路上ライブとチラシ配りに高円寺の駅前に行くと、撮影の方々がいました。
「路上ライブを取材してくれないかなー。」と思いながら、前を通ると、「少しいですか。」と言われたので、インタビューを受けました。
後で聞いたら、有名なTV局の北野タケシの番組のインタビューでした。
昔、銀座の交差点で止まっていた時、後ろで路上インタビューをしていたことがあります。
それから、1~2週間して、実家に帰ってTVのニュースを見ていたら、どこかで見た人が写っていると思ったら、自分の後姿が写っていました。
今回は、正面からのインタビューでした。
写るかどうかは、分かりません。
それでも、思いもかけないハプニングで盛り上がりました。
高円寺は、曇りですが、ものすごく寒いです。
でも、これからエルサレムの路上ライブとチラシ配りにいきます。
エルサレムは、パワーがあるので、沢山チラシを受け取ってもらえると思います。
風邪を引かないように、祈りつつ頑張ります。
今日は、東京アンテオケ教会で、6時半よりいやしの集いがあります。
時間を取ってお祈りいたしますので、お友達を誘って、ぜひおこし下さい。
4時40分頃から、路上ライブとチラシ配りをしますが、雨が止むように祈っています。
埼玉は、ほとんど小ぶりになってきました。
ところで、明治期に木村熊二と言う方がいましたが、勝海舟がお金を出してくれ、森有礼について、アメリカに留学しました。
ホープカレッジ、ラトガース神学校に学び12年も帰って来なかったのです。結婚して5年後に、夫はアメリカに行ったままで奥さんの鐙子(とうこ)さんは、子供を育てながら帰国を待ち望んでいました。
それにしても、12年は長いですよね。
その間、向こうで愛人ができたのではないかと噂する人もいました。
1882年、やっと帰って来た夫は牧師任命書を持って、日本に遣わされてきたのです。
12年ぶりにご対面、そしてお母さんも交えての食事と言う時に、夫が祈りだしたわけです。
当然、妻はどうしていいのか分からず悩んだと思いますが、夫と子供を連れて、教会に通いその年の12月にフルベッキより洗礼を受けました。
そして、木村熊二は、家を開放してそこで勉強会を開きますが、そこに勝海舟の三男・梶梅太郎も学びに行っていたのです。1885年に、熊二は、奥さんと計画し、その弟の田口卯吉の協力も得て明治女学校を創設します。
しかし、残念ながら、鐙子さんは、1886年にコレラにかかり亡くなってしまうのです。
熊二は、再婚し、1888年(後の高輪教会)の牧師になりました。
義弟の田口卯吉は、自由神学の影響を受け、教会から離れ政治家になりましたが、葬儀はキリスト教式で行いました。
人の人生は、先の読めないものですね。
しかし、すべては神様の手の内にあるのです。