まこねこまどかブログ

マンガ家まこねこの気ままな日記

もし、徳川家達(いえさと)が!

2011年07月16日 | 歴史

15代将軍徳川慶喜も会津の松平容保(かたもり)も、天皇家大事として育ってきた方々でしたが、歴史のいたずらでしょうか、結果的には、朝敵になってしまいました。
慶喜は、朝敵になるのを避けて謹慎生活に入り、会津藩は白虎隊をはじめ多くの死者を出すことになりました。
その後、6歳の亀之助(後の家達(いえさと))が徳川家を継ぐことになります。
この家達方は、江戸城明け渡しをしてから9歳で、静岡藩知事になります。
そして、あの天璋院篤姫に育てられ15歳の時、イギリスに留学します。
留学前に、クララの家に何度も遊びに来ます。
クララたちも、家達の屋敷に遊びに行きますが、当時天璋院篤姫と和の宮が同じ敷地に住んでいました。
家達が、留学中もクララの家に弟の達孝(さとたか)も遊びに来て椅子取りゲームなどをしています。
やがて、家達が留学から帰ってきて徳川宗家を継ぎ、慶喜は同格の徳川慶喜家の党首になるわけです。
慶喜は、静岡にいた時、勝海舟に旧幕臣と仲良くならないようにとくぎを刺されていたので、旧幕臣たちには挨拶をしないで、弟や限られた方々だけで趣味三昧の生活をしていました。
勝海舟は、慶喜が旧幕臣たちに、再び祭り上げられるのを恐れたからです。
家達は、貴族院議員を30年以上して議長も務めましたが、東京市長の要請がありました。
しかし、勝海舟が「時代が変わるのを待つべきで、受けるべきではない。」と言ったので断りました。
そして、なんと大正3年には、家達に総理大臣のなる話が持ち上がり、大正天皇も了承され、組閣の話まで行ったそうです。
この時は、勝海舟の亡くなっていましたが、親族会議の結果、それを断りました。
その結果、大隈重信が2度目の総理大臣になったそうです。
もしこの時、徳川16代将軍になるべきだった方が、総理大臣になっていたら日本はどうなっていたのだろかと思います。
歴史には、「もしも」は無いわけですが、面白いですね。

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震度4!

2011年07月16日 | Weblog

昨日の夜9時頃、高円寺の中華料理屋さんで注文をした後すぐに、斜め向いの女性が「地震!」と言っていました。
私は、割と敏感なのに何も感じなかったので、気のせいじゃーないのかなと思っていました。
すると、すぐに横揺れが大きくして、私の横の壁が「ピキ!」となったのです。
お店の人はみなさん中国人で、3月11日には、お酒がみんな割れたと聞いていますが、何人もTVの所に来たのでNHKに変えてもらいました。
東京埼玉は、震度4でした。
よく行くお店なので、私が埼玉まで帰ると言うと、心配してくれましたが、電車は乱れることなく守られました。
教会では、1週間分の水と食料を備蓄するようにと語られているので、余計に水を買って帰りました。
地震と原発のためには祈りを強めましょう。

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