marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その6)ボケ防止に:その要点のひとつ、ちょと断線・ハイデガーの『存在と時間』を読む

2024-12-16 13:59:12 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

ハイデガーは実に多くの哲学者に影響を与えた御仁なのであった。ヒトラーに加担した等と言われ、問題ありの人でもあったらしいが。

西欧の言葉を駆使する哲学に、この国は、俳句や短歌、詩歌の世界の観念世界に、言葉以上のことを古来から求めた”察し”の世界で来たが、実社会の変革に自然に身を委ねるなどということではなく(これは結局受け身となっているだろうし)、人が考えて、自然や対象物を人の思い通り便利に変えていこうとするには、やはりそこにいる人である。

西欧の哲学(米国はプラグマチックであるけど、それ以前の話)は、起源が神が人を創造したと言われる宗教が、当時、言葉や文化の繁栄地だったマケドニア(ギリシャ)の融合にであって、これには、どうしても他の国の哲学や神話があっても、現実開示としては、それに及ばなくなってしまう。僕らは、天地創造に起源を持つ言葉と結びついた哲学には、決して太刀打ちできない。ハイデガーはそれを追求しようとした。

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キリスト教の大使徒パウロは、生前のイエス(キリスト)には会っていない人である。むしろ、当時キリスト教根絶に励んだ人であったのだが、キリストの霊の顕現にあって180度回心、その伝道者になった。現トルコに離散したユダヤ人にから更に東(アジア州)へ行かんとするに、キリストの霊がそれを禁じた、と新約聖書の使徒言行録16章に出てくる。

マケドニア人が夢に現れ「私達を助けてください」と夢を見る。パウロは、それが神の啓示と受け取り、ギリシャ哲学の発祥の国に向かう。僕はこの話が好きなのだ。使徒言行録17章のアテネでのパウロの説教は、我々異邦人にも理解できるものである。是非、読まれてください。こうして、僕らが世界のことをあれこれ、今でも神学などを考えることができるのは、この話が起源となっている。

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ハイデガー哲学入門ー『存在と時間』を読む(仲正昌樹 著)の第一章にこのような文書があった。それを書いて(その6)を終える。

「哲学」とは、自分にとってあまりにも自明で疑う必要のないこと、日常生活でなんとなく常識として通用していること、みんなの行動や価値観の大前提になっていることについて、本当にそうなのだろうか、そう判断できる根拠はあるのか、何故そういうことになったのか、といった問いを発し、安易に答えを出すことはなく、とことん考えようとする営みである。自分が知っているつもりのことの根拠を、その根拠の根拠の根拠の・・・根拠に至るまで徹底的に探求する営みと言っていい。古代ギリシャ人は、この営みを「知sophia」を「愛することphilein」という意味で<philosophia>と名付けた。何か具体的な目的に利用できそうな、個別具体的な「知識」を得ることによって満足しそれ以上深掘り下げた問いを発するのを止めてしまうのは、「哲学」ではない。

・・・つづく 


(その5)ボケ防止に勝手に解釈:分かりにくいハイデガー『存在と時間』を読むヒント

2024-12-15 09:00:10 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

これ、僕の見いだしたハイデガーが『時間と存在』を書こうとした原動力となったベースは、西欧人には当然のごとく流布されていたキリスト教人間学、神学にあり、と思ってみたこと。まず、これが一番の肝の一つ。神学で読み解かれてきたことが、哲学で宗教色を脱色すれば、こういう書き方にはなるだろうな、と思ったこと。もちろんすべてではないけれど。

無論、哲学も実証科学と同様、知られた名だたる先人の哲学者思考の言葉の蓄積をし、新しいもの、先に疑問に思われたことに総括のごとく追記されて行く。それまでに考えられた哲学を土台に思考の深化ごときが行われるのだけれど・・・。

その古代からの根本のことが『存在』。『ものがある』ということはそもそもどういうことなのか、ということだった。古代からの課題だったそうな。

だから、この書物についても、それまでの哲学者がいう、自分を含め、周囲の大衆と自然世界について解くことが、当たり前となっていることがそもそもそれでいいのか、とその常識となってしまった疑いもしなかった思考の土台を根本から壊そうとした説明が書かれる。

自分、周囲(大衆)、世界(自然)について、壊した思考を常識のように、身についた思考論理をもっと分解し精緻に追求してみましょうよ、と迫った代物であること。従って、『人間は・・・』などと説明をしようとすれば、既に読む人の『人間についての先解釈』が、先入観として入ってしまっているから、それも壊さないといけないと。『人間』を先理解を脱色した言葉『現存在』として表記していく訳。

全てにおいてそういう手法をとっていく。あるときは、ニュアンスを伝えるため、言葉の文法も変じていく。専門の哲学者もタジタジらしいから、原文(ドイツ語)にあたらないと本物とは言えないなどというのは、僕ら異国のド素人はまったく蚊帳の外となり、兎に角、なんのことだか??となる訳だ。

こんな感じで冒頭に書いた肝の一つにも触れずに、だだ周辺をうろつくことから始まってしまう本なのだ。両先生の解説本もそんな感じであった。

で、次回から、冒頭に述べた僕なりに解釈した肝の一端を披露して行きたい。・・・ つづく 


(その4)勝手に解釈:神学の脱色としてのハイデガー『存在と時間』

2024-12-14 09:09:09 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

チンプンカンプンな理由は、僕らが当たり前であり、常識であり、だから疑いもしなかった「ひと」という生き物の頭の常態化した思考回路にある。彼は、それは破壊をしなくてはいけないと冒頭、宣うのである。

とすれば、考える土台を壊すことと語るわけだから、理解するという所作から何をもって思考するの? となるのは当然なのだなぁ。

それで、解説書である両先生も、そのことを分かってくれ、から始まるし、ハイデガーの履歴や「存在」ということを考える敬意をねちねちとどうしても書かざるをえない文書になっている。そういう訳で哲学周辺準備から多々書かざるを得ない、さらには自分のかかわりも書きたくなるという不思議な中毒的な書物でもあるのだ。

しかも、表題写真の第一章までも含めた轟先生のその本の四部の一は、本題ではなくこの書物『存在と時間』のいきさつの話なのである。さらに驚くことに、この書物『存在と時間』は、これから書いていくぞ、と今後の表題、目次も掲げていたのだけれど途中で、もう書くことはやめた、とハイデガーがとん挫した書物でもあったというのだ。

・・・こんな具合で、僕も『存在と時間』の本丸に行かないで、その周辺を書かざるを得ない、というか周辺を書きたくなるような、少し中毒気味になる書物なのであった。

ふむふむ、なるほど・・・、僕が思うところのことをハイデガー先生の文章では、こう書けるわけですね、などと勝手に解釈して、悦に入り始めたところなのである。・・・ つづく 


(その3)ボケ防止に:勝手に解釈ハイデガーの『存在と時間』

2024-12-13 16:32:04 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

欧米において、紀元前の哲学から宗教を経て、言葉による思考を粘りつよく追及してきた哲学、その原動力となったものは一体何なんだろうと改めて考える。

思考対象として明確であり、むろん、到底考えも及ばないものでも、改めて考えれば我々の肉体に影響を与えている、例えば「光」。それは影を作り、生物の成長を促す力も持つ。

天地の創造で神は「光あれ」との給う(旧約聖書:創世記)。アインシュタインは野原に横たわり、青空にまぶしく輝く太陽を考えた。今までの科学者に敬意を払いつつ。光を数式で捉えられないか。理論物理学、あくまで頭の中だけでの数式あれこれ。

それは世界を大きく変えた。エネルギーは質量に光速の二乗をかけたものと等価であり、しかも光速は不変であると。

天地創造の神に名を尋ねられ、私は「ある」というものだ、と宣われた。ギリシャのプラトンやアリストテレス以来、当然のことと疑問をも持たなかった哲学世界に、その存在にとことん言葉で煎じ詰めようとしたのが、ハイデガーではなかったか。

いづれ、神が創造された人を含めたこの被創造物を、ある者は科学として数式で、ある者はとことん人の言葉で突き詰める哲学として、果敢に挑戦してきた。

何を言いたいのだろうか。被創造物である人は、神の世界を知り、神に近づきたいと今も励んでいる。僕らが勉強するということは、つまるところ全てはそこに行き着くのではないだろうか。

20世紀最大の哲学といわれ、欧米の多くの哲学者に多大な影響を与えたが、日本の哲学本家の先生方もわかりずらい、と言われる、この書物を書いたハイデガーの哲学の根源はどこから来たのだろうか。

学生時代から、いつかは制覇せんとなぁ、などと勝手に思い上がっていたけれど、直接、読んでもチンプンカンプンだったのだけれど、後期高齢者の入り口で、そうか!と勝手に府に落ちる糸がほつれた思いに至ったのであった。・・・つづく 


(その10)『神の国の証人ブルームハルト親子』の教えてくれること

2024-09-16 21:21:21 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

本に掲載のこの方が、ゴットリービン・ディトゥスです。   父ブルームハルトの墓(奥にある小さな墓はゴットリービンのもの)。子のブルームハルトも社会的に大きな働きをなして、時代に大きな影響を与えました。

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 父ブルームハルトです。  子のブルームハルトです。

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カール・バルトの全集を殆ど訳された井上良雄先生が書かれた、『神の国の証人ブルームハルト親子』から、誰でもが本当だろうかと思うような実話をかいつまんで抜粋してきました。20世紀最大といわれた神学者カール・バルトにも非常に影響を与えた事件だった。 

子のブルームハルトも当時のドイツで社会的に大きな働きをなした方です。今も働き給うと言われる神の言葉に、我々は何を学ぶべきか。

特に、奇怪な面白おかしい物語、当時の多くの人が見て、周囲の町々の人も押しかけるような事件に、我々は何を学ぶべきだろうか。

今では、その事件は女性特有のヒステリーだったというかもしれない。しかし、現代も、病名を特定したとしても、直せるだろうか、否、だろう。

殆どの病気とはそもそもそうだろう。最終、神が与える治癒力によってであり、人はそのサポートしているだけにすぎないのだから。

素直に僕らは、イエスを信ずるとはどういうことかと、今もなお一層、考えて見なくてはいけない。イエスは、聖霊として、今も生きて働いて、求める人々の側におられるというのだから。

親子が体験とその時代において教えてくれるのは、あらゆる知識、あらゆる学問を超えても、最終、いっさいの介在物を除いて、素直に神の言葉を受け入れることなのであることを教えてくれている。(これが、なかなか難しいんだけれどもねぇ!)

彼(イエス)を信じるとき、その本来、障害は一切ないのだけれども、それは罪深い我らが自ら作っていたものなのである、ということなのだろうと思う。

「自分を捨て、我に従え。」このイエスの言葉を、こういうことか、と自分なりに理解するにはかなりの時間が掛かりましたねぇ。

・・・謙遜を失いつつあるとき僕はいつもこの本を読み直すだろう。   終わります。