僕らはこの地上の命が終わったらどこへいくのだろう。
◆キリストは、天国の世界に導くのだという、端的にはそう言っていることになる。さらに、消えていく言葉ではなく、この朽ちていくこの肉体をも包む霊的なことばなのである、今も活きて働いているのだという。僕らが、全ての命あるものが成長をし生きているものはそこ(天国)に向かっているのだというのである。さらに彼が来たのは地上にいる命ある万人の救済なのだというのである。
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「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソの信徒への手紙第1章3-5節)
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「・・・キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によって受け取るためでした。・・・(天地創造から途方もない時間が流れた・・・わたしの霊が永久に人には留まらないようしようとされたあの神が、キリストを通して、あの除く永遠の世界に住まう神の霊との結びつきをされているということになる:括弧内は僕のコメント)」
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこでは、もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(僕らの自分ではいかんともしがたい、限られた時間、限られた能力、他者とは交替できない自分の人生に於いて、それらの基である自分のいずれこの地上を去らねばならない肉体、つまりその障害となる統べて”しがらみ”(肉の奴隷)から解放される。それは、この朽ちる肉体にキリストを着ることにより解消されるというのです:同上)」(エフェソの信徒への手紙)
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◆ここから、どうか新約聖書というのは、道徳の書物だとかというような、肉に対するある程度の束縛によって品行方正になっていくものであるというのは、二次的な派生としておこってくるものらしいのだが、一般の人びとにはそのような形として現れてくるもののようにのみ思われるが実は第一にはそのような外なる人の品行方正のようなことではないのである。明確に言えば、その神の霊(命を与えてくれている、肉体消滅においても帰る場所を永遠に導いている今も活きている霊)と会話ができるか、結びついているか・・・それが全てなのである。目に見える世界に居ようが居まいが、その生きている霊に繋がっているかどうかなのであると。それは、すでにパラダイスにおられ天地創造され以降、神が「わたしの霊は人の中に永久に留まるべきではない」と言われた、あの永遠のパラダイスに繋がる今も活きている霊なのである。
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復活の問答にイエスはつぎのように話された。
「・・・イエスは言われた。『次の世に入って死者の中から復活するにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちはもはや死ぬことがない。天使に等しいものであり、復活にあずかる者として神の子だからである。・・・神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。』」(ルカによる福音書第20章25~38節) ・・・
◆キリストは、天国の世界に導くのだという、端的にはそう言っていることになる。さらに、消えていく言葉ではなく、この朽ちていくこの肉体をも包む霊的なことばなのである、今も活きて働いているのだという。僕らが、全ての命あるものが成長をし生きているものはそこ(天国)に向かっているのだというのである。さらに彼が来たのは地上にいる命ある万人の救済なのだというのである。
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「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソの信徒への手紙第1章3-5節)
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「・・・キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によって受け取るためでした。・・・(天地創造から途方もない時間が流れた・・・わたしの霊が永久に人には留まらないようしようとされたあの神が、キリストを通して、あの除く永遠の世界に住まう神の霊との結びつきをされているということになる:括弧内は僕のコメント)」
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこでは、もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(僕らの自分ではいかんともしがたい、限られた時間、限られた能力、他者とは交替できない自分の人生に於いて、それらの基である自分のいずれこの地上を去らねばならない肉体、つまりその障害となる統べて”しがらみ”(肉の奴隷)から解放される。それは、この朽ちる肉体にキリストを着ることにより解消されるというのです:同上)」(エフェソの信徒への手紙)
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◆ここから、どうか新約聖書というのは、道徳の書物だとかというような、肉に対するある程度の束縛によって品行方正になっていくものであるというのは、二次的な派生としておこってくるものらしいのだが、一般の人びとにはそのような形として現れてくるもののようにのみ思われるが実は第一にはそのような外なる人の品行方正のようなことではないのである。明確に言えば、その神の霊(命を与えてくれている、肉体消滅においても帰る場所を永遠に導いている今も活きている霊)と会話ができるか、結びついているか・・・それが全てなのである。目に見える世界に居ようが居まいが、その生きている霊に繋がっているかどうかなのであると。それは、すでにパラダイスにおられ天地創造され以降、神が「わたしの霊は人の中に永久に留まるべきではない」と言われた、あの永遠のパラダイスに繋がる今も活きている霊なのである。
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復活の問答にイエスはつぎのように話された。
「・・・イエスは言われた。『次の世に入って死者の中から復活するにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちはもはや死ぬことがない。天使に等しいものであり、復活にあずかる者として神の子だからである。・・・神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。』」(ルカによる福音書第20章25~38節) ・・・