を使った料理教室を開いていって、
この鍋の素晴らしさを、たくさんの人に知ってほしい」と。
81歳にしてなお、今後の事業の夢を語れるなんて、
素晴らしい。
でも、家族では会社を継いでくれる人がないらしい。
私も日頃から「85歳まで働く」と妄語しているが、
なんだか本当に働けそうな気がしてきた。
彼のお母さんは、101歳。
お二人にあやかりたいものだ。 関連記事「岸本助産院訪問」
2011年8月、宗谷岬を訪れた時だった。
日本最北端の地に建っていた案内図を見ると、
宗谷岬からサハリン(樺太)までは43kmで、
よく晴れた日はサハリンが見えるとのこと。
そして、稚内からフェリーに乗れば
6時間でサハリンに行けるとあった。
私はこれを見た時「サハリンに行ってみたい!」と思った。
なぜなら
戦前~戦時中、伯父(父の兄)の家族が
樺太に住んでいたことを、両親から聞いていたから。
その訳は、
父の叔父(母親の弟)が樺太でパルプの原料となるチップを
製造する会社を経営していたのだが、後継ぎがいないために、
父が樺太に行って働くことになっていた。
ところが、父の兄が「自分がまず樺太まで行って見て来る」と
石川県から下見に行き、帰って来ると
「あんな大変な仕事を、年端も行かない弟にできるわけがない。
自分が行く」と、樺太に行った。
とのことだった。
樺太での生活がどんなものであったかについては、
伯父はほとんど語ることはなかった。
ところが、1991年8月7日、日本テレビで
「愛と哀しみのサハリン」を見て、
私は激しい衝撃を受けた。
伯父はまさにこのサハリンで、多くの朝鮮の人達
(強制徴用され、日本各地からさらに「反抗分子」として
懲罰的に樺太に送られて来た人達)を、
自分の会社に送り込まれ、
その人たちを働かせなければならないという立場で、
働いていたことを知った。
家族から聞けなかったことをテレビで知るなんて、、、。
私はあの時の衝撃を、今も忘れられない。
幼い頃の私が着ていた服といえば、ボロばかり。
なのに、オーバーコートだけは立派だった。
それは、伯父の家族が樺太から持ち帰った
従姉のお下がりを姉がもらい、
さらに私に下がってきたものであった。
赤い羅紗で、ウサギの毛皮が襟と手首に付いていて
トナカイの角で作ったと思われる、
きれいに彫刻された大きなボタンが付いていた。
きっとロシア製のものであろう。
当時の日本の庶民では
決して着ることのできない高級品だった。
私がそれを着ているのを見ながら、母が時々呟いていた。
「おじさんは朝鮮の人達をいつも大切に扱った。
戦争に負けた時、朝鮮の人達に
引揚げて来るのを手伝ってもらえたから、
荷物も持って、生きて帰って来られたんや。
このオーバーもその一つなんや」と
話していたことの意味を、やっと理解することができた。
私は宗谷岬で「サハリンに行ってみたい」と思ったと同時に
伯父の長子である従兄(私のきょうだいも「喬にいさん」と呼んでいた)
に会って、もっと話を聞いてみたいと思った。
でも、忙しい毎日に戻ると、すっかり忘れてしまっていたが
1年ほどたった昨年の夏、
「私も歳をとるが、従兄はもっと歳をとる。
最後に会ったのは、私が高校生の頃だったか?
お互いに、生きているうちに会わねば…」
東京で会社をやっていると聞いたから、
ネットで調べれば連絡先が見つかるかもしれないと
「吉田喬」と名前を入力したら、見つかった。
思いきって電話をしたところ、
話すことができ、思い出してもらえた。
品川と渋谷という近距離なのに、
なかなか訪問する時間も取れず。
電話をしてから半年も経った2/5(火)、
ついに、一日休みができた。
アポも取らずに、手土産に快眠枕一個と名刺を持って、
「会えなくてもいいや、どうせこの日しか行けないのだから」と、
気楽な気持ちで山手線に乗った。
事務所に着いて社長の従妹であることを告げると、
女性の事務員さんが「似てらっしゃいますね~」と
隣の部屋に案内してくれて、ついに、会うことができた。
私とは18年上↑
聞きたかった樺太からの引揚げの時の話も聞けた。
・・・・・・・・
樺太から船で函館まで行き、
函館で2週間ほど、いろいろと調べられた。
函館から汽車で北陸経由で石川県まで帰って来た。
おばさん(私の母)に白いご飯を食べさせてもらった時は、
本当にうれしかった。
小松高校に入ったが、家族のことを考えると、
働かざるを得ない状況で、10日間で退学。
小松製作所に就職し、会社の中にある学校で勉強し、
高校卒業と大学受験の資格を取った。
東京に出る決心は、なかなかつかなかったが、
おばさん(私の母)に「男ならやろうと思うことはやり抜け」と、
背を押され決心。
昭和24年(私が生まれた年)、東京に出た。
夜間定時制の大学に通い卒業。
様々な仕事をしたが、50年前にサンフランシスコに行った時
「こんな国と戦争したら負けて当たり前だ。
これからはこの国と関連のある仕事をしよう」と決心。
小松製作所でステンレスを学んだことと
昭和40年、アメリカ製の高級なステンレス鍋に出会って、
これを本格的に仕事として取り扱うことにした。
(株)ロイヤル・プロダクツは、ロイヤルクイーンの鍋の、
輸入元となっている会社である。
かつてはどんどん関連会社を立ち上げ、
従業員も千人ほどになったが
歳とともに整理し、今は鍋の会社だけにした。
・・・・・・・・
耳も全く遠くなく、歯もとてもきれい。
昨年「80歳で20本」の表彰を受けたとのこと。
姿勢も肌も美しく、髪も白いがしっかりある。
質問に対する答えも素早く、弁舌さわやか。
社長室の片隅には、ロイヤルクイーンの良好な営業成績を
表彰する症状やトロフィーが飾ってあるが、
「こんな物より、お金をもらえる方が有難いのに」と。
ほんまや、同感。
「これからは、もっともっと全国で、
ロイヤルクイーンの鍋を使った料理教室を開いていって、
この鍋の素晴らしさを、たくさんの人に知ってほしい」と。
81歳にしてなお、今後の事業の夢を語れるなんて、
素晴らしい。
でも、家族では会社を継いでくれる人がないらしい。
私も日頃から「85歳まで働く」と妄語しているが、
なんだか本当に働けそうな気がしてきた。
彼のお母さんは、101歳。
お二人にあやかりたいものだ。 関連記事「岸本助産院訪問」
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