屁理屈込めた長い長い物語の始まり。
お話する前の舞台設定のことを話す、その屁理屈だけで終わりそうなのだけれど・・・。
人を創造した宇宙人がいつから神様と呼ばれるようになったのか。まず、ここから語りましょう。
ご存知ように、それまでにも長い長いお話があるのだけれども、そしてそれはある程度までは解読されているのだけれども、地上に生まれた僕らには限界があり、ある程度のところで納得しなくてはいけない。見、聞き、知られうるところ以上のことを理解しようとすれば、どのような形でか宇宙人に教えてもらわなくてはいけない。
ずぅう~と、そのことを願っていれば教えてくれるかもしれないけれど。否、必ずや教えられるであろう!!
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◆「神は御自分にかたどって人を創造された。・・・」(創世記1:27)
それに、アダムとエバさんは、草食主義者、ベジタリアンだったことが書かれている。(同1:29)
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造られた人が(造られた、というこの「造」という漢字を使うのも意味のある事と理解される方はうなずくかもしれない、物体として形をつくったのそれでなく、作者つまり創造者(宇宙人)の生きている意図が込められているということを含むという意味での漢字の用い方)。
そもそも創造者を語ること自体すでに論理矛盾、当初から限界のある話であるということ。・・・これは、人としての生物学や歴史や哲学や、その他もろもろのことがお互いに知られて、無論、自分という生き物もかなり厳密に考察されての前提に立っているのだが、それでも理解するということ、ましてや納得するということなどは、その人が意識としてか無意識としてか体に染みついた先理解(先理解の疑問と言ってもいい)に一致した時に”分かった!”ということがいえるものではないのか?・・・
ところが、世界中の宗教のありやなしや、人が思いをもつその方便に多々あろうが、何もその介在物を取り去って素直に一人一人に尋ねてみると、その願いも次元が低そうなのから高いものまであるけれど煎じ詰めると、
思うところは自分の命(ここでも”自分”というややこしい言葉がでてきて数冊本が書けそうなのだが)、人々の平和、永遠の命などなどでおおよそその願いが最大公約数的に同じ傾向を示すのは何故なのだろうか。無論、時代的に歴史のとてつもなく長い時間が流れて、被創造物としてのその地上での思いが広範囲にシェアー(共有化)されて来たことはいうまでもないという舞台設定が形成されてきたという背景があったということなのだが。
神は自分の似姿に人を創造された、その過程はその物体に”息”を鼻から吹き込み、初めて生きる人になった、とある。その”息”とはつまり、一応それは”霊”のことであるとする。(”・・・とする”、と書くのはそれがよく分からないからである、おそらく誰もが推測されているものであろうことは確かであるが、一応こう書いておく)。
実は、イエスが語っていて分からない矛盾したような話は、この次元から話していることなのである。水平次元で僕らがそのまま受け取ると受け取る側によって、かなり問題を起こす言葉がある。ここに悪い宇宙人が漬け込むわけだが・・・。
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◆「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方エデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。」(創世記2:7-8)
*******(ちょと余談)
この唯一の神が天地を創造されたお話が、日本にも遠い昔伝えられていた痕跡は、今もこの国の神社の石灯篭にも見ることができるな。お社の両側の石灯篭のかかり火の為に彫られた穴の形、太陽と月だ。日本は太陽が昇るのを一日の初まりとしているが、あちらでは、日没(お月さんが出てくる夕方)から一日が始まるのであった。日本の国旗の日の丸が太陽を表しているのはすごいことなのである。・・・
神は恐竜を創造されたのかという疑問。宇宙人は、人と同じで、地上に創造物の繁殖に相応しいか否かを見出し、いろいろ思考錯誤されたり、ナスカばかりでなく世界のいろいろな場所で、地上絵を描いて遊んでいる?、否、地上の人にその存在を知らしめんとコンタクトを図っているということなのであろうな。一応それらの痕跡は、人に地上のことを管理させる前の動物の試行錯誤の長い時間に、余裕があってその余暇に遊んでしまったという愛嬌もあったということなのだろうけれど。
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◆「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、・・・・創造された。」(創世記1:21)
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Naze otoko ni onna wo HAGU sitai kimochi ga okorunoka・・・sore ha otoko no muneno abarabone wo totte onna ga tukurareta node otoko ha motoni modositai to itumo omotteiru kara nanoda.
Kinndann no Mi wo tabeta toki futarino Me ga hirakarete hadaka datta koto wo siri, kosi(Seiki no koto) wo " itijiku no ha" de kakusita nodaga, Kami kara hanare chijyou ni okarete jiritu siteiku toki "Kawa no koromo" wo kiserareta noha doubutu no Seisyoku no sisutem wo mini matowasarareta to iukoto・・・nanoda.
*******(余談、終わり)
初めからこのように書いていくと、道のりがまったく順調のように思えるが、実のところ、他の裏話があった。聖書の冒頭から、あれやこれやの模索があったのだが(例えば、何故に天地創造のお話が2回書かれているように読めるのか。2章の4節から、また天地創造の由来として話が簡略化して始まるぞ?)今や宇宙人のBOSSのお話なので、かしこまってそれを受け取らねばなりませんぞ、ということになっている。
限りも無く遠い昔、宇宙人は、天文学的な広大な宇宙の揺らぎによって時空を旅することができたし、現在もしているのだが、宇宙にエネルギー資源を探査しに飛び回っているうちに、ひょいと時空がゆがんで、ふさわしい惑星に飛び込んだ。その中に実に生き物が自生し生死を繰り返す自己完結に持続維持できるであろうと推察された星、つまりそれが地球だった訳なのであるが、それを見つけたのだった。
彼ら宇宙人の技術は有機物の自力で動く人をも創造して、それが自分で物事を決め、繁殖し、天のごとく(善い宇宙人の実在する被造物としての国)あるように地にもなさせ給えと、最もふさわしいと見出したこの地球に自在物を現在化させることにその目的があったそうだ。
で、先に述べた裏話をそのうち書いていくけど、今の人の判断でいえば宇宙人の地上での使用人、労働者として造られたという話もあるのだが、その場合は地球資源の採掘労働者として造られた、という話である。その場合は、人は労働としての手段であるな。こういうことも人を動かすOS(オペレーション・システム)に組み込まれて形成されていたということだ。
さて、僕らの日曜日がお休みとなった一週間のことは、神様が天地を創造し六日目に人創造され、まったくVERY GOODだったのに満足されて安息をとられたことから来ていることは、みなさんご存知かと思うが、僕が小さい時は一週間の最後が日曜日だったけど、カレンダーが日曜から始まったいきさつは、キリストが日曜の朝に復活したことに由来するらしい。一週間は復活から始まるのである。月曜日から又、仕事かぁ~とくたびれ感覚ではなく、日曜日は休息の時、創造せし方を思い休養をとるためぼぅ~とする一日でもあるのだ。
くだくだと書いたが、冒頭の疑問はなんだったっけ? 創造物である人が、対象として天地を創造した宇宙人を神として意識し始めたのはいつからか、だったな。
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◆「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」(創世記4:26)
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セトとは、アダムとエバの子のカインがアベルを殺したので、神が彼に代わる男の子を授けた(シャト)から来た名前。その子供の代から主の御名を呼び始めた、と書かれている。いづれ、遠い遠い昔のお話である。・・・が、天地創造は次の言葉が肝(重要)なのである。
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◆「主なる神は、・・・その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。・・・」(創世記2:7-8)
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ここに、『命の息(つまり”霊”)』のことが書かれ、『生きる者となった』とある。人類が生存する限りこの言葉が世界のベストセラーの大切なキーワードなのである。・・・ここにあるのだ! 続く