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イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコ1:14b-15)
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「わたしは復活した後、あなたがたよりも先にガリラヤへ行く。」(マルコ14:28)とイエスは弟子たちに言われた。
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若者(天使)は言った。驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。
・・・さあ、行って弟子達とペテロに告げなさい。「あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と。
(マルコ16:6-7)・・・さて、ガリラヤとはいったいどこなのだろうか。それは無論、異邦人の僕らにとっては地理的にあるガリラヤ湖のことではないだろう。
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◆宗教オタクの偏狭な信者なのかと思われてもそれは違うと申しましょう。多くの人は、そう表明する人の背後にある集団、宗派とか、伝統、しきたり、それに一応神様のこと
が言われているのだから当たらず触らず非難もしないことにしましょうとか、そもそも良いことをされているらしいからこちらから批判することでもないでしょうからと思っ
て居る方が殆どであろうと思われるから。しかし、低い次元ではあるが故にまずは不完全なこの地上の人の言葉や文字を借用して、伝えていくしかすべはないであろうと思わ
れるから伝道者はそれを絶えず行う。地上に生ける人の限界であるけれども・・・。しかし、
◆神の言葉というのはそれらのこの地上のあらゆる”しがらみ”からも解放されて、まったく自由に上からのみ(つまりこの地上の三次元的な言葉ではなく)全く異なった次元か
ら個々人に降りてくる(命としては降りている)ものなのである。しかし、あまりに一面的な長い伝統やらその歴史に積もり積もって汚れがつきすぎた。僕らは、自分自身の
肉体をも目に見える実体としては捨てていずれ次の世界に行く。僕はその身体それをも”しがらみ”(正確には生き物としてのDNAの欠陥を誰しもが引きずって真の自己と神と
の会話を眠らせているまとわりついた滓のようなもの。そして、それは誰でもがこれがないとはいえない、あくまで負のもの)と呼んでいるものなのだ。2019年、読む者も
語る者も、あまりのその”しがらみ”に気づかず彼イエスの言葉を良く解釈をしようとし始める。
◆しかし、待ってくれなのである。その良く解釈しようとする、そのことの判断がすでに”しがらみ”にまとわりつかれたものではないのか、と僕は抵抗する。
新訳聖書の中の一つの言葉、例えば記事の中の土地、時代などに、更に話す者、聞く者、その先理解などに、イエスの言葉に実に多くのメタファー(暗示)が示される。それ
は、重奏的で、天上界から黄泉の国まで、時間的には天地創造から、この地球の終末までからの「ことば」が発せらている。
◆イエスが伝道を始めたのはガリラヤであった。かの地にはガリラヤ湖がある。復活したその朝、ふたりの弟子は若者に告げられる。ここにはおられない。かねて言われたとお
り、先にガリラヤに行かれている。そこでお会い出来るであろうと。今、聖書のこの言葉を聞いた僕らのガリラヤとはどこなのか。そこで、僕らは復活したイエスの言葉を聞
くために再びガリラヤで始められた新訳聖書の彼の言葉を読み始めるのです。僕らが命があり、自分の言葉で意識してイエスの言葉を確認できる「今」と言う時、そこにイエ
スは復活して語られているのだということになるのです。その場、その時が若者(天使)が言った復活したイエスにお会いできるガリラヤなのであると。 ・・・