誰でもが幼少の頃にその人生の原点が創成される。森山のここ麓一帯は、八郎潟湖につながる沼地の海だった。
無論、本人の無自覚のご先祖から来るDNAを土台にするのであるが、10歳ころまでの成長期の環境のありようからも大いに影響を受けているものである。大江が四国の田舎の谷間で育った頃からのインスピレーションを受けて、それを土台に小説が描かれていることに関心があった。あぁ、僕の田舎にもこんなことがあったのかなぁと思い出すのである。そして誰もはそんな故郷を持っているのではないだろうか。
あの谷間で蜂起した爺さんの話や、現在の彼の居場所、それは海外の大学の官舎からだったりと、彼が専攻した新実存主義なるサルトルの手法が、それは実存、つまり誰もが身体(肉体)からの省察により志向をもたらす意識の言語化というものを、つまりはこれは僕なりの解釈なのだが、それは言葉を持つ人であれば冷静に自分の意識を形成する内省言語の開拓を行えば、普段の生活であたりまえのように行っていることではある。(専門の宗教者はこれを早朝からの祈りというかもしれないが)
僕の生まれたふるさとも、ネットで多く出てくから穿り出せば、その歴史はとても面白いものなのだろう。まず、生まれた田舎についてなのだがネットでは『「浦城」の歴史を守る会(NPO法人)』がググると出てくる、それから『副川神社(そえがわじんじゃ)』の入り口にもあたる『常福院』という真言宗の由緒あるお寺もあり、この神社は歴史的のも由緒あるところでこれも出てくる。
『浦城~』は歴史的には面白いところである。そのNPOの責任者は、長年高校の校長などを務めた方でとても温厚な方で、周囲から先生と呼ばれていた方であった。お話した時「あんたはこの村で生まれたんか、お前さんはこの村の宝じゃのう。」と言われたがつづいてこんな話をしてくれた。
この浦城の地域では、昔、殿と呼ばれた方が反乱をおこしたことがあってな、この下の石垣が残っているじゃろ、あそに住んでおった。浦城は古代豪族三浦氏が居て戦禍で敗れ、当主は裏山の『叢雲の滝』(この滝の中の岩には梵字が刻まれて修行の場でもあった)の傍で切腹して果てた。その生き残りだったのだろうかなぁ。詳しくその話を聞く時ではなかったのでそれでその語りは終わったのだったが、学校で習うような古来の歴史の中の続きとして細かなドラマがどんな田舎でも起こっていたのだろうな、というようなことを強く思ったのである。
それを聞いていた時、お袋が語ってくれた昔の話を思い出した。爺さん(僕を可愛がってくれた)の親戚に浦城に住んでいる人がいてなぁ、あまりに勉強しすぎて気がふれた人がいたんだと。小さいころの話で、少し怖い思いもしたのだが、身内でそんな人などいれば普段は隠すものなのに、その気がふれたというのは、どうも村一帯に反乱めいたことを起こしたらしいのであった。
この地域は古来から大陸からの移住者も多くいたのだろう。この地は、古代神道に熱心だったようで、その気のふれた親戚の爺さんは、廃仏毀釈の令が出た時に、一斉にお上の威光を示すお寺に対して反旗を翻して村人と一緒に廃物希釈の運動を蜂起したようなのである。僕の爺さんも数を数える時、1,2,3~ではなく、ひぃ、ふぅ、みぃ・・・だった。その、ひぃ、ふぅ、みぃ・・・というのは、神道の祝詞の呪文であるそうな・・・。
その名残だったのか、新しく建てられたが、昔のお寺の門の傍らに立つ六地蔵の頭がすべてもぎ取られているし、お墓の脇の上部落と下部落のちょうど真ん中あたりの田圃道を上っていなかのお墓につくのであるが、下部落の六地蔵は頭がすべてもぎ取られていた。その石垣には今はひっそりとした苔むしたと言わんばかりの小さな民家が残っている。そして、その家の脇道は山手のお寺に続く道にもなっている場所で登った先の一帯がお墓なのだが、お寺に向かうお墓がすべてお寺に背を向けて建っているのである。
名前を見ると「金○○」が多い。あぁ、隣国から海を越えてきたこの地域の人々のご先祖様なのだろう。「金○○」という名字の方は改姓をしたためか、今はこの部落にはいないようだ。山に行く道沿いには『庚申』の板碑が(これは市内にもあるが)多く見られる。これもこの東北の地に古来、大陸から多くの人々が来ていたのだろうなぁ。
さて、今、僕のいるところは、裏山に古代東北の最先端の守りだった秋田城があって、ふるさと創成の基金もあったせいかだいぶ整備がなされ古代の城の門も建てられた。ここで大河ドラマでもやらんかな。裏山の高台に昇れば南の鳥海山や北には男鹿半島が見え海が見渡せる。その場は今は、春のラッパ水仙での絨毯になり始めた。・・・さぁ、田舎の山へ出かけるとしよう!
キリスト教会には教会暦というのがあって、’23年は4月2日の週が受難週にあたります。昨日、6日はイエスが最後の晩餐を行い弟子達の足を洗います。それは、弟子達の足でイエスの業(わざ)を苦難をとおして世界にに広め伝えなければいけないという暗示でもありました。洗足木曜日と呼ばれます。
そして、今日、金曜日十字架に掛かられる。朝の10時頃、そして午後の3時頃に息を引き取られたと言われます。
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既に昼の12時ころであった。全地は暗くなり、それが3時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。(ルカ23:44~46)
十字架の7つの言葉を残した言われる。天の父に向かってこう叫ぶ。
「父よ、彼らをお赦し許しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)
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さぁ、僕らは自分の事がどれだけ分かっているかと問われれば、第一にそもそも、自分を相対的、客観的に自分を見つめる基点をどこに置いたらよいのかさえも分からないのではないか。考える言葉も持ち合わせない。あたらしい実存主義はこの言葉の獲得を目指したものと理解しています。
3年と僅かばかりのイエスの生涯での言葉と行為は、読む者たちに対して彼が語り掛ける内なる声を聴くこと求めさせるようにも思わされるのです。
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彼(イエス)は今も生きている。”死者を死すると思うなかれ、生者のあらん限り死者は生きん。”
それはこういう意味にもなるでしょう。”イエスを死すると思うなかれ、信者のあらん限りイエスは生きん。”
肉体としては見えなくなるが『聖霊』をあなたがたに与えようと言われ、イエスは天に昇天したと言われる。
彼は『聖霊』として、語り掛けているというのです。
信者個人としては自らが天上に帰還する誉をいただいたことに、おそらくこう責任があると思っているのです。
わたし(信者)の関わる、わたしのDNAを持ち運び来たいにしえの未信者の親族の方々よ。わたしたちがこの地上の存在し続ける限り、あなた方は生き続けるでしょう。・・・私が永遠の命の門をこじ開けます。ですから、迷わずついて来て下さい。
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大江の母親が、あの四国の山の中でハックルベリーフィンの冒険の本を彼に与えたこと、早逝した兄から英語の辞書をもらったこと、そして彼が心理的深層の関連に、頭の出来が良かったと思われた兵衛伯父さんのDNA関連を認めながらも、そういう血筋が流れたいたことは、彼が一浪して東大のフランス文学の渡辺一夫の元で学んだ向学心をもつ幼小の頃からの原点にもなっているものであったろうと思われます。更に古代に遡れば、名字から言って朝廷側に反乱か、疎まれて四国の山に逃げ込んだ祖先がいたのかもしれない。
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世界大戦で日本は敗戦し、その状況に渡辺一夫はイエスの磔刑状況を思いつつ人間の罪を嘆いた文を残しています。
大江の専攻は、当時のJ・P・サルトルでしたが、サルトルは哲学の経緯を引き、僕らは新しい実存主義として読んだものです。僕はカミュが好きでしたが・・・。サルトルは仕事がらか無信論者でした。ノーベル文学賞も辞退し、女流哲学者ボーボワールとの親交がありました。彼女の言葉『女は女に生まれるのではない。女につくられるのだ。』当時、男社会に対する反論アジテーションです。男女平等では低ランクのこの国において、もし平等を求めるとすれば彼女の文章には目を通すべきでしょう。僕にとっては古典で言えばJ・P・ミルの『自由論』も。
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今日は朝から雨です。・・・Bachの マタイ受難曲を聴きながら
”表題の言葉”は大江が、過去の誰かの言葉(ゴッホ?)を自身の著作の中で紹介していた言葉でした。
”死者を死すると思うなかれ。聖者のあらん限り死者は生きん、死者は生きん。”
半世紀以上も前の学生時代のころ読んだものでしたが、今はそんな言葉は巷では聞かれなくなった『自分探しの旅』という奴で、学生運動も下火のころの時代でしたが、盛んに若者が将来に向かう成長期のこの国の時代の活発なエネルギーの捌け口を求めて暗中模索していた時代だったように思います。
大江の文学は、ストーリー性よりも彼の著作活動への同期(読者への文字で解読する行為への同時性)を求めているように思わされます。従って、おそらくですが普段の方が読まれても、特により複雑に引用や暗示する言葉、時折出てくる主人公の名をゴチックの活字を用いる作家活動の後半部より、作家活動を始めた初期の将来への新規文学の予兆を暗示した初期作品の小説やエッセイの方が、彼自身も暗中模索をしている様子がうかがえて、まさに『新しい「われらの時代」』が来るとそういう思いで社会と自分の将来を眺めることが出来るように思われました。
誰でも人には言われない、というか自分個人でも気がつかない一人一人の考えには、身体的ものから影響を与えらえている事柄があるものです。しかし、そのようなことは、哲学者や心理学者や、あるいは生理医学的なことからそのひとへの影響を考える専門家のような人でなければ普段は考えないものでしょう。実際は人の基本となる個人の頭脳配線は、親の知能を受け継ぐと同時に幼少の頃(10歳頃まで)の成長過程の環境の在り方で決定されているものなのです。
僕の場合は、作品よりも作家自身の生涯をとおして、その時代に作家がどのような思いで作品を書いたかという、彼自身に書かせた原動力となった基点はどのようなことなのかということをいつも考えてしまうのです。
人という種の世界は当分続きそうですから、その基底に流れている時代時代にある将来、人類の考えが一点に収斂されていくであろうその流れに彼はなにをもたらしたのか、というその原点を考えてみたくなるのです。
娯楽小説ジャンルから一つ上のジャンルの文学というレベルでは、あるいは少し小難しい哲学や思想などでも今という現実世界に何らかの影響を与えるものでなければそれは文学と呼べるのか、大江は中期の頃それを深く考えた。『文学は何をなしうるか』。平和を考え『広島ノート』を著し、加藤周一と『九条の会』を立ち上げた。
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机上にいつも置いていた掲題の彼の宗教性に関わると思われる作品に『いかに木を殺すか』(文春文庫)がある。その冒頭の作品に”揚げソーセージの食べ方”というのがある。あらすじを簡単に書けば・・・
早稲田の理工を中退した兵衛伯父さんは、仏教と自然科学の統合を考えていた人で、四国の山の谷間の村に帰郷してから山羊5頭を連れて谷間から忽然と東京を目指して放浪の旅(臨終の地への旅)を続ける。
著者の連れ合い(妻)が、山羊は野犬に殺され若者らに暴行を受け肋骨を損傷しながらもひとり浮浪者のように新宿駅構内で百日間ほど住み着く兵衛伯父さんを見つけ、揚げそう―セージを与え、ひたすら食べることが瞑想であるかの如く、ゆっくりゆっくり味わい、咀嚼し、喉仏をクルリと動かして飲み込むのである。これを丁寧に書いているのがこの作品の題名となっている。
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作品のままの文章から兵衛伯父さんの人らしきを引用をする。また、作者(おそらく大江自身)との関係と兵衛伯父さんと作品に表記する理由を、次のように書く。これも知られた研究者の名が出てくる。エリアーデの名前も・・・
”兵衛伯父さんが『南伝大蔵経』の一冊として生涯読み続けた、ブッタの「大いなる死」の記録、つまり『大バリニッバーナ経』の岩波文庫版がふくまれているのをあらためて認める。”
”それでも兵衛伯父さんをオジサンと呼ぶ時には、これまでいつも当の漢字が頭にあったと思えるし、レヴィー=ストロースの親戚関係研究で、僕と兵衛伯父さんとの実際の関係がーーーおおいに心理の深層に関わりつつーーー母方の伯父と自分の、関係のありようにつうじると自覚されるのでもある。”
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この小説は大江の幼少期から少年時代にあの四国の山の中の谷間の部落でどのような影響を受けたのかが分かるような作品である。(彼の作品のほとんどはあの幼少期から少年期の自分の四国の故郷の部落にある。)
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・・・祈りは僕自身の、将来にかけて開く運命に関していた。・・・
”ーーーどうか先祖の皆さん、森の中の谷間の共同の祖先である神様方、私のおかしな顔つき、躰つきは、つくりかえていただかなくてよろしいです。そのかわり、どう私の頭を良くしてください。兵衛伯父さんのように頭が良すぎるまでになく、そのほんの少し手前まで、私の頭を良くしてくださるよう、お願いいたします!ーーー”
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兵衛伯父さんの著者(大江自身だろうが)への最後の言葉は次のようであった、と。
”小説を書く仕事について、兵衛伯父さんはともかく修行のひとつと評価してくれたのである。のちのことを思えば、むしろ兵衛伯父さんは、『大バリニッバーナ経』の次の一節を引用してそういったとすらいいうるであろう。《「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい』と。」 / これが修行を続けて来た者の最後の言葉であった。》
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誰でもが、ご先祖からの肉体のDNAを引く次いで生きて来たので今の私が存在する。”死者を死すると思うなかれ。聖者のあらん限り死者は生きん、死者は生きん。” ・・・
1960年代は、安部公房やらその他、多くの作家のハードカバー本が競うように販売され、写真は新潮社 大江の作品集6についていた平野謙の解説、石原慎太郎の『時代から超時代へ』と題しての評論が掲載されている付録である。亀井勝一郎、河上徹太郎、河盛好藏、小林秀雄、中島健蔵、山本健吉とそうそうたる著名な評論家の論評が載っている。
裏表紙には『編集メモ』。編集部のコメントと『個人的な体験』著者本人の言葉、それから先の選考の選評の抜粋と『性的人間』の書評の一部が再録されている。それらを読むだけでもとても面白い。ほとんどの方は故人なので再販されてもこの付録はつかないだろうけれど。
あの時代はまさに性の解放の曙のような時代であったと思う。今では週刊誌では、ものによってはHair nudeなどの 掲載はあたりまえ、少年向けでも胸もあらわな可愛い女の子が表紙になっている。こういう解放において成長期の若者は、欲求をセーブするのは大変なのではあるまいか。若人に生き物としての生殖活動は、あってしかるべきで何らいうこともない、少子化など言われれば大いに・・・と言いたくもなるのだが、衛生面についてはしっかり学ぶべきであろう。
しらける話だが、性病(梅毒)がたいそう流行ってきているのだそうな、抗生物質ですぐなおるようになるだろうけれど、放っておけば脳みそが馬鹿になるらしいし、デープな接吻も相手が歯周病など持っていたら親密にするほど完全に感染する。そういうことまで、きちんと話し合えるようになるお互いパートナーであらんことを願っている。
こと、見ることから性欲という次元の異なる領域は、一般化できないために学校で教えるのはせいぜい保険体育で衛生面あたりだろうが、成長期の動物欲求は理性を凌駕する。
想像力もいいだろう。しかし、彼が新しい実存主義として公言するサルトル(この方はノーベル賞を辞退)を専攻したことに、時代とは言え、身体や心の本来のありようを文学において言葉で解体していく小説を進めていったのには、僕にとってはおおよそ、神が居られるならば(彼は後半にその宗教性に近づいて小説の基底に流れるそれに当然のごとく近づいていた訳なのだから)、踏んではいけない地雷を踏んでしまっていると思われ苦しくなるのだったが、それは性についての描写であった。
男性器や女性器をあからさまに文章に持ち込み、『結婚は神の偉大な奥義である』などという、肉体は霊としての尊重すべきからだである、という聖書の教えにも、それを一目散に『見るまえに跳んで』、時代的に時代のサルトルの影響を受けてそこからインスピレーションを受けつづけたのだろうけれど、地雷を踏んでしまっている、これは神への挑戦のような戦慄を覚えるというのが僕の印象であった。
事実、彼には不幸なことに脳ヘルニアの光君が誕生することになった。僕個人にとっては、こと神の霊の器官ともなる肉体について理解しなければ、神学的には罪「的外れ」にならないように被創造物の人が努力しなければ、その生殖に関して身内や親族に不幸が起こるであろうことは事実考えられることなのであると思っていたのである。必然的に彼は後半、魂の救済に向かっていくのであったのだが・・・。
キリキリと前頭葉をイメージで満たすが、唐突に生殖器の言葉と言動でイメージを書き乱す。少しイライラする。それはその性に関する言葉の表現を露骨に著したり、その唐突な行動は、突然に脳みその最も動物としての初期の間脳部位に繋がっていることから来るイライラであろう。もっとも動物として秀でた部位ともっとも古代からの生き物としての脳みその部位の繋がり。
今までの巷の文学はその不明な部分のモヤモヤを感性で受け取り、言葉にする雰囲気が基調とされてきたのに 露骨にそのギャップが言葉を紡ぐ者としてどうなのか。
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『個人的体験』は昭和39年、第11回新潮社文学賞を受賞した。付録の解説の平野謙によれば、長編の中でも最も成功した作品と書いている。その中で三島由紀夫は「火見子との性描写の執拗な正確さ」を「戦後最上の性描写とも呼びうるもの」と推奨している、と述べている。しかし、評論もはやりというものがあるしねぇ。
大江の作品を読みにくいと思われる方は、批評の中で亀井勝一郎の次のような批評がもっともうなずくのではないだろうか。
「私は最初この作品についていけなかった。もって廻ったような翻訳調の文章に閉口したからだが、読み終わって確実に感じたことは、大江氏はこの独自の「戦慄」を創造したということである。」
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僕にとっての大江作品が与えるこの「戦慄」は人の生存の『異界』につながるものであった。時代を反映する思想も詩人も文学者も彼は遠慮なく自身の作品の中に取り入れた。(その1)に掲載した写真の僕がいつまでも机上に置いておいた彼の作品『いかに木を殺すか』の中の「その山羊を野に」の最後には、旧約聖書の「レビ記」第16章半ばの言葉が文語訳でそのまま掲載されて終わっている。僕などは大いなる慰めを受けたのだった。
付録の中で述べている石原慎太郎の表題「時代から超時代へ」、作品の可否はともかく彼の想像力は世界の超時代をこじ開けた作家だったろうと思っている。・・・今、次の時代へのおおきな曲がり角にさしかっている『われらの時代』・・・