◆具体的には本を読んでいただくしかないだろうけれど、「国家は幻想の共同体という・・・西欧思想に深く根ざしていてもっと源泉がたどれるかもしれない」という吉本の言葉。彼の著作には「共同体」ときちんと書かれているが、聖書にも「共同体」と訳されている集団があると書いた。聖書の方が無論、とてつもなく文字の記録として古い。
◆終戦記念の季節が訪れる。組織と責任、戦争責任があるだろうに何万人も戦争で自国民を戦場で殺して、のうのうとその後、戦時のことには口を噤み、政治家として生き延びて来たような人々もいるのだから。話を大きくすれば人の命や当然の善に反する場合、公務員は上の方針に従うだけでいいのか、個人の善を貫くべきなのかは、簡単に英雄譚は語れるだろうが、実際はとても難しいことなのではないだろうか。公務員は愚直に上位の指示に従うことが義務となっているからね一応。それに、歴史認識や政治などお構いなく、隣国のように結果系のみでヒステリー気味に個人の善を優先だとヘイトする民族性もあるから、思い込みというか、教育というか、それを国民性とはひとまとめにしてはいけないのだろうけれど、どうしたものか。
◆共同幻想論には原初的な共同幻想から国家の起源に至る共同幻想まで論じた箇所が「禁制論」から書かれている。今ではこれらも多くの国家形成、原初の生活などの起源推論、人と言う生き物のなりたちは、実に多くの学者らの本も読むことができるけれど、僕が吉本が取り上げて特におもしろいと思ったのは、国家形成以前、体制北進以前と言っていいか、民俗学者でもあった柳田国男によって集められた北方民譚「遠野物語」を資料として用いている中に「山人譚」があったからだ。この中で、僕が東北の地に生きて、記紀以前の国家の成り立ちになど考えていたことに(行き過ぎればそれは都市伝説になるだろうかもしれないが)、ある繋がりが見えたと思ったことがあったからなのである。・・・続く