つづきです。(『神の国の証人ブルームハルト親子』〔井上良雄 著:新教出版 より)
************
この事件からもう30年経った頃,、晩年のブルームハルトとが、このころのことを振り返って書いている。「この戦いの中にあって、私は、後退できないままに、次第に深く、暗黒の未開の凶悪の中へと、引き込まれていった。
そして、そのもとで、私は、暗黒の人格的な力と、いわば(私はそれ以外の表現を知らないが)『肉薄戦』を行った。しかし、それと同時に、私は密かに、より高い支えと主の特別な交わりとを自覚するようになったのだ。」
*****
しかし、その場合、その戦いがブルームハルトとの戦いでありつつ、もはや彼の戦いではなかったということにも、注意しておかなくてはならないだろう。彼の自覚においては、戦いの主体は彼自身ではなくて、主イエスであった。彼を通して、主イエスが戦い給うたのであった。
それ故に、ブルームハルトは、「あの時、主が戸を叩き給うた。それで、私は、彼の為に戸を開いただけだ」と、言うことができた。
*****
ブルームハルトにとって、神の国は、もちろん人間が作り出すものではなかった。しかしそれと同時に、それは人間が手をつかねて、その到来を待っているようなものでもなかった。彼にとっては、この地上で起こるすべてのことが、神の国にとって意味を持つものであった。
人間は、自己の戦いによって、この地上における、神の歴史に参与すべきものであった。従って、神の国の到来と人間の戦いは、あれかこれかというようなものではなくて、両者は緊密に結合しているものであった。
従って、静寂主義か能動主義かというような二者択一は彼にはなかった。
**********
さて、われわれは、あの出来事の跡を追わなければならない。
前述したように、ブルームハルトがゴットリービンの問題に没入してばゆけばゆくほど、事態はいよいよ悪化していくように見えた。彼女が倒れれば、ブルームハルト自身も倒れるのではないかと、危ぶまれるようになった時、友人たちはみな、彼に、もうこの問題から手を引くようにと勧告した。
しかし、彼は、もし自分がゴッドリービンから手を引くようなことがあれば、彼女がどのようになるだろうかと、思わざるを得なかった。
その頃の心境を、彼は「報告書」に、次のように書いている。
「私は、自分が網に囚われているのを感じた。単に目を引くと言うことでは、私は、その網から、自分にとっても他の人々にとっても危険を起こすことなしに、逃れることはできないのであった。
その上、私は、自分自身に対しても、また私があのように祈り、また信頼している主に対しても、そしてあのように助けの示しを与えてくださった主に対しても、悪魔に屈服するなどということは、恥ずべきことであった。
私はしばしば自身に問わざるを得なかった。
主とは、誰だろうか、と。すると主である方に対する信頼において、私の中に、繰り返し次のような声が聞えた。
『前進せよ。イエスが蛇の頭を踏み砕き給うたということが、もし偽りでなければ、最も深い淵に降ってゆくことになっても、良き目標に導かれるに違いないと』と。
************
ブルームハルトは、祈りと神の言葉以外のものでは戦おうとはしなかった。
1842年8月に、ゴットリービンがが彼を訪ねて、極度に達したその苦しみを訴えた時、彼は書いている。
「私がこの悲嘆している娘を見たときに、そのような暗黒の可能性と救助の不可能性に戦慄しました。私はそういう悪霊による様々な禍いを防ぐ不思議な術を持っていると言われる人々のいること、そして、身分の高い人も低い人もいつも絶対的な敬意を表している神秘的な方法を、思い浮かべました。
自分もやはり、そういうものに目を向けるべきなのだろうか。しかし、それは私がこれまでずっと確信してきたように、悪魔を悪魔で追い払うということです。・・・私は、いつも祈りと神の御言葉という真の武器に固執するように自分を導いてくださった神を、賛美します。
彼女が今捕えられているこのようなサタンの力に対して、信仰による祈りは、何事かをなし得ないのだろうかという思いが、私の頭をよぎりました。ここで上からの助けを求めて、もしそれが与えられないとすれば、 私たちの憐れな人間は、何をすべきだというのだろうか。
ここでサタンが働いているのであれば、それを放置しておくのは、正しいことだろうか。・・・そのような思いで、私は、ほかに何の手の施しようもないこの事おいても、祈りの力への信仰に、集中しました。」(z115以下)
さらに、ブルームハルトは医術による治療を排除するなどということは、もちろんしなかった。このことは「弁明書」の中に会話詳しく書いています。
・・・今までの実話もそろそろ最後となります。 ・・・つづく