◆内村鑑三が何故、無教会を唱えたのだろうか。アメリカで体験して思ったことは、聖書の原典にもどって考えるならば彼がそう思ったのは正しいことだったのではないだろうか。その歴史で形作られた形式を遵守することが正であると、かまびすしい議論で分派してしまったことよりも、と思う。僕がこれを書くのは、この国のキリスト者は1%にも満たないとされ、それはなぜかと思っているのは牧師は尊いお仕事ではあるが、ほとんどの方は欧米の神学のみであって、この国の土台を考えられたことがないからではないだろうか? ◆聖書に書かれたことをそのまま伝えるのは良いこととしてもそれを語るあなたと言う「自分」は何であるかということを考え切れていないからではないだろうか。これでは、神学は哲学に負けるのでのではないだろうか。キリストの十字架は、この地上の上に建てられたのであって、自分も住み生きているその大衆の居るその土台を考えずに神の言葉は、本当には理解しきれないのではないだろうか。流されてしまう危険を誰もが感じてしまっているからではないだろうか。◆内村は『第9章キリスト教国にてー 神学に触れる』の冒頭にこのように書いています。***「坊主になること自体は、すでに悪いことであり、ましてやキリスト教の坊主になるなんて、私の運の尽きた時であると思っていました。私の国のような異教国にありましては、キリスト教の牧師は、調節であれ間接であれ、外国人の援助を受け、なんらかの系統のビショップの支配下に置かれます。真のドイツ人であるなら、だれ一人としてイタリア人とかフランス人とかの坊主に、支配されることを甘んじないでありましょう。同じように、真の私の国の民ならば、だれ一人として、いかなる外国の勢力によっても、しばられるのを好まないのであります。自由放任主義、とか等価交換という経済原理の助けを借りて、この良心的な国家の名誉を尊重することを、放棄することは、卑劣なことであります。わたしたちの国家の独立にとって危険でさえあります。思想はコスモポリタンなものであります。あらゆる国のあらゆる人々から教えられることを、私たちは喜ぶし、実にありがたいとも思っています。しかし、パンはそうではありません。実は心の束縛は、最も危険な束縛ではありません。胃の束縛が最も危険であります。・・・物質の面でのコスモポリタニズムこそ悪しき原理であります。このように、私の場合、キリスト教の坊主になることは二重の意味の性質の束縛を意味しました。私自身の名誉と私の国の名誉のために私は、キリスト教の牧師につくという考えは毛頭ありませんでした。・・・」・・・続く
◆すごもりの中、アメリカの民主主義の混乱にあたって、内村鑑三がアメリカに渡った経験が書かれている『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』の第6章以降を再読していました。未信者の方も多く読むであろうその内容に、政治が宗教分離ではないその国の実際の民族の困難さは彼らが国を開いてから続いてきたものであったということを今更ながら教えられます。何故、「無教会」を唱えたのかも。◆途上国に裕福な持てる国が教えをたれ優位を誇るという人という生き物の恩恵の法則の上に、時代を経て世界が真の神を知りはじめ、途上国が神の恵みも受け入れ、その恩恵にあずかってきたと言えますが、人はその根底にあるものの基本が、裕福に生きたいと願いを持ち、食べ、排せつすることを基本とする生き物であるが故に、また、個性をもち、生命を維持し、自由という錯覚のために攻撃性をも持つ人という「個」とその集合の「国」と言うあり方に、その課題、自由と全体のありようという国の人類システムの相克が、世界の歴史だともいえるのです。◆しかし、実のところ信仰と言うのは文字や言葉では分からない個人の体験によるものです。世界の人の数ほどの信仰書なるものを読んでも、理解する信仰と言うのは当の本人が体験するものであるからです。ですからここに個人の救済の確信が生まれてくるのですが、これも言葉を越えているものですから表しようがない。その体験も一瞬のこともあれば、人によって人生を通して訪れてくるものであります。彼が本の「はじめに」と「序文」に書いてあることは、そういうことで、彼は回心が10年かかったというのです。あの、ジョン・ウエスレーも13年間も必要だったし、古代キリスト教最大の教父アウグスティヌスは16年間も同棲生活はやめられなった。しかし、そういう実際の求道の苦しみの中で我々は彼らの心から胸打つ現実的な言葉が生み出され、生き方に教えられるのです。◆この国は不思議な国と僕が書いたのは東まわりの真の神のDNAを伝えたものすごい数の集団が「津々浦々」にいて、この国と同化し人々の信仰心を形成していると感じたことなのです。彼はそれを受け継いでいた。そういうこの国の信仰の土台を持ちつつ、彼は真のキリストを受け容れたのです。それは、まさにこの国と彼個人の信仰のアイデンティティーに合致するものでした。・・・続く
◆重要と思われるのは、内村の著作の中のアメリカに上陸以降(第6章以降)の内容である。今、この時、彼の思いは、信仰面からみても実にするどく、教えられることがありました。プロテスタント、ルターやカルヴィン(カルバン)の宗教改革は、実に需要な折り返し点だった。①万人祭司 ②聖書主義 ③信仰義認 であったのに、彼がアメリカに渡った時の各キリスト教教派の混乱は、そのことを忘れてしまったのかと内村は嘆きます。彼らはすでに彼らの先祖において最も大切なことを卒業してしまったのであると。◆僕がブログで述べた来た、又、youtubeでも見ることができる古代、離散したイスラエルの東へ移動した多大な一団は、何世紀もかけて日本にたどり着いたと述べてきた。無論、途中に多くの国なども歴史上で作りながら。日本の言葉以前の?深層意識のような宗教心も形成している。古代神道は一神教であった。後発の秦氏という一族は多大な技能集団で各地に神社という礼拝所を日本中に作った。同じ信仰心ということで先人達との自らの先祖の物語を共有化できていたのである。離散し旅を続け、秦氏は、初めて統一したチャイナ(シン=漢字では「秦」)をつくり、旅の途中で救い主キリストのこと、先祖伝来の救い主の誕生を知り、一族はキリスト教徒となったのであった。無論、古代ユダヤ教聖書には救い主のことが書かれていたから。それは東へ向かったネストリウス派キリスト教である。◆先に日本に着いていた彼らの同族である所謂天孫族は、多くの彼らを受け入れ、また、多いなる恩恵を受けたのである。◆世界一大きい古墳、仁徳天皇陵を建造し、先祖の歴史のイスラエルの幕やに模して作られたのが日本の至るところにある八幡神社、稲荷神社であった。だから、我ら日本人の多くの人々の信仰心は、その根において、唯一の天地創造の父なる神への信仰心と同根なのである。この国は、不思議な国なのである。だから、この国は紀元前古代における東まわりに離散し、唯一の神を持ってそれを伝えたDNAをもって形骸化しつつはあったが、その霊的維持が地下水脈のように流れていたのではないだろうか。だから、内村鑑三は語ります。「神は、私たちをまったくその光と導きとから除外しておいたのではなく、世界の中で、最もキリスト教的な国民と同じように、何世紀にもわたって、私たちを愛し見守ってきたのである、との結論に達したのであった。この考えは、とても口で言えないほど、私を励ますことになりました。」(第7章5月27日の日記より)
◆キリスト教においては、自分ということを考察する哲学、心理学でもいいのですが、自主独立自尊という考えから自分の考えを持つということ、それはある時は信念と呼ばれるかもしれない、と宗教的分野(少なくともキリストの教えは宗教ジャンルには入らないと思っていますが)の信仰を持つという体験は、あくまで次元の異なるものであるということです。◆前者はあくまで言葉を持ちます。しかし、後者は行きつくところ人の言葉のない次元なのです。日本仏教でいえば、座禅を組む、お経を読む(これは実は人がその意味を考えたときにすでに、不完全な人の言葉と雑念により解釈が入るので本来意味を問うてはいけない、ただ、唱えるのであるというお勤めにその行為の中に到達する何か<それはある時は悟りと呼ばれるでしょう>を個人の中に自存していくというのです。形から入る。)というそれらの行為であり、イスラム教では、書かれた文字にも意味を持ち、多言語に訳するという行為自体本来勧められることではないとされる。町の塔の上から大声で語られるコーランの教えに耳を傾け礼拝するその行為に意味があるというのです。ただ、聞くという行為。定期に礼拝することもその行為の中に、ただその行為の中に神の芯たる核、教えに同期することであるとされるのです。◆しかし、キリスト教はどうでしょう。人の数ほどの信仰書があり、信仰を持つことは、実際、哲学や信念というものとは異なるとは言え、かまびすしい議論がなされて来ているのは何故なのでしょうか。それは、結論から言えば、こういうことになるでしょう。天地創造の主なる神は地上に自分の似姿に人を創造されたこと。それは有機物ではあるが神は霊を吹き込んで人になったとされる、その全創造物のオペレーション・システムを開示されて、被創造物でそれを信じる者たちに地上の命ある人と言う生き物を永遠の命へ(天上の世界へ)の帰還させるべく「天上になるごとく地にもなさせ給え」と責任を持たせたのであるということ、そのように考えられるのです。哲学と融合した神学は実際、その人類の戦いの中で人類を高度な文明へと飛躍させて来たのです。◆創造主と同等の霊的権威を持っていた天使(地上に落とされ堕天使:悪魔)がそのOSを狂わせた戦いは、現在も続いているということです。独り子イエスの教えが世界に布教され、悪魔の居場所がなくなりつつある必死なるもがきが生じているのではないかというのが、今と言う世界なのです。***使徒パウロは手紙に書きます。「我らの戦いは、・・・支配と権威、闇の世界の支配者、天におけるもろもろの悪の諸霊に対するものである。神の言葉を武器にとれ 」と。・・・続く
◆アメリカキリスト教国の混乱は世界の混乱を象徴しているだろう。”だから言わないこちゃない”、中国共産党はそう思っているだろうか?詰まるところ、人が集まり大衆となり、どのようにまとめていくかである。上からの強権的なあくまで人の頭脳で考えられたと思い過ごしている政治システムか、そうではなくあくまで良心に訴える人の世界に神の世界を、民主主義、人道主義と訴える政治システムか。前者は個人の人権など無視されるだろうし、特に宗教と言う奴はとりとめなく手がつけられなくなるから排除されるだろうし、後者はこれまた、メディアの総動員の強化、低劣化の人の集合で平等など掲げようものなら、みんな平等に貧しくなりましょうというようなものなのであると。これは常識的に見たら算数ではないか。◆ドイツのメルケル首相も130万もの移民を受け入れそれが民衆の反感をかい、退任する。この方はプロテスタントの牧師の娘であり、物理学博士号をお持ちの方なのである。しかし、いかに人道的と言われても人は即座に”共におるは麗しい”(聖書の言葉)とは常識的にいかないのではないか、それは誰もが過去を背負っているし、多くの異なる民族の受け入れであるからである。”人とは・・・、自分とは・・・”を知るキリスト者の群れであれば話は別だが・・・。新たに生まれなければ神の国を見ることはできない、と。そう自負する人間でも難しいのに。新たに生まれてもいないと考える、命ある人々がいるのである。◆そこで、各個人が聖書の相矛盾するような次の言葉に再びぶつかるのである。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せ。」&「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、自分の命を捨てようとする者はそれを得る。」***「義人はいない。ひとりもいない。」とのパウロの言葉は、実に神の目線からみれば、その判断の境界はどこにあるのかという各個人の思考の頂点(自問)にぶつかるのです。結局、「あなたはわたしを誰と言うか」というイエスの言葉にいつも答えることになるというのです。誰が?、自分が? そう、読者であるあなた自身がです。彼は今も問い続けているのです。・・・続く