marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(532回目)(その2)今一度、「天国」のことを考えようと思った

2018-07-29 21:55:08 | 日記
 僕らはこの地上の命が終わったらどこへいくのだろう。

◆キリストは、天国の世界に導くのだという、端的にはそう言っていることになる。さらに、消えていく言葉ではなく、この朽ちていくこの肉体をも包む霊的なことばなのである、今も活きて働いているのだという。僕らが、全ての命あるものが成長をし生きているものはそこ(天国)に向かっているのだというのである。さらに彼が来たのは地上にいる命ある万人の救済なのだというのである。

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「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソの信徒への手紙第1章3-5節)

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「・・・キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によって受け取るためでした。・・・(天地創造から途方もない時間が流れた・・・わたしの霊が永久に人には留まらないようしようとされたあの神が、キリストを通して、あの除く永遠の世界に住まう神の霊との結びつきをされているということになる:括弧内は僕のコメント)」

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこでは、もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(僕らの自分ではいかんともしがたい、限られた時間、限られた能力、他者とは交替できない自分の人生に於いて、それらの基である自分のいずれこの地上を去らねばならない肉体、つまりその障害となる統べて”しがらみ”(肉の奴隷)から解放される。それは、この朽ちる肉体にキリストを着ることにより解消されるというのです:同上)」(エフェソの信徒への手紙)

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◆ここから、どうか新約聖書というのは、道徳の書物だとかというような、肉に対するある程度の束縛によって品行方正になっていくものであるというのは、二次的な派生としておこってくるものらしいのだが、一般の人びとにはそのような形として現れてくるもののようにのみ思われるが実は第一にはそのような外なる人の品行方正のようなことではないのである。明確に言えば、その神の霊(命を与えてくれている、肉体消滅においても帰る場所を永遠に導いている今も活きている霊)と会話ができるか、結びついているか・・・それが全てなのである。目に見える世界に居ようが居まいが、その生きている霊に繋がっているかどうかなのであると。それは、すでにパラダイスにおられ天地創造され以降、神が「わたしの霊は人の中に永久に留まるべきではない」と言われた、あの永遠のパラダイスに繋がる今も活きている霊なのである。

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復活の問答にイエスはつぎのように話された。

 「・・・イエスは言われた。『次の世に入って死者の中から復活するにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちはもはや死ぬことがない。天使に等しいものであり、復活にあずかる者として神の子だからである。・・・神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。』」(ルカによる福音書第20章25~38節) ・・・ 
 

世界のベストセラーを読む(531回目) 今一度、本当の「天国のこと」を考えようと思った

2018-07-28 07:32:23 | 日記
 聖書に書かれている、他の宗教との揺るぎない違いは、僕らの生きる世界、死後の世界も・・・つまり、全てを、といったらいいのだがその舞台設定を創造されたと、きちんと文字で記されてところ。それが本当かどうかと、あるいはその時代の文書に対し今の僕らがどのように読めばいいかと、今も研究されていること、第一、それに耐えていることです。これが一番。

世界のベストセラー聖書に、その天地の創造者は、その方は無論、制限、限界のある舞台設定、被造物の外におられるということになる。そこが、永遠の世界のそれらの方が住まわれるパラダイスということになりそうだ。今もあり永遠に続いていると。彼は活きて働いているということ。理屈から言っても、今、僕らは生きているから、僕らに霊を与える方が不在になることはない。生者のあらん限り、死者は生きん。生者があらん限り、彼(神)を求め続けるであろう

 それから、遠く離れて、創造者の呼び名も忘れた。この国の人びとは、「涅槃」や「浄土」という名称で知られてきたのではなかったか。ここで、いま僕は何も詳しくは調べて書いていないので実はもっと詳しい定義があるかも知れない。いわゆる、僕らが思う「天国」である。

 前回からの続きを思い、ユダヤの宗教の聖書の昔の人の話など誰が関心をもつだろう。しかし、いずこの人も永遠を求める気持ちがあるものではないだろうか。ここで、現代もその研究徒やらに耐えている(それは真実だからそれが出来ているのだということは別にして)からという理由で、聖書だか何だか知らんけれども、僕らは、天国という言葉、何故か永遠に生きる世界があるのだろうと思っているのです・・・少なくとも僕は。だから、先に、まず第一に聖書ありきでは、ないのです。否、それに書かれていることはすでに、舞台設定として創造されていたのであって、そこにわれわれが共にあるもの、彼(父なる神)を求め、共に創造されし世界を喜び、共に学び・・・という世界があった、そうなる世界があったはずなのであった。「神は、創造した人に永遠を思う気持ちを与えられた」・・・ という言葉が、聖書に書かれているのを読んだだけで、僕らは神という演出家にすでに脱帽ということになる。

 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は120年となった。(創世記第6章3節) すでに舞台に立つ主人公たる人間の寿命をもとうに設定されていたということだ。

 本当の天国を異邦人(聖書のことなどよう知らんという人びと)にパウロはどう伝えたのか。実は、彼パウロが聖書の世界の段階での異邦人とは、先祖伝来から言われ続けてきたであろう、おおもとの遠い昔の天地創造(天国、神と共に住んでいた世界も含め)のルーツを感じて居た人びとなのではあったろうけれど。第一にデアスポラ(離散)によって自分の生まれたルーツの記憶をわずかに保ち、しかし、その気持ちのセレモニーを遠くに離れたあの地、この地に於いて守ってきた(今も守られているということは、僕のブログでアメリカでユダヤ人作家と結婚された米谷みよ子の小説「過越の祭」を紹介した)。パウロの時代、すでに常用語にギリシャ語を話すユダヤ人が熱心に彼の話を聞きに集まっていた。そこで、彼は、選民としてのイスラエル人(ユダヤ人)の旧知の物語の人びとの話ではなく、さらにそれを遡り、人類の創造、さらにそれ以前の天国で住みし場所、その故郷を話すのであった。・・・ つづく  

世界のベストセラーを読む(530回目)キリストを信ずることは死後に保険を掛けるようなもの?

2018-07-26 00:39:06 | 日記
 まっとうな信者さんからはお叱りをうけるような表題です。しかし、「救い、救い」と言われると、それは第一に「助けられること」だから、その言葉が先んじてしまうと何のことやら、です。おそらく多くの人にとっては・・・。
◆キリストにあって死んだ人は、肉体では存在しないが、霊的には死んではおらず眠っている、そして再び、彼が地上に来られるとき、目覚めて、つまり復活するのである というのが キリスト者の理解です。まず死んで眠っていた者が・・・・、というように順序まで書かれている・・・けれどそれは、僕らには分からないことだから、よしとして・・・。
◆イエスという方はこう言われるのです。「アブラハム、イサク、ヤコブの神である。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と・・・。「自分」という言葉をよく考えて見ないといけないと言ったように「生きる」とか「死ぬ」とかと言う言葉も、聖書を読むときに考えていないといけない。「生きる」とは、霊的に生命を与えて下さっている今も活きている神の霊に繋がっていることを「生きている」言うのです。だから、肉体が目に見える生きているという人は、周囲からは分からないが、神の霊につながっていれば「生きている」ということになるし、繋がって居なければ「死んでいる(亡くなる運命にあると言えばいいか)」ということになる、そんな理解を僕はしているのです。旧約の人びとの事など異邦人の誰が知ろう。けれど、何故か「天国」という言葉は普遍的に知っている。「永遠」という言葉も知っている。異邦人に対して、その天の父なる住まいを何とその伝道師パウロは伝えていったか・・・。
◆イエスが生まれる前のさらに2000年ほど前の、旧約聖書(ユダヤ人の方には聖書)には、掲題の信仰の父や、神にあしらわれ人生を送った人びとが描かれているのです。無論、その後の神の人と言われたモーセ、あのイスラエル人をエジプトから脱出させ紅海を渡り「十戒」を神から授けられた人などが居るわけですが、ユダヤ人は現在もいきいきと信じている訳です。なぜなら、これも書かれているが一日は千日のように、千日は一日のようにと、だから、歴史として過ぎ去ったことなど、忘れてもいいことなどとは決して思っていないのです。
◆繋がっていることがとても大切なことなのです。旧約時代から、イエスの登場を待ちに待っていた人びとが多くいたこと、すでに数百年(旧約時代が書き終えられてから400年以上)もたってイエスが誕生されたのですから・・・。我はブドウの樹、汝らはその枝なり。私につながっていなさいと彼はしきりに語るのです。それなので、実際には紀元前の人たちにも拘わらず現存する僕らが信じているかぎり、繋がっている限り彼らは今も生きていることになるのです。
◆異界の人びとは、生きている。しかし、そのプネウマ(神の息と呼ばれる)は、僕らには見えないし聞こえないし、その関わりも分からない。彼に繋がらないもの(霊)は時間が経過すれば、消えていく。彼が、私に繋がっていなさいというのは、永遠からのいのちに繋がっているから、というふうに読める。彼は、見えないが地上にある彼と繋がる霊を「聖霊」として与えられているということになるということ。この理解にはこの朽ちゆく受け取る僕ら側の実際の自分の礎が必要ですね、ともすれば流れてしまいがちになりますが・・・ その基が僕が言っている自分という基軸を持つことです。この点検には自己中(まさに自分からは逃れられないから)にならないように。だから対話し、直していくに必要な対話する完全なる人、イエスという存在が必要となると。そして不完全な欠陥だらけの「自分」の点検には、自己を見る言葉が要求されてくると。
◆極めれば、不完全な欠陥だらけの、自分自身でも知り得ない、直しきれないこの朽ちゆく肉体を持つ、それの解消に絶望してもしきれない現存する自分という存在がある。この生きる肉体と潔い霊(彼の)との会話の接点、それが彼の十字架、それが自分の異界との接触が本来できないことを可能とするこちら側の礎が必要になること。自分の解決できないこの肉体にある全ての欠陥を彼は身に負い、十字架に付かれたということになる。彼が十字架に掛かっているのは、神につながるべく、天国につながるべく、永遠につながるべく、そのための、わたしの全ての欠陥の解消する為の、十字架で血を流されて今も苦しまれているということなのだ。

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「わたしを使わされた父も、ご自分でわたしについてあかしをされた。あなたがたは、まだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない。また、神が使わされた者を信じないから、神のみ言葉はあなたがたのうちにとどまっていない。あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」(ヨハネによる福音書5:37-39)

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世界のベストセラーを読む(529回目) 「自分」とは、誰なのだろう

2018-07-25 07:37:59 | 日記
 死者との対話、それは異界からの訪問者、ここでいう死者とは、肉体においてはこの地上で僕らは目には見えないけれども、異界では生きている人びと、語り合っている人びと、そして、ときおり、長い時間起きるまで眠っている人びと。

◆人それぞれの人として生き物として生きているその基軸。それが無ければ、異界の人びととの会話はできないだろうと思われてくる。生きている時代や場所は異なっても、それは霊を持つ人が生存する限り、その世界は流れ続けていると思わて来る。事実それは確かなのだろう。否、明確に確かにそうなのだ、と僕は言いたい。だから、他者に対する「汝ころすなかれ」なのであると・・・。人を殺してはいけない、さらに、神が与えられた「十戒」を、神はそのように人を創造したのであるから・・・と素直に読むようにと改めて思う。

◆僕らは、そこで、霊について(実は薄気味悪い悪い霊ではなく)それが、生きとし生ける僕らを生かしめているのだという点から考えてみることなのである。少なくとも、新約聖書で異界も理解されていたであろうイエスの言動は、生きている魂を持つ僕らの身体で読み取って行かなければいけないものなのである。おそらく戒律のように思われるこの肉体を克己させる修行などというものは、その受動態である体でその点から、整える為のラジオのチューニングのように波長を合わせる準備、現存する僕らの今生側の肉の体制を整えることから発生したのものだったのではないだろうか。だから実はここで、自分というものを少し冷静に分析して見るような勧めなのだ。

◆「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と「自分をすて、自分の十字架を負って我に従え」との言葉の中の「自分」とは、誰なのか。「自分の命を救おうと思うものは、それを失い。私のため、又、福音のためそれを捨てるものは、自分の命を得る」との中の「自分」とは何なのか。この世への誕生を左右できない、しかも必然的にこの世界を過ぎさるであろう今を生きている「自分」。それは永遠の異界の世界を求める「霊なる自分」、あるは享楽的にこの肉体の欲求に則した多くの人がそうであろう「ただの霊に生かされている肉なる自分」が内にあることが理解されてくるのではなかろうか。パウロは、そこで死ぬべき生まれつきの肉(自分)に付随する霊と、永遠のいのちをもたらす神からの潔い霊に与るべき内なる肉(自分)があること、そしてそちら側に人びとは帰るようにしなくては生けないことを体験的に知った(啓示を受けた)のであったろう。パウロは、その肉なる自分という人を、私はキリストと共に十字架に付けられて死んだ、といった。もはや私が生きてるのではない、キリストが私の内にあって生きているのだ、という処まで言うのです。そして、このように生きているのは、キリストを信ずる信仰によって生きてるのであると言うのですね。ここまで来ると「極み」です。

◆それを知ってくると、今生に現存する僕らが読む(パウロの手紙にある)「絶えず喜び、絶えず祈り、全ての事、感謝せよ」(テサロニケの信徒への手紙)という言葉などが、この肉体の現存する三次元への自覚として発生してくるものなのだと思われてくるのです。「内なる人」という確信があろう人は、目には見えないが活きているという霊と会話できる、生きている異界の人びととの会話ができるひとびとであろうと理解されてくるのです。その流れている異界の人びとの霊と会話ができ、そのため本来の自分という基軸をもっているという人、あるいは持とうとしている、あるいは、その基軸の位置に帰れる自分というものを持っている人が、おそらく命を与える創造者なる神があらゆる人びとに対して求められていることなのだということが理解されてくるのです。そして、上から来る「聖霊」を汚すものは許されないと。

◆それでは、この国の仏教においてはどうなのかと・・・、僕は否定はしない。この国の多くの人びとの心情。だから、先の回でのブログに哲学者内田樹(タツル)先生の今生にある心情を掲載させていただいたのです。それでは、どうして、キリストなのか、この人以外に福音はない、なのか。ここに本当の神、目に見え確認できるものを創造された神、現象として僕らが確認できるではないかとパウロが言ったそれを創造された神、真実の神、という理解が必要になってくるのです。・・・ 続く 



世界のベストセラーを読む(528回目)この時代の自分の思考の基軸:ブランク期間に読んでいた本 哲学者 内田 樹

2018-07-23 07:17:04 | 日記
 先月からのブランク期間、哲学者 内田 樹(タツル)の「死と身体(コミュニケーションの磁場」とブログ開始頃の2016年6月11日掲載の文教堂で見つけた本の紹介での若松英輔の「イエス伝」を 古本屋で購入していたので読んでいた。

◆第518回目のブログ以降、紹介したNHKテキスト6月号A・カミュの「ペスト」の中に哲学者(・・・と肩書きだが)内田樹さんの評論が採用されていたので紹介。・・・・「ためらいの倫理学 戦争・性・物語:角川文庫」というカミュを論じた鋭い文章の中で、人間が、国家や社会という立場から異論の余地のない正義を引き合いに出して死刑に賛成したり、全体的な真理や未来の幸福のために革命のための殺人や戦争やテロをおこなったりすることに「ためらい」を感じる倫理的感性こそ、カミュの精神の本質的な特徴だと見ています。そして、自分が善であることを疑わず、自分の外側に悪の存在を想定して、その悪と戦うことが自分の存在を正当化すると考えるような思考パターンが「ペスト」なのだ、ときわめて示唆的な読解をしています。(p78 アンダーラインは僕)・・・ 
◆今のこの日本はどうなのか。東日本大震災で僕らは何を学んだのか・・・原発は安全だと言われ続けて来たではないか・・・ 効果も定かならぬ一機1000億円と言われるイージス・アショアなる武器を住民の反対があるにも係わらず山口と秋田に今、導入しようとしているのはなぜなのか。22日夕、たまたまBS放送で見た「JFK」ケビン・コスナー演じたギャリソン検事の法廷での訴えにも、作家カフカの「審判」や、ヒットラーの「大きな嘘を言い続ければ真実となる」というような文言が飛び出していたな。今、世界に求められているのは、何か不安を感じている僕らのこういうおかしなことに対応する誠実な自己という基軸を求め続けることではないかと僕は思っている。
◆内田 樹(タツル)の本は、医学書院というところからケアシリーズとして出されていたもので、この先生のを僕は「私家版・ユダヤ文化論」、「下流志向」「日本辺境論」などを読んでいたが、今回も多くの示唆を受けた。特に、僕が難解すぎて中途で止まっている、フランスの哲学者エマヌュエル・レヴィナスの研究者でもあられると・・・で、やはり、求めるものはどこかで繋がっているのかと、僕はなりに納得し、内田先生の著作を読めば、難解な書物の理解がすすむかなと思ったりして少し喜んでいる。内田先生もお考えの中にカミュを採り上げたか・・・。で、先生ご自身も、レヴィナスは難しくて何を言っているか分からんかったと述べておられた。いずれ、book offで見つけた10分の一の値段で買ったこの本は、哲学者かのニーチェやラカンなど、それからレヴィナスなど採り上げ、僕がずっと考えて来た、異界との対話、そして語るこの地上では制限のある人の「自分という基軸」となるもの、その過去から現在、未来へと繋がっている人の命の通奏低音の確認のために多くの示唆を与えてくれた。「他者」とは「死者」なのであると・・・。
                     
◆内田先生のこの本の最後はこういう文章で終わっています。
「僕は一昨年父を亡くしました。小さな骨壺を貰って、それを居間の棚に置いてあります。僕は一人暮らしなんですが、家に帰ると誰かが「おかえり」と言っているような気がする。それで、僕も写真にむかって「いま帰りました」と手を合わせます。気が向くとときどき線香を上げる。父は線香のにおいが大嫌いだったんだけれど、それでもあえてあげ続ける。そのうちに「線香のにおい、おれは大嫌いなんだけれど。樹、もうそろそろ止めてくれないか?」と父が我慢できなくなって言ってくるかな、というような詮方ないことをふと思います。人間が「死者の声を聴く」というのは、そういうふうな想像的な境位でのことなんです。そして、それは人間でしかできないことなんです。」 ・・・