脱「男らしさ」社会 “依存しない”男女平等社会にするには?
◆聖書の専門の研究者たちにさまざまに解釈されている外典『トマスによる福音書』からのイエスの言葉・・・後半に
トマスというのは、使徒の一人。僕はこの疑い深いといわれたトマスが好きなのね。福音書にも出てくる「私は自分のこの指を槍で刺されたイエスの脇腹に差し入れて見なければ、その方が復活したなどとは信じない」と言ったリアルな確認を、ちょうどそのときトマスはいなかったのだが、復活して現れたのだという弟子たちに言い放った弟子。
その後、復活したイエスは現れてトマスにとても有名な言葉をいう。「見ないで信ずる者は幸いである」と。キリスト教は事実リアルに復活したイエスという方がおられなければ、今日までは決して伝えられなかったであろう。観念として心の安寧として頭の中で捉えるか、そればかりか事実、僕らが今、現存しつねれば痛いと感ずるようにそれは、物証としても肉体で確認できたか、そして今も目には見えないが事実、あると捉えるかは、まさにイエスをどう捉えるかにかかっているのです。
トマスは、奴隷まで身を落とし伝道のためインドまで行きそこで殉教したと言われている。まあ、あの時代、地中海を巡ったパウロの活動は使徒言行録などに書かれ僕らは新約聖書で読むことができるが、東の遠くまで離散したであろうユダヤ人たちに伝えにインドまで足を伸ばしたのは、彼は生き返ったイエスに見て、触れて確認する神の力をイエスに見たからなのだな、そうとしか思われない。あの時代あの地には多くの雑多ないろいろな宗教があったのだから・・・。彼はそこで殉教した。
死後イエスが復活し最初に現れたのはマグダラのマリアという女性だった。このマリアは商売やり手でとてもバイタリティーがあった人だったと僕は思う。あの男尊女卑の世界だからこそと言うか、このマリアはイエスに7つの悪霊を追い出されたといわれているけれど、それは男の日和見のように思われるな、僕には。男の使徒であるペテロや弟子たちにこのマリアは復活したイエスに出会った以降、預言的な物言いをガンガン言ったらしい。それが気にいらないペテロがイエスに向かってマリアを非難した後の言葉。トマスが書いた(口述?)といわれる外典『トマスによる福音書』にイエスがこう言ったという不思議な言葉があるのです。
◆ペテロはイエスに向かいこう言う。
「マリハム(マグダラのマリア)は、私たちの元から去った方がよい。女たちは命に値しないからである」(114)
これに対してイエスが謎めいた言葉で答えるのです。
「見よ、私は彼女を(天の王国へ)導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る活ける霊になるために、なぜなら、どの女たちも。彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから」(114)・・・ また、別の一節。・・・
「あなたがたが。男と女を一人にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にするならば、・・・そのときにあなたがたは〔王国に〕入るであろう」。
◆さて時代は進み今の僕らの時代、旧約の時代から神は、頻繁に「わたしがいることを人々は知ることになろう」と語っているのです。目に見る五感で確認できるという言葉の解釈から、いわゆる深い霊的な意味からこのイエスの言葉を読み取ろうとすれば、なんとなく分かるような気がしてくる。時代が進み、それが少しずつ露わになってきたということなのではないだろうか。僕のこのブログの主旨から言えば、自分が選べない「性」という肉にまとわりつく「しがらみ」からの解放も意味していると捉えることができるのです。 ・・・
◆聖書の専門の研究者たちにさまざまに解釈されている外典『トマスによる福音書』からのイエスの言葉・・・後半に
トマスというのは、使徒の一人。僕はこの疑い深いといわれたトマスが好きなのね。福音書にも出てくる「私は自分のこの指を槍で刺されたイエスの脇腹に差し入れて見なければ、その方が復活したなどとは信じない」と言ったリアルな確認を、ちょうどそのときトマスはいなかったのだが、復活して現れたのだという弟子たちに言い放った弟子。
その後、復活したイエスは現れてトマスにとても有名な言葉をいう。「見ないで信ずる者は幸いである」と。キリスト教は事実リアルに復活したイエスという方がおられなければ、今日までは決して伝えられなかったであろう。観念として心の安寧として頭の中で捉えるか、そればかりか事実、僕らが今、現存しつねれば痛いと感ずるようにそれは、物証としても肉体で確認できたか、そして今も目には見えないが事実、あると捉えるかは、まさにイエスをどう捉えるかにかかっているのです。
トマスは、奴隷まで身を落とし伝道のためインドまで行きそこで殉教したと言われている。まあ、あの時代、地中海を巡ったパウロの活動は使徒言行録などに書かれ僕らは新約聖書で読むことができるが、東の遠くまで離散したであろうユダヤ人たちに伝えにインドまで足を伸ばしたのは、彼は生き返ったイエスに見て、触れて確認する神の力をイエスに見たからなのだな、そうとしか思われない。あの時代あの地には多くの雑多ないろいろな宗教があったのだから・・・。彼はそこで殉教した。
死後イエスが復活し最初に現れたのはマグダラのマリアという女性だった。このマリアは商売やり手でとてもバイタリティーがあった人だったと僕は思う。あの男尊女卑の世界だからこそと言うか、このマリアはイエスに7つの悪霊を追い出されたといわれているけれど、それは男の日和見のように思われるな、僕には。男の使徒であるペテロや弟子たちにこのマリアは復活したイエスに出会った以降、預言的な物言いをガンガン言ったらしい。それが気にいらないペテロがイエスに向かってマリアを非難した後の言葉。トマスが書いた(口述?)といわれる外典『トマスによる福音書』にイエスがこう言ったという不思議な言葉があるのです。
◆ペテロはイエスに向かいこう言う。
「マリハム(マグダラのマリア)は、私たちの元から去った方がよい。女たちは命に値しないからである」(114)
これに対してイエスが謎めいた言葉で答えるのです。
「見よ、私は彼女を(天の王国へ)導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る活ける霊になるために、なぜなら、どの女たちも。彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから」(114)・・・ また、別の一節。・・・
「あなたがたが。男と女を一人にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にするならば、・・・そのときにあなたがたは〔王国に〕入るであろう」。
◆さて時代は進み今の僕らの時代、旧約の時代から神は、頻繁に「わたしがいることを人々は知ることになろう」と語っているのです。目に見る五感で確認できるという言葉の解釈から、いわゆる深い霊的な意味からこのイエスの言葉を読み取ろうとすれば、なんとなく分かるような気がしてくる。時代が進み、それが少しずつ露わになってきたということなのではないだろうか。僕のこのブログの主旨から言えば、自分が選べない「性」という肉にまとわりつく「しがらみ」からの解放も意味していると捉えることができるのです。 ・・・