marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

☕寒くなってきたなぁ(その4)

2021-11-30 09:09:09 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

科学と書いたのは、それが物的なモノとして経済と結び付けば身を持って体験できるという意味合いであって政治、経済にも個人的に体験できるということ、さらに憶測ができるということにおいてである。大手企業にいれば、政治動向もすぐさま地方にもその一端が反映されてきて、例えば、小泉政権時代、人材派遣会社からの人々が急に僕の組織にも入ってきて、そこでも国の方針とやらが身近に感じ、これからは年功序列ではなく会社の組織も、ピラミッド式の細かな階層ではなく、鍋蓋式の組織たる、つまり、途中の高い人件費は不要、高い儲けを出すという仕組みに変わって来ていることは身近に感じたものだった。無論、下請に抵触しない程度で、契約によりいつでも切れるようにしておく、よって、地方では安い人件費で、文句も言わない労組にしておくのだったが、いろいろ関わったが、成長と分配などということは、内容的に社会主義自由民主党などという方向に実質いかないとうまくいかないだろうが、大企業がどれだけ被雇用者と妥協するかにありそうだ。「キリスト教と社会思想」という本もおもしろくて、この手の本はいくらでもあるが、発行は古くても語ることはいつも今なお新しい。この手のものは歴史が現代を形つくって来ているので今でもいろいろ教えられる。なぜなら、無神論者と言え、宗教的でない人などいないからだな。神学用語がISOなどの標準に見られるようになっている。人の営みの気が付かないが通奏低音ごとき精神性がキリスト教には流れているから・・・哲学者ヘーゲルの「精神現象学」がひととおり、区切りをつけたように見えたんだけれど。電気メーカーの盛衰もなぜに起こりえるかなどは、一つところからの綻びから見えて来るものであることは、皆さんが購入するところの製品の故障一つの対応からも推測できうることでもあると思う。日本製は故障率が少なかったが、海外で生産、または一部、または部品生産したものを作るものだから、どの部品がおかしいなどということが推測でき、また○○製かなどと、値段の安価なものは、何年使用に耐えば元でをとったか、という思いで購入するだろう。あらゆるものが、費用投資対効果で耐久消費材も元手をとってなんぼの世界になっていくだろうな。結局、冷静に考えればSDG’sなんていっても、贅沢しないでお金をかけるなら長期的に見てインプット(投資)に対して、アウトプット(効果)で最も効率のいい、しかもそれが持続する生活をすることを心がける、ということになっていくのだろうか。効率の悪い人は淘汰されていくという方向に結局行ってしまうんではなかろうか・・・。


☕寒くなってきたなぁ(その3)

2021-11-29 09:03:24 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

▶ 僕は、本に線を引いてしまうのでbook-offなどには、ほとんどが売れない。というより、歳をとったら読もうとしていたものが多いので、時代的に古いのだが、古くても読めるようなものというのは、結局のところ一般的にはおもしろくないものだろうから、高くは売れないだろうな。古くなっても読めるものというか、むしろ、また偉そうに一段階層をあげて、人というか人類というか、頭脳を持ち言葉を持ち、考えというものが何らかの仕方で残されてきた。それにしても残されないあまりの多くの言葉があったわけだから、僕にはそういう人は生きて、愛して、喜んで、悲しんで、そして病んで地上の生涯をおくる。数をきれないあまりの多くの人々が・・・。どうも僕は生まれつき感傷的だ。

▶そういう視点からみれば古い書物でも、読む価値があるだろう。無論、今の時代の僕の視点を見失うことなく読まねばならないのであって、特に物的検証ができる科学というもの以外のジャンルはくせもので(これについては後々書く)、そういう意味で仕事で、この日本の国で特に世界の国々とのサプライチェーンなどと言われはじめ、隣国に技術流出が起こり、さらに人材派遣なども盛んに流用はじめた時期にモノ作りに従事できたことは、本当に感謝な人生経験をさせられたなと思っている。

▶寒くなってきたぁ。体も動かさんといかんし、ボケないためにもこうして気づいたことは、ブログに残そうとタイプを叩こうと思っている日々である。・・・

 


☕寒くなって来たなぁ(その2)

2021-11-28 21:00:00 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

◆柄谷のその中に志賀直哉の「城崎にて」の例のあの蜂が屋根で死んでいて、生きた蜂との対比で書かれた部分があって、この箇所は有名なのだろうか、柄谷がこの部分の評価している記事を引用していたのを見つけたからなのである。これが、高校時代の国語の教科書に載ってその説明をしてくれた当時の教師の名前や口調までしっかり覚えている。柄谷行人の『意味という病』に結論ごときも志賀直哉は幼児性と「気分」が主体で書かれているとバッサリなのである。当時だったか、某評論家が志賀直哉は小説の神様である、などと言われて何で小説の神様なのかよく解らなかったな。僕は、作品そのものより、どうして作家はその物語を書いたのかとか、その心理状態を知りたくなる方なので、柄谷の志賀直哉の作品を評価しているのを読んで、やはりなぁ、と府に落ちたのであった。◆そのことより、なぜ、当時裏日本と言われた鄙びたあの保養地である温泉に城崎という著名な温泉があるのか、そしてわざわざ出かけるのかが気になっていた。当時作家というのは、題材を求めて川端康成も「雪国」にでかけたり、伊豆の温泉にでかけたり、信州の山の温泉街にあちこちの出掛けたりしていたのである。江戸時代、今の名の知れた著名な温泉街は性病(梅毒)を直すために出掛けていたのだ本当は。抗生物質のなかったあの時代、衛生も病理も無知な時代、欲求だけはあるものだから、直すのも必死なのだが、保養も兼ねれば長生きにも心の安寧にもいいだろうと旅が始まった。無論、志賀直哉はそれでななくて事故って怪我の療養のためだったと記憶しているが。貝原益軒の「養生訓」なるもあるけれど彼は一月後あたりに、この悪い病気で亡くなったのであった。・・・


☕寒くなって来たなぁ(その1)

2021-11-27 21:35:23 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

◆ここ数日、本の整理をしていると昔を懐かしむ本が目にとまると読みはじめてぜんぜん片付かない。頭に残って何らかのblogに書いた元本は、昔読んだこの本からだったのかなどと、少し埃まみれになった本の塵を払って読みはじめると、いろいろなことが思い出されてとまらない。ジャンルがいろいろあって、しかし、似たようなものがあちこち部屋に分散しているものだから、まとめて部屋を動き回っている。詰まるところ面倒になってそのままになる。それにしてもと、第一にハードカバーで随分、丁重な作り方をしていたものなのだな、と感心しながら黄ばんだページをめくりだす。勁草書房の「崩壊からの創造」なる装丁が布のたいそう立派な本も、これは評論家江藤淳の大江健三郎おの評論もこれに書いてあったものだったかな、とか河出書房新社の「意味という病」柄谷行人の本もはじめて買った本だった、題名に引き寄せられて。学生時代の暗い自分を思い出すなぁ。◆読んでわかったのかといえば、こういう評論家の本というのは、当たり前のことだが、その評論している内容の本を自分も先に読んでいなければ、何をかいわんやである。で、僕は文系ではなかったので高校時代読んでいたものといえば、五木寛之や大江健三郎の初期の著作くらいで、まともに読んだとも言えないが高校の国語くらいだったな。五木寛之といえば、青春は荒野をめざす、青ざめた馬を見よ、ソフィアの秋などなど初期のもの   人生の悲哀を感じたな。五木寛之さんも歳を重ね、百寺巡礼し、最近は親鸞さんについ書きまくっておられる。


世界のベストセラーを読む(935回)真理とは何か?(その2)

2021-11-26 06:00:00 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

▶先回の回答は、誰かと言えば、浄土をパラダイスと同じと考えるとそれはイエス・キリストが聖書にそう述べているのである。「我は、道なり、真理なり、命なり」と。個人の信仰がどうのこうのというややこしい話の以前に実際にそう書いているのだ、という事実。本屋に行って立ち読みすれば書かれている実にこの信仰というのが第一に曲者なのだが、なぜかといえば、アルカイダもISのイスラム教徒もヒンズー教徒も仏教徒もキリスト教徒も・・・多々、多数があるからなのだが、ここで述べたのは、その回答を文字で今も巷で読めるというそもそものご本人が聖書に言った、とはっきりのべて文字に残されているという事実なのだ。ここから、地上の少しく目が開かれつつある人が、自分の言葉でその事実を本当か、と捜す本来の学問の歴史が始まったと考えられる。▶天地創造の神がおられ、今もその終末も含めた創造の御業が進んでいるとされるのであるなら、「神に創造されし人とは何なのか」という考察は、あらゆることがらに及んでいるだろう。亡くなられた知の巨人と言われた立花隆さんは、ご両親が無教会主義のキリスト者だったという。さもありなん、人とは何なのか、神の似姿に創造されし、それは「神の像」imago Deiと言われる、まんまそれなら人という生き物に関するあらゆる事を知ろうとすれば、神を知ることに近ずくと考えられるではないか、というお考えのもとが原動力になっているかはどうかだが、それであれば、地上のあらゆることが学びの対象となるだろうと。▶とすれば実のところ、僕らが学校で学ぶ勉強というものは、究極そこに行きつくだろう。地上の人に与えし、神のあらゆる業について・・・。ミクロからマクロ、原子素粒子から、宇宙の果てまで、あるいは、人の群れの継時的な成立ちりの歴史、そのひとつひとつが、神の法則の開示と舞台の上での啓示であって、神は時代により人へその意味を漸時開示をされてきたのだという訳だ。そして歴史の切った貼ったの人類の歴史の中で、その方との会話をし言葉を獲得した人は、漸次思考レベルが上昇し、過去から現在、未来までの自分達人類のありようをドローンで見渡すように俯瞰できるようになったという訳である。そして、今や自分達、人をも作ろうとし始めているのである。▶”われわれは、どこへ行くのか?” その答えも書かれているのである、と。我らが読んで不明だとするのはただ、霊的レベルが低いからなのだろうが、今生きている遣わされた上からの霊、聖霊が教えてくれるというのである。「求めよ、さらば与えられん。探せよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。」我々がその問いかけに応えようとする時、その個人に答えが開示されてくるのである、という。これは、体験者しか分からないことなのかもしれないが。そいう進化の途上に我々は存在すると考えられる。