肉においてどんなに頑張っても優秀とはなれない僕らは、それでも生きている・・・神の霊を受けて ですから安心しなさい。人であることは神の霊が吹き込まれどんな状況であっても神は人を愛されて、永遠の世界に導かんといつもいつも声をかけておられるのである・・・と。この件に関しては、何も恐れることはないのだ・・・と。
◆新訳聖書の中で最も多く手紙が残されている使徒パウロは、コリントという町の信徒へ手紙を書いた。コリントの教会はパウロによってたてられた教会で、たいそう遊興娯楽の町だった(今でも辞典でコリントゲームと調べるとピンボール、今のパチンコのはしりがでてくるくらいだから)。パウロが旅立った後、すでにさまざまな問題が生じていたので、それを知ったパウロがエペソという町から書簡を送ったのがコリント前書。その中の数節を紹介。
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兄弟たち、あなた方が召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、、神は知恵のある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにする為です。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 1:26~29)
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◆今の僕の解釈するところは、つまりイエスが地上に立たれたこと、その意味を理解するであろう人は、この地上の肉による優位などには全く関係がない次元の事なのであるということだ。肉において優秀な方は、その能力を発揮されて人々を豊かにするかもしれないし、逆に戦争を起こし悲惨な方向に導くかも知れない。
ここで言わんとすることは、最終僕らに魂があり、霊が出入りしているとすれば、僕らは違った次元でイエスが神の世界(同時にあるが別次元での)を、現存する世界の中に見えておられたということを知らなくてはならないだろうということだ。だから、肉における人は、神の霊につながっていなければいけない(心の安寧は得られない)ということ。誰しもが神様という概念は持つけれど、それは何かと言うことをしっかりと理解しないといけないということだ。
◆それであれば、イエス・キリストでなくてもいいだろう・・・ということにはならないのである。彼は、十字架に掛かりすべての肉における”しがらみ”を断ち切ったからだ。何もこれは、日和見ではない。ここに人の宗教ということのしがらみ(情的思い込みと言おうか、朽ちていく肉体にべっとりまとわりついたしがらみ)があるのである。だから、次のイエスの言葉の意味をもそこから理解されよ。肉的次元から捉えれば非常に厳しい内容も、霊的な次元からの言葉なのだと理解されよ。これを理解しない限り、この言葉は自分には関係ないとして捨て鉢になり無視されることばとなるだろうから。
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イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では、永遠の命を受ける。・・・」(マルコによる福音書10:29~30)
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◆新訳聖書の中で最も多く手紙が残されている使徒パウロは、コリントという町の信徒へ手紙を書いた。コリントの教会はパウロによってたてられた教会で、たいそう遊興娯楽の町だった(今でも辞典でコリントゲームと調べるとピンボール、今のパチンコのはしりがでてくるくらいだから)。パウロが旅立った後、すでにさまざまな問題が生じていたので、それを知ったパウロがエペソという町から書簡を送ったのがコリント前書。その中の数節を紹介。
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兄弟たち、あなた方が召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、、神は知恵のある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにする為です。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 1:26~29)
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◆今の僕の解釈するところは、つまりイエスが地上に立たれたこと、その意味を理解するであろう人は、この地上の肉による優位などには全く関係がない次元の事なのであるということだ。肉において優秀な方は、その能力を発揮されて人々を豊かにするかもしれないし、逆に戦争を起こし悲惨な方向に導くかも知れない。
ここで言わんとすることは、最終僕らに魂があり、霊が出入りしているとすれば、僕らは違った次元でイエスが神の世界(同時にあるが別次元での)を、現存する世界の中に見えておられたということを知らなくてはならないだろうということだ。だから、肉における人は、神の霊につながっていなければいけない(心の安寧は得られない)ということ。誰しもが神様という概念は持つけれど、それは何かと言うことをしっかりと理解しないといけないということだ。
◆それであれば、イエス・キリストでなくてもいいだろう・・・ということにはならないのである。彼は、十字架に掛かりすべての肉における”しがらみ”を断ち切ったからだ。何もこれは、日和見ではない。ここに人の宗教ということのしがらみ(情的思い込みと言おうか、朽ちていく肉体にべっとりまとわりついたしがらみ)があるのである。だから、次のイエスの言葉の意味をもそこから理解されよ。肉的次元から捉えれば非常に厳しい内容も、霊的な次元からの言葉なのだと理解されよ。これを理解しない限り、この言葉は自分には関係ないとして捨て鉢になり無視されることばとなるだろうから。
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イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では、永遠の命を受ける。・・・」(マルコによる福音書10:29~30)
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