marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その1)世界のベストセラーを自分のものに:聖書私的勝手に解説!

2023-10-30 11:06:34 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

  クリスマスも近づき、カトリックではキリストのミサ(クリスマスのこと)は何より、聖日(日曜)には最優先に守られるべき儀式である。司祭さんらは、信徒をさしおいてもまずは最優先でこのことを行う。(といのは、少し言い過ぎ、コロナ禍で信者が教会の礼拝に来られずとも、司祭さんらは自分たちで、聖餐のミサは行っているということ。カトリックでは、第一にこれが存在の意義。)

自分のものに・・・は、古本屋さんにも聖書は出回っているので、赤線引いたり、書き込みする方は購入していただいて、で、新規で買う為、書店にいくと訳が異なるものがあるなぁ、とまずは思われるわけ。いずれどういうものをどこで手に入れられようといいわけだが、とにかく自分のものとして欲しいということの願いがひとつ。一家に一冊ではなく、一人に一冊を!。

まるで意味が異なっているというのは無いはずですから、目にするのは普段、教会で用いられている最もスタンダードなものが並んでいるかと思います。章も説も、言語は異なれどほぼ同じ。世界中で同じ、内容を読むことになるわけです。海外の小説を読まれるには、娯楽本は別にしても殆ど、宗教性ベースがこの聖書ですから。

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『引照付き』のものは、少し進んで、書かれているあちこちの聖書の文言の関連が細かな字で書かれている。いのちのことば社 あたりの索引、引照付きは各物語の前に、書かれた時代とか、誰が書いたとか、短い解説もあってさらに勉強になりますね。

実は、この細かに書いてある文字の内容が、今までの聖書が研究された結果でもあるわけで、教会にはこの細かな『索引』『引照付き』などの聖書はおいてはおりません。内容は、牧師先生のお話のネタ元にもなっていることもあり、第一にこれが大切なことなのですが、聖書は、標準的に述べ伝えられてきた内容そのものから、あなた自身への語り掛けであり、あなたからの応答が求められているものだからです。

ある人には”自分のものにする”には、とにかく『自分』の『言葉』で読まないといけないという努力が必要。『自分』、『言葉』など、それだけでもいろいろ考えるべきことが出てくる、というか、のちのち考えさせるというのが聖書の学びの裾野にある。

それで、まったくそのようなことの一切の介在なしに、生きておられるという『神の霊』に接触されるという体験をする人もいるということ。ここで心すべくは、我々は霊的な生き物でもあるので(しかも”万物の霊長”と言われる)、正しい霊を求めてください、ということ。実におかしな霊がうろつきまわっているので。

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ヨハネ伝にはしきりに「繋がっていなさい」と述べられているのは”キリストの霊(聖霊)”のことです。毎年10月31日はM・レターの宗教改革の記念日。彼は、初心者のひとに、ヨハネ伝とガラテヤ人への手紙を、まず読みなさい、と勧めている。

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先に、聖書は不思議で不思議でたまらない、というのが相変わらず思わされていること。つまるところ、生きて働く神はいらっしゃるのであろうということ。裾野が広すぎて、何でもありのようだが、書かれた時代と時代の背景と誰が書いたか、などは時折、思って読むこと。

沢山ある解説本を読まれる時も、この心がけが必要です。歴史的に、筆者のその時代、書く人、読む人、広める人など。最後に彼は何に感化されて書かざるを得ない欲求に囚われたのか・・・など。

しかし、それにも関わらず人には限界があるので、まず、正統派である福音主義の教会の礼拝に通い牧師の解き明かしなるお話を聴かれることをお勧めする。

・・・天地創造来、命までかけて伝えようとした要、その胆はどこにあるのか。(・・・続けてください。あなたの生死がかかっている。)

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ここでの勧めは、まったくの個人的体験から来るもの。①聖書をまず購入されてください。読みやすいリビングバイブルではなく、まず、スタンダードなやつ。それで、②最終は自分の言葉で読むこと、を心がけること。介在は参考程度に。③解説には礼拝に出続けて出席され(一度では決して分かりませんが)理解を深めてください。

③のここでも、礼拝の牧師の介在というものが入りますねぇ。介在物の独自出版物の方が力を持って解説される宗派も出て、社会問題も起こしてくる。・・・まさに聖書に書かれているように悪い彼ら(👽)が食い尽くすものを求めてうろつき回っているわけだ。

結論は最終②です。・・・生きているキリストの言葉と自分の思いが同期する時があります。説明はできませんが自然と涙腺が緩みます。

というお勧めで今回、終わります。・・・

(追:掲載の写真は、よくあるひやかし本のようでもある表紙だが、そうではなく生きておられる主という方としっかり会話がされる経験をされた方むけの本で、内容は文献的研究としてまともなもの。はやく、固い食べ物を食べられるようになってください。今の世界が見えてきます。・・・神学はとても面白い。


『ブルトマン』に驚き、『八木誠一』で成長し、『田川健三』で覚醒した!

2023-10-28 21:04:46 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

表題は、先の斉藤幸平の著書『ぼくはウーバーで挫折し、山でシカと闘い、水俣でないた』にちなんだものだ。いずれの名前も基督教神学者である。少々、パロディめいたが、教会の牧師先生方はお許しくださるであろう。

現在のプロテスタント教会の牧師先生らの中には、これからの若い世代に大いに関心をもってもらうために、敷居を低くし、イベントやバザーや諸々の諸行事をやりましょうという若い牧師もおられれば、いや、敷居は高い方がいいのだと言われるご高齢の牧師先生もおられる。

なので、昔堅気の正統派を自任される方は、権威付けを求める意識づけの壁に自らの悩みをもって?ぶち当たりイエスに救いを真に求めねば、信仰は根付かぬものであるとする先生方もおられる。

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※日向かおりさんのyoutube 動画の証(あかし)をご覧ください。自殺を神に止められて(ご本人はそう体験された)、つまり、肉体的体験として神と相対峙された人の信仰は揺るがないものだと思われる。異界(異次元)への境界をさまよい体験し、現生(現次元)へ!!

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しかし、意識するかしないかはともかく、キリスト教宣教が行われた国々では、その社会的雰囲気というか、信者でなくともその土地柄によって、心の安らぎを得て普段の生活に馴染んでいくところもある。

その原因は、やはり、生きている人が、そもそものその真なる語りかけに人が生きていく永遠をあこがれるその心の思いに、なんらかの人世界以上の向上性、普遍性、永遠性を得たいと願う気持ちが個人においても湧き上がるからであろう。

谷村新司さんの『昴』はタイ国では非常に人気が高まり、教会の讃美歌のメロディーにもなっていたなぁ。・・・亡くなられて心がとても痛む。

「我は行く~さらば、スバルよ~♪。」彼は永遠の世界に旅立った。『昴』という星座は、日本車のSUBARUのエンブレムにつけられている星座で、清少納言の『枕草紙』にある日本古来のものだったなぁ。

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旧統一教会の問題も僕の学生時代からの社会問題でもあったし、ロシア、ウクライナ戦争、それにパレスチナとイスラエルの現在のドンパチも多くの人命が亡くなり、本当に心が痛む。簡単にメディアが放映るような、善悪の判断がつかない屁理屈が、過去の歴史を引きずっているもんだなぁと思わせられる。

今起こっていることは、すべて関心があった宗教に絡むことがらだし、世界のベストセラー『聖書』に関わる事だ。国連総会でも、イスラエルの人道支援の非難ばかりでハマスの非難がないのか、を主張しアメリカもイスラエルに加担。日本は棄権。

神は言われる。「私は生きている。」と。

益々、多くの日本の方に世界のベストセラーに関心をもってもらいたいものだと思う。読んでもすぐにはさっぱりだけど。彼等(👽)も表ざたになってきたし、本当に神は生きて働いておられるのだなぁと個人的には思わされるのだ。しかも緊急を要する事態に。

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情緒性もなく、新約ではかろうじて、病人や貧民を奇蹟?で救済するイエスの言動にシンパシー(ギリシャ語でソン・パシオーが英語のその語源となった。イエスが腹のそこから憐れむ気持ちをもつ言語だとか)を覚えるが、初めての方は、その他の物語は何のことやらであろうと・・・。

ここで、威厳をもって博学、ひけらかすか、あるいは、ぐっと砕いて、おいおい、そこまで崩すとやばいぞ!とするかなのだが・・・。

しかし、あの文字だらの、そして言葉の宗教と言われる、その走りとなった神の独り子、イエスという方の十字架と復活、そしてまた、彼が再び来られるというその日まで絶えることのない聖餐式の意味などを深く知ると、天地創造来からのその通奏低音のように、未来まで預言して書かれていると思われるこの書物が、不思議で不思議でたまらないのだ。

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これに今まで時折ブログに書いてきたユダヤ人が古来この日本に帰化していてこの国に同化した人達が多くいた、とか、世界を見れば・・・のディープスティート闇の世界とか、あるいは人権問題や民主主義や共産主義などのイデオロギーなどの問題も、更には最近またとみに人目に現れ始めた彼ら(👽)のことも・・・。

興味は尽きないというか、しかし、地上において人命が失われるのは、宗教が政治に絡むと人命損失というろくなことにはならない、という事だけは言えそうであるけれど、これもまた、聖書にとっては、世の終わり(壊滅するという意味ではなく新しい神様のご計画の一時に転換点という意味らしいのだが・・・)

つまるところ罪ある人が、宗教を政治にひっぱりだすと人命にかかわるということだけは言えそうだ。古代においては一緒だったんだけれどねぇ。

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僕にとっては、(他の人には押しつけはしないけど)まさに、彼(イエスという男)が、教えてくれたことなのである、とこれまた飛躍した個人的見解を書きたくもなるというものである。

聖書を読んで、いろいろ世の中(政治)や世界のことを推論めいて納得がいくようになったということだ。

まず、分からんというところから始まり、信仰を持って命までかけたというのは何かの迷いか、心理的逃避なのか(それにしても彼らは偉く強靭に変貌しているという不思議もあるが)と思いきや、分からんからと批判もできんので、分かろうとすれば、まずは理解しようとする今、生きている人の命(体のこと)、言葉、意識、思考、歴史、そして訳の分からん霊的な領域にまでも、到達してしまい、それで分かったかと言えば、さにあらず、モヤモヤは霧が晴れてくるものの、現存する異なった次元の異界という領域も、普段、知りえることは殆どないが実はわれらの普段の周囲に存在することを教えてくれるなぁ、などと勝手に教えられたと思っている訳である。

そもそも、自分は分かる資格のある善人でもないことは確かだし。。。つまるところ、理解しようとしている『自分とは何か?』という、さらには『神が創造された人とな何か?』に巡り巡って、『罪』の問題に行きつくわけなのであった。

「その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(ヨハネ伝:21:25b) である。

先に述べた現状のここの課題に対してのつたない僕なりの見解もあるが、偉そうに羅列するのが本意ではなく、聖書はかしこまらずにすべてのどんな人にも開放されて読まれるべきものだ、ということを言いたいだけなのである。

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あいかわらず、ボケ防止のためにくだくだ書いたが、表題を簡潔にまとめると。

ブルトマンは、あれからかなり神学的な内容も進化、研究されているから、僕にとっては驚きのスタートを切った神学者だったという意味で。半世紀以上も前、それは何故かというに、聖書を純粋な書物として(一応)、解析しはじめる。文献学として、つまり書物として解析する。

イエスの本当の言葉はどれか、とか・・・。純粋な信仰を求めようとされる人は、何か悪いものを見てしまったような。

過去の人になりつつある。彼の主張は今は当然のこととなったので著作はあまり読まれていないように思う。

八木誠一先生の本は、自分を知りつつ、理論的な、そしたこの国の神道などにも関心を持たれて、人の信仰心と、読む、読まれる言葉ということについて、実にすっきりした理解をした。聖書を読むにあたり読む側の人間についての理解。聖書が語る、真理の言葉とは人間の普段の書いたり読んだり、会話したりの言葉とは次元の異なるものである、というようなこと。

田川健三先生の著作は、今までブログに揚げた。もし、書店でなにがしかの彼の本を立ち読みでもすれば、特に前書きやあとがきなど読まれれば、正当福音主義を学ぼうとされる方が読めば、べらんめい調のビックリひっくり返るような解説が載っているだろうけれど、聖書言語に関してはその道の大家であるようで、こちらは牧師さんらには永遠に読まれそうな書物である。

学生運動時代、この神学者は多く読まれた記憶がある。つまるところ、我ら人が情緒性で読み取ってしまうという弱点を持つが、真の言語からは果たしてそう読めるのか? 人のもつオブラートのような汚れた心情膜を削除して真摯に言葉に当たれ、というところ。

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無論、その他、多くのキリスト教神学者は居られる。主要な学者さんについては、東京神学大理事の近藤勝彦先生の本もある。表題の神学者は僕は、人生の中でエポックとなった方で、その他、実際、本だけでなく実際にお会いしお話することもできた方々もおられる。

少々小難しいかもしれないが、当然、書籍は今も出ているから、このような普遍性のある小難しい内容は、売れ筋はさっぱりだろうが、読み続けられるだろう。実は、新約聖書自体が、そのことを促しているように思われる。

いつまでも赤子みたいにミルクばかりでなく、硬いものをも食べるようになりなさい、というような・・・パウロの手紙。現に今の世界(2023年)をみても、いかような立場にいても、神の言葉を武具にして世を渡っていく戦士を最終求めているような文言にも出会うのである。

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わたしたちの戦いは、血肉にあらず(イエスによりこの地上での生きている意味を教えられ、死後の救済が保証されたのだから・・・、むしろ、我々は、その信仰をしっかり持って、イエスを今だ信じていない人々の障害を取り除くべく)、支配と権威、闇の世界の支配者、天における諸々の悪の諸霊に対するものであると。<()内は僕の解釈。>(エペソ人への手紙6章:12節)

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次回から、聖書私的勝手に解釈と題して、この書物を自分のものにしてみよう!・・・


やはり気になること!宗教が政治に絡むとろくなことはない。

2023-10-20 15:28:57 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

今日は一日、雨模様、激しく雨が降っている。・・・ウクライナとロシアの戦争、ガザでのパレスチナ、ハマスとイスラエルの戦争、これらは既に紀元前から、旧約聖書に掛かっていることがらであるなぁ、などと思いながら。

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 2023年10月14日(土)の夜BSに”沈黙”の映画放映された。映画館でも見たもので過去ブログには以前に掲載したけれど。

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 作家 遠藤周作の『沈黙』の映画化である。沈黙とは、このような多くの殉教者がでて、神は何故、黙っておられるのか、ということからの題名。日本の歴史上、実際に起こったことであり、多くの信者が殉教したことは、学校で必ず学ぶことである。

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時代は進んだが、学校では本当のことを教えているのだろうか。織田信長が鉄砲などの外来文化を取り入れ、一躍、戦国時代に名を馳せたのは背後にキリスト教があったとか、この国のていたらくとなった仏教坊主衆に覚醒をと比叡山を焼き討ちにした本当の理由とか。秀吉が後をついで、布教禁止、信者弾圧に傾いたのは、宗教を語った大衆の心をつかむというその背後の意図に、ポルトガルの武力制圧による日本国体制への脅迫があったからだったということなど。

(これは、現代政治にも絡む、重要なヒントであり、現に背後で行われていることである。)

ちなみに、その後の日本統一を果たし、260年もの江戸時代を築いた徳川家康もキリスト教禁令をしていたが、当時のイエズス会と宣教方針が異なっていたフランシスコ会のフロイスを案内人として、仙台の伊達政宗に支倉常長をローマへ派遣させたのも家康だった。仙台の郷土史記録にある。これもブログに書いたこと。しかしその後、武力を背後でちらつかせるスペイン、ポルトガルに一層、禁教に傾いたのであったといこと。

そういう、文書のやり取りも事実バチカン文書にはあり、門外不出で決して今後、目に触れることはないということである。

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多くの殉教者を出した、本来の要の問題は、こういう宗教性になると、統一原理の事件も半世紀以前から問題にはなってはいたが、決してすっきりした形での判断ができにくいものとなっている。(今問題になっている教団も宗教活動自体の停止も出されれば、自民党への献金者リストもゲロするぞ!とけしかけてくかもしれないなぁ。すっきりさせられないことが、他のことでもすべて自浄能力が既に無くなっているようだから。)

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欧州で、そしてイギリスなどの宗教の変遷(いつの時代も、世界の動きを見よ!)プロテスタントが起こり、日本に流れ着いたウイリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステン(江戸の土地を賜り東京八重洲の土地名となった)など、この国に大いに貢献した。

受け入れの出島は、宗教を関係なしとする当時の自由都市オランダを受け入れた。

何事にも漠然とではなく、人の脳みその古い層の情緒性がからむ宗教性には、誰もが真摯に仏教であれ、キリスト教であれ、その真髄を求めてしっかり学ぶべきであろうというのが結論である。こういう学びの無い、漠然とした政治の言いなりになることに対して「宗教はアヘンである」という言葉は理解できないことではない。

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僕はキリスト教を自分の信条に採用した。信者以外の方は、あぁ、そちらの人なのですね、で終わってしまうかもしれないが、実際に意識するにしないに関わらず、自分たちの身近な事柄に大いに関わって世界の動きにリンクしているからである。

あえてキリスト教という宗教ジャンルの範疇に入れねばならないのだろうが、人をも含む天地創造以来、全世界の包括するような教えのそれは、人類世界のせせこましい宗教という言葉のジャンルという以上のものであると思わざるを得なくなる。

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旧約聖書からの一節を書いて終わりとします。

「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル書 33:11)


義人はいない、人間の罪の問題:イデオロギーの発案者と性格(共産主義とマルクス)

2023-10-17 07:11:15 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

『義人はいない。ひとりもいない。』 これはキリスト教の筆頭の使徒となったパウロの言葉である。

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マルクスもユダヤ人で親父さんは司祭(ラビ)の資格もあったようだが、キリスト教と共産的な考えは弱者救済と言うように見えることから、非常に近い面も持っているが、『宗教はアヘンである』と彼が宣言したごとく、考えからその結果系はまるで真逆。彼が『共産党宣言』など発案せざるを得なかった理由は、無論、時代の要求とそれに反応する彼のもって生まれた性格が、その時代に発露したもの。

いずれも、『人類の解放、自由を与える』ように見える内容の文面は、キリスト教では、人の限界(罪)の解消が行わねば、決して人という生き物は自由になることはできないとして、「<真理>はあなた方を自由にする」と語る。信者は、思考傾向に共産的主義な考えをされる方が多いのではないかなぁ。しかし、マルクスの言った共産主義的な思考とは、真逆である。

キリスト教でのその自由とは「我は道なり、真理なり、命なり」とイエスが語った、罪の解消をされたその方を信ずるところから始まるのであって、なぜなら彼の言葉からは、ご自身が『<真理>である』と言われているからねぇ。

物証的に再現ができる科学の事象で言われる真理ではなく、また、それは対象が外的な対象物があるものではなくして、有機的なしかも目には見えない、生きた個々人の内なる自己の内の語りかけから、会話が始まる自由である。

理屈からその自由を得たいと望まれる人は、なぜ、救い主と言われた男が十字架にかかり死なねばならなかったか、の理由をしっかり理解するという壁が大きな障害となるようだが。ここで理屈から求めようとする人には、自己省察が必要となるようだ。

あるいは、人生の試練の中で、あるいはすべての取り囲む、降りかかる不条理にたいして、疑問を投げかける、格闘するという内的行為が生じてくる。誰に対して? 神に対してである。無論、そうでなく生まれつきそういう障害ともならないで素直に信じられる方々も多く居られる。しかし、そこには、鳩のようにすなおに、蛇のように聡くとして内的戦いは、日々ある人々である。戦う事象は、自らの中もにあると。

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さて、そういう意味で、目に見える物的事象に対する共産主義的な考え、マルクスの語る『共産党宣言』とは(実は、『資本論』はこれよりずうと後に書かれたものである)、人の歴史は階級闘争の歴史であるとするところから既に自己矛盾に陥っている文面であるように思われた。当初からこれは、思考する「人」そのものが、そもそもどういう生き物かという視点が、まったく欠落していると。

動物としての生き様に、闘争思考は種族繁栄の古い脳に関する事柄であり、その思考を外部の対象として人を取り巻くあらゆる障害を取り除かんとするラジカルな(つまり革命と言われる物だろうが)思考であって、そもそもそういう考えは、その目的の為には犠牲をいとわないというのだが、おい、それでは貧民を救うという崇高なる考えはどうなるの?(犠牲になるのは常に彼らなのだから)という自己矛盾が起こっている訳だ。僕にはそうとれる。

というわけで、当時の産業革命時代の大変な労働条件の時代を反映し人の自己肯定の自己救済的意味合いで、時代を覆さなければ、全人類の解放はないと考えるわけだが、この文面が既に自己矛盾のように思われてしかたがなかった。

無論、今でも彼が活動したイギリスでは、労働党があるという貢献があるが、資本が取り巻くその<ひずみ>を大いに予見してその是正をなし、行動を促す考えを求めた膨大な研究ノートとは(レーニンにも『哲学ノート』なるものが岩波文庫にある)、結局のところ文字になったものというのは、既にその所点で過去のものなのであるし、かなり限定されたものである上に、読書とは人の頭で考えているだけ(確か、皮肉やのショーペンハウエルだったか)の目録のような、まぁ、そんな内容にしかならんだろうと。

『自由』とは、そもそも思考の対象に障害はないというところに発生するものではないのか、と思っていたからね。動物としての自己肯定感を助長しようとする欲求思考を、当時の(あるいは将来の)労働を強いている資本家に向けて闘争をおこし、その暁に開放があるというのは、『人という生き物』を考えた時、どうもしっくりいかない。

その目的が到達したら、また、闘争の対象を探すだろうと、常に反対!と。しかも具体的ではなく、総括的な上から目線で来ると、それが理論武装だなどと言われるのだろうが、そこにそもそも人の側からの『自由解放』などはないだろうと、そう、思わないかぃ。

部分的な改善としての反対は必要だろうけれど、体制までひっくり返せというのは、反対する対象がなくなるだろう、したがって、全人類の解放などということは自己矛盾に落ちいっているなぁ。

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ここでキリスト教においても信者が増えないと嘆くのは、その対象たる事象『キリスト』が同様に自由の邪魔をする障害として掲げられているのではないかと誰しもが、思うのではないだろうか。啓示によって素直に信じられる方は、幸いなのだろうけれど、多くの理屈からキリストを信ずることの理由を知りたいと思う人は、やはり聖書を学ばないといかんだろうということになる。キリスト教は常に自分の言葉を要求するのであるから。 

僕はこちらを押しているものではある。自分の言葉を要求される者であるから、実のところ、良い意味での「自転車操業」である。

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さて、地上のあらゆる生業の主人公たるどんな人でも神様の目からは罪があるということ。無論、宗教家でも、思想哲学者でも、政治家でも、巷のその辺の誰それでも、例外なく、つまりすべての生きとし生けるものがである。

神が人を自分の似姿に創造し、しかし、罪を犯して神から離れてしまったこと。罪は「的外れ」と言われる。神の生き方の筋書きから遠く離れて永遠の命に戻れなくなってしまったこと。その是正に人を創造した神は、その罪を解消すべく身代わりとしてイエスという方を送ってくれたということ。

その救済に神は独り子を地上に送り、自分の誕生とその理由を信じる者のために、身代わりとなってその者の罪の解消を行ったこと。天地創造から未来の預言と呼ばれることまで書かれている『聖書』が述べていることの中心はそのことだけであり、その彼をひとりでも多くのそうであると信ずるひとを起こすことである、とする。

万物を創造し、人もその中に存在しているのだから我らは逃げ場がないということだ。実に世界の人々が、彼の信者が過去に無数に語ってきたその言葉・・・アーメン(確かにその通りです)という言葉。

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 実家の僕の本棚にあった『人間にとっての遺伝と環境』という本は、講談社の昭和53年1月31日の初版である。医学研究振興財団が1978年に刊行とある。初版だし、古本でもないのでずいぶん、時代から前からこの手の傾向に興味があったのだなぁ。

生物である一つの種である人間は、人間に特有な遺伝子を祖先から受け継ぎ、かつ、一定の遺伝的個体差を保有している。特有の遺伝的要因を受け継いだ個人は、その時代の生物学的、文化的環境の中で発育し、病み、そして子孫に遺伝子を伝えていく。

このような遺伝と環境とのかかわりあいについて、医学者のみならず、他の自然科学、人文科学などの分野の指導的な方々の参加をもとめ、多角的に幅広い視点からのアプローチをも試みた論文集である。

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工学系の専攻だったのだが、自分の事で悩んでいたのか、若者の思い込みにありがちな人類のこれからなどに悩んでいたのか、人とは何なんだという、諸々が無論、自己の脳の前頭葉や身体の脆弱さがその根にあったのだけれども、それも含めとにかく知りたいと同類の本が結構、本棚にある。

同じく人が造られて、どうして性格や個性、それから人類の環境(文化)、伝統の相違で、こうも人類の多様性があり、文化も異なり、伝統や歴史があるということ。それは、昔、言葉はひとつだったが、人が高慢になったために言葉を乱して、ひとびとを神は世界に散らばせられた。

実家の本棚にはきちんと読みもしなかった本があったが、仕事には殆ど関係のないこれらの類の本があり、科学の進歩により内容は多少古くなっても、時間ができて面白く読んでいるというわけだ。昔から、自分の不出来も含め「人」のことは今も感心があるわけ。

環境や遺伝などというのは、人の種が存続する限り、自分という人の欠陥も理解するにつれ、漸次ネットなどで知ろうと思えば周知されて来ているもなのだろうが、多くの人は、内容が真実としても自己否定的な自分をあらわに認識させられる事実は、知りたくもない内容ではあるだろう。

ただ、終活に向かうにつれて、肉体の老化は誰にとっても必然のことであるから、死に際にばたばたしないように少なくとも判明していることでけでも知っておきたいと願っている訳である。それで改めて読み直している訳なのだが。

若い頃の多数の疑問は、自分という人も巻き込んでいる大きくは神が自分の似姿に創造した人はいかなるものか、ということを追及すれば、逆に神をも知ることができるであろうことをしつこい様に考えてきたのである。

つまり、人の神が救って下さり、次の世界で永遠に生きるとされ、罪の自覚と言われるものは、考えつまるところ、自分の身体がもろもろの自分には抜きがたく如何ともできないこの既にある肉体の欠陥にある、という自覚である。

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脳の発達と子供のからだ、などから、その土台がこうならば、大人になってもこうだろうと、思わされるが、小難しい思想や哲学、政治学などと取り組んでも、歴史に名の知れたそれらの彼らは、神の目から見れば罪ある人がその土台にエクセントリックなものを抱えていたということなのだね、結局。

どのような書物であれ、書いた者の動機は、時代、環境、それらのものが影響をあたえていないということはありえない。文字は書かれた時点から、それは既に過去のものになっていくということだ。

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 斉藤幸平の著作も若くして猛烈にマルクスは勉強し、ひいき目に彼を評価して、膨大な量の研究ノートを網羅してその中に、まさに現代のエコロジーを予感する興味を示している、理論が必要だからマルクスに帰れ!となるわけで、このような特化した若者には、新しい世の中を動かす思考が排出か、とエクセントリックな思考には、賞が与えられるものなのである。

************ 人の遺伝的罪というものについて、キリスト教については神学的にあの神が創造されたと言われ、神から離れてしまったアダム以来ものなのであると言われるが・・・。

最後に、僕の住む地方出版社から精神科医の見解を述べて終わりにしたい。

****マルクスが書いたギムナジウムの卒論に対して、当時のヴィッテンバッハ校長は「思想の豊富さと材料の配置の巧みさは認めるが、著者はまた異常な隠喩的表現を誇張して無理に使用するという、いつもの誤りに陥っている。そのため作品全体は必要な明瞭さを欠き、時として正確さにも欠けている。これは個々の表現についても全体の構成についても言える」という厳しい評価を下している。・・・青年期前期(17歳頃)において、その人のもつ性格は表面化する。資質や可能性のすべてが判明する訳ではないにせよ、基本的な傾向は露わになることが多い。

精神科医として40年以上、人々の臨床的観察を続けてきた私には、そのような原則を無視して、作者の性格基盤抜きに安易な思想評価をする評論家達の姿勢が正しいとは思えない。殆どの場合、ある思想の基本傾向は、その人の基本性格から生み出されるものである。この視点がなければ、思想はその根源に置いて正しく理解されないし、本来の意味が曲解される。・・・校長の評価は『共産党宣言』への批評とみても、実によく言い当てている。マルクス及びその主張であるマルクス主義の基本属性をも、見事に言い当てていると言わざるを得ない。・・・校長の言葉を信ずるなら、マルクスは言葉を誇張するアジテータとしての素質はあるが、思想全体の構成や個々の部の構築には正確さを欠き、主観に溺れ、全体として間違った主張を平気でする困った人物であると言うことになろう。・・・

・・・彼の幼なじみの妻が言ったとされる、「彼は幼い頃から、ひどい暴君であった」という言葉は、彼の基本性格を捉えているのだろうと思われる。以上の議論を踏まえて、マルクスは今で言う、「社会的人格障害」sociopath と言ってよいだろう。

『共産党宣言』は粗野なアジ演説そのものであるし、『資本論』にしても所々に主観的感情や憎悪を剥き出しにした箇所があり、私のような研究者には強い嫌悪感を呼び起こす。人はどうしてこんないい加減な作品に心酔するのかと、早くからその疑問が先に立っていた。これも私の性格反応である。現実にはこれらの文書は世界のベストセラーとして、受け容れられ続けたのである。(p341)***

(「日本現代史とユダヤ思想」:苗村育郎 著<無明舎出版>2021年3月10日初版)・・・(おわり)


人類の秘密:一般常識人で自己のモチベ―チョンを上げようとする人が最も正しい!

2023-10-14 13:40:25 | 思想・哲学

 半世紀も前になるが、学生運動も下火になったころ、アルバイトから正社員になりかけたときに2~3歳年上の上司宅にお呼ばれしたことがあった。

その時、本棚に『資本論』が並べられていたことを思い出す。学生運動の余韻がまだ、残っていた時代だったからなぁ。あの頃の人らは、議論するのが若返りの所作のように議論を吹きかけてくることがあったが、僕は全くの無知で興味がまったくなく、もっぱらそもそも人とは何ぞや、という(無論、自分の内面問題の解決策を探していたのだが)ことを考えるに終始していた。

僕の学生時代には、ヘルメットかぶった奴らが、授業をつぶしたことがあったし、校内に乗り込んだ覆面パトカーを座り込みして門外に出さないというストもあった。

柴田翔という作家(〇〇大学ドイツ語の先生)の『されど我らが日々』という小説が賞をもらっていたなぁ、うちらの学際にも呼んだんだねぇ。大学入試にもその小説の一部がでたらしく(どこの大学か忘れた)、そもそも多様な読み方に問題が、例え選択肢でも答えを求めさせようとするのは、無理があるわぁ、というような試験批判の話をしていたのだけは覚えている。

『赤頭巾ちゃん気をつけて』を書いたピアニストの故中村紘子の旦那にもなった庄司薫も学祭に呼んだなぁ。講演題『バクの飼い主めざして』だった。これからは想像力を持たんと生きづらくなるぞ・・・というような内容、つまり夢を食うといわれるバクとう動物の飼い主になろうね、だった。

それはそれとして、先に述べたその上司。彼はオリーブの葉を加えた鳩の白マークの凄いニコチン量の青缶ピースなどの喫煙者であったから、今も生きているんかなぁ。人のイマジナリー、脳内に影響を与えるニコチンなどは、その身体に有害な筆頭の嗜好品だな。

これがまた、何故か昔は流行ったんだなぁ。事務所内にもうもと煙。今では考えられないなぁ。当時、映画という映像の走りだったから、これ(映像)に従事する人の殆ど喫煙者だった。市川崑映画監督はさまになっていたけどね。

つまるところ、体を土地と考え、肺にきついニコチンを取り入れて、一時の脳神経のパルス伝達させ、気分爽快させたところで、肉体に(マルクスのノートによれば土地にあたる)著しく取り返しのつかないダメージを与えて、健常復帰とはならなくなる。寿命は確実に短くなるから。気づくと手遅れとなっているという筋書き。

身体的に自分をも意識しないうちに内的障害を何らかに持っている人という動物は、面倒なことに非常に自己生存に敏感な、それをプライドといおうか、ともかく誰でもが自己肯定思考を持っているわけであるから、それなる人(マルクス)が政治世界にも影響を与えるような現象を生み出すようになったのは何故か、は性格分析で面白いと思わないかぃ。(次回、書こうと思う)

考えるとこうである。脳の発達と子供のからだ、においても、子供は親のDNAを土台として幼少のころの環境やその体験などから受ける内的、基本となる性癖、思考、欲動なるものの、成長期にその頭脳を持ってその補填、つまり自分の思いの欠落を埋めようとする傾向をもつ、という人としての生き物としての、これを個性といおうか。創造者を知る者であればそれが人生の使命と思うであろうけれど。

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 前置きがながくなったが、本に戻ると手っ取りばやく言えば、それに類似で一方向的な資本主義の帝国主義的搾取はもうやめねばならない。脱成長が必要で、そのためにはスペインでの取り組み、コモンでの取り組みが望まれるのであると。

ここに共産思考の重要性があるとする。うまくいくのかどうかだけれど。花火は上げるがそれなりの資本の理屈に便乗しなければ、結局、地球の裏側の我らは知るよしもないし、ワールドニュースも同様に取り上げることもしないだろう。なにしろ、自然は人に被害を及ぼすという現象でしか答えをしめさないのであるから。人類の努力が功を奏しているかはすぐには分からない。

資本主義的搾取はSDG'sなるものを掲げても、所詮、人類は地球に対しても人類に取り返しのつかないことをしているということが言いたいことなのである。これからは脱成長である、と。

『大洪水の前に』もマルクスが、自然からの搾取に目を向けて、大英図書館で膨大な量のノートに研究成果をMEGAと呼んで、再び脚光をあびせないといけないということなのだが・・・。『資本論』には反映はされていない。編集したエンゲルスとも見解は異なっていたようだ。

僕は、何もマルクスに帰らなくてもいいように思うのだがね。なぜ、マルクスかといえば、筆者としては世界に影響を与えて、学生運動まで引き起こすように至ったその運動を盛り上げるには、かれのような『資本論』の理論のような影響を持たねばいかんだろう、との切羽詰まった願いのようだ。それで、賞も与えられた。

(一節には、マルクスのパトロンには国際金融資本かロンドンのロスチャイルドが影にいたとう話もある。こういう資本家が世界に何らかの刺激を与え、世界を見ようとしているのは皮肉ではある。・・・いつもこういう人らは居るものである。)

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「脳の発達と子供のからだ」を前に述べた。同じ形状をしても人という動物は、その考えに相違が起き、親のDNAはじめ幼少期の環境からも、その個人の望まぬでもなく、それが自分として疑わず生きる。

それに疑問を持てば・・・、だから僕の本棚には、哲学や心理学、脳みその話などの本が多数ある。無論、キリスト教と仏教の本も。行きつくところは、まさかのイエス・キリストを信じて、命を懸けてもその肯定をなしてきた歴史上の証人がいたということ。世に捨てられた弱者が神の人によって死をも恐れぬ人になったということで、究極そこに行きついた。それはそれで、話もこの世には収まりきらないだろう、とのヨハネ伝の言葉のごとく、面白い話はつきない。

いずれ、思想がどうの、政治がどうのこうのといったところで所詮、人は死ぬではないか、という解ったような暗い思いにとりつかれていたということであった。現に今も生きてこのようにタイプを打っているわけだから。僕は彼ら(👽)に幼小の頃に傷を負わされた、否、使命を負わされたといったらいいか。などと書いても所詮それは、世界で一人の僕個人のことではある。

個人の欲動のようなものからその行動、発言がアウトプットされることが、世を引き回すトピックになるので、人の劇場の上でのドラマや未来の歴史を作る原動力にでもなれば、人は何らかのレスポンスをするわけで、それが彼等(👽:ロスもその方われ)にとっては面白いわけでもあったが、異なった次元で我らを操っている?彼ら(👽)のことは前にも書いたし、またいずれ書くだろう。いきなりだと何の事やらだろうから。

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現在は、生まれて与えられた自分の位置を自覚し、自然を感じながら淡々と自分なりに努力(これがモチベーションを上げようと)している普通人が最も正しい。

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 の最後の解説がついている・・・

『亀裂はどこに? マルクス、ラカン、資本主義、そしてエコロジー』:スラヴォイ・ジジェク(哲学者)

その最後に人類が我ら(👽)の迎えの来訪の受容を認めるようなことを暗示する言葉で終わっている。

「結局のところ、知恵は私達の存在の安定した基盤である母なる自然を信頼するよう「直観的に」私達に語り掛けてくるが、近代に科学と技術によってその土台を切り崩されているのは、まさにこの安定した基盤なのである。よって、私達は二つの支柱から切り離された科学が必要だ。・・・・資本の自律的循環と同じく伝統的な知からも切り離され、ついには自立出来るようになった科学の事である。これは私達と自然の統一という真正なる感情には戻ることはできないことを意味する。・・・・エコロジカルな課題と向き合うために残された唯一の道は、自然のラディカルな脱自然化を完全に受け入れることなのである。」・・・