marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(497回目)(その2)この考えは甘いか、「憲法九条を変えてはいけない!」

2018-03-29 07:00:00 | 日記
 小難しい議論に入りそうで、これも又、いろいろな意見を持っている方がいるので、それはとても良いことなのだが・・・詳細な歴史的なそして法律などという普段の人には、縁のない人々にとって、では何をもってその国の行く末を判断をするのか、自分の意見を持つのかと問われれば、もしも、仮想するとしてもまずは、第一に、今、このとき、無論、体調がベストの状態であるという、その肉体に引きずられている言葉であってもイメージの発露が正常に輝かしい光に向かっての前進とか、それに繋がっているとか(1)、そしてさらに逆にこの朽ちていく、早朝気分の悪い、イメージの湧かないどんよりした肉体に引きずられ共に言葉がヘドロのように、腐敗し消滅するであろうというようなそれさえも言葉にならない気分の悪さとか、諸々・・・、キリストの神の存在とは、全てに渡っても、そのような解消を「わたし(イエス)につながっておれ、わたしがあなたを選んだのだから」と語るのであるということを信じている人たちでもある。(ちょうど今、2018年イエスの受難週さなかである・・・)
◆これは情緒性な気分にすぎないと硬派の方は考えるのだろうが、キリストの神がそう僕には語っていると信じいる者でもある。くだくだと何を書いているのかといえば、人は生き方がどうのこうのというものをいうときに、煎じ詰めればその語る身体の影響によりそれは医学生理学的、あるいは気質を形造るそれまでの遺伝的影響、そして語っている今の肉体の環境状況により無意識にも発せられるものだ。人知を越えている神(イエスの父である)という存在があれば、そのような意識をもつまりは越えているということ・・・そのようなことを書けばそれ以上、三次元的な機械音として、そして文字として語ることが不可能ではないのか・・・そうなのだ! だから、神の目から見れば、僕らは<制限ある生き物>としてこの行く末を決めて行かざるを得ないということである。
◆世界のベストセラーを語ってきて、憲法論議に入り込んできたが、実は大いに実際の僕らの生き様に関係ありなのだ。「法律」というものがどのような国、どのような人々にも、まだまだ程遠い国もあるが、適応されることが必要であると考えられるようになったのは、キリスト教が伝搬されて世界に周知されるようにその歴史の流れがあったからなのだ、と僕は考えている(実は、真相を探れば旧約の民の働きも実に大きいと。「救いはユダヤ人から来ると言った」イエスの言葉がずっと不思議でならなかった・・・)。
◆さて、前回のべた「永遠法」、「自然法」、「人定法」とは、世界史でも学び、おそらくどなたでもご存じのトマス・アクィナスが書いた『神学大全』という中に出てくるのですね。無論、彼はキリストの神が世界をつくっているとしての世界観から、またそれまでの哲学からも神の摂理(歴史)に僕らの世界が存在し、その中で人のよかれと思うことの事柄は、神がわれわれ人類に前進するために、「わたし(神)が提示したのだからよかれと思う考えは人のために大いに採用せよ」というご都合主義のようなところもあるようにも考えられるが、しかし、このような考えが伝統としてあり、この国の哲人でもその考え方(西欧の思考する手法)を採用しているのは、神が創造せし自然という舞台の中で、僕らはその劇場から抜けだすことは出来ないのだからというこれまた、僕らには認めざるを得ない神の舞台の上にあるからなのだといえる。
◆憲法第九条は、極めて「永遠法」に近い概念で作成されている内容なのである。それで、いつも問題なのは、それと「人定法」を混乱させて議論するからなのであると僕は思ってきた。だから、目の前の現実に対して現実性がないと・・・。トマスの語る法についての考えは「共通善」というものがすでに措定されて上での議論なのだ。いわく『共同体の配慮を司る者によって制定され、公布せられたところの、理性による共通善への何らかの秩序づけ』であると、彼はそう「法」を定義する。そのアンダーラインのところが、すでに(つまり、先理解の内容がすでにある)神という存在、神とか宇宙とかが理解されているという前提にたつ。「永遠法」を「神による世界統御の理念」、「自然法」については「理性的被造物における永遠法の分有」と定義している。(「分有」とは、かの哲人プラトンがイデアとその分有について語った=わかりやすく言えば冒頭の僕らが(1)のような思い、その思いが出てくる思いや自然のおいては理性における科学のような神の舞台に秩序づけがあるということ)。よって、「永遠法」も「自然法」も不変なのであるけれど、人間が置かれる状況に応じて変えられる「法」については「人定法」と呼んだのである。「神学大全」を表した、トマス・アクィナスは法の理論を、永遠法・自然法・人定法と秩序づけがあると定義し、それが存在しなければならないとしたのであった。 ・・・ 続く 

世界のベストセラーを読む(496回目)(その1)若者よ、憲法九条を変えてはいけない! 永遠法と自然法と人定法

2018-03-27 07:00:00 | 日記
  少し政治的なこと・・・・。表題のように白か黒か、旗色を鮮明にすると、先入観をインプットするようですが、これに真逆の考えも否定するものでは決して無く、ただ、世界のベストセラー(ここでは『聖書』のこと)に絡んで僕が思っていること。表題のことは、かの井上ひさしさんが憲法について語り、ノーベル賞作家の大江健三郎さんや知識人、故加藤周一さんが「九条の会」を立ち上げていることとも関係なく、僕の心情的からくるところのこの肉体を維持することからくる(それは当然、今のこの国にいて生活している訳だから政治に関わるので)、個人的な思考の欠落部を埋めようと正直に考えていることです。
◆もっと老齢化も当然進み、いわゆる「永遠の生か死か」の問いかけから、僕が思っている根っこの部分をもとに(受難週に入ったが、これを僕はイエスが十字架に掛かったことからとしているのだが:これはどうしてもそちら側に行くように思うが決して心情に流されるものではなく、歴史的事実として)考え、生活することは、僕自身のボケ防止にもなると思っているのです。しかし、次世代にも係わる重要なこと・・・。
◆僕らの生活そのものに係わる事柄は、政治におけるアンケートで、この国では「どちらともいえない」という回答が多いけれど、それだけ、この国は心情がらみで肉体に引きずられている言葉に安住しているというようにも思うのだが、(それは島国だからなのか、農耕民族だからなのか、否、これもこの国の良い意味での宗教的総和観<これは僕の造語>というようなものなのか・・・)その肉体の保持にも影響してくるのが政治というものであるから、実は「どちらともいえない」などいう返答は、「賛成です」というのと同じとみられてしかたがない。というか、為政者のお考えどうりにお進めください、と言っているのと同じこと。よって、「反対である」と返答してちょうどいい具合なのがメディアへの回答なのであると僕は考えている。そもそも、煎じ詰めればこの国の人々は自分の考えを言葉にすること自体あまり得意とする人々ではないのではないかと思われます。
◆第一に「憲法に自衛隊明記」と一面トップの地方紙の記事。政治的な事柄はあまり書きたくないけれど、同じ自民党内からして党改憲推進本部の細田博之本部長に最終一任なんていうのは、政治家自体がすでに言葉を失っている。説明も何も無く結論先にありきで、石破茂元幹事長が進め方や内容に不満を呈し・・・とある。地方では、いろいろ民間でも疑義が呈されて勉強もされているのだけれど、政治家が一番空気に任せてしまうことでは、だから、ますます、だめだろう、ということがどうして分からないのかなぁ・・・というか、どうどう巡りで。
◆イエスが、十字架に掛かられる前にゲッセマネというところ祈りをする、その後の捕縛の場面、彼自身、答えを出しているのかいないのか・・・
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「そこで言われた。『しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様にもっていけ。、また、剣のないものは、自分の上着を売ってそれを買うがよい』。・・・弟子(でし)たちが言った、『主よ、ご覧なさい。ここにつるぎが二振りございます』。イエスは言われた、『それでよい』。」                              <ルカ福音書(第22章36節、38節)>

「そこで、イエスは彼に言われた。『あなたの剣を元のところにおさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる・・・』」 <マタイ福音書(第26章52節)>

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 永遠法、自然法、人定法については次回 ・・・続く   







脱線:今日は良い天気、庭のお掃除

2018-03-24 18:40:04 | 日記
 僕はどちらかと言えば、竜安寺石庭のようなとてもシンプルで静かなのが好きなのだけれど(ただ庭の手入れが面倒なだけかも)、亡くなった親父は庭いじりや花がとても好きな人だったので、軒下にはいろいろな鉢がいっぱい。砂地から大きな石を入れたりして庭作りから始めた人で、定住できるところには必ず庭をつくりました。

 今朝、天気が良いので気になっていた庭の落ち葉を熊手で集めると、その下から沢山の芽が出てました。親父がめでていた何やらの花なのでしょう。鉢花には花の名札を書いてさして飾り、大変まめな方でした。終の棲家となった今の処では、花の絵なども描いてました。写真もとってましたがこれは少しお金がかかるなぁと・・・。

 僕は花の名前がわずかしか分からない。花々の本もあるので余裕をつくって少しずつ覚えようと思います。

 それにしても春らしくなって太陽が顔を出すと嬉しく元気になりますねぇ。
 
 落ち葉の下から可愛い黄色の花が顔を出しました。そういえば、親父か描いた葉書大の絵の花は、これかしら?

紹介します。花の名前は分かりません。

          

          

                                                ・・・・  

世界のベストセラーを読む(495回目)(その3)僕が”しがらみ”と語っているさらに難しそうなこと

2018-03-24 07:00:00 | 日記
 ・・・さらに 先の続きです。エリッヒ・フランクの言葉(部分)が掲載されている文章の紹介します。それは、西欧では、つまりキリスト教の伝統のある文化の底辺を考えるにあたって宗教だけではなく常識となっているものです。この僕の国では、そもそも何事についてもそれが常識になっていないところが今も問題なのだけれども。
◆その内容は、特に彼(フランク)がこう言っているということや選び出したというよりも、あの神の子と言われるイエスのことを考えることに対する疑問のあり方、その前提としてのわれわれ人間としてすでに存在する制約について語られているのです。この地上の人類が誰でも素直に雁谷さんのブログのような疑問からさらに進めて根本に疑うことを勧めるが、しかし、まずはその状況設定から考えて見ることが必要なのだということです。つまり、一つの疑問や考えや見解があったとして、その発する人間のそもそもが正しいのか、どういう認識で語っているのか、その人、その土台。”しがらみ”という中で気が付かず制約のある時の中で思考し、言い放っているだけに過ぎないのではないかということなのです。イエスが、律法学者に「あなたがたは、昔の言い伝えに従っているだけだ」と非難されたように、時代から制約を受けないで普遍的に見解を語ろうとすることは、僕らは殆ど不可能にちかい程、困難なことなのです。前置きが長くなったが、その文章とは・・・
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『個人の生が歴史のできごとの流れの中に織り込まれているということは、もちろん新しい考えではない。エリッヒ・フランクが言っているように「個人がそこに自分自身を見出す状況というものは、彼自身及び彼に先立つ人々の人となり、行為、思想の結果であり、取り消すことのできない歴史的な決断の結果なのである。すなわち、人間はこの過去を考慮に入れることによってのみ、考え、行動し、存在することができる。ここに人間の実存の歴史性が存する。」人間は自分の出発点を選ぶことはできない。それでは、彼は自分が到達しようと願う一定の目標を立て、自らの歩まんと欲する道を選ぶことができあるであろうか。人間はいつの時代にもこのことが或る限られた範囲でのみ可能で或ことを知っていた、彼らは環境に依存していることや、生の計画の達成ということにはそれに反対する諸々の力との闘争が含まれていることを知っていた。そして、それらの力はしばしば人間の生具の力よりも強大なのである。彼らは歴史が人間の諸々の行為によってのみならず、運命乃至宿命によっても形造られることを知っている。』
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◆こういう土台から、人間の言葉で素直に疑問を言葉に表してみること、調べること。なぜなら、神の子が自ら地上に父の元から派遣されたと語っている訳ですから、(事実彼イエスはこの地上生まれ、そして死んだのだからと)恐れることなく、言葉にして疑問を人間の言葉で問うて見ようではないか、ということから始まったのです。これは、古典の部類になるか僕が生まれたころに翻訳されたR.K.ブルトマン「歴史と終末論」という神学書の冒頭に出てくる言葉です。キリスト教を少し難しく学んで行くと神様の学問に行き当たりますが、そのことが語られると、それを土台に批判や進展が生じます。(この国では、突発的に誰それがこう語ったというのみの花火の打ち上げのように終わりますが)、神学に拘わらず、西欧に於いては、この人間の歴史についての考え方の土台の上に学問のベースがあるのだということが理解されます。歴代の神学者の紹介の本も神学者、牧師であり、元東京神学大学学長であった近藤勝彦さんの本も以前、紹介したがこのベースは学問の進展の流れで、つまりイエスが十字架上で流された血は、その底辺のもとでわれわれ人類が生きている限り、脈々と流れているのです。
◆その常識である、紹介した文章の中の「~知っていた。~知っている。」は、この僕の国ではどうなのでしょう。以前にも書いたがかの評論家小林秀雄は「この国の歴史は思い出にすぎない」と言った。刹那的視点のこの国は極めてもろいと言わざるをえません。・・・ 続く 

世界のベストセラーを読む(494回目)(その2)僕が”しがらみ”と語っているさらに難しそうなこと

2018-03-21 07:00:00 | 日記
 続きです・・・
◆人が、物事が分かるということはどういうことなのか、そしてそれを判断するということはどういうことなのか、ということは、先の人という生き物はどういう生き物なのかという、自分を理解する(聖書的には人の創造者である神を知る)一つのルート。脳科学ではそこんところも丁寧に教えているものもあるが、僕らは、自分という生き物はいろいろな制約を受けている上で、考え、生きているなどというところまでは、普段、考えない。ある時点のところで、端折って(つまり、肉体に引きずられる言葉・・・カミュの「異邦人」、ムルソーに言わせれば、「そんなことはどうでもいいのだが・・・」)というのが殆どの人の普段のありようなのだねぇ。例えば・・・、
◆人が分かる(理解する)ということは、それを知り尽くしているという前提が無ければ、完全にどうのこうのということは言えないはず。で、その見解を提示するためには「ある時点(自分が理解したというの処の理解)まではとか」という制限が無ければ正確ではないはずです。これは理解できるかと思います。実は、殆ど人が「そんなぁことは、いちいち考えてねぇよ」という、先程のムルソーの返答にも類似の思考をしているんだが・・・。それで、雁谷さんが理解され紹介された100年前の知識人中江兆民の一刀両断の宗教性に対する見解。すかっとするかもしれない、この見解は、普遍性に訴えようとしているのだろうけれで、100年前の今の自分はそう判断した、という見解で、よく考えなくてもその時代の一人の見解としてのみで消えるものですね・・・ということになる訳です。すると、よく考慮しないといけないのは、この時代のその大知識人は、肉における(これは聖書的表現、獲得、遺伝されてきた)知識集約といえばいいいか、その優秀さだけの披露であって、なんら普遍性がなく啓蒙的な影響も実はない、ということを示すことになるのではないでしょうか。(東大を出て、アメリカの大学まで出て、肉的には優秀なのだろうけれど、雑音しか振りまかない人も僕は知っているけれど。)
◆ところが、われわれはいわゆる頭のいい人には、尊敬の念があるわけで、きっとわれわれを悪くはしないだろう、いいことを語ってくれているのだろうという、これまた、”しがらみ”があるのです。確かに遺伝的に知能の高い人はそれなりの肉における優秀さを引き継ぐ訳で(加藤や養老さんの親がどういう方であったか調べればそれなりに理解される)、これは端的に言えば、イエスが当時の律法主義者への批判であった訳で(「この男が生まれつきめくらなのは、親の罪かこの者の罪か・・・」に対して)、つまり見て、聞いて、優秀であれば神の賞賛であって他は駄目人間、肉的優秀さに人は従えという区別や役割を誰でもそれにという差別まで広げて、その当人の選択枝のない先条件にまで(つまり神の思いにとまでと言おうか)判断をして差別するということにイエスは”否”を示した訳です。(ヨハネ福音書の第九章は僕の一番好きな話で、生まれつき盲目の若者がイエスに開眼され、その事実をもって律法学者と対等に会話をする、そのやりとり・・・)
◆中江兆民といえども何も無から知識を持って生まれて来たわけではないわけだ。知りえてきた知識もしがらみをまとってその時代を生きて残されたきたものなのだから、それを頭で統括しても・・・です。本来、人というものが追究し続けるが知り得ない事に対してバッサリ一刀両断、自分の見解を言い放つ事にたいして、もし真意からそうなのであれば、もともと正確に知り得ないことに回答を出すということになり、その人の見解についてはすべてに於いて疑問を持たざるを得ないと言わざるを得なくなるのではないでしょうか。端的な例を言いましょう。戦争経験者で長年キリスト者であった方が奥様もキリスト者であったが癌で先立たれ、無信者の後妻さんをもたれたのだが、その方は教会にはお誘いしても来ない(無論、人それぞれですから教会にお誘いするが無理強いはしない)。で、その信者の旦那さんが、その奥さんに「あんたは、それでもクリスチャンか」と言われる時があるそうな。それと同じではないかなぁ ということ・・・。デリケートなことだが、僕が”しがらみ”から解放されて、イエスの言葉を自分の言葉として聞くということの困難さを端的に表していると思う。少し乱暴すぎる議論、結論の出し方が横行しているように思われるのですね。ですから、僕らひとり一人は考えることをやめてはいけないのです。
◆それで、次のエリッヒ・フランクの言葉はどうだろう。・・・ 続く