”国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。・・・”
◆雪国に住んで、冬、夜の列車にも乗ったことがある僕はこの冒頭が好きだった。「雪国」の最後は、主人公の島村が天の川を見上げる場面で終わっているが、このたび見つかった川端康成の「雪国」の結末は「狂った葉子は、駒子を思い、島村を殺した」!と、なるかも知れなかったと、そういう草稿案メモであったというのである。こう言う結末だと、高校の教科書には載らないのではなかったか。どうだろうか。しかし、そうでなくとも島村との再会とのやりとりの部分は、全文読めば生徒には知られてはいけないようなちょと色物だから。理系の方に進もうとしている僕にとっては、かったるくて仕方がなかったのだが、雪国に住んでいる僕にとっては、川端康成の教科書に載った部分のみ、島村が列車の中での葉子を見ながら窓に映る夜の外の情景はよくわかったし、当時の蒸気機関列車の夜の風景とダブらせながら文章を運んで行く様は、うまいなぁ、と思ったのだった。「雪国」はよく芝居にもなっていたな。
◆しかし、内容は同じく僕にとってはかったるかった、というより異性については思うことを強いて否定したきていたことからなのだろうと今では思われる。心理的反抗期か性的には関心があっても実際は異性との交渉どころか苦しいという感じで疾風怒濤の時代だった。ノーベル賞は、情景描写のうまさということになるのだろうか。そういう僕も、年取ってからの心の変化というか、生活臭から離れた男女間の心情のやり取りというのは、お互い、特に男は実際から離れた男女間の心のやりとり観念を勝手に遊ぶものなのだろうと思ったりする。現実に生きる人の生き様は小説より胸を打つのではないかと、掲載の新聞の切り取りを文庫本に挟んでいた。あの時代とその人の年齢とか立場とか・・・。
『小高さんは1915年(大正4年)11月23日、同市の生まれ。10歳の頃から新潟県長岡市や「雪国」の舞台となった同県湯沢町の置屋で「松栄」の名で芸者として働いていた。川端が初めて湯沢を訪れたのは34年の冬。川端は高半旅館(現・雪国の宿高半)に宿泊し、当時19歳だったキクさんが呼ばれ、酒の相手をした。川端は36年まで、湯沢を訪れるたびに高半旅館の二階の「かすみの間」に泊まり、キクさんを電話で呼び出したという。キクさんは40年、24の時に芸者をやめた。湯沢町の神社で川端にもらった原稿や本をすべて焼き捨てて三条市へ帰り、小高久雄さんと結婚。以降、和服仕立て屋の女将として暮らした。その後、川端との交流はなかったが、川端がノーベル賞を受けたのを聞き「あの人も世界の先生になりよございましたの」と越後なまりで答えたという。亡くなる間際、「最後は静かに送ってくれ」との遺言があり、葬儀・告別式は三条市内で親族のみで営まれた。』
◆作家というのは、なにがしかの偶像をもってそれに、言葉を紡いでいくものなのだろう。短い言葉で的確に、表現されているか、あるいは、情景描写や心理描写が言葉すくなに暗示されているかなど・・・。川端は、女性に対する淡い観念的なイメージをずぅうと引きずっている作家だった。それが、途絶えたとき、彼は自分から今生での生をやめたのだった。・・・