marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(835回) イエスが例えで語られた「自分の根」とはそもそも何なのか

2021-03-31 13:39:54 | 日記

◆イエスの語られた”種まきの例え”について、その中の神の言葉が撒かれた(つまり聴いた人)が、はじめ喜んで受け取るけれど「自分の根」がないので、いろいろな雑毎で困難があると棄ててしまう、ということを語っているのである。けれどもそもそも、誰にでもあたえられているというその「自分の根」とは、どこにあるのだろうか? 誰彼にはあたえられていないのだろうか? 人がイエス・キリストの言葉をいい話だなと思いつつも、多くの人が、それは世の宗教の一つであって、自分は家が葬式仏教だからとか思って、なかなか実は巷の宗教などとは関係なくて、地球上にすむ人類への創造者の言葉である、などとは考えてもみない。それは、確かにどのような方法でも、この世界に目に見えぬことを伝えようとすれば、まずは”不完全な人を媒介にしなくてはいけない”という限界があるからなのであろう。人が話すことの限界、困難。◆第一「おれには、おれの考え・・・」という考えは、実は誰しも正当なのであるけれど、問題はそのことさえも意識もしねぇ、という人について実は問うているのである。あくまで、思う思わぬにかかわらず問われているのは「自分」なのだ。行き着けば、まっこうくさい話だが、必然的にいつかはなくなる肉体について、その意味と有り様を問うたことがあるか、ということだけだ。◆親鸞の説いた浄土真宗の「悪人正機説」は、実にキリスト教にとても似ているけれど(僕は、中国で”善導”が唱えたと言われているけれど、更に西から来たキリスト教に触れていたからと思っているのだが)、第一”自分は悪人である”と自覚しない人には、そもそもそういう意識がないから、唱えるお経はその人の心には有効に響かないということになるだろう。”自分の根がある”とは、その訳の分からぬその宗教の言葉を受け止める「自分があるか、それを問い続ける自分があるか」ということなのだろう。キリスト教で言えば、”罪”の自覚を考えられるそもそもそれ以前の基礎の「自分」”ということだ。◆世界のベストセラーは「自分」ということ、それにイエスが語り、使徒パウロが手紙に書いた「生きる」「死ぬ」という言葉の意味を探りつつ読むだけでも、すでにその時点で、この「場」に存在し動きつつある「異界」の入り口を垣間見ることが出来るであろうと思われるのである。「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。」(ヨハネ伝3:3)


世界のベストセラーを読む(834回) 『その方面』とは、どの方面なのか:”魂の<G>”

2021-03-28 18:08:26 | 小説

◆難しいような事が書いてあるような思想書でも、例えば、先に引用した井筒俊彦の「意味と本質」の紹介に、「人と言う生き物は、誰でも『本質』を求めようとする内的性向が誰にでもある」とか、ライフワークに「本居宣長」をしたためた批評家小林秀雄が、「文科の学生へ」と紹介した中の「日常の深く道徳の中に隠れている・・・」というような”人の生きるべく究極の深層の基軸を求めることを意味するであろう言葉”などはいずれも、その個々人の思考の基盤となる動かぬ自己というようなもの(僕はその基軸これを<G>と読んでいる)が無ければ思考対象として観念的なことは言葉では捉えきれないものだということを意味していると僕は読み取る。◆しかし詰まるところ、これは自分が他人の言葉の上に載り、なんとなくそれで他人の言葉の上で生活していいというものではなく、これ(自分を信じて生き、死にを語るという次元の話)は、簡単なようで実は、難しいのではなかろうか。けれど、小林に言わせれば「自分を信じれなくてどうしてものが言えるんだ」という常に、一度、自己の思考の深層に落とし込み、動かぬそこから評論を始める訓練ができている人は、簡単な言葉で処理されてもしまうことなのだ。◆地上に一度きりしかない人生に対して、神学者は「自分」と「自己」とは、などと区分して考察するが、そもそもの”わたしの軸”とはどこにあるのだろうかという考察なども語られるが、それは誰にもあてはまり、実は本来難しくはなく、それは”ただひとつ”なのだということを世界のベストセラーは語っているのである。◆「種を蒔く人」の例えがある。「だれでも御国のことばを聞いて悟らなければいけなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。・・・石ころだらけのところに蒔かれたものとは、み言葉を訊いて喜んですぐ受け入れるが、自分には根がないので、しばらく続いてもみ言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐつまずいてしまう人である。・・・」(マタイ13:20-21)「自分にある根」とは・・・それが”求める方面”であり、その根を僕は”魂の<G>”と呼んでいるのだ。 


世界のベストセラーを読む(838回) (その36)②十章 小説家として生き死にする

2021-03-27 10:54:13 | 小説

◆彼は、学生時代からの職業作家として、その考え様をとおして、後年、持ち時間が少なくなったと感じてきたことから、「その方面」に向かう姿勢を考えたことだった。僕が2016年11月30日ブログ(189回)に取り上げたスピノザに傾倒して考えが及んでいる・・・それは、僕がこのブログの主旨でもある。「すべてのしがらみから解放されて・・・」。巷のキリスト教を信じなくても、人が媒介するこの世の場ではなく、あらゆる場に現存するイエス・キリストを信じている人は、多数いるだろうと思う。大江の学生時代の師であった渡辺一夫教授が「敗戦日記」にキリストのことを書いたように。***◆「・・・わたしといえば、それこそ自分の魂の問題をあきらかに憂えなければならないのだった。持ち時間は、事実、少なくなっている! その物理的な切迫感にあわせて、私には小説についてのナラティヴについての、永く持ち越している課題があった。それは小説の書き方の問題だが、しかし、それのみならず、この小説のナラティヴでの魂の問題を語り始めてしまうと、課題の究極の解法には至らないまま表現することになってしまうのではないか?・・・つまり、自分の頭の中でよくつきつめていないままに、小説のナラティヴを始めてしまうことは不可能ではない。永年の小説家としての経験がもたらした人生の習慣は、ついに究極の課題を考えつめることなしに、死をむかさせるのではないか?反面、小説によってしかつきつめぬことがあり、それは小説の機構の力によって、小説家の意識を超えて達成されるものであるとも、私はやはり小説家の人生の習慣から知っているようであったのだが・・・。私は、少なくなった持ち時間の中で、一歩を進めたいと思った。そして、不信仰者としての軽薄を自覚しないのではないが、ともかくスピノザの「神」の定義に、自分をもっとも自由にし、かつさらなる深化を夢みさせるものを感じていた。そこで、この思想家とその研究書を読むだけのために、残りの時間を有効に使いたいと願ったのだった。・・・」***(「私と言う小説家の作り方」10章 <p187>)


世界のベストセラーを読む(837回) (その35)①十章 小説家として生き死にすること

2021-03-26 08:19:23 | 小説

 (再び・・・)表題は彼の書いた最後の章にある表題である。彼が華々しくデビューした時代、僕は学生時代だったから、その作品に大いに引用されている文章が、欧米のそのままに近い内容で、しかも欧米の詩人、作家、思想家というのはその深層には、2000年前に人類の罪を担って十字架で死んだというその男から始まっていると思っていた僕には その引用にとても関心があったのだ。ただ、作品の人の所動に読めなくなったのは述べてきたとおり、性的衝動に露骨に行動を起こさせるのは、知的な思考での表現がいきなり動物的な脳みその衝動的行動を起こすのは、そのギャップに吐き気がしたと書いたとおり。◆軽いところから書けば、「万延元年~」の村で首釣り自殺の人を、子供が棒でつつく場面があるが、これは彼が小説の表現に「異化」を語るが、人の存在の「異界」を思う僕にとっては、これは嘘だろうと(彼は、フィクションでいいとは語っているが)そもそも魂をもつ他人を含む人という生き物が持つ「異界」を無機質の物体に扱うところが、いただけない。それゆえ彼自身には個人的体験として確かに困難が生じた。(作中の)子供にとっての人の死はというものは「異界」に接する非常なる恐怖を感ずるものである。事実、そうである。◆小説を読むには時期がある、と彼は語っているが、まさに人にもまれず、社会的経験も積んでいない若い人にとっては読めるだろうが、学生時代から職業作家として身をたてていかねばならなかった彼にとっては、「魂の問題」が人生の課題になっていたことが、この最後の章に書かれているのである。人が命をもち、魂をもって生きているその追及「その方面」の答えをあからさまに書いていけば、小説は書けなくなるだろうと。◆最後の章の、最後に出てくる引用は、僕が2016年11月30日に掲載したブログ(189回)のスピノザ(写真掲載見られたし)であった。・・・


世界のベストセラーを読む(836回) (その34)キリスト教礼拝で語られた”大江健三郎”の一冊

2021-03-25 20:14:56 | 小説

「大江健三郎の最新のエッセー集『新年のあいさつ』の中に「チャンピオンの定義」という美しい文章があります。著者は、高校一年のころお兄さんから、コンサイス・オックスフォード・ディクショナリーを買ってもらったそうです。大江さんは、夕食に家族が集まる時間になっても、買ってもらった辞書を読みふけったようです。みんなを待たせて、遅れてやって来た弟を、兄さんが執り成して、何か面白い言葉を見つけたかと聞いてくれたそうです。新しい言葉というのでなく、言葉の説明が。そう答える弟に、一つ例を上げて御覧と言う兄。言われてあげたのが「チャンピオン」という言葉の説明だったというのです。「ある人のために代わって戦ったり、ある主義主張のために代わって議論する人。僕はこれまで、チャンピオンという言葉から、大切なことを他の人の代わりにやる役目を思い付いたことはなかった。しかし、この説明に何かしっくりするものを感じる」。それから40年、兄弟はこのことについてその後一言も話しをしたことがなかったようですが、そのお兄さんが亡くなってから、ある人から、電話で知らされた。亡くなる直前、非常識にも癌で死の床についているその兄さんに、来世のこと、魂の救いのことについて気構えができているか尋ねた人がいたというのです。その時、「それは弟に聞いてください。あれが、私のチャンピオンですから」と兄さんは答えたと言います。「代わって戦ってくれる人」を持つ、その意味の深さをきっとあじわったのではないかと思います。ーーー「ある人のため代わって戦う」「大切なことを他の人の代わりにやる役目」ーそういう戦いや努めがあるのです。これは何かしっくりするもの、ほっとするものを感じます。・・・このチャンピオンの定義はキリストが、私たちに代わって戦ってくださった戦いに通じるものがあります。・・・それが主の十字架でした。そして私たちのために勝利してくださったのです。・・・」(「キリストー私たちの勝利者」<コロサイ信徒への手紙> 近藤勝彦:東京神学大学教授、学長歴任、現理事、協力牧師)・・・◆’21年3月末、今はキリスト教歴で受難節、新年度4月4日はイースター(復活祭)になります。