大分小難しいことを書いてきました。そろそろまた聖書に戻ろうと思います。その前に、どんな人でもおそらくプロテスタント・キリスト教に触れた時、出会うであろう問題について書きたいと思います。大学受験科目に理系だったので世界史がなかったのですが、僕はなぜか好きで資料集などよく見てました。今も、連れ合いの高校時代、そして子供たちの(もう既に成人して仕事についてますが)残していった世界史の教科書と資料集を見るときがあります。・・・で今回も難しいかもしれません。
◆16世紀初頭、ルターの時代には人文主義(ラテン語フマニスムス、ヒューマニズムのこと)のエラスムスという人が出てきます。あのとがった鼻が忘れられない。この人は、ルターの時代の人、1516年(宗教改革の1年前)ギリシャ語新約聖書を出版した人で、ルターはそれまで大学の講義ではラテンウルガタ版の聖書を用いていたのですが、同時にこれも採用しお互いよく知るようになります。宗教改革者と人文主義者は新しい時代の形成に大きな力となったのです。人文主義を調べると、ルネッサンス期、ギリシャ、ローマ、ヘブライ古典教養を通して人間形成を図る、教会中心の世界観から解き放たれた普遍的人間像を求めた考えとあります。
◆両者とも、聖書と初代教会教父(アウグスティヌスやヒエロニムス)という源泉に帰ることを求め、そこから得たものによって教会の改革、個人の信仰の確立、社会全体の改革などを目指していたのですが、聖書解釈の問題と信仰義認の問題で論争が生じてきます。この部分に突きあたった時、僕は、20世紀最大のカール・バルトとエミール・ブルンナーの論争に似ているなと思ったのです。この問題は、視点の違いなのではないかと思うのですが、2月17日(265回目)に書いたルターの『人間的なものの根絶』の表題からしても、そちら側の頂点にいる神学者は同じような考えをいつの時代も(主の再来までといったらいいいか)持つのかもしれないと思ったのでした。僕などはエラスムスの考えがすっきりよく分かるのですが、それは、バルトと論争したブルンナーの語った「神の似姿に人間は創造されたから(イマゴデイ)彼は神を呼び求める言葉を持つ」というのに似ていなくもない。それでは、ルーテル神学大学の教授であられた徳善義和先生のルターのフマニスムスとの関わりの部分・・・ そして、次回(276回目)に元、東京神学大学学長近藤勝彦先生のカール・バルトの解説で類似箇所を書きます。
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◇論点はルターがはじめから感じ取っていた点にある。聖書解釈の問題と信仰義人の問題である。それは言い換えると、人間の理性と能力をどう評価するかということであり、さらに言えば、神をどのようなものと理解するかということである。この点で、フマニスムスの説く、実用的で、「単純なキリスト教」と、宗教改革の立つ、神中心の、聖書的キリスト教信仰との違いが顕在化してくるわけである。エラスムスによれば、神は人間に分からないことを告げ、できないことをお命じになるはずがない。だから人間はそれなりの能力で、分かるだけのことを理解し、なしうることをなさなければならないというのである。そこには、簡明で、実践的で、倫理的なキリスト教がある。
これに対し、ルターは、神が語ることは、人間が人間の理性で把握しようとするかぎり把握できず、人間が神からの啓示として受け容れるべきものであり、人間は神との関係においては、何かをなしうる能力をまったくもたないと主張する。それは、神が神であることから必然的に帰結することとされたのである。人間の意思をめぐる、エラスムスとルターの論争は、フマニスムスと宗教改革を分けた。しかし、宗教改革以降現代に至るまで、プロテスタント・キリスト教にとってこの論争は終わっていない。
(世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p161)
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◆16世紀初頭、ルターの時代には人文主義(ラテン語フマニスムス、ヒューマニズムのこと)のエラスムスという人が出てきます。あのとがった鼻が忘れられない。この人は、ルターの時代の人、1516年(宗教改革の1年前)ギリシャ語新約聖書を出版した人で、ルターはそれまで大学の講義ではラテンウルガタ版の聖書を用いていたのですが、同時にこれも採用しお互いよく知るようになります。宗教改革者と人文主義者は新しい時代の形成に大きな力となったのです。人文主義を調べると、ルネッサンス期、ギリシャ、ローマ、ヘブライ古典教養を通して人間形成を図る、教会中心の世界観から解き放たれた普遍的人間像を求めた考えとあります。
◆両者とも、聖書と初代教会教父(アウグスティヌスやヒエロニムス)という源泉に帰ることを求め、そこから得たものによって教会の改革、個人の信仰の確立、社会全体の改革などを目指していたのですが、聖書解釈の問題と信仰義認の問題で論争が生じてきます。この部分に突きあたった時、僕は、20世紀最大のカール・バルトとエミール・ブルンナーの論争に似ているなと思ったのです。この問題は、視点の違いなのではないかと思うのですが、2月17日(265回目)に書いたルターの『人間的なものの根絶』の表題からしても、そちら側の頂点にいる神学者は同じような考えをいつの時代も(主の再来までといったらいいいか)持つのかもしれないと思ったのでした。僕などはエラスムスの考えがすっきりよく分かるのですが、それは、バルトと論争したブルンナーの語った「神の似姿に人間は創造されたから(イマゴデイ)彼は神を呼び求める言葉を持つ」というのに似ていなくもない。それでは、ルーテル神学大学の教授であられた徳善義和先生のルターのフマニスムスとの関わりの部分・・・ そして、次回(276回目)に元、東京神学大学学長近藤勝彦先生のカール・バルトの解説で類似箇所を書きます。
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◇論点はルターがはじめから感じ取っていた点にある。聖書解釈の問題と信仰義人の問題である。それは言い換えると、人間の理性と能力をどう評価するかということであり、さらに言えば、神をどのようなものと理解するかということである。この点で、フマニスムスの説く、実用的で、「単純なキリスト教」と、宗教改革の立つ、神中心の、聖書的キリスト教信仰との違いが顕在化してくるわけである。エラスムスによれば、神は人間に分からないことを告げ、できないことをお命じになるはずがない。だから人間はそれなりの能力で、分かるだけのことを理解し、なしうることをなさなければならないというのである。そこには、簡明で、実践的で、倫理的なキリスト教がある。
これに対し、ルターは、神が語ることは、人間が人間の理性で把握しようとするかぎり把握できず、人間が神からの啓示として受け容れるべきものであり、人間は神との関係においては、何かをなしうる能力をまったくもたないと主張する。それは、神が神であることから必然的に帰結することとされたのである。人間の意思をめぐる、エラスムスとルターの論争は、フマニスムスと宗教改革を分けた。しかし、宗教改革以降現代に至るまで、プロテスタント・キリスト教にとってこの論争は終わっていない。
(世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p161)
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