marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(506回目)日常生活の冒険(連休2日目)「新しい時代の古い課題」

2018-04-29 19:52:13 | 日記
 また、3時に目覚めた。昨日は、沢山のことを消化した。しかし、本来、日記とは細々と日々の行ったことを記録するものでもあるのだろうけれど、これもブログは公共性のあるもので、私的と公共性の境目が不明になってくるものでもあるから、人とはいかなるものかなどと
その現象系としての見、聞き、話す、というような自分の日常の生活を点検してみるならば、僕の場合は、やはり、この肉体の疲れとかから来る思考の障害と闘っているな・・・と改めて思う。で、それでは、肉体の疲れなどを全く意識しなかった遠い?昔の若かりし頃といえば、これまた、そんなことなど微塵も考えない、言葉など浮かんでこない一人の阿呆な、それでも人生いかなるものかと模索する根暗なひとりの男がぽつんといるばかりだ。大人になるといことは、何でも可能だと思っていたことが現実不可能だったと知っていく過程であることを思わされた次第。
◆僕らの時代は、だからなのか、ブームを巻き起こしたこれも古い時代になりつつあるがマルクスの「資本論」以降の次の世代で、新しい思考とは、その時代の世界に生きる「人間学」というもの、この前には諸々、哲学、心理学、そしてまたこれはどんどん内向的になりそもそもあれこれ切った貼ったをやっている人という者は何なのかという。その人自体を知っていく学問が始まったということ・・・。
 人間学などというのは、これには、全てが含まれてしまう名称の学問だな。で、普段の人々から嫌煙されるものではなく、普段の僕らの生活の淡々とした日常生活の中に学問の対象がありということである。僕らは、一人ではなく、誰しもがこの生きている空間を人に知られなくても、尊いものとして(一応)存在させられているいるわけだから、死に際には誰かの世話にならなければいけないこととしても生きている証明、自己確認、自己認識を残していくか、存在を何か理解されるものに繋がっていることを願っている訳ですね。
◆それで、その繋がっている基底なのです。やはり、ここにどうしても僕は(わたしは)という再確認が入ってくる。つまり、言葉の要求があるわけだ。そして、人は自分のことであるにも係わらず、自分に聞こうともしない。何故かと言えば、それを知ったところで(言葉化したところで)カトリックの懺悔室でもあるまいし、その消化解消となる基底、仕組みが自分の肉体の外部にもっていなければ、自分は何やってんのという、自己嫌悪になる以外にあるまいということになる。
◆いつの時代にも、求められるであろうその基底。いきなり、また話が大きくなるが、僕にとってはいのちを与えている、今も生きて働いているという目には見えない神(活動としては「霊」、悪霊もあるということなので、キリスト(救い主)の「霊=聖霊」)という存在を措定しなくてならなくなるのです。「仮に・・・」ではなく、「自分が存在するそのこと自体がそもそも、それが働いているという事実」ということ。キリスト等と書くと、少しドン引きの人は、まさにデリケートな僕が書いてきた”しがらみ”に引きずられていると思うので、決してそうではなく、誰にでも当てはまる普遍的なことなのです(極端に書けば「機械的な霊の法則」なのだ)ということを考えて欲しいのですが、つまり、内なる外部?に完全な人(ここでは、対話するキリスト・イエスという方)を認めなければ、会話がそもそも始まらないということになってくるのである。
◆だから、世界のベストセラーには、新約聖書といえども彼、イエスが語られたことに対しては、この地上の僕らは、一面簡単に答えを出すのではなく、不完全な欠陥のある人類よ、真摯に生きて行く過程でその答えを模索して生きよ、と促しているのが彼の言葉への返答を要求する自分という人の言葉なのである。その自らの言葉を探し求め続ければ、彼の形に少しでも近づいていくことが出来るように思われるのである。例えば「自分を捨て、自分の十字架を背負い、我に従え」と言い、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」ともイエスは言った。そら、出た。ここでの「自分」とは、そもそも何者なのか。ここで、自分という神の似姿に造られしも、欠陥だらけの自分を把握する言葉が要求されるのである。その自分という人が、現実生活の中で、言動一致の生活をするに様々な言葉が要求されてくるのである。
◆あの時代、ギリシャでの哲学があり、プラトン以降の哲学は、その解説に過ぎないと言われた程の影響をあの時代世界に与え、また、その影響下で自分の肉の生活からの離脱の言葉を模索した著名な教父アウグス・チヌスの「告白」は今でもキリスト者に必ずと言っていいほど知られているのである。・・・  

世界のベストセラーを読む(505回目)日常生活の冒険(連休が始まった)

2018-04-29 03:39:49 | 日記
 連休が始まった。深夜3時前に目覚めてこれを書き始めた。「日常生活の冒険」という大江健三郎の小説があったなぁ・・・などと、そういえばこの長いこと、「文学」などという言葉を聞かなくなった。どうしたものだろう。僕も、巷での本は、これも商業ベースで騒がないと、本は売れなくなるし、いずれ芸能界でも同じで共通性の話題を文字のうえでも、探し何か話題性はと言えば、これもTOKIOの山口君がしでかしてしまったようにとても残念な、動物的雄としての基本肉体の欲求と理性のせめぎあい、私的と公共性の区別が付かなくなってしまった一瞬があったということだ。何故か、とても残念。さて、・・・
◆今のこの時代に、この肉体がドップリ浸かって疑わないそのことから日常の全てが始まって、いつでもその日常から脱出(エクソダス)の備えをしておきなさい(詰まるところ死の備えをしておけ)、と安穏とした日常から引き剥がされるような思いが、ふと湧いて来る時があって目覚める。
 これは一種の不安でもあるが、僕にとってはその時点での老化していく、機械的には劣化していくと言えばいいが、ことその思考する肉体が、手っ取り早く言えば考える脳みその神経網の連結の、伝達物質(ex:ドーパミン)が激減しないように、維持するにはどうしたものか、とか、統合する僕の肉体の高齢化と共に起こる部分的弱点が露呈してくるに、そのことが光に向かうイメージと言ったらいいか、思考のイマジネーションを引き起こす言葉がもう湧いてこないのではないかとかなどを土台(基点)となる肉体を点検するところから始まる。そもそも僕には、そんなご優秀な?肉体などあったのか・・・ということも含めて。
◆1960年代、サルトルという実存主義とやらの哲学が流行りだしたころ、フランス文学やら映画には、ベットの中で目覚めるところから始まるシーンが多かったような気がする。ベットの起きがけに、眠りたいが起きようか、これから何をしようか、あれやこれやの思考の目覚めに、実はその肉体の目覚めに、今日の楽しい計画の思いなのか、あるいは、嫌な奴と会わねばならないストレスの前兆を感じるとか、つまり、肉体を動かしては、そこから起こる雑音をまずは差し置いての、目覚めてきた脳みそからの言葉の意識化、肉体とその狭間での点検ということを行うことから始まる小説と言ったらいいいか。お笑い芸人の「ひろしです」のあの美青年達が出てくる「ガラスの部屋」という映画にも、「ラスト・タンゴinパリ」の映画ポスターも(これは音楽だけで見てません)ベットのシーンが使われていたなぁ。詰まるところ、実存主義とかいう哲学は、自分の無様な肉体が、自分の一応与えられた思考というプライドを持って、その威信を維持していくことを心がけようと意志し、行動していく考えでもあると言えるかもしれない。(そして、これは誰にでも当てはまるものであるのだろう)
◆普段の僕にとっては、つまりこういうことだ、それは、一日一日、この抜け出せない与えられた肉体をもって、すでに若い峠を下ってきているこの肉体に於いて、それと闘いながら快適に生活できるかどうか、とうこと。 これが、「僕の日常生活の冒険」である
 自分の思考の言うことを聞かないこの肉体! 僕らがスポーツに敬服するのは、生き物に備わった他を排他する優位性、思う処の肉体とその目的をその行為をもって達成するところ・・・。連休、普段より時間があるし、身の回りのことで時間がないと出来ないことが細々あるから、すっきりさせていこう。
 まず、基底の流れ、機能、目標、目的、手段、実施(生活)、効果、実績、維持、有効性、是正、計画、繰り返し続く。鳥と蟻の思考、そして記録・・・。そして、誰でもがこの地上においては限られた身体をもっていること、そのこと自体を考える人はいないけれど。肉体に隷属している人間。霊と肉、霊の法則について、人がものごとを理解するということは、どういうことなのかとか、そして僕の限られた時間・・・などなどの、キーワードをいつもながらに思いながら・・・  

世界のベストセラーを読む(504回目)日本国が植民地にならなかったのは太平洋を渡ったプロテスタント航海士があったから。この国の基督教の歴史はこれが原点。

2018-04-23 06:30:31 | 日記
 NHKの歴史秘話ヒストリア「イギリスの侍・三浦按針(ウイリアム・アダムス):黄金のジパングを守れ」を感銘をもって見た。僕が、ブログでも触れてきた疑問の回答の総集編と言える内容だった。この国で神の国(イエスの言葉)を伝えようとする人は、三浦按針、この人の世界の時代のありように原点を当てて、それ以降の歴史を考えないといけないと強く思わされた。キリスト教が真に善いものであるならば、なぜ、鎖国などしたのか、この国にキリスト教を布教するに この国は泥沼だ、というような言葉が残されたのか、日和見的にそれが、この国を長い間、キリスト教を受け入れなかった非難の、信者にとっては悲劇の殉教という歴史イメージをつくってきた。
◆僕らはいつも結果から、今の僕らの疑わない良心をもって判断する。日本史を習う、世界史を習う、それぞれ学校で習うが、この地上は繋がって、人は生きて行き来をしてきたのである。時代の人を動かす原動力となっている、目に見えないもの、動機、考えなどは、時代の世界を見渡す視点と、時代の人々のまさに宗教性をもって考察しなければ、本当の姿に近づくのは困難なことである。
◆僕が昨年にも時折り書いてきた遠藤周作の「沈黙」の映画を見ての時代的背景ことを書いたし、昨年はマルチン・ルターの宗教改革から500年の年であったが、あの時代、ルーター、カルヴァンらの宗教改革、そしてドイツ、スイス、当時世界に開かれた来ていたオランダを経て、イギリスでの清教徒革命、プリグリム・ファザーズと呼ばれて大西洋を渡り、アメリカかをつくっていくその歴史の過程。そして、時代を経てプロテスタントの宣教師と関連者は多く太平洋を渡って日本に来て、その日本に対し貢献したのだった。功績を称える元東京都知事の石原慎太郎の石碑が、東京青山霊園の外人墓地の入り口に建てられていることは以前書いた。侍時代から(ここにブログにも書いたてきたが)坂本龍馬や勝海舟らも諸外国から影響を受け、時代が下り、以降、武士から明治政府の要職をなしてきた要人は、イギリスや西欧に学びに行ったりしていた。井の中の蛙であった当時、世界の動きから国自体の行く末を真に考えて、司馬遼太郎の「坂の上の雲」とまでなっていく訳だ。
◆スペイン、ポルとガルの植民地化、これは貿易と布教(イエズス会)が一体となったものだった。最後は、この国を植民地化して属国にすべく下心を持って徳川家康に接見したのを見破って、今に全てこの国は植民地とされるとアドバイスしたのが、イギリス人、ウイリアム・アダムス(のちの三浦按針と日本名となった)であった。按針とはまさに方向性を示す羅針盤の針。16世紀当時、世界の植民地化に大海を制覇しようとしていたのは、カトリック布教と一体のスペイン、ポルトガルだった。時代は相対立するプロテスタントが太平洋をわったってきたのだ、時代の流れからいえば、まさに神の摂理(計画)であったのではないかと思わされてしまうな。フィリピンという国名がどうしてつけられたか調べられたし。
◆三浦按針のことはWikipediaでも読める。当時、如何に同じキリスト教でも宗教対立が激しかったか。スペインは按針を殺してしまえと家康にアドバイスしたくらいだったから。しかし、この国は闘いに煎じた武士の国だったから、メキシコ、アステカのようには行かなかった。按針は母国イギリスで身につけた当時、他国でスペイン・ポルトガルが行ってきた覇権暴挙の歴史を学んでいたのです。三浦按針は、当時の一人のキリスト教プロテスタントとして家康に対応したのだった。ここが僕が言いたいところ
 目に見える衣食住に係わる総て(総じて貿易)と目に見えない宗教、心の問題は国組織に於いて一体となっては、民衆に悲劇を生むというのは、現代の世界の動きでも分かることだ。三浦按針は、個人として持ったプロテスタントであった(当時はカトリックと対立していた上での太平洋への船出だったから。まさに個人としてもつプロテスタント・キリスト教の信仰をもっていた。学校ではここまでは当然踏み込まないが)。
◆宗教性を背後に、この世的(肉的)に自己肯定を推し進めるとろくなことはない(国が滅ぶ)とは、この国も体験したことではなかったか。西欧の基督教に対抗すべくは、この国においては皇室のみ・・・と 無理矢理 神道と結びつけたのは伊藤博文であった。それからがおかしくなる、だから、神の言葉が、地上の全ての人類への言葉であり、生きて働いているのであるから、この国は常に真の神の国を目指して独自の神学を模索して行かねばならないというのが今回のブログで言いたいことである。彼(三浦按針)はこの日本の国で眠っている。(僕の住むこの地に初めてプロテスタント・キリスト教を伝えた僕が通っている教会の宣教師も・・・) Ω 

世界のベストセラーを読む(503回目)(その2)新しい時代の始まりのための誰でもが通過する個人的障害

2018-04-21 09:33:23 | 日記
 ”しがらみ” と書いているが、僕らが何とも疑問にも思わない生前から当たり前のこととしてインプットされている物事の判断基準となるまずは人に備わった”良心”というものへの疑問。
◆僕がブログを書き始めてからの、キリスト教を知るときにどうしても道徳的判断である良心からのアピールが先観念として誰でもあるというその阻害。
 天地創造の時、神が「人はわれわれと同じように永遠に生きるかもしれない」(旧約聖書:創世記)と危惧したことについて。
 それは、エデンの園の中央の”命の木”と”善悪を知る木”のうち”善悪を知る木”の実を食べてはいけないと言われた事柄についての疑問につながる。”命の木”については、現代では驚くことに、人の遺伝子解明がなされて、クリスパーキャス9とう装置で人のゲノム編集までできるようになっている。遺伝子編集によって、この地上に誕生する前から優秀な人を生まれさせようとすれば、かなりの確立でそれが実現出来る世界になってきたということだ。  ・・・で、食べてしまったのは、善悪を知る木であった。
 それから気になっていたこと、アダムはエバが蛇(悪魔)に唆され、神の約束を破り木の実を食べてしまったことに対して、エバを叱責しなかったのはどうしてなのか? それは、最初の人アダムには、まさに”善悪を知る”その判断基準がまだ備わっていなかったから ということになりますね、きっと。アダムの愛の対象とのみなろうとする現代の女性においても、アダムがこの辺の宗教談義に近い状況の中になると気をつけないと必ず破局に向かうから注意しないといけない。・・・これは余談。 

◆詰まるところ、人や住む環境(国)や歴史や伝統、つまりその時代により、この地上にとって普遍的なその判断基準なる明確なものはない、ということになる。それは時代の進展により、キリスト教的に言えば、「天になるごとく地にもなさえせたまえ」と”主の祈り”にあるごとく、そのイエスの再来(再び地上に迎えになることになっています)に当たり、この地上の人が目には見えない「神の霊」と共に、壊滅させようとしている悪魔との闘いによって、漸次、光が勝って来たということなのだが、ご存じ悪魔は人そのものが、神と共にある事実を知り始め行き場が無くなってあがき始めて、世界中の人が、その惨状をフェイク(嘘)かどうかも含め知るようになってきたということだ。悪魔も光を装い来るからわかり難い。悪魔は、天地創造をも一任された優秀な天使の一人であったが、神の創造の力に嫉妬し、神の怒りを受けて堕天使となり地上に落とされ天上に帰れなくなってこの地上で、神の創造の業を破壊しようと活動を続けている・・・

◆ここで宗教どうのこうのという人世界の議論を越えて、そもそも、古来から言われた来た見えない世界がある、永遠がある、天国がある(涅槃がある)、キリストの父なる神がおられる、アラーがおられる、大日如来がおられる、阿弥陀仏がおられる・・・など いずれ、そのように人類が、求め、願い信じているその対象を不完全な僕らは物体として確かめようが無いけれど、信じて生きている人という生き物の”霊”(これ全然、薄気味悪いものとしてではなく)が、その事実が、知らしめられて来たということです。・・・ で、どうしてそれが、観念的とか、薄気味悪いとか(そもそも人は知らないことに、なおかつ自分の考えに他人の言葉が介入せんとする事柄に対しては自由束縛の障害としてすべて拒絶するように出来ている)で、いい加減な科学的なものではないと拒絶するのか。科学的、検証再現が第三者にも分かると示されないところが困難なところだが、全く人の定めて理解している宗教というもの抜きに、まずは、いかなる人にも該当する「霊の法則」があることを開示したのが、新約のイエスであると僕は信じている訳です。神学的には「世界の終わりの始まり」がイエスから起こったと言われる所以です。西暦2018年、実際には3年ほどずれがあるらしいが、ご存じのようにイエス誕生から2018年経過したということですね。
◆新しい時代、新しい人間とは、もっと見えない事実というか、そのリアルさというか、「人はなんで生きるか」(トルストイの書いたお話にこの題名があり、僕はとても好きな話・・・ ここではそうではなく・・・)という命題に、人そのものは何か(ここの底辺には、このブログを読まれてきた方には神は自分の似姿に人を創造されたとあるから人を知れば神を知ることにもなるだろうという措定があります)ということをどなたでも考えてもらって新しい時代になっていくのに備えて欲しい思いがするのです。

◆世の中はとても便利にもなり、といっても多くの国はその恩恵にまだ遠い国はあるが、人の機能の延長としての見る、聞く、思考する、移動する・・・などへの便利さの開発が技術として成り立ってきた訳です。しかも、いまや心の中の解明も同時に行われて来た訳です。それが、哲学であり、心理学であり つまり人とは何か、その集団とは、歴史とは、あるいは宗教も含めて・・・それに、科学、それには医学、衛生、環境 ・・・etc。 煎じ詰めれば、人類が平和に健康的で長生きし、しかも物質的に満たされなくともハッピーな気持ちで生きられるという世界を目指して来ているのです。しかし、・・・

◆僕ら人間が、つまり自分は確実にこの地上の生涯をおえるのですからということを、誰にでも知ってもらって、その土台を理解してから普段の生活をして欲しい・・・と説教じみたことから始めました。
 そのために、全ての”しがらみ”を拭い去りつつ、闘いをしつつ人生を歩まねばなりません。最後は、自分の生まれてしまっては編集しなおすことができないゲノム(これを”自分のしがらみ”とみなします)を一切抜け出して天上に帰還していくのです。最後の肉体の死を通過してですが。すると地上の生きている自分の艱難、困難は違った意味で受け取るようになるのではないでしょうか。
 使徒パウロは手紙の中で「霊の法則」といった。「神は霊である」とも書かれています。自分の体験をとおして、宗教で語られたきた道徳律などは、この霊の法則に沿うよう生きることの勧めであったことが理解されてくるのです。無論、それからずれてくると困難、苦難が生じてくるという、いわば僕ら神の似姿に創造された人間が地上の舞台で生きて行く上での霊の法則だったことが分かってくるのです。道徳律などは、行動の一般化が外面的肉的教科のためにありますが限界がある、それはそもそも、生まれは有機的解析、医学生理的分析である程度、調べられているものだからです。人間不平等論・・・、地上の肉的次元から見れば、あまりにも確かなことなのです。しかし、それで神は肉的優劣如何に拘わらず、全ての人に該当するということを示したのです。知識あるものがそのために誇らないため、肉的に劣るものを敢えて神は選ばれ示されたとあるとおりです。

◆この国の人々、誰でもに考えて欲しいのです。自分が死んだらどうなるのだろうか。自分の死の諸々の所作はそういう意味があるのだろうか、などなど・・・です。そこで、今一歩、高みに登って考えて欲しい。知力、体力で限界のある人間にそれを突き止めて、到達することができるのだろうか、と。・・・・できない、であればこそ、全てのしがらみを捨てて、宗教としてのイエスではなくその話されたその内容のことを学んで欲しい。キリストは、自分という”しがらみ”からも脱出せよと、促しているように書かれています。(地上を去るとき、自分の欠陥だらけの肉体は消滅していくが、霊は何処へ行ってしまうのか?) ここで注意は、何も盲信して自分の存在がすっからかんになれと言っているようなことではない。当時の則してイエスは、時代の人に分かる話をした訳だ。そのことも念頭にいれないと、若い人には一種の身も心も・・・と誘惑ともなるが、ここにも闘いがある、むしろ、神学はこの辺から生じて来たといっても言い。洗礼者ヨハネのように皮衣も着、野イナゴなど食べてこの今の国に、そんな人がいないように、当時はそれでも民衆は、おかしいと思うどころか、尊敬をもって神の言葉を聞きに集まったのだから・・ということも配慮しないといけない。神は生きていると言われるとおり時代、時代に語る中で聞く者は、言葉(それを祈る言葉と言ってもいい)を模索するのです。

◆確かに、僕らは、その自分で選択できない、この地上の誕生からも、その制限から困難を学んで最後にそれを捨てて、天上に帰還していくのです。しかし、不完全なままでは天上界があるとしてもそこでは窮屈だろう・・・ということで多くの人は、いずれ壊れるこの地球にまた戻って来てしまうのだ(それを生まれ変わりとも言うようだ。中には人類の進展教化のために戻ってくる人々もいる、)これが仏教の教えでもあるのです。衆生が少しでも死んでからもよりレベルアップした世界に、人生に、生まれ変わるために死んでからも長い長い旅をすることになっているのです。死んでからも精進ということでその旅に伴ってくれるのが真言宗であれば、空海さんその方であり(同行二人)、また諸々の諸仏ということになるようです。
◆僕の実家は、真言宗智山派なのですが、その宗派の方がどなたでも行う「智山勤行式」の冒頭は、『懺悔の文』から始まります。御自分の家の宗教のお経の中味を訳の分からないものとしてのありがたい呪文としてだけでなく、その意味を調べて欲しいのです。
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 我昔より造るところの 諸々の悪業は 皆無始(ミナ、ムシ)の貧瞋癡(トンジンチ)に由る身語意從り(シンゴイヨリ)生ずる所なり
 一切我今皆懺悔したてまつる
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 この、寺の住職によると、「無始」という言葉は、キリスト教で言えば、原罪に該当するようだ。この国のいずこの仏教と言えども、肉体に引きずられる言葉、その肉体のもろもろの否定から始まっているようなのです。 

◆キリスト者のこの地上での艱難、苦難はイエスが十字架に掛かられたという、それは、人間の罪を背負って苦しまれた、ということになるのです。信者には、自分の罪を担って苦しまれた ということになるのです。したがって、そのことを信じた者は、死んでからの精進の旅、そして地上に戻る生まれ変わりはなく、イエスの用意された永遠の住まいパラダイスに入れるのです。表題の「~個人的障害」とはこの自分の罪を自分の言葉で思い著し、イエスがその全ての解消のために十字架に掛かったのだと認めることなのです。
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 イエスは言われた 「生きてわたしを信ずる者は死ぬことがない」。「わたしを見た者は、父を見たのである」。・・・Ω 

 

世界のベストセラーを読む(502回目)(その1)新しい時代の始まりのための誰でもが通過する個人的障害

2018-04-19 07:00:00 | 日記
 500回を越えて小難しい話がつづいてます。この地上の駄目さ加減の露呈であることに、本当に僕らは気づいて行かなければいけない。大義名分はどうでも・・・・。真実は、闇の中でも地球の裏側では、命が善か悪かの演出で失われていっているのだから。その演出ごときに僕らが気づき始めたというのは、人類の考えの大きな転換を図るべく、今までの人類の考えの終わりの始まりを感じてきたということなのだろうと思わされます。
◆新しい時代の始まりということも言えるが、人の体のつくりや、僕が述べてきたところの”肉体に引きずられる言葉”の仕組みが変わらない限り、つまり、結局はそれに起因する今までの道徳観とか・・・もろもろ、歴史などを実はこうでした・・・と暴露されても? びくともしない芯の確かな生き方の根を僕らは持たないといけないのだろうと思っています。 でなければ、これからも様々なメディア関係情報に振り回されることでしょう。それには、やはり肉体の痛みを伴って理解しないとまさに身に着かないということになるのだろうが、キリスト教では水浴びしたり、まして火をくぐったり、お題目を何遍も唱えると言う肉体に負荷を与えるような苦行などはなく、パウロの手紙(新約聖書)などを読むと、このようなことは人の罪というものを(ここでは原罪というもの⇒このような言葉自体は出てきませんが、人類の創始アダム以来の、という意)拭い去ることは、決して出来ないということがしっかり書かれています。では、そんなの考えずにやめるのかというとそうでも無い。ここに、宗教ありきとなる、どうどう巡りなのですねぇ。ここに、イエスがキリスト(救い主)であり、他の宗教とは絶対的に異なるのだという理由があるのです。(無論、決して他の宗教を批判しているものではなく、永遠のパラダイス、仏教で言えば涅槃になるのでしょうか、そこにイエスの十字架がストレートに入るパスポートを与えてくださったといことになるのです。ここが他の宗教と絶対的に異なることです)。
◆思いを身につけるということに対して、その他、臥薪嘗胆(ガシンショウタン:これは修行ではないけれど思いを遂げるために体に過酷な環境を与えて念ずるという意味あいがある)という言葉もあるくらいだから修行そもそもが肉体に過酷ないじめをすること自体を考えると分かるような気がしないでもないけれど、それは、頭と体の痛みを伴う体験をし、その目的を身につけるということ程、つまりは人というのは駄目な存在なのだということだ。普段の生活では、とてもそればかりはやってられないということで、仏教でも、キリスト教でもイスラム今日でも、日常の生活、仕事も修行なのですよ、という教えはありますね。
◆では、天地創造のイエスの父なる神との古い契約ではどうだったのか、試練があるということは、人は信条など思ったり考えだけでは身につかずということだった。旧約聖書に、預言者の言葉に民はアーメン(その通りです)と誓う処が何度も出てくる、が結局、思いだけでは貫けず、その後、大変な肉体的にも試練を受けるという歴史を歩んできたのだった。で、僕らも生きる上での試練は神からの何らかの教えであると思うべし、です。「自分の十字架を負ってわたし(イエス)に従いなさい」とイエスは語られた。ここで、自分というものは・・・という言葉が要求されてくるのです。
◆それで。どうして争いなどあるのか?? これも試練と言えば、大いなる試練である。
 今回の議論の中心は、表題について・・・つまり、宗教議論など取り去った時に、そのそれぞれの観念的な事柄についての議論ではなくて、それらの教えを受ける側の僕らと言えばいいか、その事実の有様はどうなんだ、とよく考えて見ることなのです。そこで、ここで又、後退するドン引きの話にどうしても、一度なりとも、誰にでも、そのことは一度、通過しないといけないことになっている障害が現れるのです。
◆それは、キリスト教では「人の罪」ということ。仏教では、お経には罪という言葉が出てこないが懺悔という言葉がある。カトリックには懺悔の告解室があるのはご存じかと思います。そうです、日本の方の多くは自称仏教者なのだろうけれど、唱えるお経の意味は坊さんにお任せして殆どの人は分からないのではないだろうか、ですが仏教でも必ず懺悔というものが必ず唱えられているのです。で、理屈っぽくなるが冒頭からの議論について言えば、不完全な欠点のある人が万物の霊長と言われていても、極限まで不完全なる肉体で修行をしても通常人には、限界があるということになる。使徒パウロは、時代を遡り、旧約に書かれてきたとおり創造者なる神が、人を創造した起源まで遡って、アダムに罪が入ったのだから(原罪)以降の人は、父なる神が独り子イエスをその罪の解消として十字架にて抹消しない限り、永遠の世界には戻れないこと、そのために新しいまことの人イエスの十字架があったことの意味を発見したのだった。(新約聖書「ローマ人への手紙」参照)・・・ 続く