marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その23)必ず結局死ぬんだから、すべての人に読んで自分の物にしたい世界のベストセラー

2025-02-24 13:09:58 | 日記

世界の言葉に訳されている新約聖書

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言葉の宗教と言われるキリスト教は、それだけにそれなりに言葉を習得した気持ちになると、無論、生き物としての思考のレベル、レンジが数段アップするので(そういう気持ちにさせられるので)、何故か偉くなった気分にさせられるのか、ましてや背後に神など背負えば、怖い物なし、などという気持ちになってしまう。

カルトが実に危険というのはこのことだ。本来、『無』(言葉や文字以上のもの)を思想する僕ら国民の宗教性(西欧のように人の言葉=哲学で考え抜いてみようとして来た歴史にない国民の宗教性)に外来の真摯では宗教掌握ごとが入り込むと、ききとして物知り状態、我が物なりになってしまう。

<『○ホ○の証人』のお二人が、それ訓練なのか義務なのか、一応丁重にお話していると、キリスト者である事を表明しているのにも関わらず昨年から五度も訪問して来た。最後にきちんとお話したのでもう来ないと思うけどねぇ。これも時代が迫っているのかなぁ。>

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しかし、人間に対しては、その言動など全てお見通しで、それが旧約の切った貼ったの物語に書かれているし、さらにはその完全や不完全、天使や悪魔の事まで書かれているという内容だ。最後はこうだ。『私(神)は生きて、働いているんだよ。古来から、今も、将来も!』旧約は歴史をとおして、神は世界の人々よ、彼らの深刻な歴史に学べであるし、新約は、『人よイエスを通して彼に学べ!』ということなのである。

そもそも、何故に人が読んですぐ分かりやすくはなく、人の世界に闘いが起こったり、正義が我々の人と思うものとは全く同じではないようだ、ということやご都合主義で前後書かれているのではないかとか、その長期にわたる(PCがない時代にこれも何故か不思議なのだが)その話が、天地創造来から今このときも続いている(信仰者はそう理解している)のだということを語っているのだと。

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ちなみに旧約のヨブ記などを読むと何が正しいのかわからない。つまり、一時的に人の先入力ともよべる善良な意識を持ってよむと、つまるところ全ては、良くも悪しくもひとの人生のドラマであれ、これは全て世界と地上を見ておられる唯一の神様が居られて、私を認め信じなさい、と言われて居ることが、地上の短い人生での『幸』なのだと宣うているということになる。

それは、人生において幸せという意味だけでなく、死後も永遠の命に招かれていることである、と。更には、苦難を与えてまでも知らしめんとされるということだなぁ。神の演出のドラマには、いろいろな配役が必要でだれ一人欠けることを望んではおられないということ。演出者には、個人の出番が終われば(つまり人生を終えると、ご苦労さんといって)永遠の命への祝会の地上劇の打ち上げ式が行われ、同時にその招待状が与えられるという訳だ。

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それで、普段の「ひと」が早わかりで、旧約聖書には何が書いてあるのか知りたい場合、使徒言行録第7章のステファノがとりまとめて同胞に語った物語になっているので読まれることをお薦めする。そしてこれが、イエスの時代になり詰まるところ、それがイエスが地上に生まれ、十字架に死なれた理由でもあったのだが、結局、異邦人の僕ら、命ある全ての者が永遠の命への招待状を受け取るに何が必要かを語っているのが、ヘブル人への手紙第11章なのです。・・・


(その22)世界のベストセラーを読むときに異邦人の僕らが考えておくべき事!

2025-02-22 16:04:59 | 日記

 素人であり、なおかつ異邦人である僕らが、普段の生活において恐れ多くも天地創造界の歴史が書かれてきたと言われる一読ではさっぱり分からない世界のあらゆる言語に訳されている聖書をものにするには、多くの壁があるようにも思われるが、不思議にすとんと信じて生涯をかけて信仰を貫き、生涯を終える人もおられることをどう思えばいいのか。

聖書の言葉などはいつも上から目線の言いようになってしまうのは、普段、僕らが安穏と考えている事柄の基になることの数段上の総括的な言葉をつかみ取ったという思いにさせられるからであって、しかも、それは決してシェアーできない個人的な負の体験を含んだ事柄を消化したい思いが、その人の心の底に存在しているからであると思われる。

誰でも、個人的体験から始まるのだ。

だから、どんな高尚なキリスト教神学者であっても、始まりはその方(イエス)との出会いであるけれども、その先駆けには先の個人的体験がその神学の基底に眠っているものだ。

しかもその場面の多くは喜びであることは少なく、それは彼が自分を含めた人の罪と呼ばれる欠陥が、あらゆる不幸をもたらしているがゆえに十字架にかかられ、その身に負ったという考えが暫時深められ、命ある人類へ広がるにつれ、その出会いが『自分』(今、生きている人間として)としての有機的に彼(イエス)の思いに投影するのだ考えられる。

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つまり、相矛盾するように読めるイエスの『自分』という言葉について、先に僕ら異邦人は特に、宗教抜きに考える哲学が起こってきたわけなのであったが、イエスがもっとも大切な教えは何かと問われた時、『全力で神を愛し、自分を愛するように他者を愛せ』と言われたこと。

さらに『自分を捨て。我に従え』と言われた言葉が、矛盾する言葉ではなく、今生で生きつつあるのは、次の世界に向かって、あらゆるDNAからの霊の引きずりや、思考への様々な雑音を捨てて(自分を真に愛することは、不浄な自分を捨てることを心がけよ!ということか)。

天に昇られるイエスがたまわる霊、『聖霊』に繋がっていなさいとの命を心がけるようにと言わんとしたものであろう。

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先のブログに『自分とは何か?』と書いた。生まれそのままの僕らは、突き放して自分自身を考えたりしない。ここで異邦人でない彼ら、つまり先祖伝来の神の選民族としての謂れがしみ込んでいる彼らとは違い、自分自身を客観的視点、対象物として考えざるをえない異邦人のユダヤ人以外の僕らは、『自分の根』とは何か?をそもそも考えなければならないのであった。

マタイ伝13章:6節『日が上ると、自分の根がないために枯れてしまった。』

自分の根、自分とは誰か。神の言葉なるものをそもそも聞き得る自分の基礎があったのか? 僕ら異邦人は、そのことから問わなければならない。

人が人の言葉で人の思考するそのこと自体を精緻に突き詰めていく。余命いくばく、僕がフッサールの現象学やハイデガーの『存在と時間』をボケ防止のために読み始めたのはそういう理由からであった。・・・

 

 


(その21)<その2>異邦人の僕らがベストセラーを読む時、注意すべき事!

2025-02-21 14:36:46 | 日記

 僕らが、キリスト教に触れ、聖書を素直に読んだ時、イエスの言葉が相矛盾するのではないかと思うことを改めて書きますので、みなさんも考えてほしい。悪魔の手引きが入り込まないために!

そして、安直に理解するならば最も危ないイエスの言葉でも有りえる。(実は需要な言葉でもあるのだが・・・)その言葉の箇所を文末にあげる。

つまるところ哲学が長年戦ってきたのはここにある。『自分とは何か?(聖書を読む自分の判断基準はあるのか?)人間とは何か?』

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曰く、巷の本来の信仰の他力思考から実に大きく外れて、自己喪失や情緒不安定になってしまいがちになるのは、まさに聖書のこのイエスの言葉にあると思われるのだ。ブログ(その18)で述べたことの更なる詳細。この国ばかりでなく、いづこの国民でも『神』という存在を背後に背負った人の言葉として読み込むと、畏れ多くて自己を見失うと思われる。

介在物なく聖書の言葉を自分の言葉で読むことを推奨するが、いかなる解説書でもこの不可解なイエスの言葉を適切に理解できるように書かれた物を読んだことがない。

僕らの国には、成功譚や教訓話はいろいろあるけれど、宗教性を基盤にした実践生活の『生きる哲学』(若松が書いた書には同名の物があるが)というもののメジャーな書物はない。やはり西欧の哲学に依存しなくては巷に流布する解決策は見えないのではないか。つまり、他者の言葉ではなく自分自身の言葉で命ある人の有り様を解析し格闘する自分の言葉の、人間という生き物の頭脳を通しての思考しての言葉の獲得。

宗教性に基ずく教訓話は、お寺さんやキリスト教会でも無論、お話しされる。ここで言う哲学とは、宗教性抜きの人が、自らの言葉でどこまで精細に物事の有り様を(数学や物理学などの実証学ジャンルのことではない)突き詰められるのかという学のことである。

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神はパウロは当時の哲学発祥の地マケドニア(今のギリシャ)に、神のみ心として乗り込ませる。当時の文明の地、離散した同胞ユダヤ人も多く居たその地、彼らに古来からの預言の実現を知らしめんとして。

科学も先んじていた繁栄の地。そういう歴史的に布石を先に作りつつ、異邦人への神の言葉を宣べ伝えるべき、世界宣教(神が創りたもうたの全人類の救済の言葉を伝えんとして)さらなる布石の地としてギリシャの国、哲学の国へ向かわせられた・・・。

『主の祈り』の中に『~天におけるごとく地にもなさせ給え~』とある。それは、天からの啓示により、イエスのたまわれた聖霊の導きによって、地上の人が感化を受け、実際に意識するしないに関わらず、イエスを再び地上に迎えるべきその布石を全地上に整えるべく、その前進であったように思われる。今、福音は全世界にすでに広がっている。

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イエスの言葉、さらにマタイの10章38-39節であり、マタイ16章24-26の言葉。自分を捨てたところに、カルトや異端が紛れ込むのである。また、精神的に弱くなったり、情緒不安定なとところに悪魔が声を紛れ込ませるのである。

イエスが問われた最も重要な教えとして、マタイ22章37-40節 と応えている。『自分を愛するように~』との『自分』とは一体どこの誰で、どういう自分なのか?

自分を愛することができれば、イエスの為に捨てる自分はいなくなるのか? さて、私はどこにいるのか・・・?

このイエスの言葉は相矛盾してないか!

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実は、ここから『人格』や『人権』という思想が派生してくるのです。

イエスのこの言葉は、今、語られるひとり一人に、あなたの今生の命は一度きりで、あなた自身を永遠の命へ向かしめんとして実に大切な一人の命として愛し抜かれている のである・・・ということが感じとれるのであれば、あなたは永遠の命のパスポートを得ることができたと思っていいと思います。・・・


(その20)毎朝のたわいない感謝のお祈り

2025-02-20 19:18:59 | 日記

青空も見え、雪も殆どなく路面が見えてきたので自転車でも乗ろうかと思っていたところにいきなり雪が絶え間なく降り続いて、それどころではなくなった。

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  道路向かいのミーシャ(雌のニャンコ)も雪に足跡をつけながら、縁側でちじこまって餌をくれるのを待っている。とても寒いけれど、時間と出会いがあれば朝食にありつける。餌のお皿は雪が被るので家に引っ込めているが、縁側の戸を開けてカリカリご飯を皿にスプーンで入れていると、入ろうと前足をにさんぽ入れると、それ以上は入らない。

寒いから当然かなぁ、とてもモフモフになった。軒下の上がり口で、早くちょうだいと、からだを前に後ろに揺らしながら、小声でニャーニャーと鳴きながら催促する。寒いから入りなさい、と促しても入らない。こちらも部屋が寒くなるので、餌の入ったお皿を縁側に出して、戸を閉める。

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居間のストーブはタイマーで毎朝7時に点火するようになっているし、それからラジカセのCDも同時刻に起動する。それからコーヒーを入れ、デッキチェアーに座り、ストーブのオレンジ色の炎をぼんやりあれこれ考える。今朝も脳みそは正常に動き続けそうと頭をはっきりさせ、からだも一応は支障なく一日過ごせそうだと意識しながら。まずは感謝して・・・これが毎朝の僕の祈りになっている。・・・

 


(その19)それぞれの人生。棺桶には僕は普段着のままで入りたいねぇ。

2025-02-17 12:53:59 | 日記

 写真は、木工制作が趣味のクリスチャンの方で、僕が青森八戸に用事があり、立ち寄った時に自分が亡くなった時に入る自作の棺桶だと見せていただいた物です。

その他にも沢山の木工の制作品が部屋中にあり、様々な木材を組み合わせて、引き出しや本箱を作成。材料は全て廃材を組み合わせてSDG'Sにも貢献と。いろいろ作品を示してくださり楽しそうに解説をしてくれる。

すべての作品の裏や下には、木の種類と作成日、お名前が記載されている。

当方の教会へと引き出しと本立てをくださった。その日、ここまで車できたのだからと少し回り道をして新郷村の『キリストの墓』に寄って帰路についた。(検索すると出てきます)。

この方との出会いは、長くなるので割愛。お部屋の鴨居にはA3程の女性(奥様)の赤ちゃんに乳を飲ませる写真が飾られていた。一緒には住まわれていないようで深くお尋ねすることはしなかった。

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それぞれの人生。

仏教信者よりは、キリスト者は教会に毎週礼拝に集う方々を兄弟、姉妹と言って普段の信仰生活に気遣う。(個人生活内部までにはもちろん決して踏み込みませんが)

このようなことを書くのは、だいぶ以前ブログにも上げたが、ホームスティーに入られていた姉妹がおととい13日朝に亡くなられたのだ。姉妹といっても94歳のご婦人の方(前に書いた103歳の方とは別の方です)。

戦争時、疎開の為に父親の実家に来て、そこで嫁いでそのままこちらの人となった方。父上は白州次郎に仕えた方なのだそうで、東京の妹さんかが養老孟司先生と仲のいい池田晴彦さんに嫁いでいるらしい。いずれ青学(ここは英国伝道者ウエスレーのメソジスト系)においてお母様が熱心なクリスチャンだったとのこと。

毎週、礼拝帰宅時には僕が車に乗せて送っていたので楽しいお話をいつもしてくださった。

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今回、書きたいことは、死亡したときには、葬儀の事をきちんと牧師には話しておいて、ご家族には了解しておくことだと強く思ったこと。

疎開先のこちらで彼女が嫁いだ家は、熱烈に求愛されて結婚したのはいいけれど、仏教の檀家で総代もされていたらしく、姑さんと伴侶者が先立ってのちは、養子のお子さんが継いでいたのだが、仏教式で葬儀をすることに決めてしまっていたのだった。息子の嫁さんがキリスト教にまったく理解がなく、教会に献金するなどとんでもないことだと思っている人だった。葬儀のメモはあったらしいが無視されていた。

それで会話もなく、ホームスティーに入れられてしまって、コロナ以降、ホームに牧師と姉妹と会いに伺ったのは3度ほどだけであった。ホームが替わり異なる場所に移ってから、昨年クリスマスのプレゼントを面会できなく受付にお渡しして来たのが最後となった。

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送っていただく時(自分の葬儀の時)には、いつも礼拝で座っていた処に写真をおいて、讃美歌を沢山みなさんで歌って送ってくださいね、と話されていたので、とてもとても残念。お話と讃美歌がとても好きな方だった。礼拝出れなくなったけど献金はしますからね、と。教会に付属幼稚園の先生もされていた方なので、繋がっていることに幸せを感じている方だったのに。

仏式は、棺桶には脚絆やわらじを履かせられて杖など持たせられ、ずだ袋にお金を入れて持たせられるのだったなぁ。頭に△お札を付けて。宗派によって異なるかもしれないけれど。そんな姿であの世で旅をさせられ三途の川まで行ってお金を渡して・・・などというのは姉妹にとってとても考えられないので気の毒で仕方が無い。教会のお墓には分骨として納められるのだろうけれど。

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キリスト者は、イエスが再び来られるまで眠っているのだ、とされる。霊界に天使に運ばれて再来の準備をするのであると。それは、僕らが生きている実体ともつながっている世界なのである。

(真言宗の空海さんも今も生きていて霊廟に毎朝にご飯が運ばれるし、5億6千7百万年後に如来と共に現れるとなどと、キリストの再臨に近いことを話されている。『即身成仏』などはかの使徒パウロの手紙に意味合いはそっくりだ。)

地上の命ある人が誰でもが例外なく必ず行くところ。誰もが言葉にしなくても宗教心はあると思っているけれど、次の世界があるからその準備のためにひとり一人がこの地上に生を受けたともいえるのだ。

話せばとりとめも無くなる。僕の時は、今の生活の延長で、棺桶には普段着、少なくともネクタイをして正装で入れて貰いたいと願っている。僕らの世界と次の世界は、繋がっているのだから。・・・