marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その2)吉本隆明 「共同幻想論」を読む 古代日本国家感の始まり

2020-07-30 08:15:16 | 日記

◆具体的には本を読んでいただくしかないだろうけれど、「国家は幻想の共同体という・・・西欧思想に深く根ざしていてもっと源泉がたどれるかもしれない」という吉本の言葉。彼の著作には「共同体」ときちんと書かれているが、聖書にも「共同体」と訳されている集団があると書いた。聖書の方が無論、とてつもなく文字の記録として古い。

◆終戦記念の季節が訪れる。組織と責任、戦争責任があるだろうに何万人も戦争で自国民を戦場で殺して、のうのうとその後、戦時のことには口を噤み、政治家として生き延びて来たような人々もいるのだから。話を大きくすれば人の命や当然の善に反する場合、公務員は上の方針に従うだけでいいのか、個人の善を貫くべきなのかは、簡単に英雄譚は語れるだろうが、実際はとても難しいことなのではないだろうか。公務員は愚直に上位の指示に従うことが義務となっているからね一応。それに、歴史認識や政治などお構いなく、隣国のように結果系のみでヒステリー気味に個人の善を優先だとヘイトする民族性もあるから、思い込みというか、教育というか、それを国民性とはひとまとめにしてはいけないのだろうけれど、どうしたものか。

◆共同幻想論には原初的な共同幻想から国家の起源に至る共同幻想まで論じた箇所が「禁制論」から書かれている。今ではこれらも多くの国家形成、原初の生活などの起源推論、人と言う生き物のなりたちは、実に多くの学者らの本も読むことができるけれど、僕が吉本が取り上げて特におもしろいと思ったのは、国家形成以前、体制北進以前と言っていいか、民俗学者でもあった柳田国男によって集められた北方民譚「遠野物語」を資料として用いている中に「山人譚」があったからだ。この中で、僕が東北の地に生きて、記紀以前の国家の成り立ちになど考えていたことに(行き過ぎればそれは都市伝説になるだろうかもしれないが)、ある繋がりが見えたと思ったことがあったからなのである。・・・続く 


(その1)吉本隆明 「共同幻想論」を再読する こんな世界の現状だから?

2020-07-29 11:16:43 | 日記

◆一昨晩、NHK Eテレで掲題の本の紹介がなされていた。コロナが騒がれる以前から、これもNHKでアルベール・カミュの「ペスト」の本のことが話されたいたのでそのときも、学生時代読んだ文庫本をこちらは「異邦人」を引っ張り出して読んでいたが、今回も吉本隆明の掲題本をたまたま読んでいたのだ。吉本隆明は僕らのひとつ前の世代にあたるなぁ。彼には天皇制に関する本も無論?あるからという訳ではないが、先のブログからの内容に少し関係している。今、世界がこのように孤立し始めた国家になっている現状で彼の著作が取り上げられたのだろう。 

◆彼は文庫本の序にこう書いている。「国家は共同の幻想だという考えを私ははじめにマルクスから知った。だがこの考えは西欧思想に深く根ざしていて、もっと源泉がたどれるかもしれない。この考えにはじめて接した時に衝撃を受けた。・・・わたしはこういう国家概念が日本を含むアジア的な特質で西欧的な概念とまったく違うことを知った。まずわたしが驚いたのは人間は、・・・西欧ではどんな国家主義的な傾向になったり、民族本位の主張が成される場合であっても、(アジアと違い)国家が国民の全体をすっぽり包んでいる袋のようなものだというイメージで考えられていない。いつでも国家は社会の上に聳えた幻想の共同体であり、私たちが実際に生活している社会よりも小さくて、しかも社会から分離した概念だと見なされている。・・・ある時期この国家のイメージの違いに気づいた時、わたしは蒼ざめるほど衝撃を受けたのを覚えている。」・・・(p5) <今から38年前に出版の角川文庫から 今から思えば古い考えだな、と思うのはそれほどその後の僕らは新鮮な世界中の実情が(瞬時に)知ることができるようになったということだ>

◆文中、もっと源泉がたどれるかもしれない・・・とあるけれど、様々な情報が得られるようになった今、我々が知らないことだったが実はこうだった ということが、当たり前のように学問的に周知されるて来るようになるだろうことを信じている。その源泉を僕は”世界のベストセラーに読もうとしていた訳だ。そもそもあの旧約の時代、今の聖書には神に導かれた民の一体化が「共同体」と訳されたのは訳者にどういう”幻想”があったのだろうかなどと考えてしまう。ヘーゲル初め、以降の哲学者さんも国家感について諸々書いて来ているけれど、理想の国家の実像などがあるんだろうか。この地上にはないと言ってしまえば簡単なのだが、しかし、それを実現しようと画策して来た人々が、あからさまに文字に表されない深層の歴史としてそのベストセラーに読めてくるのは何故なのだろうか。・・・続く


(その2)今だから言えること、天皇制に詳しいキリスト教神学者にお尋ねしたこと

2020-07-28 16:21:30 | 日記

◆その先生はご健在でもあるし、これを他の関係者が読まれるかもしれませんから、お名前も著作名も詳しくは書きません。しかし、その先生の本には、僕がほとんど読んで知っている先生方が天皇制についての考えや戦争責任について、何故はっきりしないのか、今までのことも勉強していないし読んでもおらんと実名を書いてきつく批判されておられてましたね。(そもそも批判で優位性を語るのは頭の優秀さも確かならその人間性の気質からくるのものではないかとこの本の後書きで思わされた次第でしたが。他のことでも批判していて、それが勉強意欲の引き金になっているようなタイプ)。

◆僕の考えは、この国の天皇制のあり方という形態について、内容を先においてもヒエラルキー(元々は聖職者の支配構造が由来)のような階層は必要なことではないのか、これはあくまで人という生き物として、ということです。あくまでこの日本の国の天皇制は国の成り立ちとして(人権どうのこうのは別に)理想型に近いのではないのか(はっきり言えば理想型に近い形にしようとしてきた古代日本国の形成期にそうしようと努力してきた?人々がいた)ということだったと考えているのです。戦争責任のことは、その天皇制どうのというよりそれを政治と神を混在させる取り巻きの詰まるところどこまでも人の問題なのであるということ。かの伊藤博文が「欧米のキリスト教に対して我が国は皇室あるのみ」と”あらひと神”にして国民を洗脳してしまったことが誤りであったことで、そこを第一に猛烈に批判すべきであったのだ。そこで僕は質問したのだ。現在の天皇がほとんどの国民に受け入れられることをひっくり返すことはできないだろうと(ずいぶん粗っぽい言い方だが)。

◆先生にとられて、理想型のあるべきすがたの国の成り立ち、ありようというのはどこかにあるでしょうか?と。答え「ありません」ということだった。「ありますよ、バチカン国です。」などとはやはり間違っても言わなかった。・・・僕はそれ以上何も言わなかった。・・・・実のところ思っていたことは「先生それではいけないでしょう。現実に理想型がないならどういう国のありようが必要なのか言わないのなら何でも言える。真逆から言えばyoutubeでも見られるが、三島由紀夫が檄を飛ばしているいるのと変わらないのではありませんか」と。 ・・・続く 


(その1)今だから言えるけど、天皇制に詳しいキリスト教神学者にお尋ねしたこと

2020-07-28 15:16:51 | 日記
 
世界のベストセラーを読む(567回) 生きている限りは自分の肉体から解放されないという”しがらみ”の不条理

 世界のベストセラーを読む(520回目)(その2)不条理を解明しようとすることが人として生涯を生き通すことなのだ さて、不条理として掲げた先、相矛盾するようなブログ......
 

◆「今だけから言えるけど」という表題を下書きにしてたのですが操作ミスしたのか途中配信されてました。それでこれ一応お伝えしたいことでした。「今だから言えるけど」と書いたのはキリスト者での2.11集会でのこと。毎年、2.11と言えば建国記念日、キリスト者は天皇制に反対だと声を上げて来たようですが、最近は変わってきているようで、天皇にも人権を与えろという内容に声が切り替わっているようです。天皇という方は僕らが普段と同じ国民のお一人という人間であると思うのですが、いろいろ実は難しくもっと上位の考えがあられるようで善し悪しではなく人権というものは無いということらしいです。すでに7月ですが、去る2月の2.11集会に、その講師の先生の本も買いましたし読みました。すぐに記事を書こうと思いましたが、僕が最後に議論をふっかけてしまったように集会に来られていた他の先生方が思われてたようで少し遠慮しました。僕は今まで疑問に思っていたいたことをお尋ねしてみた。実は単純なことなのです。・・・続く


僕の好きな季節6月、7月は頭の調子がいいのか、星のめぐりあわせがあるようで・・・

2020-07-21 06:00:00 | 日記
 
世界のベストセラーを読む(570回)<No.2>親愛なるJへ 『般若心経』を聖書的に言えば、ひと言「肉の思いは死なり」

 世界のベストセラーを読む(522回目)(その1)「潔めを受けつつ、栄えに進み」 告白の背後にある本当の出来事に目を留める 掲載したかったメッセージの抜粋を以下に記......
 

◆今も太陽や星の動きが人はもちろん地球の自然界にも多大な影響を与えていますね。僕らはそれがあまりにスケールが大きいので気が付かない。イエス・キリストの誕生の際、捧げものをもって来訪した東方の三人の博士らは当時の最高の実践学でもあった占星術師でもあった。全人類の救済者を世界で最初に知らせを受けたのは一介の羊飼いだったし、星の動きを頼りにイエスの生誕の場所を見出した博士らも異邦だった。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記(ヘブル語ではヨシュア、ギリシャ語ではイエス)、この時は、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教もで出来てはいなかったのですね。ですから今では聖書はキリスト教としての聖典として読まれるけれど、その時代には全人類の救済としての神の導きの予型がすでに著されていたことをわたしたちは知るべきです。宗教の対立などをしている時ではないのです。・・・