marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(275回目)プロテスタント・キリスト教の論争(M・ルター)

2017-02-28 20:56:50 | 日記
 大分小難しいことを書いてきました。そろそろまた聖書に戻ろうと思います。その前に、どんな人でもおそらくプロテスタント・キリスト教に触れた時、出会うであろう問題について書きたいと思います。大学受験科目に理系だったので世界史がなかったのですが、僕はなぜか好きで資料集などよく見てました。今も、連れ合いの高校時代、そして子供たちの(もう既に成人して仕事についてますが)残していった世界史の教科書と資料集を見るときがあります。・・・で今回も難しいかもしれません。
◆16世紀初頭、ルターの時代には人文主義(ラテン語フマニスムス、ヒューマニズムのこと)のエラスムスという人が出てきます。あのとがった鼻が忘れられない。この人は、ルターの時代の人、1516年(宗教改革の1年前)ギリシャ語新約聖書を出版した人で、ルターはそれまで大学の講義ではラテンウルガタ版の聖書を用いていたのですが、同時にこれも採用しお互いよく知るようになります。宗教改革者と人文主義者は新しい時代の形成に大きな力となったのです。人文主義を調べると、ルネッサンス期、ギリシャ、ローマ、ヘブライ古典教養を通して人間形成を図る、教会中心の世界観から解き放たれた普遍的人間像を求めた考えとあります。
◆両者とも、聖書と初代教会教父(アウグスティヌスやヒエロニムス)という源泉に帰ることを求め、そこから得たものによって教会の改革、個人の信仰の確立、社会全体の改革などを目指していたのですが、聖書解釈の問題と信仰義認の問題で論争が生じてきます。この部分に突きあたった時、僕は、20世紀最大のカール・バルトとエミール・ブルンナーの論争に似ているなと思ったのです。この問題は、視点の違いなのではないかと思うのですが、2月17日(265回目)に書いたルターの『人間的なものの根絶』の表題からしても、そちら側の頂点にいる神学者は同じような考えをいつの時代も(主の再来までといったらいいいか)持つのかもしれないと思ったのでした。僕などはエラスムスの考えがすっきりよく分かるのですが、それは、バルトと論争したブルンナーの語った「神の似姿に人間は創造されたから(イマゴデイ)彼は神を呼び求める言葉を持つ」というのに似ていなくもない。それでは、ルーテル神学大学の教授であられた徳善義和先生のルターのフマニスムスとの関わりの部分・・・ そして、次回(276回目)に元、東京神学大学学長近藤勝彦先生のカール・バルトの解説で類似箇所を書きます。
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◇論点はルターがはじめから感じ取っていた点にある。聖書解釈の問題と信仰義人の問題である。それは言い換えると、人間の理性と能力をどう評価するかということであり、さらに言えば、神をどのようなものと理解するかということである。この点で、フマニスムスの説く、実用的で、「単純なキリスト教」と、宗教改革の立つ、神中心の、聖書的キリスト教信仰との違いが顕在化してくるわけである。エラスムスによれば、神は人間に分からないことを告げ、できないことをお命じになるはずがない。だから人間はそれなりの能力で、分かるだけのことを理解し、なしうることをなさなければならないというのである。そこには、簡明で、実践的で、倫理的なキリスト教がある。
これに対し、ルターは、神が語ることは、人間が人間の理性で把握しようとするかぎり把握できず、人間が神からの啓示として受け容れるべきものであり、人間は神との関係においては、何かをなしうる能力をまったくもたないと主張する。それは、神が神であることから必然的に帰結することとされたのである。人間の意思をめぐる、エラスムスとルターの論争は、フマニスムスと宗教改革を分けた。しかし、宗教改革以降現代に至るまで、プロテスタント・キリスト教にとってこの論争は終わっていない。
                (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p161) 
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世界のベストセラーを読む(274回目)十字架の神学 (M・ルター)

2017-02-27 21:16:04 | 日記
 ハイデルベルグ討論(1518年4月)で、自らの神学を「十字架の神学」と規定することによって、当時の神学を「栄光の神学」として、これと対決する姿勢を明らかにした。
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 ルターは状況の人である。状況の中で自らを形成していく、いな、状況の中で迫られ、形成されていく人である。宗教改革の発端の一時期の経過や、その中でのルターの発言をみるとそれがよくわかる。
 彼は決して自らの思索のみによって、すべてをはじめに語り尽くしてしまわない。むしろ、彼の思想形成は、そのときまでに聖書から示されたものを中心に踏まえながら直面させられている問題にぶつかっていき、ひとつひとつこれについて語っていくという形をとる。宗教改革の展開を見ても、その経過の中でやがて彼が革新に触れる問いとして迫っていく問題、すなわち、教会の権威や秘蹟の問題について、はじめからはっきりした問題意識をもっていたかどうか疑わしい。
 ルターは問う人である。問うと言っても、問い続けて、答えを拒絶し、あるいは、自ら答える努力を拒む人ではない。彼は問いつつ、答える人である。自ら問い、自らその問いに対する聖書からの答えを得ようとする。そうしているうちに、今ひとつ奥深いところにある問いに直面するという具合である。彼の思考様式は、聖書と問いと答えの三点をめぐりながら、らせん階段をおりていくように、深く底へと進むようなものである。
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 宗教改革の口火となったと普通考えられている、一連の問いの始めは95個条である。〔・・・・〕
 慣習上の事柄に対しての疑問でなく、神学の基本、教会の本質に触れるものであれば、どのような形で諸説の撤回を要求されても、容易にそれに従うわけにはいかないのは明らかである。人間的に見てそれが容易ならざることであるのはたしかだが、ルターはその容易ならざる道を選び取り、それぞれの場合に命を賭けて、決定的発言を重ねていく。引き返すことのできない道を、ルターは一歩一歩踏み出していくのである。
 そうした発言をささえるような形で、そのころいくつもの著作が公にされている。それらの著作のうち、一つは批判の書物である。カトリック教会の実態を突き、虚像をあらわにする攻撃の著作である。妥協のない形で、カトリック的誤謬を拒否する厳しい内容にならざるを得ない。
 しかし、攻撃と批判だけではない。加えて、ルターの神学思想を積極的に提示するたぐいの著作がある。それらの著作は、信仰の著作として、今日では次第にカトリック教会によって見直されてきている。そして、それだけに今日のキリスト教とキリスト者に対して問いかけるものを含んでいると言えよう。第三の種類の著作は、彼の宗教改革が個人の書斎内のことではないことを示す。彼ひとり立つが、ひとり立つことをよしとせず、自らが新しくされた福音に共に立ち、共に歩んでいこうという呼びかけをする。・・・ 

世界のベストセラーを読む(273回目)私は今日リンゴの木を植える(M・ルター)

2017-02-26 21:55:43 | 日記
◆歴史に生きるとは、単に歴史の一時期に、ある場所に具体的に「そこにある」という形で生きることではない。それは、歴史の中で、責任ある参与をもって生きることでなければならない。そのためには、歴史の中に生きる自己を含めて、人間と歴史を見る視点が明らかでなければならないはずである。
 ルターは責任ある参与をもって歴史に生きようとしたが、その際、彼は明瞭な視点を持っていた。人間がどのように生きようとも、しかもどのように罪の内に---神からの離反と背反、神への反逆の中に生きようとも、神が歴史を支配し、統治し、救済の意思をもって導いておられるという視点である。 ルターにおいて、その視点は「神のふたつの統治」という概念で表現された。もし人がここで、ルターにおける二元論という結論を簡単に引き出すならば、それは誤りであろう。アイグスティヌスがその「神国論」の中で明らかにした神の国とサタンの国との対立は、ごく初期の著作を除いては、ルターには見られない。ルターが強調したのは、同一唯一の神による、二通りの世界統治の様式である。神は、みことばをもって霊的に統治するとともに、法律と剣をもってこの世的に統治するという考え方である。キリスト者だけが信仰のゆえに、神のこれらふたつの統治様式について知ることができるからこそ、キリスト者この世の統治にも覚めた眼で積極的に関わっていくということになる。〔・・・・〕
◆「あしたが世界の終わりの日であっても、私はきょうりんごの木を植える」というルターの言葉が伝えられている。りんごの木を植えるということは見栄えのしない、小さな仕事であり、そのことの結果は何年、何十年先になってやっと現れてくるものなのだが、たとえ明日世界の終わりがくるのであっても、それは人間のことではなく、神のことであるから、信頼をもって神にすべてをまかせて、きょう一日の、自分に課せられた課題を精一杯果たそうというのである。ルターの職業観は職業を神の召しと理解したものである。たとえどのような働き、仕事であっても人はそれぞれへと召されているのであって、その召しに応答して精一杯いきることが大切であると、彼は教えた。それを単にこの世のこととして見、ルターにおける現状肯定と現状維持をそこから引き出すならば十分ではあるまい。
 ルター自身はもっと大胆に、信頼をもって歴史を支配する神の意志に注目していた。召し出した神は、単にそこへと召したことに止まらないで、いつも新たに、人を召し出すことを信じていた。そのような形で、神からの革新があることを待望していた。
◆歴史に生きることは、神の完全と、人の不完全、破れとに生きることでもある。農民戦争のときのことだけではない。生のすべての瞬間において、歴史に生きるそのような自己を、それなりに知っていたのは、ルター自身であった。そして、彼以上に、もっともよくそのような彼を知っている方がいることをも、彼は知っていたのである。
         (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p202)   ・・・

世界のベストセラーを読む(272回目)「大胆な罪人に〔メランヒトンへの手紙〕」(M・ルター)

2017-02-25 18:19:18 | 日記
これは知る人ぞ知る有名な手紙です。僕ら異邦人にとっては、「罪人とは何か」ですが、言われるのは道徳的な欠落もしかりですがそもそも「神から離れてしまっているそのもの」をいうのですと。例の列車に例えるとすれば、行き先が不明となっている、または脱線しているということになるということです。自分の言葉でイエスと語ろうとするまでは(人間から知ろうとしている限りは)すっきりしないかもしれません。あるいは、パウロが内省を含めた文をしたためているローマ人の手紙第7章を自分のこととして理解されるまではすっきり納得いかないかもしれませんが・・・。ルターが知人のメランヒトンが諸々の理由で個人的に折れそうになったときに、この手紙を出したと言われています。
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 あなたが恵みの説教者であれば、つくりものの恵みでなく、ほんものの恵みを説教しなさい。もしそれがほんものの恵みであれば、つくりものの罪ではなく、ほんものの罪を負いなさい。神はつくりものの罪人を救いたまいません。罪人でありなさい。大胆に罪を犯しなさい。しかしもっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。彼こそは罪と死とこの世との勝利者です。私たちがこの地上にいるかぎり、罪を犯さざるをえません。この地上での生は、義がわがものとなるようなものでありません。ペテロが言うように、私たちは、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望むのです。この世の罪をとり除く小羊キリストを神の大きな恵みによって、私たちが知るに至ったことで十分です。たとえ日に千度と殺人を犯しても、どんな罪でもわたしたちをこの小羊から引き離すことはないでしょう。これほど偉大な小羊によって私たちの罪の贖いのために支払われた代価が少なすぎるとあなたは思うのですか。
 大胆に祈りなさい。もっと大胆な罪人になりなさい。
   1521年使徒ペテロの日に  (「メランヒトンへの手紙」1521年8月1日 Br2・372)
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                         (*ワイマール版ルター全集 Brは「書簡」2巻のp372)・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(271回目)「神の乞食」(M・ルター)

2017-02-24 22:26:33 | 日記
 掲題の文言は、M・ルターが死の二日前に自らをそのように例えたて紙片に残したとれる言葉である。それほどまでに聖書の真理を求めたということなのだそうだ。彼の訳した聖書は、標準的なよく訳された聖書として今も一般に読まれている。僕も持っています。
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◆彼は聖書の翻訳者であった。聖書を原典から当時のザクセン宮廷のドイツ語に生き生きと訳すことによって、一方では彼は、彼以前のドイツ訳聖書を凌駕したし、他方では、当時まだ統一されていなかったドイツ語を、近代語として統一するのに大きな貢献をするという副次的な結果も生んだ。彼は、聖書翻訳の出版に際して序文を付した。旧約聖書、新約聖書への序文ばかりでなく、それに含まれる各文書への序文をも書いたのである。特徴とすべきは、その際たえず、聖書全巻の中心となる流れ、神の救いへの注目の姿勢をとり続けることと、その流れの中で、各文書の特質を明らかにするという態度である 
聖書の中心はイエス・キリストであることが、これらの序文からまことに明らかにされる。
 教皇に代表される教会の権威中心から、聖書中心に変わるということが主張されて、かえってこんどは、次第に聖書が「紙の教皇」とされる傾向が生じる中で、「敵が聖書をもち出して私を攻撃するなら、私は聖書のかわりにイエス・キリストをもち出す」という大胆さと自由が、これらの序文にも随所に見られるのである。
(世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p32)・・・ Ω