本棚から引っ張り出してきた。〔核時代44年(1989年)11月15日初版第一刷:晩聲社〕 東京神学大学を出てハーバード大の神学博士課程まで出ておられ、東北学院大学で、旧統一教会に会われた方々の救済とその教えの反駁に、ご自身の専門から離れても精力的に時間を割かれて活動された方であった。
大学の部屋に伺った事もあったけど、ちょうど作家の遠藤周作が来られるというので、構内をお二人で歩かれているところも見た。背は小柄で、それにしても遠藤は背がすらりと高くて、浅見先生が小さく見えた。
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僕らの時代は、駅前でまずはアンケートから始まり、花を売ったりして活動を始め、その前に借りた家で『原理講論』などという聖書の解説書まがいの勉強をし、食事を出したりするものだから、若者はそれなりの知的雰囲気に飲み込まれ大きな錯覚をする。それなりに非難を受ければそれは神に奉仕しているというような誤解する言葉も、聖書に書かれているから始末に悪い。
さらに人の不幸を見つけては、理屈づけなどをして納得させ、それではこうすれば救われますなどと壺などを売る。
僕の思ったことは、神の言葉は生半可に信じてはいけないぞ、ということだったか。家族を捨てても我に従え、なんていう真の意味を捉えにくい言葉もあるから困ったことだ。
一方それは、歴史上その信仰とやらによって自分の命も掛けた人々がいたわけだから、本物だから真摯に向かわなければ我関せずとしておいた方がいいんだろうと思っていた訳だ。今も多くの人がそうだろうけれど。
しかし、無関心では居られなかった。社会に出てから海外出張でその会社の人や関連世界に触れるほど、神の言葉とやらは歴史を動かしているんだろうなぁ、やはり・・・と思わざるを得なくなった。すべての人自身もを含めた社会仕組み、歴史、科学、それらは西欧に於いて、神の言葉の底辺にして派生してきたものだったからだ。
考えれば当たり前のことで、神が世界を創造したとすれば、人の被造物世界への係わりは神を知ることになるわけだったから。大学の始まり、パリ大学、オックスフォード、ケンブリッジ、ハーバードだって、全ては神学部から始まったのだから。
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①旧統一教会。イエスが「父なるお方はお一人である」と言われたのに対し『聖なる父母様聖会 世界統一平和家庭連合』 などという名称自体が既にOUTである。イエスの言葉に第一に地上の解説書など媒介は本来いらない、牧師の説教もイエスと自己が繋がることの勧めなのである。突き詰めればあらゆる媒体はいらないのだ。『聖霊につながっていなさい』(ヨハネ伝16章)、『絶えず祈りなさい、喜びなさい。感謝しなさい』(テサロニケ5章16~』とある。
②エホバの証人の方は、youtube で誤り間違いの放映が沢山見られるけど、今度は、エホバ教会自身がイエスの福音らしき内容を放映し始めた。『エホバ』の言葉自体が文語訳聖書ではそうなっているが、今は間違いとされる。第一、旧約聖書の十戒に『みだりに私(神ご自身)の名を呼んではいけない。』とあるのに新世界訳では、『主』が全て『エホバ』に書き直されている。これ自身すでにOUTであろう。輸血も禁止してるしね。
三位一体もイースター(復活祭)も信じていないということだ。解説テキストも発行されているが『いつまでも幸せに暮らせます』には、『イエスは全能ではない』と書かれている。全能であろうがあるまいが、その判断はなによるか、が問われるのではないか。
「これは私の愛する子。これに聞け。」と言われた神の言葉に、彼らはイエスは全能ではないと言っている訳だ。(p64) こういう信者がいる限りアメリカは今のアメリカになるのだねぇ。
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いずれ、知的雰囲気には、限界があるのだ。こう言う思弁の言説に限界を感じた『道元禅師』は、そのこと自体を投げ捨てないとこころの安寧は生まれてこないのだと突き詰めたに違いない。
『仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。』(正法眼蔵)
西から来た教えに大陸内部でコンデンスされた創造主の何かにすでに日本から学びに行った僧侶は、人の思弁のその形而上の対象物の『超越』にすでに古くから身につける術を発見したのであろうと思われる。『只管打坐』・・・