marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(681回) (#12):聖書の中の歴史年代について

2020-06-25 07:25:55 | 聖書・聖句

◆書いてきたブログの聖書の中の歴史はスケールがとても長い。その関連として聖書の中の他の記事から推算することになる。紀元前なのにそんなにに詳しく分からんだろうということなのだろうけれど、ここに書いた年代は聖書のそのものからのもの。年代は聖書に書いてあるところを当てはめていくと以下のよう。

◆モーセがいたエジプトは当時の世界文明の頂点のような時代だったから、ここに記載されたものもアバウトではあるけれでかなり正確であったと思う。それで、①出エジプト記12:40を核にして、ヤコブがヨセフを頼ってエジプトへくだったのが出エジプトの430年前であると書かれていることから ②列王紀上6:1から出エジプトはソロモンが神殿を建てた480年前と書かれていることから ③その他 誰だれは何歳で死んだと書かれていることから の試算(年代は当然BC紀元前)

BC:2166  アブラム(後のアブラハム)の誕生 →2091 アブラハム カナンに行く→2066 イサクの誕生 →2006 ヤコブとエソウの誕生 →1915 ヨセフ(夢の解き明かしをし異国エジプト宰相にもなった)誕生 →1859 ヤコブの死 →1805 ヨセフの死 →1525 モーセの誕生 →1446 出エジプト →1406 カナン入国 →1375 ヨシュアの死 

◆一応、イエス・キリストの誕生が紀元零年だから12部族を割り当てに離散させたヨシュアの死はイエスの1375年前のこと。ここでイエスの言葉を再度受け留めたい。*****「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は必ずすべて実現する。」(ルカ24:44)***** ・・・


世界のベストセラーを読む(680回) (#11):聖書の中の歴史性について(触り)

2020-06-24 10:27:25 | 聖書・聖句

◆表題から・・・詳しくそんなことが分かるのか確かになぁ。でもこれがキリストの神が導かれて来たものなのだということを聖書とその現実の人の歩んだ歴史を照らし合わせるとそう思わざるを得ないというところに世界のベストセラーが読まれて来た理由でもあるのだ。

この国の僕らは本当の歴史というものを教えられていないからと僕は思っているのです。僕の町、今は取り換えられているけれど、昔みた博物館の歴史コーナーではこの地の創生に原始人の獣革パンツ一枚で獲物を追っている人物のレプリカ、竪穴とか・・・おいおいなのだったが東北の地においてもそんなことはなくて、かなり進んでいたのだな。三内丸山遺跡などのあの高い塔や土器、石器の技術など、ハイカラではないけれどかなり時間が穏やかに流れていたのだろうことが理解される。記紀以前にすでに多くの技術集団でもある渡来人が来ていたのだし。先にそんなことがすでに古い時代から起こっていたからこそ、蝦夷との境界と共に渡来人の来るやしろ(柵)を作ったのだろうと。近くの城跡展示館でも蝦夷は反乱を起こしたと一方的展示がなされていて、その理由とか古代の穏やかで当時では進んでいた暮らしとの関係を良く説明しないと片手落ちだろう。子供達も来るだろうにと一席ぶってきた。一方では縄文遺跡群を世界遺産にしようとしているのに・・・。

◆僕らは弥生時代にコメが大陸から来てたなどと教えられたが、そんなことはなくて、さらに古い米粒がC14法で東北の地に結構見つかっているのですね。北海道、東北縄文をユネスコ文化遺産に登録を目指していますが、片や僕の居るところでも今、古代蝦夷との境界と海外との貿易での柵の掘り起こしが再会している(添付写真)。西門の跡が見つかったというのだ。

◆このようなことはいつか書くとして、聖書の世界は、天地創造の世界から歴史はずうっと今も続いて流れていることが示され、直接の人が神自らの姿に似せて創造され全人類への救済の意識的介入が始まるのは選民族としてのアブラハムからなのだと聖書は教えている。歴史においてそれは言葉化された聖書という記録に残されていることになり、それは今も途切れることはないと。そして天地が終わるまで、救済の完成なるまで続いているのだということになっている訳です。契約というのはWIN:WINの関係だ。無理くりふんだくったんではなくてアブラハムはきちんとお金を払って自分のお墓を買ったし、現在も揉めているあの地においてもダビデ王はその地を相手から無理くりふんだくったのではなくてお金を払って買ったものなのだ。その契約はきちんと生きているのだというのが、イスラエル人の言い分なのである。僕はそう読めた。

◆この国やあの国の領域、この島は俺たちのものだなどというのは、いつまでさかのぼるのかなのだ、原始時代までさかのぼるのか?なのである。これもキリストが地上に来られ、人の言葉に責任を持たせ歴史の中で近代に突入してから人々が少しだけ目が開かれてきたからなのだと思うが、地上の人類は自分の首を絞めるようなことも行っているけれど、紀元前からの歴史、しかもそれが現在、生きて語り掛け将来をも語っているのは見過ごすことができないではないかということだ。コロナで世界中が負の一体感をもったようだが、昔からベストセラーによれば、疫病やバッタによる被害や地震は、「わたしが神であることを知りなさい」との警告を発していたのであったということになっている。・・・続く 次本題 


世界のベストセラーを読む(679回) (#10):創世記の最後ヨセフ物語はイエスの現われのひな型である

2020-06-24 05:52:37 | 聖書・聖句

◆礼拝での要旨は終わり表題のこと、これを少しく書いてみたい。繰り返すが、僕はここに、ルカ伝に記載の「律法、預言者の書、詩編にわたしのことについて書いてあることは必ず実現する」と言われた時代を超えたイエスの言葉を思い出すのである。それは神と言われるその方は地上の選民族を導き、そのひな型が今も全人類の救済の導きの歴史としての予型であると言うことで、それをキリスト教が地上に広まり、誰でもが読むことができる聖書に著されているということなのである。それは宗教というものの一つでしょ(ここでそう思われる方がいたらそれは誰に言っているのかと自問されると言い)ということで簡単に済まされるものではとてもないものなのである。何故なら僕らは飛び去るものなのだから。使徒たちが命をかけて宣教したという意味は、その核心に触れたから、実際にイエスの顕現に出会ったからなのであった。僕は8月が近づき終戦記念と、又、お盆の時期、教会のお墓や田舎のお墓に行ったときにいつもヨセフが異国の地から故郷へ帰還を願ったこの物語を思い出すのである。

◆ヨセフとイエスの比較を記載して見たい。是非、新旧の聖書を古本屋にでも行かれて購入し、線でも引かれてご自分で検証されて見ていただきたい。書き込みの無い汚れていない聖書は教会にあるだろうから。

ヨセフ「兄弟から憎まれた」(創37:4)→イエス「わたしとわたしの父を憎んでいる」(ヨハネ15:24)、ヨセフ「父から深く愛された」(創37:11)→「これはわたしがいつくしむ子」(マタイ3:17)、ヨセフ「兄弟にねたまれた」(創37:11)→イエス「人々が引き渡したのはねたみのためだった」(マタイ27:18)、ヨセフ「殺されようとした」(創37:20)→イエス「人々は叫びていう『十字架につけよ』(マルコ15:13)、ヨセフ「エジプトにつれて行かれた」(創37:28)→イエス「エジプトに去り・・・」(マタイ2:14)、ヨセフ「銀20枚で売られた」(創37:28)→イエス「彼らは銀30枚を支払うことにした」(マタイ26:15)、ヨセフ「誘惑されたが打ち勝った」(創39:9)→イエス「罪を他にしてすべてのこと、我らと等しく試練に遭われた」(ヘブライ人への手紙4:15)、ヨセフ「偽り訴えられた」(創39:17-18)→イエス「多くの偽善者がでたが証拠は得らなかった」(マタイ26:60)、ヨセフ「二人の罪人と共に過ごした」(創740:1-3)→イエス「二人の犯罪人が共に処刑に引かれていった」(ルカ23:32)、ヨセフ「高く揚げられ、尊ばれた」(創41:40-44)→イエス「神は彼を高く上げて、これにもろもろの名にまさる名を与えられた」(フュリピ2:9)、ヨセフ「同族を救い、異邦人を救った(創41:56-57)→イエス「もろもろの人を照らす真の光、・・・彼は自分の民のところに来たが・・・」(ヨハネ1:9,11)、ヨセフ「自分を害そうとした者たちを赦した」(創50:20)→イエス「父よ彼らを赦したまえ」(ルカ23:34)

◆以上は、福音主義での何等かの神学辞典などにも書かれているのでもっと調べられたい方がおられたら教会に行かれて牧師さんに尋ねられるといい。しかし、僕がどこまでも最終述べたいのは、他人の言葉ではなく自分の言葉でベストセラーを読むことです。答えはその中に書いてあります。イエスご自身が言われているではありませんか「私が父に願って聖霊を送るとき、それがすべてを教えてくれるであろう」と。・・・続く


世界のベストセラーを読む(678回) (#9):選民族を超え、全人類の救済を暗示する物語

2020-06-19 07:01:51 | 聖書・聖句

◆神の言葉と言われる聖書は命ある人に何を訴えているのだろうか。選民族の祖となったアブラハム、星の数ほど増やすと言われたそのことを信じた信仰の父。そして、父なる神が独り子イエスを十字架に架けられる予型とも思われる、イサクを藩さいにささげるアブラハムの思い、その子イサクの忍耐と従順、押しのける者の意味と名付けられたヤコブ、イスラエルという名前を試練をへながらも繁栄を築き後にイスラエル人と呼ばれる12部族を幸せに導いたその子ヨセフ。神は全人類の救済の予型として異邦人の世界でのヨセフの信仰をイエスのひな型として描かせたのです。当時の世界の反映の国エジプトからの脱出劇、出エジプト記。モーセは360年前も前に亡くなったヨセフの亡骸を運び、五書の後のカナンの地に導いたヨシュア記の最後の締めくくりヨシュアの死の後にもこのヨセフの神が示された地に戻り、故郷の墓に葬られたことが書かれて終わるのです。ヨシュア記24:32。ヨセフが異国エジプトで亡くなってから430年後のことになります。

◆ここで、新約になりその父から派遣されたといわれるイエスの言葉を今一度、考えてみなくてはいけない。
****イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は必ずすべて実現する。」(ルカ24:44)*****「ブラハム、イサク、ヤコブの神、神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのである。」創世記に書かれた彼らは今なお生きて語り掛けているとイエスは語るのです。

◆天地を創造され、自分の似姿に創造され息を吹き込まれて人は生きる者となったこと、イエスが来られて今も神の救済の歴史が語られている人類の歴史の中で、再び、ご自身の永遠の命の基へ、天地創造来のパラダイスへ命ある人々を呼び求めておられる神の壮大なドラマのシナリオ、その土台が当初からこの創世記の中に著されていたことが理解されてきます。全人類がひとりでも多くそのことに気づき救済のドラマに参与させられることを切に願う者です。世界のベストセラーはそう語り続けているのです。 ・・・Ω 


世界のベストセラーを読む(677回) (#8):個人が集団で生活していくに必要な決まり

2020-06-18 22:40:40 | 聖書・聖句

◆世界のベストセラー聖書の中心に、貫かれて書かれていることは創世記が土台になっています。そこには、全人類の救済のドラマの予型が描かれています。無論、全人類ということはいわゆる選民族だけではなく異邦人も含まれています。それは見える肉の異邦人に係わらず人が生きて死に帰還する永遠の霊の故郷に選ばれし人々が、地上で過ごすべく予型が、ひな型がヨセフの生涯によって示されていることを知ることです。そのように、ひとり一人を導いている生きている神が主体なのであって、神は日々、それに応答するひとり一人のその主体性を問うているのです。

◆わたしたちが目指すのは、イエスが言われる「あなたは聖書をどう読むか。あなたはわたしを誰と言うか。」のそれです。これがイエスが、弟子と呼ばれ、父に願い助けぬしを送ろう、弁護者を送ろうと言われたそのことの支えに日々歩む人々のことです。聖書を語る様々な書物が、この世には限りなくあります。しかし、最終、自分の主体性を阻害するであろう中間に介在する人の言葉を参考にはしても極力入れないことです。混乱と争いの元にもなるからです。あなた自身に語る聖霊によれば必要であるかどうかは必ず分かるようになるでしょう。

人が個人から集団となり生きて生活し社会を維持するには共有する決まりが必要になります。それが次の時代の律法として著されます。すべての人が神の臨在、歴史を動かし給うているその方に主体的に少しも関わらない、そういう人がいるかもしれない。不祥事を起こす人がいるかもしれない。それは二千年たった今も同じです。そこで、方向性を失わないためにその手段として、「決まり(律法)」が必要になるわけです。この受け取りも、あなたはどうなのかとの選択を神はいつも語り続けているのです。僕らの人の決心と言うものほどあやふやなものはない、神というお方に対しても、ましてや生きる、死ぬなど考えなどしない。肉体が安楽ならばなおさらそうです。

◆何百年も経過し、世代交代が起こり、現状にのみ満足しようとする世代が起こった時、生き物へ命(霊)を吹き込んだその根本の土台を作られた神を忘れる世代が起こる。人類が破滅しようとする時代、選民族の歴史など知りもしない、神が命を与えられ、信ずる者をどのようにあしらわれて来られたかなど知りもしない異邦人も救済しなければならない。そのことを決して忘れてはいけないのだと語り続けるのです。行く末がどうなるかも分からない、しかし、神は必ず天の永遠の故郷、霊のエルサレムにわたしたちを導き、上ってくださるであろう。ヨセフの物語は、選民族を超えて全人類への啓示ともとれる今も語りかける信仰のひな型となっているのです。・・・続く