marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その27)真理はあなたがたを自由にする!

2025-03-04 14:17:55 | 日記

『自由』という言葉はいつの時代も魅了的なのだが、実は難しい言葉でもある。

人の多様性などといって、実はそれぞれの人のDNA由来の人格も知らなければ、育ちの環境も異なれば伝統や因習も異なる中で、自由という言葉だけが何故か誰でもが共通観念をもったように魅力的で一人歩きする。

その言葉には、自分の肉体から障害として引きずっている、あるいは壁となっているもろもろのバイアスが汚物のようにまとわりついていることから解放されるという意味合いがあるだろう。

会社人はそれは、会社の組織的制度として、そうなのかもしれない。お金を稼ぐために耐えねばならない。どうせ生きているのであるならば、少しは外交体力や意欲がある人は、人生は一度きり、世界を見てみようと旅行をするだろうし、また最後の恋の掛けを行うかもしれない。

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隣のおばさん、旦那に先立たれ、ご高齢になって実のところ清々して老後を過ごしていると話してくれた。お孫さんはいないが、息子さんご夫婦が近所に居られて心配もないということだろう。

環境からまず、旦那という魂をもった人と言う生き物に、若くて愛し合ってそれも人という生き物の普段の人の生き様なのだが、綾小路きみまろではないが、あれから40年、人の一生のおおよその歩みを経てきて、殆ど障害となるものはなく、あるのは残り自分の死という誰しもが超えなければならない障害があるだけなのだろう。

優位性を常に持とうとする人において、自由とは兎に角、障害壁が取りのけられて優位性の肯定が何の障害もなく解放される状態をいうのである。

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宗教的人間

僕は、自分の生き方に於いて、苦しんでいるもう一人が自分の中にいた。それは、何故かなどということは、客観的に自己を見つめるなどということは、だいぶ歳を経てからであって、学生時代は、学部はまったく畑違いの心理学や哲学や、人間科学などという本を分からずともそれなりに読んでいた訳だ。何なんだろう、と。

それは、常に漠然とした不安があったからだ。常にまとわりついている人の”死”についての不安、その理由を探してきた訳だ。中学や高校では自己分裂が起こっていたなぁ。もし、体調自体にそのような変調がなければ、もっと自己実現できたものを・・・と今でも思う。

言葉で意識しなくとも、それだからこそ人はひととして個性をもって生きている、私は、私だと。ところが、同調圧力が強い時代、その中に居合わせれば、私はわたしであるかもしれない。けれども、私がやりたいと思っていることが何故できないのだろうか、と疑問に感じたとき、そもそも自己実現に励む人はそのようなことも思い浮かばないだろうけれど、再び、生きている人の中には僕のような人間が、実は沢山いるのだろうなと思ってしまう。

それでなければ、教訓本などは発行されないだろうし、宗教も発生はしないのだろう。哲学もそのような人の集まりの何かを問う思想などは生ずる事はなかった筈である。さらには、自分の境遇に、あるいは人生に疑問を、さらには人の歴史の政治経済、文化などに思うことは、その思考レンジがだんだん上がっていって、一体、神が居られるならば、人とは一体なにものなのでしょう、という考えも出てきてしまうという訳だ。

実は、この最後の言葉はすでにあのイスラエル人を奴隷だった国エジプトから導き、脱出を諮ったモーセの言葉や、王となったダビデの言葉でもあったのである。数千年前からものすごく高い思考レンジの領域で、神に訴えているのだ。(詩編8篇 ダビデの詩、詩編90篇 モーセの詩)

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イエスの言葉の悪魔に隙を与えるような言葉『自分を捨て、我に従え』の『我』が読み込む側に容易に座席をサタンに席を与えてしまう責任は、読み込む側の我々にあるのである。

『自分の十字架を負って私に従え』とは、『自分の十字架」を知る者(知りつつある者)であって、また、『我(イエス)』は誰かを正しく知っている者(知ろうとする者)に対する言葉なのである。

多くは長生きしても80~90数歳で次の世界に行ってしまう僕ら。共に我らの十字架を担われつつ歩まれるイエス。その十字架は我らのその欠陥(罪)を自らの十字架と共に貼り付けにされて帳消しし一緒に天上に帰還(脱出)しようと願っている方なのである、と真のキリスト者は信じているのだ。

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有名なイエスの言葉 ・・・この言葉には、我々自分の諸々の障害(十字架)をイエスが解消してくださった、という意味が込められている。

『我は、道なり、真理なり、命なり』(ヨハネ14:6)、『真理はあなたがたを自由にする』(ヨハネ8:32) 

我々は、彼において死んだものなのだ。・・・


(その26)狭き門には意味があった?!とても無理、理解不能の彼の言葉の意味は・・・

2025-03-01 22:17:23 | 日記

 初めての方が、魂が引き剥がされるように不快に思わされてしまう彼の言葉をあげておく。この言葉に触れて、もう読めないと思われる方が起こらないために。

何の介在物も入れず聖書を読むこと、を心がけると述べてきた。無論、理解しやすい読む順番はあると思うが。解説書でも、信仰問答でも、学者さんや牧師や司祭さんの著作でも、そう・・・、優先すべき順番は、自分の思いの中に読んで何のことと疑問が出てきてそれから彼に問うという順番。

彼に聞け、聖霊は教えてくれるであろう、と書かれているではないか。

よって、もう沢山ありすぎるほど本はあるが、疑問の参考程度に、次にそれを読むことを心がけるという順番。何であれ介在物(指導書など)が優先されている宗教には気をつけなければいけない。

『聖書の疑問は聖書に問う、聖書にその答えを探す。』と、このことは間違いではないが、先に述べた団体のように、勝手に解釈の翻訳自体が間違っていれば、これは完全にカルト。

イエスの深い意味の言葉も、決して自分を見失う言葉ではない。この不快な疑問の言葉も。むしろその逆で、ピュアな本来の自己に出会い、発見し、潔めつつ人生を歩むことに他ならないことが理解されるであろう。後のパウロは自己省察でこのことの意味合いを、イエスと自分の係わりとして手紙に書いたものだと思われる。

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イエスの聖書のもっとも大切な教えとして『神を第一に愛し、第ニは。自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。』と述べた、その後半の『愛する自分』(真の自分)となることである。

真の自分とは、地上での他者との肉体なつながり(親や子、伴侶者)あるいは、身体肉体成長に関わる古来からの風習(いわれ)や伝統に、我らの霊魂は何らかの影響を受けて生きているものであるから、次の世界に純粋で潔められた自分で帰還するために、全ての自己の不純物を捨てて(自分に死んで)私(イエス)に従いなさい、つまり肉体にまとわりつく霊的障害をもたらす肉を十字架で完全に消滅させる私(イエス)従いなさい、と述べた言葉なのである。これが僕の解釈である。

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それで、イエスが述べた不可解な言葉とは、もろもろイエスが語る、全部捨てて私に従いなさい、というその言葉。

その恐れの原因は、今までの自分らの生涯にまとわりつく、自己を阻害している気がつかぬ雑音~来るものなのであって、実はまったく本来のピュアーなる本当の自分になる言葉のなのであって、誰でもが今生に於いて自分の生において彼、イエスと対話する今生における常なる緊張をもたらす会話の始まりの前振りとなっているのである。。

阻害するあなたの罪を私は担うから、来なさい、と。

新約のパウロの手紙には、我々は彼にあって、自分の肉において死んだのである、と時折見られる彼の言葉はこのことを言っているのである。

天地創造来、隠され彼を信じた者には開示されるその秘儀とは、この霊的に全うした実態として次の永遠の世界への招かれるのである。・・・


(その25)狭き門、結局は人間の『質』なのか!?

2025-02-26 15:17:57 | 日記

 今の僕らに大切なことは、第一に『知りたいという願い』だった。そして『その意味を考えること』だった。

この自らの内面の『語り』は祈りに通ずるものだった。それを、異邦人ではない彼らの歴史に学ぶこと。この思いは、今のこの世界にも続いているものである。神が彼らを導くストーリーはまさに現在も明らかになりつつある。

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イエスの来られた意味は、まさに『自分の根』はどこにあるか、を自問自答させるものだった。これには深い意味がありそうだ。そして、すべてのしがらみから離れよと語り続ける。古来からの謂れも、父、母、すべの親族からのしがらみをも離れて我に従えと言われる。

これは事実、親族を捨てるなど、その通りにすればいいということではない。そのあとの文が主眼だ。わたしに従いなさい、と。今、彼は見えないではないか。司祭や牧師になれということか。そう思い、慕う人は幸いである。

・・・従うにも彼の時代で2000年以上も前に姿を消されている。見えなくなるが、『聖霊』を送るという。それに聴け!と。『その意味を考えること』の回答が得られるだろうと。

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あなたの思い通りにならない人生があるとすれば、肉体と思考とのずれがあるとすれば、それは何か。そのことを考えよ。誰も親を選べないように、皆が大谷翔平のようにはなれないのであるから。

DNA的不完全、思い通りではない自分の身体、気づく、気づかぬにに関わらずそれぞれの人生の宿題を背負って生きている。人生一度きりで、ひと瞬きの人生に比べ、そこに苦難があり解決策を見出さんとすれば、私に来なさいと彼は言う。

その苦難は私に会うための苦難だった。人はすべて体験しなければ自分のこととして真摯に考えないものであるから。イスラエルの歴史はそうだったのではないか。

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イエスの冷たいともとれる言葉の意味を我々は深く考えて診なければいけない。人権や人格や、民主主義などの考えもそうだ。イエスの冷たい言葉を吐いた物語こそ、いつも我らが考えなければならない話なのである。人の神の思いの獲得という錯覚は、必ず生ぬるく怠慢にする。

世界は広がり、地球の出来事が周知されてきた世界になったのだから。真にあなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。しかし、峻別があることを知れ!

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『わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにとってふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである』(マタイ10:37-39)・・・


(その24)宗教的人間<その1>

2025-02-25 16:13:37 | 日記

 聖書の言葉を読んでいただくには、沸き起こる障害を実に個人として突破してほしいと思っているのですが、これを肯定するにも上から目線になってしまうし、あれこれと関連ごとを書き連ねると知識をひけらかしているようにも考えられてしまう。

知識を得て、都合よくつじつまがあえば、一段、あるいは数段、思考レベルがあがったような思いにさせられるので、人という生き物は、如何とも仕方がないものです。

どうにかこの国と言わず、第一に求める心を人々に起こしてくれれば、生きたもう神は、必ずやその意味を与えてくださるであろう。しかし、あまりリキんで背後に神の言葉を知ったからと言って都合よく、解釈すればとんでもない方向へ行ってしまうと思う。

昨年は、仏教(〇田〇作も非難される宗派)やキリスト教の方が何度か来会された。自宅に! 特にお二人で、訓練の為か、割り当てがあるらしいが定期的に何度も回って来た。僕が教会に行ってますと当初から話したにも拘わらず・・・。

 

宣教に熱心なのはいいけれど、彼らはもう来ることはないだろうというのは、次のことを話したからである。第一にyoutube では『〇ホ〇の証人』は間違いですよ、と多く語られていますね。どこが間違いかは見られたらどうでしょう。

いただいたテキストには、イエスは全能ではない(p64)と書かれていますね。従って、三位一体は間違いであるとも言われている。文字としてはそうでしょう、イエスご自身が私の父と言われてますから。しかし、『わたしを見たのは父を見たのだ』と言われたのは、もっと深い意味があると思いますよ。

これでは、新約聖書の弟子たちの願いはすべて否定されてしまいます。良し悪しではなく、そう判断したのは誰か、その判断基準はなにか が問われますね。介在物を入れ込むと更に判断材料が入り込み、雑音が入り込むのです。最終問われるのは、聖書(自分たちの)にはこう書いてあるから、ではなく『あなたはわたしをどう思うのか』と問われるのです。

独自の『新世界訳聖書』の内容は都合のいい解釈です。長年に渡り原典ギリシャ語に極力同期するように努力してきた世界の神学者らの努力と願いが、まったく無駄となり、きわめて危険と言えるものです。(・・・ここまでキツイこと言いませんでしたが)

テキストは細かに解説しすぎ、人の言葉の介在なしに(人から与えられるものではなく)自分の言葉で読むことです。それから、正当な教会へいくことです。しかし、実在したイエスではなくエホバ(文語訳ではあるが、これは今は訂正されているもので間違いです)では、会話がそもそもできないですね。

以上のように、読み、判断する『自分とはどういうの人間か』(イエス自身が言われる『自分の根』)を考えることなしに知識だけの満足とすれば非常に危ない。『十字架』でなく『杭』であったとしているのは、なんというか??

人という者は、背後に神を背負った知識をもつと如何ともし難く、しかも、世においては苦難がある、とそれ、又、神が背後で激励しているとすれば・・・「自分を捨てて我に従え」という言葉も分かるというものである。・・・が、彼らはイエスは全能ではない、としているのだった(p64)・・・宗教は真摯に追求しないと本当に大変な事態になるものです。・・・


(その23)必ず結局死ぬんだから、すべての人に読んで自分の物にしたい世界のベストセラー

2025-02-24 13:09:58 | 日記

世界の言葉に訳されている新約聖書

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言葉の宗教と言われるキリスト教は、それだけにそれなりに言葉を習得した気持ちになると、無論、生き物としての思考のレベル、レンジが数段アップするので(そういう気持ちにさせられるので)、何故か偉くなった気分にさせられるのか、ましてや背後に神など背負えば、怖い物なし、などという気持ちになってしまう。

カルトが実に危険というのはこのことだ。本来、『無』(言葉や文字以上のもの)を思想する僕ら国民の宗教性(西欧のように人の言葉=哲学で考え抜いてみようとして来た歴史にない国民の宗教性)に外来の真摯では宗教掌握ごとが入り込むと、ききとして物知り状態、我が物なりになってしまう。

<『○ホ○の証人』のお二人が、それ訓練なのか義務なのか、一応丁重にお話していると、キリスト者である事を表明しているのにも関わらず昨年から五度も訪問して来た。最後にきちんとお話したのでもう来ないと思うけどねぇ。これも時代が迫っているのかなぁ。>

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しかし、人間に対しては、その言動など全てお見通しで、それが旧約の切った貼ったの物語に書かれているし、さらにはその完全や不完全、天使や悪魔の事まで書かれているという内容だ。最後はこうだ。『私(神)は生きて、働いているんだよ。古来から、今も、将来も!』旧約は歴史をとおして、神は世界の人々よ、彼らの深刻な歴史に学べであるし、新約は、『人よイエスを通して彼に学べ!』ということなのである。

そもそも、何故に人が読んですぐ分かりやすくはなく、人の世界に闘いが起こったり、正義が我々の人と思うものとは全く同じではないようだ、ということやご都合主義で前後書かれているのではないかとか、その長期にわたる(PCがない時代にこれも何故か不思議なのだが)その話が、天地創造来から今このときも続いている(信仰者はそう理解している)のだということを語っているのだと。

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ちなみに旧約のヨブ記などを読むと何が正しいのかわからない。つまり、一時的に人の先入力ともよべる善良な意識を持ってよむと、つまるところ全ては、良くも悪しくもひとの人生のドラマであれ、これは全て世界と地上を見ておられる唯一の神様が居られて、私を認め信じなさい、と言われて居ることが、地上の短い人生での『幸』なのだと宣うているということになる。

それは、人生において幸せという意味だけでなく、死後も永遠の命に招かれていることである、と。更には、苦難を与えてまでも知らしめんとされるということだなぁ。神の演出のドラマには、いろいろな配役が必要でだれ一人欠けることを望んではおられないということ。演出者には、個人の出番が終われば(つまり人生を終えると、ご苦労さんといって)永遠の命への祝会の地上劇の打ち上げ式が行われ、同時にその招待状が与えられるという訳だ。

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それで、普段の「ひと」が早わかりで、旧約聖書には何が書いてあるのか知りたい場合、使徒言行録第7章のステファノがとりまとめて同胞に語った物語になっているので読まれることをお薦めする。そしてこれが、イエスの時代になり詰まるところ、それがイエスが地上に生まれ、十字架に死なれた理由でもあったのだが、結局、異邦人の僕ら、命ある全ての者が永遠の命への招待状を受け取るに何が必要かを語っているのが、ヘブル人への手紙第11章なのです。・・・