『自由』という言葉はいつの時代も魅了的なのだが、実は難しい言葉でもある。
人の多様性などといって、実はそれぞれの人のDNA由来の人格も知らなければ、育ちの環境も異なれば伝統や因習も異なる中で、自由という言葉だけが何故か誰でもが共通観念をもったように魅力的で一人歩きする。
その言葉には、自分の肉体から障害として引きずっている、あるいは壁となっているもろもろのバイアスが汚物のようにまとわりついていることから解放されるという意味合いがあるだろう。
会社人はそれは、会社の組織的制度として、そうなのかもしれない。お金を稼ぐために耐えねばならない。どうせ生きているのであるならば、少しは外交体力や意欲がある人は、人生は一度きり、世界を見てみようと旅行をするだろうし、また最後の恋の掛けを行うかもしれない。
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隣のおばさん、旦那に先立たれ、ご高齢になって実のところ清々して老後を過ごしていると話してくれた。お孫さんはいないが、息子さんご夫婦が近所に居られて心配もないということだろう。
環境からまず、旦那という魂をもった人と言う生き物に、若くて愛し合ってそれも人という生き物の普段の人の生き様なのだが、綾小路きみまろではないが、あれから40年、人の一生のおおよその歩みを経てきて、殆ど障害となるものはなく、あるのは残り自分の死という誰しもが超えなければならない障害があるだけなのだろう。
優位性を常に持とうとする人において、自由とは兎に角、障害壁が取りのけられて優位性の肯定が何の障害もなく解放される状態をいうのである。
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宗教的人間
僕は、自分の生き方に於いて、苦しんでいるもう一人が自分の中にいた。それは、何故かなどということは、客観的に自己を見つめるなどということは、だいぶ歳を経てからであって、学生時代は、学部はまったく畑違いの心理学や哲学や、人間科学などという本を分からずともそれなりに読んでいた訳だ。何なんだろう、と。
それは、常に漠然とした不安があったからだ。常にまとわりついている人の”死”についての不安、その理由を探してきた訳だ。中学や高校では自己分裂が起こっていたなぁ。もし、体調自体にそのような変調がなければ、もっと自己実現できたものを・・・と今でも思う。
言葉で意識しなくとも、それだからこそ人はひととして個性をもって生きている、私は、私だと。ところが、同調圧力が強い時代、その中に居合わせれば、私はわたしであるかもしれない。けれども、私がやりたいと思っていることが何故できないのだろうか、と疑問に感じたとき、そもそも自己実現に励む人はそのようなことも思い浮かばないだろうけれど、再び、生きている人の中には僕のような人間が、実は沢山いるのだろうなと思ってしまう。
それでなければ、教訓本などは発行されないだろうし、宗教も発生はしないのだろう。哲学もそのような人の集まりの何かを問う思想などは生ずる事はなかった筈である。さらには、自分の境遇に、あるいは人生に疑問を、さらには人の歴史の政治経済、文化などに思うことは、その思考レンジがだんだん上がっていって、一体、神が居られるならば、人とは一体なにものなのでしょう、という考えも出てきてしまうという訳だ。
実は、この最後の言葉はすでにあのイスラエル人を奴隷だった国エジプトから導き、脱出を諮ったモーセの言葉や、王となったダビデの言葉でもあったのである。数千年前からものすごく高い思考レンジの領域で、神に訴えているのだ。(詩編8篇 ダビデの詩、詩編90篇 モーセの詩)
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イエスの言葉の悪魔に隙を与えるような言葉『自分を捨て、我に従え』の『我』が読み込む側に容易に座席をサタンに席を与えてしまう責任は、読み込む側の我々にあるのである。
『自分の十字架を負って私に従え』とは、『自分の十字架」を知る者(知りつつある者)であって、また、『我(イエス)』は誰かを正しく知っている者(知ろうとする者)に対する言葉なのである。
多くは長生きしても80~90数歳で次の世界に行ってしまう僕ら。共に我らの十字架を担われつつ歩まれるイエス。その十字架は我らのその欠陥(罪)を自らの十字架と共に貼り付けにされて帳消しし一緒に天上に帰還(脱出)しようと願っている方なのである、と真のキリスト者は信じているのだ。
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有名なイエスの言葉 ・・・この言葉には、我々自分の諸々の障害(十字架)をイエスが解消してくださった、という意味が込められている。
『我は、道なり、真理なり、命なり』(ヨハネ14:6)、『真理はあなたがたを自由にする』(ヨハネ8:32)
我々は、彼において死んだものなのだ。・・・