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marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その30))"カルトのまとめ”などと言うと・・・『超越と霊操』

2025-04-14 12:10:10 | 日記

  本棚から引っ張り出してきた。〔核時代44年(1989年)11月15日初版第一刷:晩聲社〕 東京神学大学を出てハーバード大の神学博士課程まで出ておられ、東北学院大学で、旧統一教会に会われた方々の救済とその教えの反駁に、ご自身の専門から離れても精力的に時間を割かれて活動された方であった。

大学の部屋に伺った事もあったけど、ちょうど作家の遠藤周作が来られるというので、構内をお二人で歩かれているところも見た。背は小柄で、それにしても遠藤は背がすらりと高くて、浅見先生が小さく見えた。

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僕らの時代は、駅前でまずはアンケートから始まり、花を売ったりして活動を始め、その前に借りた家で『原理講論』などという聖書の解説書まがいの勉強をし、食事を出したりするものだから、若者はそれなりの知的雰囲気に飲み込まれ大きな錯覚をする。それなりに非難を受ければそれは神に奉仕しているというような誤解する言葉も、聖書に書かれているから始末に悪い。

さらに人の不幸を見つけては、理屈づけなどをして納得させ、それではこうすれば救われますなどと壺などを売る。

僕の思ったことは、神の言葉は生半可に信じてはいけないぞ、ということだったか。家族を捨てても我に従え、なんていう真の意味を捉えにくい言葉もあるから困ったことだ。

一方それは、歴史上その信仰とやらによって自分の命も掛けた人々がいたわけだから、本物だから真摯に向かわなければ我関せずとしておいた方がいいんだろうと思っていた訳だ。今も多くの人がそうだろうけれど。

しかし、無関心では居られなかった。社会に出てから海外出張でその会社の人や関連世界に触れるほど、神の言葉とやらは歴史を動かしているんだろうなぁ、やはり・・・と思わざるを得なくなった。すべての人自身もを含めた社会仕組み、歴史、科学、それらは西欧に於いて、神の言葉の底辺にして派生してきたものだったからだ。

考えれば当たり前のことで、神が世界を創造したとすれば、人の被造物世界への係わりは神を知ることになるわけだったから。大学の始まり、パリ大学、オックスフォード、ケンブリッジ、ハーバードだって、全ては神学部から始まったのだから。

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①旧統一教会。イエスが「父なるお方はお一人である」と言われたのに対し『聖なる父母様聖会 世界統一平和家庭連合』 などという名称自体が既にOUTである。イエスの言葉に第一に地上の解説書など媒介は本来いらない、牧師の説教もイエスと自己が繋がることの勧めなのである。突き詰めればあらゆる媒体はいらないのだ。『聖霊につながっていなさい』(ヨハネ伝16章)、『絶えず祈りなさい、喜びなさい。感謝しなさい』(テサロニケ5章16~』とある。

②エホバの証人の方は、youtube で誤り間違いの放映が沢山見られるけど、今度は、エホバ教会自身がイエスの福音らしき内容を放映し始めた。『エホバ』の言葉自体が文語訳聖書ではそうなっているが、今は間違いとされる。第一、旧約聖書の十戒に『みだりに私(神ご自身)の名を呼んではいけない。』とあるのに新世界訳では、『主』が全て『エホバ』に書き直されている。これ自身すでにOUTであろう。輸血も禁止してるしね。

三位一体もイースター(復活祭)も信じていないということだ。解説テキストも発行されているが『いつまでも幸せに暮らせます』には、『イエスは全能ではない』と書かれている。全能であろうがあるまいが、その判断はなによるか、が問われるのではないか。

「これは私の愛する子。これに聞け。」と言われた神の言葉に、彼らはイエスは全能ではないと言っている訳だ。(p64) こういう信者がいる限りアメリカは今のアメリカになるのだねぇ。

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いずれ、知的雰囲気には、限界があるのだ。こう言う思弁の言説に限界を感じた『道元禅師』は、そのこと自体を投げ捨てないとこころの安寧は生まれてこないのだと突き詰めたに違いない。

『仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。』(正法眼蔵)

西から来た教えに大陸内部でコンデンスされた創造主の何かにすでに日本から学びに行った僧侶は、人の思弁のその形而上の対象物の『超越』にすでに古くから身につける術を発見したのであろうと思われる。『只管打坐』・・・

 


(その3)宗教的人間:彼は我々の中にいる・・・

2025-04-08 20:30:27 | 日記

 先に述べた(その1)宗教的人間の仏教である南直哉(ミナミジキサイ)の本の数ページでも読まれると、禅問答のような内容が書かれて、自分は信ずるものなどないし使える師もないと・・・詰まるところ、内面の主観からの思考の重視であって、それに言葉の語りで自己肯定しているのであるから、やはり全てにおいて、僧という存在の場(職業)でしかそれらの”語り”をやるしかないのであろうなぁ、ということになる。

それは、幼少期の個人的体験であることが原因でもあり、究極、救いは自分のような疑問にとりつかれたものは、見本として同じように”語り”の言葉を学び自己肯定しつつ、人生を歩まねば心の安らぎはないのだ、ということを言っているようにも読める。ただ「無常」に心からの感化して自己省察をはじめ、その思いを言語化、文字化をして安寧を求めてきたと思わせられるからである。

つまり、他者の言葉ではなく、自分と存在せしめている何かとの対話、”語り”である。すべて宗教というものはそもそもそういうものだと言えるかもしれないけれど。

主観性から始まるのであるとは、フッサールの現象学である。

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(その2)のキリスト教『超越と認識』からみれば、実はこちらは聖書は『神の言葉のみ』という単純さはあるが、『幼子のように信じなければ神の国に入るのは難しい』と言われたイエスの言葉があるとおり、成人してからの言わんとする信仰を持つのは、更に大きな壁があると思われる。そもそも創造された人自体が不完全な欠陥(罪)を持っているので、聖書の書かれた言葉の意味合いの理解は、考え深い人ほど高い壁となるようだ。

単純に分かりやすくしすぎ訳を作ってしまっている異端集団もあるけれど、実に大きな間違いをしている。・・・(これはまた、いずれ。)

従って、福音というものが語られて以降の人世界には、哲学というあらゆることを考え尽くし言語化するという行為が、その後の西欧で盛んとなるのだが、ここで使徒パウロが、当時の哲学の盛んなマケドニア(ギリシャ)に神の霊に導かれたと書かれているのは、今となればこれもやはり神の摂理だろうと思わざるを得ない。(使徒言行録)

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新約聖書はギリシャ語で書かれたのであった。その文字が今でも物理定数に使用されるのは、さすがに哲学発祥の地に生まれた言葉や文字であると感銘するところがある。文字によって形而上の言わんとすることを著す言葉でもあったから。言語学者を悩ませる聖書の意味の曖昧な部分はそのことを著しているようにも思える。

神学者を目指した『存在と時間』のハイデッカーもドイツ語をギリシャ語に習ってか、語ろうとするニュアンスを文字を変じて意味を著そうとしていると思われることが多々見られる。(これはボケ防止に読んで居ると以前のブログのこと、つづきはこれもいつか・・・)

だから、『超越と実存』とこの仏教者が語る際に『言葉は謎である』ことを書いているのである。内省を深めると同じ種とする人であるから、そもそもその当事者のその人(自己)はどうなのか?という事を言語化し、突き詰めていくと、西欧の哲学者、フッサールやハイデッカーの考え突き詰め言語化したと同じような内容が書かれて出てくる訳だ。

師もいらず、信ずるものなどなく、今後も信ずることはないだろうとこの仏教者がいうのは、そういう先んずる対象など信じもしないとなれば、結局、自己との語りを各自が行ってほしいということの勧めなのであろうということになる。

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さて、人が言語化するには言語の謎も著者は語るが、してみればやはり、それがいわゆる人の認識(脳を使っての言語化)なのだから『超越と認識』というキリスト教神学が、あらゆる人の言葉のでの言語化は『認識』に関わるのだから、人間学を含め(人そのものを哲学対象として突きつけて言語化する哲学)に優位があると言わざるを得ない。

神の言葉はイエス以来、次元をずっと下げて語り伝えられてきた。神に対するわれわれの態度は如何にあるべきか、と今のアメリカを思う。キリスト教の神は、創造以来、生きて、動いて、働いていると言われる。歴史を動かしつつある中での真摯な姿勢での聖書解釈であるべきだ。それは、律法的にではない、律法を完成させるために私は来たと言われた深いイエスの言葉を今一度考えないといけない。

『文字は人を殺し、霊は人を生かす』・・・これは使徒パウロの言葉である。

イエスがこのようなことを言っている。

『だから、言っておくがあなたたちから取り上げられ、それに相応しい実を結ぶ民族に与えられる。』(マタイ21:43)

・・・僕はこの民族は、この国のことであろうと思わざるを得なくなった。・・・


(その29)カルトが喜ぶイエスの言葉の追加プチ補充解説です。

2025-04-08 12:53:30 | 日記

 短く解説します。 (聖書箇所の引用は長くなりましたが。)

聖書は本来、章とか節とかに整理されたものではなく、ただ、淡々と書き連ねたものだった。淡々と書かれていたといっても、文字や配置にも十分注意され書き写され続けて来たものだった。だから、歴史の中で、版により異なっていたり、もともとの旧約聖書のヘブル語はどうだったのかとか、新約のギリシャ語はどうであったのか、訳はどうかなどというのは今でも神学の対象になったりしている。

こう言う意味からカルトは、そもそもそのような権威ある神の言葉と対比すればおかしいということがすぐ(直感で)理解できると思うのだけれど。大変な誤りをしていることになる。

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それで、先の(その28)で引用したカルトが一番好きな言葉であるマルコ12章の”まずしいやもめの話”(41節から)だけれど、実はイエスが語られたことは、祭司(パリサイ派)らや、神殿司(サドカイ派)のその当時の現状と神殿の将来を見据えた深い意味があったことを、僕らは知る。

思うに、その話のひとくくりは章、節に区分されない時代は、おそらく12章の37節b(bとは節の後半)から始まり13章の2節までであると読む者は理解したと思われる。一概に読んでしまう物語の意味をまったく異なってイエスが語ろうとしていたのだね。

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『「・・・大勢の群衆は、喜んでイエスの言葉に耳を傾けていた。

イエスはその教の中で言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、

広場で挨拶されることや、また会堂の上座、宴会の上座を好んでいる。

また、やもめたち家を食い倒し、見栄のために長い祈りをする。彼らはもっと厳しい裁きを受けるであろう。」

イエスは賽銭箱に向かって座り、群衆がその箱に金を投げ入れるのを見ておられた。多くの金持ちは、たくさんの金を投げ入れていた。

ところが、ひとりの貧しいやもめが来て、レプタ二つを入れた。それは一コンドラにあたる。

そこで、イエスは弟子達を呼び寄せて言われた。「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、賽銭箱に投げ入れている人達の中で、誰よりも沢山入れたのだ。

みなのものは有り余る物の中から入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費を全部入れたからである。」(12:37b~44)

イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、ご覧なさい。何という見事な石、何という立派な建物でしょう。イエスは言われた。「あなたは、これらの大きな建物を見ているのか。その石一つでも崩されないまま、他の石の上に残ることもなくなるであろう。」(13:1~2)

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イエスは、勘違いするであろう群衆の前で語ったのでない。弟子達を呼んで彼らに語られたのだ(ここが大切)。当時のその事実を語ったのだ。だから、家庭を壊してまで献金せよと解釈されるイエスの言葉でまったくないのである。(こうなってしまった神殿のありようにイエスは内心、悔しい思いをされていたのではないかともとれる。)

貧しいやもめからむしり取るような、このような神殿のありようやその献金で潤沢に過ごしている神殿祭司らの痛切な批判と共に、このような神殿は破壊されるであろうと語ったのである。

先に述べたが、事実、神殿はAD70年ころに完全にローマ軍により破壊されユダヤ人は離散の民となった。・・・しかし、歴史は神の摂理と言うべきか、これが歴史上イエスの言葉が世界中に宣教されていく土台ともなったのである。・・・


(その2)宗教的人間:深井智明『超越と認識』を読む

2025-04-05 22:18:29 | 日記

 同じ『超越』でもこちらはキリスト教である。先の南直哉(ミナミジンサイ)の『超越と実存』は第17回小林秀雄賞受賞と本の帯に記載されているが、こちらは哲学の中村元賞をもらっていた。著者の深井さんとは、数度、会食したことがあり、退任されているが東洋英和女学院の学長もされていた宗教学者である。僕よりはお若い。

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先の南禅僧の本の帯には、『ブッタから道元まで、その思想的変遷を「恐山の禅僧」が読み解く、仏教史の哲学』とあり、裏面帯には「私がねらうのは、ゴータマ・ブッタに淵源する、私が最もユニークだと思う考え方が、その後の言説においてどのように扱われ、意味づけられ、あるいは変質したかを見通すことである。・・・・「無常」という言葉の衝撃から道元禅師の『正法眼蔵』に出会い、果てに出家した自分の思想的遍歴を総括しようとするものである。』(序章「問の在りか」より) ・・・とある。

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一方深井氏のこちらは、表紙には、「20世紀神学史における神認識の問題」とあり、更に著者の名前と本の表題名のドイツ語が書かれている。表紙の裏面に書かれれている内容は、少し長いが書いてみる。

『神なしに生きかつ考えることがあらゆる人間の日常生活を規定しているだけでなくキリスト教信者の日常さえも規定していうる。」(W.パネンベルグ)超越的な次元を失い世俗的な無神論が自明となった現代において、神学は如何なる見取り図を与えられるべきか? 本著はカール・バルトが『ローマ書注解』を刊行した1919年からユルゲン・モルトマンが『体系』を完成させた1999年まで20世紀神学と捉え、”人間は神や超越の次元を認識得るのか”という命題と取り組んだ時代として描き出す。この時代状況と向き合った数々の言説を整理・分析して三類型を抽出、更にブルンアー、バルト、テリッヒ、バーガー、パネンベルグ、モルトマンの講義を参照しつつ人間学を基礎学とする神学の再構築を新たな可能性として力強く論ずる。』

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ここで人の名前は著名な神学者である。キリスト教神学は、進化、同時に深化していると見るべきか? 南禅僧の方は、『仏教史の哲学』とあり、中に記載の諸々の歴史上の著名な僧侶の持ち得た多面的な時代経過の『悟り』が書かれている。改めて面白い。

いずれ、人の言葉で突き詰める思考過程は『哲学』のジャンルとなる訳だ。神の言葉を考えるキリスト教の原点は、揺るがぬ聖書にあり(それを基に勝手創作した解釈書の方を信じたり、まるきり聖書を創作するのは論外だが)それが原点となり人は、世界はつまり被創造物はいかにあるかと時代による神学者への啓示の開陳といったらいいか。

仏教は、まず人の思考、言論自体の思考過程をもともと否定したきたので、第一に様々な語り継がれた教えはどれがどれかと迷う物があり、だからこそ、道元は、何も大陸から仏教典などは持ち込んでこず、もっとも大事な求道心『只管打坐』を持って帰ったが故に、つまり『実存』自体、思考することなど論外となって、個々人の思惑だけの有り難い教えに留まって居る訳なのだ。仏教は個々人の内面に留まる。

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著者は冒頭に述べる。

『曹洞宗で出家の時、仏教や道元禅師の言説を信じていた訳でも成仏や悟りを正しいと信じていた訳でもなく、それを目指していた訳でもない、と。今も信じていない。絶対に正しいとか、これは「真理」だと信じる気がさらさらない。何を読み、誰に会ってもこれまでも信じなかったし、これからも信じるきこともないだろう。」 と。

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言葉についてとか、現象学(無論、著者は現象学などとは書いていない)に似た思考も著している。いずれ、同じ『超越』を論ずるには、天地創造来からの創造された人についての、否、人も含めた取り巻く自然、経済、科学・・・いづれキリスト教はあらゆるジャンルに及んでいる。人の関わる全てといっていい。

南禅僧の課題。1.死とは何か 2.私が私である根拠はなにか 僕の思いと著者の幼少時の似たような体験とこの根元にある根本課題は類似している。結論から言えば、キリスト教神学の方がダントツに優位にある。仏教者の『超越と実存』とキリスト教宗教学者の『超越と認識』。『実存』はキリスト教では哲学として多く論じられてきた。

哲学はどこまでも言葉で追求する事にあり、実存も言語化して論じているのであるから、煎じ詰めれば、人の『認識』の問題となり、キリスト教はすでにその回答を持っていた、ということになる。南禅僧もキリスト教であれば、壁がおおきくはだかっているだろうが、回答がすでに誰にでも今は開かれていたことを発見したはずだ。

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2025年 今は受難節の中を歩んでいる。今年 イースターは4月20日である。これがもっとも乗り越えるべき壁かもしれない。・・・


(その1)宗教的人間:南 直哉『超越と実存』を読む

2025-04-04 09:20:31 | 日記

 著者は1958年生まれとある。1950年代生まれは、そもそもこういう人が誕生する宇宙に浮かぶ地球時代であったと思われる。こういうことを考えるのは自分だけではないかと書いているが、実は多く存在する時代でもあった。

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『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』 と扉に、『序章 問いの在りか 死と自己』 初めの数ページに彼が、この宗教(仏教)に取りつかれた原因、幼児体験、生い立ちやその過程での様々な問いが書かれている。彼が求める続ける起源はここに書かれている。

煎じ詰めた課題は二つであったと。それは、

『簡単に言うと 1.死とは何か 2.私が私である根拠はなにか 実をいうと、私はこの二つの問題に、およそ記憶を遡り得る限りの昔から、憑りつかれて来た。』とあり、次にその要因として幼少期に病気がちだった経験を述べている。

書かれていことは、僕個人も同じ思いで生きて来たからだ。しかし、専門の寺の住職でもないし、教会の牧師でも司祭でもない。もし、そういう職?についていたら同じように何かを記録として書き遺す時間を費やしていたか・・・?

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宗教的次元の結論から言えば、言葉の宗教と言われるキリスト教の方が先んじている。彼はそもそも宗教ぬきの思考次元にまで到達せんとすれば、つまり『超越次元』の会話をしようとすれば、キリスト教、さらにそれが語っているところの『キリストとは何か』までも網羅して考えるべきであった。僕はそう思う。

その裾野は限りなく広く、すべての学問の起源ともなって来た。それは、神が自分の似姿に創造した『人』にすべての種があるからである。

道元禅師の言葉の言いようであれば、まさに言葉と文字を超えたところにその求めるべき『超越』があるのであるから、さらに世界中の宗教を網羅して、それに人という生き物の思考と行動誘導をめざすべきであった、と思うのである。

『死とはなにか、人とは何か』、そもそもこの『問』が人になかったならば、神の言葉と言われる生きたキリストを命をかけてまでも、例えそれがその時点で錯覚であった、幻想であったとしても、そしてそれが大きな誤解や反発に耐えて、世界に伝えられる大きなうねりにはならなかったであろう。

ここに超越からの我々にあらゆる行動を促す秘密があると思われるのだ。・・・つぎのブロブ(その2)へ続く