『義人はいない。ひとりもいない。』 これはキリスト教の筆頭の使徒となったパウロの言葉である。
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マルクスもユダヤ人で親父さんは司祭(ラビ)の資格もあったようだが、キリスト教と共産的な考えは弱者救済と言うように見えることから、非常に近い面も持っているが、『宗教はアヘンである』と彼が宣言したごとく、考えからその結果系はまるで真逆。彼が『共産党宣言』など発案せざるを得なかった理由は、無論、時代の要求とそれに反応する彼のもって生まれた性格が、その時代に発露したもの。
いずれも、『人類の解放、自由を与える』ように見える内容の文面は、キリスト教では、人の限界(罪)の解消が行わねば、決して人という生き物は自由になることはできないとして、「<真理>はあなた方を自由にする」と語る。信者は、思考傾向に共産的主義な考えをされる方が多いのではないかなぁ。しかし、マルクスの言った共産主義的な思考とは、真逆である。
キリスト教でのその自由とは「我は道なり、真理なり、命なり」とイエスが語った、罪の解消をされたその方を信ずるところから始まるのであって、なぜなら彼の言葉からは、ご自身が『<真理>である』と言われているからねぇ。
物証的に再現ができる科学の事象で言われる真理ではなく、また、それは対象が外的な対象物があるものではなくして、有機的なしかも目には見えない、生きた個々人の内なる自己の内の語りかけから、会話が始まる自由である。
理屈からその自由を得たいと望まれる人は、なぜ、救い主と言われた男が十字架にかかり死なねばならなかったか、の理由をしっかり理解するという壁が大きな障害となるようだが。ここで理屈から求めようとする人には、自己省察が必要となるようだ。
あるいは、人生の試練の中で、あるいはすべての取り囲む、降りかかる不条理にたいして、疑問を投げかける、格闘するという内的行為が生じてくる。誰に対して? 神に対してである。無論、そうでなく生まれつきそういう障害ともならないで素直に信じられる方々も多く居られる。しかし、そこには、鳩のようにすなおに、蛇のように聡くとして内的戦いは、日々ある人々である。戦う事象は、自らの中もにあると。
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さて、そういう意味で、目に見える物的事象に対する共産主義的な考え、マルクスの語る『共産党宣言』とは(実は、『資本論』はこれよりずうと後に書かれたものである)、人の歴史は階級闘争の歴史であるとするところから既に自己矛盾に陥っている文面であるように思われた。当初からこれは、思考する「人」そのものが、そもそもどういう生き物かという視点が、まったく欠落していると。
動物としての生き様に、闘争思考は種族繁栄の古い脳に関する事柄であり、その思考を外部の対象として人を取り巻くあらゆる障害を取り除かんとするラジカルな(つまり革命と言われる物だろうが)思考であって、そもそもそういう考えは、その目的の為には犠牲をいとわないというのだが、おい、それでは貧民を救うという崇高なる考えはどうなるの?(犠牲になるのは常に彼らなのだから)という自己矛盾が起こっている訳だ。僕にはそうとれる。
というわけで、当時の産業革命時代の大変な労働条件の時代を反映し人の自己肯定の自己救済的意味合いで、時代を覆さなければ、全人類の解放はないと考えるわけだが、この文面が既に自己矛盾のように思われてしかたがなかった。
無論、今でも彼が活動したイギリスでは、労働党があるという貢献があるが、資本が取り巻くその<ひずみ>を大いに予見してその是正をなし、行動を促す考えを求めた膨大な研究ノートとは(レーニンにも『哲学ノート』なるものが岩波文庫にある)、結局のところ文字になったものというのは、既にその所点で過去のものなのであるし、かなり限定されたものである上に、読書とは人の頭で考えているだけ(確か、皮肉やのショーペンハウエルだったか)の目録のような、まぁ、そんな内容にしかならんだろうと。
『自由』とは、そもそも思考の対象に障害はないというところに発生するものではないのか、と思っていたからね。動物としての自己肯定感を助長しようとする欲求思考を、当時の(あるいは将来の)労働を強いている資本家に向けて闘争をおこし、その暁に開放があるというのは、『人という生き物』を考えた時、どうもしっくりいかない。
その目的が到達したら、また、闘争の対象を探すだろうと、常に反対!と。しかも具体的ではなく、総括的な上から目線で来ると、それが理論武装だなどと言われるのだろうが、そこにそもそも人の側からの『自由解放』などはないだろうと、そう、思わないかぃ。
部分的な改善としての反対は必要だろうけれど、体制までひっくり返せというのは、反対する対象がなくなるだろう、したがって、全人類の解放などということは自己矛盾に落ちいっているなぁ。
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ここでキリスト教においても信者が増えないと嘆くのは、その対象たる事象『キリスト』が同様に自由の邪魔をする障害として掲げられているのではないかと誰しもが、思うのではないだろうか。啓示によって素直に信じられる方は、幸いなのだろうけれど、多くの理屈からキリストを信ずることの理由を知りたいと思う人は、やはり聖書を学ばないといかんだろうということになる。キリスト教は常に自分の言葉を要求するのであるから。
僕はこちらを押しているものではある。自分の言葉を要求される者であるから、実のところ、良い意味での「自転車操業」である。
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さて、地上のあらゆる生業の主人公たるどんな人でも神様の目からは罪があるということ。無論、宗教家でも、思想哲学者でも、政治家でも、巷のその辺の誰それでも、例外なく、つまりすべての生きとし生けるものがである。
神が人を自分の似姿に創造し、しかし、罪を犯して神から離れてしまったこと。罪は「的外れ」と言われる。神の生き方の筋書きから遠く離れて永遠の命に戻れなくなってしまったこと。その是正に人を創造した神は、その罪を解消すべく身代わりとしてイエスという方を送ってくれたということ。
その救済に神は独り子を地上に送り、自分の誕生とその理由を信じる者のために、身代わりとなってその者の罪の解消を行ったこと。天地創造から未来の預言と呼ばれることまで書かれている『聖書』が述べていることの中心はそのことだけであり、その彼をひとりでも多くのそうであると信ずるひとを起こすことである、とする。
万物を創造し、人もその中に存在しているのだから我らは逃げ場がないということだ。実に世界の人々が、彼の信者が過去に無数に語ってきたその言葉・・・アーメン(確かにその通りです)という言葉。
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実家の僕の本棚にあった『人間にとっての遺伝と環境』という本は、講談社の昭和53年1月31日の初版である。医学研究振興財団が1978年に刊行とある。初版だし、古本でもないのでずいぶん、時代から前からこの手の傾向に興味があったのだなぁ。
生物である一つの種である人間は、人間に特有な遺伝子を祖先から受け継ぎ、かつ、一定の遺伝的個体差を保有している。特有の遺伝的要因を受け継いだ個人は、その時代の生物学的、文化的環境の中で発育し、病み、そして子孫に遺伝子を伝えていく。
このような遺伝と環境とのかかわりあいについて、医学者のみならず、他の自然科学、人文科学などの分野の指導的な方々の参加をもとめ、多角的に幅広い視点からのアプローチをも試みた論文集である。
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工学系の専攻だったのだが、自分の事で悩んでいたのか、若者の思い込みにありがちな人類のこれからなどに悩んでいたのか、人とは何なんだという、諸々が無論、自己の脳の前頭葉や身体の脆弱さがその根にあったのだけれども、それも含めとにかく知りたいと同類の本が結構、本棚にある。
同じく人が造られて、どうして性格や個性、それから人類の環境(文化)、伝統の相違で、こうも人類の多様性があり、文化も異なり、伝統や歴史があるということ。それは、昔、言葉はひとつだったが、人が高慢になったために言葉を乱して、ひとびとを神は世界に散らばせられた。
実家の本棚にはきちんと読みもしなかった本があったが、仕事には殆ど関係のないこれらの類の本があり、科学の進歩により内容は多少古くなっても、時間ができて面白く読んでいるというわけだ。昔から、自分の不出来も含め「人」のことは今も感心があるわけ。
環境や遺伝などというのは、人の種が存続する限り、自分という人の欠陥も理解するにつれ、漸次ネットなどで知ろうと思えば周知されて来ているもなのだろうが、多くの人は、内容が真実としても自己否定的な自分をあらわに認識させられる事実は、知りたくもない内容ではあるだろう。
ただ、終活に向かうにつれて、肉体の老化は誰にとっても必然のことであるから、死に際にばたばたしないように少なくとも判明していることでけでも知っておきたいと願っている訳である。それで改めて読み直している訳なのだが。
若い頃の多数の疑問は、自分という人も巻き込んでいる大きくは神が自分の似姿に創造した人はいかなるものか、ということを追及すれば、逆に神をも知ることができるであろうことをしつこい様に考えてきたのである。
つまり、人の神が救って下さり、次の世界で永遠に生きるとされ、罪の自覚と言われるものは、考えつまるところ、自分の身体がもろもろの自分には抜きがたく如何ともできないこの既にある肉体の欠陥にある、という自覚である。
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脳の発達と子供のからだ、などから、その土台がこうならば、大人になってもこうだろうと、思わされるが、小難しい思想や哲学、政治学などと取り組んでも、歴史に名の知れたそれらの彼らは、神の目から見れば罪ある人がその土台にエクセントリックなものを抱えていたということなのだね、結局。
どのような書物であれ、書いた者の動機は、時代、環境、それらのものが影響をあたえていないということはありえない。文字は書かれた時点から、それは既に過去のものになっていくということだ。
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斉藤幸平の著作も若くして猛烈にマルクスは勉強し、ひいき目に彼を評価して、膨大な量の研究ノートを網羅してその中に、まさに現代のエコロジーを予感する興味を示している、理論が必要だからマルクスに帰れ!となるわけで、このような特化した若者には、新しい世の中を動かす思考が排出か、とエクセントリックな思考には、賞が与えられるものなのである。
************ 人の遺伝的罪というものについて、キリスト教については神学的にあの神が創造されたと言われ、神から離れてしまったアダム以来ものなのであると言われるが・・・。
最後に、僕の住む地方出版社から精神科医の見解を述べて終わりにしたい。
****マルクスが書いたギムナジウムの卒論に対して、当時のヴィッテンバッハ校長は「思想の豊富さと材料の配置の巧みさは認めるが、著者はまた異常な隠喩的表現を誇張して無理に使用するという、いつもの誤りに陥っている。そのため作品全体は必要な明瞭さを欠き、時として正確さにも欠けている。これは個々の表現についても全体の構成についても言える」という厳しい評価を下している。・・・青年期前期(17歳頃)において、その人のもつ性格は表面化する。資質や可能性のすべてが判明する訳ではないにせよ、基本的な傾向は露わになることが多い。
精神科医として40年以上、人々の臨床的観察を続けてきた私には、そのような原則を無視して、作者の性格基盤抜きに安易な思想評価をする評論家達の姿勢が正しいとは思えない。殆どの場合、ある思想の基本傾向は、その人の基本性格から生み出されるものである。この視点がなければ、思想はその根源に置いて正しく理解されないし、本来の意味が曲解される。・・・校長の評価は『共産党宣言』への批評とみても、実によく言い当てている。マルクス及びその主張であるマルクス主義の基本属性をも、見事に言い当てていると言わざるを得ない。・・・校長の言葉を信ずるなら、マルクスは言葉を誇張するアジテータとしての素質はあるが、思想全体の構成や個々の部の構築には正確さを欠き、主観に溺れ、全体として間違った主張を平気でする困った人物であると言うことになろう。・・・
・・・彼の幼なじみの妻が言ったとされる、「彼は幼い頃から、ひどい暴君であった」という言葉は、彼の基本性格を捉えているのだろうと思われる。以上の議論を踏まえて、マルクスは今で言う、「社会的人格障害」sociopath と言ってよいだろう。
『共産党宣言』は粗野なアジ演説そのものであるし、『資本論』にしても所々に主観的感情や憎悪を剥き出しにした箇所があり、私のような研究者には強い嫌悪感を呼び起こす。人はどうしてこんないい加減な作品に心酔するのかと、早くからその疑問が先に立っていた。これも私の性格反応である。現実にはこれらの文書は世界のベストセラーとして、受け容れられ続けたのである。(p341)***
(「日本現代史とユダヤ思想」:苗村育郎 著<無明舎出版>2021年3月10日初版)・・・(おわり)