marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(518回目)生存をおびやかす不条理(アルベール・カミュ:Albert Cmus )

2018-06-23 19:20:17 | 日記
 まさに不条理。この間の長いブランクは、まったくもって、観念的な、つまり個人だけの考えだけでなく、そのこと、つまり書き続ける主旨の事柄が、実際に身に振り掛かってきた時のその全くもって、どうしようもない理解されない事柄が生じて、それが”しがらみ”として生涯、否、これからの子孫代々について回るとなれば、その脅かしに対しての心労はどうしたものかとの思考の期間であった。
◆まずは、ハンナ・アレントの「責任と判断」という書物についても述べた来たが、”しがらみ”相手の思考の基準の判断の階層のレベルが異なることには(敢えて次元が高い、低いとは言わない)いくら会話をしても成り立たないということなのである。それは、次元が高い基準は、低い自分を経過して行き着くのだろうが、低い段階での判断を強権的に肯定されたは、日の光の下では(敢えて僕は聖書のパウロの手紙にある「肉なる人間」と言おう)正しくても、その意味するところの解釈が異なるなるとすれば、沈黙するか喧嘩を起こさざるを得なくなるということである。誰でもが自分は正しいとして生きているのだろうから・・・。まして、宗教性となると命を賭ける争いにもなるという訳だ。さて、その不条理とは、昔は影の闇世界の取引があからさまに政治の面でも光の下を堂々と闊歩するする時代となったということだ。しかし、個人においてもそれは存在するのであるが、誰でもが蛾のように光の中にあって自分だけが光に向かって飛び群れる筆頭と思って生活して居るわけだ。今回はその”しがらみ”との苦慮の期間であった。
◆個人に言えば、詰まるところ文字に出来るうちはいいとして、日々の身に課した労力の上に、これはふるに終日費やして居るわけだが、つかの間の休日にも、教会の事務の諸々の恵みたる仕事、これは僕の思考の欠点の組織を通しての訓練と思い感謝な訳であるが、さて、これらについては次回のブログに書こうと思うが、そのように考えられることは正しいでしょう(むろん、多くの考えの一つとしてのという条件付きでなのですが)と言われるキリスト者が多く居られることを言っておきたいと思います。
◆日々の肉体労働においては、ブログをずぅうっと読まれた来られた方には、無論、現代とは労働環境は雲泥の差はあるのですが、あのシモーヌ・ヴェーユのことを、時折、極度の疲労を覚えた時に、カトリックでしたけれど彼女がプロテスタントであったら、どのように考え、どのような文章を残したのだろうと考えたりしながら、(この点で言いたいのは、極度の疲労は、言葉を失うということですが)、自分の老齢化の進む肉体の欠陥について、おそらく歳を重ねる事における劣化は、自分の肉体の最も弱さとして現れるだろうということ、等などを考えながら残る数年の時を過ごしている訳です。
◆さて、このブログの「marcoの手帖」は、アルベール・カミュ(Albert Cmus 1913-1960、1957年ノーベル文学賞受賞)の「カミュの手帖」を模して名付けたものである。ここで再開の踏ん切りが付いたのは、NHKテキスト6月号にカミュの「ペスト」が採り上げられたからなのです。無論、彼の「異邦人」という小説については、過去のブログで述べたのですが・・・ ”しがらみ”そして、ぼくらの生活における、生存をおびやかすあからさまに現れてきた不条理について。 ・・・ 続く 

       

世界のベストセラーを読む(517回目) 会話の言葉の表層表現と深層意識(少しむずかしい表題に)

2018-06-10 05:45:29 | 日記
 「命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。
  
  わたしがあなた方に話した言葉は”霊”であり、命である。」 (ヨハネによる福音書第6章63節)

 ◆霊的な次元に於いて、話が会えば理解されるであろう方は多く居るのであろう。僕はそのことを信じたい。ただ、これまで
  述べてきたような、それでも長い歴史のある”しがらみ”からの解放しつつあることを理解しないと、その人はその人、と
  いう段階に留まるだけなのかもしれない。

 ◆「理解」と「納得」することは、異なるものなのである。「あのとき分かったと言ったではないか」という反論に「納得は
  していない」という返答は、だからあり得るのだろう。 善し悪しは別に判断の基準の発想点がずれているので意見がかみ
  合わない。感情的になり、それ以降の会話がなりたたないことも起こりえるのである。

 ◆誰もが、自分は正しい、正直だと主張することは、人という者、自分という者は、と客観的に見つめられない肉の段階の思考
  といえるだろう。そもそも、誰でもが、そう思い自己主張しているから宗教戦争が無くならないのではないだろうか。
  人のつたない言葉でしか語ることができない、人の言葉によって自分の肉なる神を肯定することは、低層の霊的次元の言葉を
  到底、理解しえないのかも知れない。

 ◆B/S放送で山田洋次監督の「家族はつらいよ2」を見た。家族会議の一場面。その当日、深酔いした親父が前夜に連れ込んだ
  高校時代の親友が寝せた不在の妻のベットの上で朝方死んでいた、というそのドタバタ劇。肉の思いに湧いたことを素直に
  感情的に言い放つ。これは、まさに、自分の肉に正直なことではある・・・。

  パウロの手紙の言葉内容を用いれば、肉的、表層的な言葉でのやりとりに、感情的放言、そして受け取りに劇場型の収集の
  付かないドラマが展開していく内容である。面白おかしく見えるドラマに、人の遺体にも接する仕事をしている家族会議に
  集まった看護師の冷静な対応が印象的であった。              ・・・ Ω                               
  

世界のベストセラーを読む(516回目) 神よ、どうしてなのか!

2018-06-09 08:00:00 | 日記
 「命に溢れてこの地に住む者はことごとく
    主にひれ伏し
  塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。

  わたしの魂は必ず命を得
  子孫は神に仕え
  主のことを来たるべき代に語り伝え
  成し遂げてくださった恵みの御業を
    民の末に告げ知らせるでしょう。」  (旧約聖書 詩篇第22編30~32節)

 ◆今でも歴史あるユダヤの人々の詩篇の読みは、詩篇の冒頭の節を大きな声をで読むことで、その詩篇の終わりの全てまでを
  理解し読みとると言うことです。 それではこの詩篇の冒頭は、どういう言葉なのでしょう。
  それは、イエスがあの十字架上で叫んだ言葉なのです。

 「わたしの神よ、わたしの神よ
  なぜ、わたしをお見捨てになるのか。」  (同 詩篇第22編2節a)
 
 ◆イエスが、十字架上に自らの命を犠牲とされたことが、塵にくだった者(これはすでにこの地上には肉体として存在しない
  亡くなった人が霊として陰府の世界に居る人々)もひれ伏し、そのイエスの行為(成し遂げてくださった恵みの御業)を
  世界に(なぜなら、イエスの父は地上の全ての人々に命の霊を与えられているから)告げ知らせるでしょう、と謳っている
  のです。 
  
 ◆わたしたちが、普段に「神様」と呼ばれる方は光の下の目に見える世界だけではなく、生きているものも亡くなった方をも
  時間も空間も全てを支配され理解されている方です。まことの「神」という方がどういう方かをよく考えてみたいものです。

 ◆イエスの生涯が最初に書かれたマルコ伝、次にマタイ伝と言われていますが、この冒頭の詩篇の叫びは、その読みの伝統の読みの
  理解を知らないであろう時間経過の後、人々向けに書かれた、その後のルカ伝、ヨハネ伝には書かれていません。 
  
  この辺の学びをすることにおいても、何故かとても深い感動を覚えるものです。     ・・・ Ω 
 
  

世界のベストセラーを読む(515回目) 人を評価すること、されること、傷つきされること

2018-06-08 05:39:38 | 日記

 「わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、
  
  望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っている
 
  のは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」  (ローマ信徒への手紙 第7章15~17節)

 ◆パウロの言葉を理解できれば、キリスト・イエスの十字架を理解することができるでしょう。これはパウロが当時の律法に
  対しての自分の行為の外なる肉としての自分の行為が実際は離反しているという深い内省の声です。

 ◆キリスト・イエスがぼくらに声を掛けられると、大抵の人は必ずと言っていいほど自分の内なる声、外の肉なる(生まれつきの
  疑うことのない、人という動物としての言動)との衝突が生じてきます。外なる人の自由な言動は、前回のブログに書いたとおり
  他を評価し、その判断で他の人の否定をし、思考の障害物を取り除くという行いが出てきます。

 ◆誰でも、自分の立場、その居る位置の自己肯定化のイメージをもっているものです。それを形作っているのは、今までの経験や
  体験、何より今まで接してきた、これも他人との言葉との交わりの中から生じて作られてきているものです。

 ◆では、他人からの言葉によって傷つく人はどうなのでしょうか。ともすれば、弱者目線であるキリスト教は、実はその傷つけ
  られたその人の無意識の判断さえ、実は肉なる外の人に形成されてきたその人の判断ではありませんか、と問うているのです。

 ◆同じ言葉でも聞き流す人もいれば、傷つくという人も居る。しかし、人それぞれは、他人の生き様に置き換えることのできない
  今という自分の与えられた生に対応して、生涯を終え次の世界に旅立って行かなくてはなりません。

 ◆パウロが語る「わたしの中に住んでいる罪」、それは、人という生き物の全般に及ぶことのように思えてくるのです。パウロは
  キリスト・イエスの十字架にその解決を見たのです。   ・・・ 

世界のベストセラーを読む(514回目) 神を用い自分の言動を正当化するのはキリストの神ではありません

2018-06-07 06:00:00 | 日記

 「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。

  あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。

  神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。・・・

  神はおのおのの行いに従ってお報いになります。・・・

  例え律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのです。

  こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこのことを証し

  しており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の

  告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」

                                 (新約聖書 「ローマ信徒への手紙」第2章から)

 ◆肉なる人が、自由を思考の中で得ようとすれば、第一に障害となる自分に反旗を翻し、反抗しようとする言葉を持つ人間を措定し
  排他しようとすることを行い始めるものである。だから、人を裁くというドラマを作り上げ劇場タイプの勝った負けたの会話を
  し始めるのである。「利己的遺伝子」という本来の人の生き方の基本的気質の現れか・・・。

 ◆実のところ、そんな劇はつくらなくてもいいのだが、何故か劇的なドラマをつくり相手を引きずり込んでその中の主人公となるべく
  自分の劇のドラマに突入していく。被害者になり、加害者になったなんだかんだと騒ぎ喚く。
  その中の会話は、実は大層なことではないのであるが、その先読み込みのドラマ化された評価判断設定から抜け出せなく主人公に
  ならなければ気がすまないという気性から、人の人生はそれでなりたっているという思いから抜け出せない。

 ◆多くは、言葉の誤解から生じている。強い思い込みによる自己判断基準、だからその判断基準自体を確かめようにも自分とは、
  人とは、という客観的、相対的に自己を判断評価することが出来ない人とは距離を置く以外にないと言うことになる。

 ◆その解消には、常なる正しい相手との会話を経験しそれを通していくしか、おそらく矯正はされないだろう。だから、神は観念的
  抽象的な対象であってはならないのである。それは自分の言葉から抜け出せていないからである。ここにキリスト・イエスが欠点
  のない人としてこの地上に送られてきた理由の一つでもある と僕は考えている。  ・・・