marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その13ー①)世界の教養:聖書を読んでみよう。自分の言葉で!

2024-12-27 18:08:11 | 思想・哲学

 突然脱線というか、本命はこれからなのだが、ハイデガーは修道士になろうとし当時のキリスト教神学や人間学を研究からスタートした人だった。

神学も常に進展している。当たり前だが、これだけという神学などというものはない。我々が生きているように、その『存在』も生きていると言われるから、十字架の神学、希望の神学、解放の神学、論理神学なんてものまである・・・。むろん、日本の神学というものもある。

西欧にはその教養基盤があるわけで、古来、ギリシャ哲学からの歴史の中で人がどこまでも精緻に言葉化しようとする哲学が行われ、その上に進展してきたわけだった。

それで、いきなり20世紀最大と言われ、実に多くの思想家、哲学者に影響を与えたハイデガー『存在と時間』について語ろうとしても日本の学者さんにとってもどのように解説したらこれはむずいと。あえて、このようにしなくても・・・。しかし、ハイデガーは、従来の考えパターン自体を変革しようとしたのでした。

それで、それなら彼の、西欧の深層にある根本の、この国でもある程度のことは知られている聖書を、すべてのこだわりを排除して(この手法がまさに彼が目指したものであったのだが)僕らも学んでみようではないか、と勝手に思ったわけなのであった。

『死への先駆』は、本当の自分になることなのだ、などという??の意味が、他にも???が盛りだくさんなのだが、理解できるように思われてくるのだった。語りが長くなるので以降、本題。

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まず、心がけて欲しいのは、神はいるとか、いないとかの考えは抜きにして、聖書を購入のこと、立派なもんでなくていい。中味は同じだから。異端と呼ばれるもろもろの聖書もあるが、それは書店ではあまり無いようだから新共同訳がいい。読みやいリビングバイブルもあるが、ストーリー理解はいいだろうけど、日本の学者さん方もいかに新約聖書ギリシャ語を訳すかに精魂こめてこられたものなのでそれがいい。

いのちのみことば社の解説つきもあるが、できればそれは初めからはやめる。まずは直接、聖書と自分の言葉で対峙することを心がける。あくまで自分の今の言葉で読むこと。結構、むずかしいと思われるが、解説書つきは二次的で。

再度、書きますが、介在物はいっさい用いないというのが、最後まで必要です。僕ら人間は思考も弱いのでどうしても解説書や他の介在物(あるとあらゆるある書物や教会や人の話)に引っ張りこまれやすい。テキストがあるということは、読まれるためにある。なんでもいいが、線を引いたりしてください。

最終、私と神(一応、『存在』されているとしておいて)との関係と考えること。『存在』しているので、彼は生き、動いている、と言われる。考えてみれば僕らの今もそうなのである。神は消滅することがないといわれる。とすれば彼と会話がつながれば、我々は死なない、消滅することはないということか!

何度でもいう。聖書と私(自分)を追求のこと。そのかかわりを持てば、旧統一教会もエホバの証人も、すぐおかしいということが分かる。ひっかった彼らは、自分の言葉で聖書を読んでいない。自分の言葉を持っていないのです。ハイデガーはこのような人を『非本来性』として『ひと』と語っている。イエスはそのような事態がおこることを予言しているが、いずれ最終あらゆる介在物を入れないことを心がけることです。・・・つづく 


(その12)序章:勝手に解釈、ハイデガーが『存在と時間』を著わしたその基盤にあったキリスト教神学について

2024-12-26 11:46:33 | 思想・哲学

 『前置き』・・・22日クリスマスと24日イブ礼拝にて お休みを頂きました。

この国の総理がキリスト者であって、日本キリスト教団富士見町教会で22日(日)のクリスマスの礼拝に参加されたことが、新聞の首相動向の記事に掲載されていた。虎の威を借りるというわけではないけれど、2022年10月22日に天に帰られた以前、東京神学大学の学長で神学者であられた大木英夫先生と教会に訪れたことがあった。主任牧師の藤森先生とも話したことがあったし、この教会ではプロテスタント神学研究会だったか、定期に教会が一般の方々にも解放されて勉強会が行われていた。

富士見町の駅にも近いし、会社帰りの方が結構聴講されていて、恵まれているなぁ、と内心ぞくそくしたもんだった。「古きは過ぎ去り、すべては新しくなった。」のパウロの手紙の一説にあるように、この大都会の人通りのある街角で一般の方々に語られているのに明るい未来を感じたものだった。

アメリカのトランプ氏も娘婿クシュナー氏がユダヤ教であったから、彼はイスラエルにはかなり加担していたけれど、今回大統領に再選されクリスマス賛辞を口にしていたというので、民主党の人々も取り込み、従来のアメリカ合衆国の統一を諮ろうとしているものとも思えるけれど、2025年は世界的にこの国も与党少数等になり、より話会いがなされるようになるだろうが、どうなるかなぁ。

キリスト者と言って、みんな同じような考えになるかといえば、決してそうではない。それぞれが違ってそれでいい。多様である。この度の首相へも昔、○○大臣だった時、当時のキリスト教団議長から抗議文を出されたことがあった。信ずる事は同じでもそれは実に手に届かぬ高い次元の話。地上のことに人は労するが、全ては神の摂理のもとに運営されていくのであろう。

だからこそ、地上の人の考えは多様であっても、それ故にキリストは来たと言えることになるのだろう。・・・とハイデガーの話に何の関係があるかといえば、実に宗教的観点から見ればこれは大いに関係あり、彼は『人間』を『現存在』と表現するのであった。・・・つづく  


(その11)本題:ハイデガーの『存在と時間』を書く深層を探ると

2024-12-23 17:38:43 | 思想・哲学

 今はすっかり雪化粧なのだが秋の海を思い出し、雪が強く降り始め、今は懐かしい風景。

彼の著作とつきあうと、内容を理解する、理解してもらうために限りなく解説だけで終わりそうなので、ハイデガーが本を著そうとした深層に強い宗教性があったとすれば、逆に彼を理解するためには巷に売られているテキスト(聖書)から理解することを試みればいいと思ったしだい。

理解するための先理解(前提)の共有化が図れるのではないだろうか・・・むろんすべては無理だけれど。それで、ぐっと宗教色を出して要点を書いてみたい。そのヒントは、新約聖書の使途パウロの多くの手紙にヒントがある。

パウロは、当時の文明のそして哲学の頂点であったマケドニア(ギリシャ)に神の啓示として導かれた。僕らが今、聖書を読め、その神学を学べるのはやはり時代を動かす神はおられるのだろうと思わずにはいられない。

これから手紙の箇所をそのまま記載する。そうすれば読む人は、ハイデガーがなぜ『現存在』とか、『世界ー内ー存在』とか、『本来性と非本来性』、『死への先駆』とか、もろもろの言葉が出てきた推察ができるのではないだろうか。その思いの多くは的外れではないはずである。・・・


(その10)ボケ防止にハイデガー『存在と時間』を読む

2024-12-20 16:47:07 | 思想・哲学

  写真も飽きたので秋に撮影した故郷の山を・・・

キリスト教神学の研究から始まり、考えの深層にその強い宗教性があったとすれば、同じテキスト(聖書)を読む宗教性と言っても、それは個々人の信仰の度合いにより相違があるのだから、哲学という学問としてはアウトなわけだが、実は彼が表さんとしたのは、モノが『ある』という認識、人間含め限りなく人それぞれ個々の在り方、内面、外周に哲学的な面から精緻に言葉化して迫ろうとしたことなのだった。

それは、人間は見た目だけで、この人は・・・などと評価するが、実際は生い立ちから、その人の考えから、さらにあらゆる存在(ある)することが当然だろうと思ってきたことなどの考えが、その個々の実情は実は異なってそこに『ある』、ということだろうと厳密に考えて再考したこと。だから人間を『現存在』と書き、そのありようを『世界ー内ー存在』などと表記したこと。従来の先入観が入り込まないよう言葉を選んで。

ボケ防止にあれこれ聖書神学や人間学をこのように表現しようとしたのか、と思えばがぜんボケ防止にはいいなと思ったのだった。しかし、くだくだ書いても(もともと、付き合うとそういう思考になってしまう中毒もの)先へ進まないので、数点、キリスト教の面から無論すべてからは迫れないが、ヒントと聖書の新約聖書の手紙から書いてみたい。

当初からこの本を読んでも何のことかと思われれば、逆に誰でも市販されている聖書をもとに、それに付随した神学初歩を少しかじりながら、なるほど天地創造来の考えのある宗教性は、西欧での従来の哲学者、思想家に多大な影響を与えてきたのかと感心する。

僕なりに理解した内容は先生方の本同様、どうしても解説で終わってしまう。読むのに一苦労でボケ防止にはいいが。次回、ハイデガーがキリスト教神学の書く欲動となった先理解となるポイントを僕なりに書いてみたい。・・・


(その9)ボケ防止に:勝手に解釈、ハイデガーの『存在と時間』を読む

2024-12-19 16:08:25 | 思想・哲学

西欧では、歴史の中で宗教と政治の争いや思想哲学が、大衆に先理解として影響を与えて来たので、この一読訳の分からない哲学書が出たとき、それまでの思想界に影響えを与えたのだった。

知られた風土的諸々の言わずと知れたこのような先理解が、長年定着した上に思想哲学界に改めて風穴を開けたのが、この書物ということだった。

この国の書店でもよほどのオタクでなければ、一派の方はこの本は手にとらないだろう。読む方がいたとしても、取り上げられた言葉の意味、その解説から理解していかないといけない。それでけでも霹靂。

かなりのハードルがあると思う。ふと考えれば、このやり方で語り続けると息詰まるのではないかとふと思ってしまう。これを先に書くとよくないけれど、実はこの本は、計画は長々と第二編まで書く予定だったらしいが、行き詰まりを見せ、第一編だけで書くのを辞めた本だということ。

しかし、僕にとってはボケ防止にはいい。何故そう表現するのか、造語まで使ってなどと考えるのはなるほどねぇ、などと思うけど・・・。

誰でもが当然もつであろう、言葉に対する先理解までの意味を脱色させて、そんな努力をして普遍化を図ろうと心掛けるけど、(例えば、人間のことを『現存在』と書く。さらに、自分の内面、周囲の関りなども含めての表現を『世界ー内ー存在』などと表現する。他にも以降、多々・・・)

もう、これだと異邦人には到底わからんということになる。轟先生の本にも30年以上も付き合っているという。ハイデガーの本についてまだ本屋にあるので、一種中毒になるような、本である。

・・・ということで、かかわると本題に入りたいが、やはり周辺をぐるぐるうろつきまり、その語りを生涯、言い続けないといけなくなるような本なのだった。

で、次回、元に戻って本題に・・・つづく