◆表題は、昔、フランスのボーボワールという女性哲学者の言葉であった。あのサルトルと友情関係を結んでいたとか。実存主義というものを現代風に哲学化したというか、僕にとっては人についてを、かなり無理をして技巧化して、小説に物語として暗示させ、人とはこういうもので、社会に取り込まれた人とは、こういうものなのだ・・・ということをシンボリックに象徴化したものが、彼らの小説となったと思われた。技巧的すぎると。大江健三郎もかなり影響を受けて、最後は宗教的な暗示に救いを求めた方向に向かったように思う。ウイリアム・ブレイクなど・・・ね。彼の小説には失踪者ではなく、死亡者として戸籍がなくなる男の話があったっけ。◆当時、安部公房などの作家、そう、「砂の女」とか(あぁ、これyoutubeで見れるね)、いまの人、そのまま、見ても何を言いたいのだろうと、きっと思うだろう。こういうことを小説は暗示しているのだ、というような解説を先に読むとなるほどと思うが、そういう高いレベル?での解説という先理解がないとさっぱりわからん、という物語である。「砂の女」の小説の初めを読むと当時から北朝鮮に拉致されて不明になった人がひょっとするとモデルになったのか、などと・・・、とすれば当時から失踪者がいて居住不明の人がいたのかな、などと全然、ちがう事を想像してしまうで出だしなのであった。岸田今日子がその女を演じているのだが、公務員の男は余暇を利用してハンミョウという虫を探しにきて、蟻地獄のような砂壺に落ち込み、そこにいた女が砂かきだしに日々、精を出しているという話。結局、砂から水を得る方法を見いだして、その砂壺から抜け出せるのにもかかわらず、失踪者としてその穴に居続けられることにしたというような話であった。それで、われらの現状も結局、その男のような生活をおくっているのではないか・・・と。◆ところで、ハンミョウ知ってる? NHKの「昆虫大好き」、カマキリ香川が探して見つける映像を見れたのは嬉しかったなぁ。
◆男女同権が叫ばれて、作家というのはそれで飯を食べているのだから、一般人よりも言葉が豊富だろうとと思われるが、自民党の某女性議員が「女は嘘をつく」と言ってひんしゅくを買ったが、女性が女性という生き物を客観的に言葉化して、男性と同等化するというのは、肉体的作りからして限界があろうかと思う。しかし、それも限界と制限しているのだから、公言はできないだろう。「言ったことはない、だから女は黙っていろ」と、いう羽目に落ちるかもしれないからだ。だから、暗黙の内に労働に関しても、制限を先に言葉化せず、配慮が労働条件の中に必要であろうということになる。差別ではなく区別をして、その役割に対して等価価値い見合った人件費を。。。と。◆しかし、情勢の特権として恋をして、不倫めいたことはどのような宗教でも、男には緩く、女性に厳しいのは、「命」に関わる(つまり、生命を生む)という特権を女性という生き物は、持っているからであろう。男という生き物は、一線を越えて生殖反応を増大するというもともと生き物だから、不安定な好いた惚れたの中途な感情は、持つべきではないといのが、ましてやそれを商売には論外で、ということなのだろう。宗教的には、対象を観念的な肉体に関わる(つまり、朽ちていく肉体特有の繁殖に関わる)欲求については、とくに厳しいのである。淫らな思いを持ってはいけないとは、いかなる宗教でも薦めている教えである。◆女性は、何処まで客観的にこの感情を、言葉にできるであろうかというのが、僕の疑問だ。不倫をして、子供まで作って、「ひとりでも生きられる」という本を書いて、僕は無理だなそんな肯定しても、と昔、強く思った記憶があるが、結局、尼さんになったのだ。やはりなぁ、と僕は思ったのだった。言葉に豊富な物書きは、心地よい話は、いくらでも話せるだろう。しかし、実は人が生命を持ち、この現世に生きて生涯を終えるということは、我々が考えているより大きな意味があるのだ。それは、実に単純だし、厳しいものだ。「自分で撒いた種は、刈り取らねばならない」といことである。僕らは生きているのは、いつぞやの前世からの宿題を解消する使命が与えられているのである・・・という考えもあるということを心しておこう。僕は、次のいつかの世代にその宿題は追わせたくないのだ。
◆ちょうどひと月前、あれから、雨や強い風が吹いたのですが、倒れませんでした。違った角度から撮影。結構、バランス悪そうなのにその重心が分散しないで、垂直に集中しているためなのか。高さは1メートルほど、平均の石の重さが16kgほどで結構、重い。その重心(G)のイメージは、僕の心の置き所として、この三次元に存在することの確認から始める、その基点となるイメージなのです。◆その人の思考の源泉がいずこにありや? 自分探しの中でまだ、うろうろしてきた中で自分の基点となるイメージを探し求めて、こういうシンボル化を見出したわけです。生活の中で追求し確認し、維持していこうとすることは、もともとしっかりした人はいいのでしょうが、僕は、外部からの言動に対して、この確認を早朝から、まず行うことを始めます。◆臨済宗の住職は朝4時前には起きて、座禅を組まれるし、それと同等の時間には起床されておられるのだろうが、僕の田舎のご住職は朝6時には、広い講堂でお経を読むお勤めをする。冬はそれは寒いそうで、頭が坊主だから髪が無いのでなおさら寒いだろうなと不謹慎なことを思ってしまった。◆その基点の自己確認を行うことができると、目に見えない、もう一人の崇高な(一応書いておく)自分と会話を始める・・・。いずれ、自己の中心を確かめつつ、やるべきことをメモに箇条書きにして、些細なことでもボケ防止のためにメモし、終わると線で消していくということをしていきます。◆最近、もっとふさわしいGのシンボル化を見つけました。しかし、人工物とみられるより(自分の中ではよりこちらのGである、と心の中では言っているが)、今のところ誰でもすぐできるであろう、自然石のシンボル化の方が今の自分にふさわしいように思っている。◆もっとふさわしいGとは、「テンセグリティー」です。ネットで検索してみてください。宙に浮かぶGがより分かります。しかし、こちらは次元が一つ上。今のところ、僕は地面の上にしっかりと立っていたいと思っています。Ω
◆朝の連続テレビ小説はあまり関心がなく、頭が一応働く時間帯としてはまったく受け身の時間を費やさないようにしているが、この『エール』は違いました。画面では教会の中の場面も出てきます。音楽家が主人公であるならば西洋音楽は、教会音楽に必ず結びついているからこういう場面が、当時の時代背景から出てくるのは必然かもしれません。◆主人公の連れ合いとなる、音(おと)さんの母親役の薬師丸ひろ子さんが被災したバラックで、「うるわしの白百合」という讃美歌を一節、最後まで歌ったのは驚きました。薬師丸さんは子供の頃、聖公会のキリスト教会に通っていたそうで、復興を思わせる(つまり復活を暗示)この讃美歌を歌うのは彼女の提案であったということを聞きました。◆「長崎の鐘」の場面で、皆が祈りの場面を映したのは医師でキリスト者であった永井 隆を思いだしたし、いずれ、人々が命に係わるどんづまりに行きつくところに何があるかと言えば、人のドラマを客観的にみられている、人とはなにか、というような深刻な問いに答えを出した、あのキリストと呼ばれる方の言葉にどんとぶつからざるを得ないと思います。そして、それはその根底の希望を与える喜びの根のようなもの、それも神が創造して最高傑作として愛された人と言う生き物が、光り輝く、栄光に満ちた、永遠の住まいに導かれるというその希望に結びついているものなのであると・・・
◆受賞作品は『JR上野駅公園口』。その作品より、何が作家活動の原動力になっているのかが気になる僕としては、それはつまり、人を知るということのサンプル探しのようなものだが、(かといって、そういう自分の分析とかが一番困難なのだが、)昔、彼女の作品をかじり読みした時、過去に非常に精神的にダメージを負った人だなと思ったのだ。非常に辛辣なきつい言葉を苦もなく書き綴る・・・。それは、なぜなのかなと思っていた。◆先の桐野夏生さんのように、その理由を彼女自身が、語られた記事があったのでそれを書き留めておく。<<<・・・横浜で育った少女時代、過酷ないじめを受けた。あだなは「ばい菌」。家族は崩壊していた。英国のファンタジー「ナルニア国物語」の作品世界だけが「居場所」だった。高校を中退し、演劇の道へ。・・・岸田国士戯曲賞を受け、その後、作家デビュー。芥川賞や泉鏡花文学賞・・・東日本大震災と原発以降、`'15年に神奈川からその地域、南相馬に移転し、書店を開く。社会や国家から有形無形の圧力を受けすみかや心のよりどころを失った人、人間の尊厳を奪われた人と共にあろうとする「倫理」の作家。・・・「居場所のない人」のために物語をつづる。>>>◆あぁ、やはりな、と僕は思った。人は、それぞれ、この地上に宿題を持って生まれるのだ。それは、体験させられ、肉体に埋め込まれ、その棘を抜こうとしてあがき、言葉化する。そして、それは人が当たり前の人として生きられない人々への共感となり、先陣を切って、その宿題を解明し、言葉にしようとする行為が、人を救済に向かわしめる。この地上に命を与えた神への抗議としての回答探しである。◆最後に、彼女は大切にしている言葉があると言う。それは聖書の黄金律と言われる言葉の部分である。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くす」であると。・・・実際の聖書はこうだ。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、主なる汝の神を愛しなさい。自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」これは、キリストの言葉である。人は、神への抗議をすると、神からの言葉の回答に必ずぶつかるものだ。それは、永遠の命への光が差し込んでくる言葉であり、永遠の世界への招待状となっているのである。