marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(428回目)寄り道その七:昭和の文学続き 評論家佐古純一郎はキリスト教伝道者だったのか②

2017-09-05 07:42:32 | 日記
 先の評論家、福田恆存氏の文章を掲載して、続いて佐古純一郎氏は、次のような文章を書いている。「問題は主体の側にあります」と書くのであれば、福田氏自らが、キリスト教に真っ向からぶっつかってみる必要があるだろう、それこそ、主体的にであるし、実存の問題であるのだからと。そして、次のようなまとめの文章が続きます。
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 頭では分かっていても、それが行為になってあらわれない。それが近代的な知性の論理のわくなのである。キリスト教に真っ向からぶっつかって見るとは、具体的にはどうすることなのか。むしろそのことが大切な問題なのである。単純なことなのである。ほんとうにぶっつかってみることなのである。手がかりは身近なところにいくらでもあるのだ。照れくさいなどといわないで、本当に教会に行ってみることであり、聖書に本当にぶっつかってみることであり、キリスト者にほんとうにぶっつかってみることなのである。そして、そのためには何もヨーロッパまででかけてみなくてもよろしいということが、この際いいうる唯一の忠告であるだろう。口語訳聖書では不満なら、英語が読める自信のある人は信頼感がそっちの方に持てるなら、そこで英語の力をはたらかせればよろしいのである。日本の伝統にはキリスト教はない、などといっているから抽象論になるのであって、一丁くらい先にはちゃんと教会はある筈なのである。どうも教会に行くのは大仰で照れくさい、きっとそういうつぶやきが起こってくるだろう。もういちど福田氏の言い方を真似させてもらうなら、「それを照れくさいとして避ける気持ちが、ますます私たちをして西欧の精神と文学とを理解せしめなくしていることだけは事実です」。それは照れくさいとして避ける気持ちに身をゆだねていて、どうしてキリスト教に真っ向からぶっつかってみるなどという実践が生まれるだろうか。
 近代小説の行方は、もう、頭の中だけでどんなにこねくりまわしたって、確かめることは出来ないのである。そういうところに私たちはすでに出てきているのである。ちょっとした思いつきでごまかせるものではない。また、ヘミングウェイを下敷きにして、起用にお習字をするようなスピード感をあらわしてみるというようなことでも、どうにもなるものではない。「問題は主体の側にあります」。そのとおり、だからこそ私は、作家の実存の問題だ、とあえていうのである。(先掲載 p113~p114)
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◆佐古純一郎氏はキリスト教伝道者ではなく、文芸批評家である。
しかし、本当に言葉の専門家として文学などで大衆娯楽小説ではなくその身を立てようとすれば、真摯に人の生き方に当たろうとすれば、必ず、キリストのことばにぶつかると語っているのだ。
 僕が、薦めているこのブログもまったく、その通りなのです。人生は一度きりなのです。この地上に僕や、あなたという人は、一人きりなのです(今はDNA鑑定でも証明される)。それであるなら、天地万物そ創造し、自らの似姿に創造した最高傑作としての人である自分がそのふるさとである天国というところにどうして帰っていってはいけないことがあるだろうか。それは、神話ではない、その確信ごときを得た人々は、なんとどんな苦難にもめげず喜んで死んでいったのである。僕は、不思議でたまらなかったのです。自分の中のモヤモヤの不条理の解明、解決とその謎を解きたいと・・・。
◆以上が、佐古純一郎という評論家が仙台で行われた、カトリック主催の講演会に三浦朱門と共に呼ばれた理由のエッセンスとなるようです。・・・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(427回目)寄り道その六:昭和の文学続き 評論家佐古純一郎はキリスト教伝道者だったのか①

2017-09-03 06:00:00 | 日記
 今回のブログは一連の流れの中で書いていますので、不明な方は先の「寄り道その一」からお読みください。下手なその辺のその道の方々より、真摯に言葉の専門家であろうとするなら、彼はことば(ロゴス)に必ずぶつかるはずであるということを述べており、確かに僕もそう思うのです。キリスト教と言えば、雑音としての知識は腐るほどあるので、それなりのイメージをつけてから読まねば(接しなければ)いけないと思われる方がほとんどだと思うが、決してそれが確信にはいきつかないということを僕は述べてきています。佐古純一郎の「昭和文学の課題」の前回からの文章の続きです。<「文学をどう読むか」Ⅲ昭和文学の問題 (現代教養文庫)から>
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 ヨーロッパ的近代において「自我」という観念が絶対性を保持しえたのは、実は「神」という絶対性の投影としてのみ可能だったので、「神」の否定が裏返しにされた「神」の肯定であったところに、ヨーロッパ的世界において無神論が生活のエネルギーでありえたわけがあったことを知らなければならない。「神」は留守であった。その留守を守る役割を果たしていたのが「自我」であったに過ぎない。だから、ヨーロッパ的世界に於いては、「神」にかえっていくという道がけっして断たれていた訳ではなかったのに、私たちは「自我」という観念に頼れなくなっている現代に於いて、かえっていくというかたちでは「神」につながっていくことができないのである。そこに私たちの奇妙なゆがみがあるのだということを認識しなければならない。〔・・・・〕(p110)
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(僕のコメント):2017年、今は文学の問題などに悩む事などあるのだろうか、すべて大衆化されてしまって、内容に倫理などを求めるというシリアスなものより如何に売れてるかが、どれだけ(数)読まれるかであって、内容は希薄なように思ってしまうのは僕だけだろうか。1978年初版41刷発行の版を重ねていた当時は、まともに「文学は如何に」などという課題に悩んでいたわけだ・・・物はあふれ大衆化によってそれらの答えが出ないうちに時代は過ぎ去りつつある。しかし、神の最高傑作の創造物としての人は、変わらず生きては死にゆく。この住む土台(地球)が今にも無くなろうとしているのに・・・。当時、著名な評論家福田恆存氏の「個人主義からの逃避」と題する評論、文学の問題について論説を掲載して佐古はその見解を述べているので、その評論を先に掲載します。
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 問題は主体の側にあります。西欧と日本とでは、近代文学だけが違うのではない。近世社会が違うだけでもない。両者における中世封建社会の差ということから考えなおさなければならないのです。しかも、その比較においても、唯物史観的に下部構造をほじくりまわしているだけでは、どうにも納得いかぬことがある。私は、そこに読者の目を向けたいのです。
 神のない日本、絶対神を必要としなかった日本人、そういう主体の分析にまで迫らなければ、どうにもなりません。さらに、それを見事に分析したところで、それだけでどうなるというものでもない。が、その自覚なしに、近代文学がどうの、近代精神がどうのと言っても、いたずらに混乱を巻き起こすだけで、すべては無意味であります。個人主義ということ一つを採り上げても、それは神という前提なくして生じえないし、それに徹しようとすれば、どうしても神の問題にぶつからなければならないはずです。個人主義ばかりでない。民主主義にしても、自由にしても、平等にしても、すべてが神の問題に結びついている。
 ただ、神などを持ち出すのは、私も日本人の一人として、いかにも大仰で照れくさいが、それを照れくさいとして避ける気持ちが、あるいはそれを「観念論」として軽蔑する態度が、ますます私たちをして西欧の精神と文学とを理解せしめなくしていることだけは事実です。その意味では、もう一度明治の精神に立ち返ってみる必要がありはしないでしょうか。キリスト教に真っ向からぶっつかってみる必要がありはしないでしょうか。(『個人主義からの逃避』:福田恆存 )<「文学をどう読むか」p113>
 *********************************************************** ・・・ 続く 

世界のベストセラーを読む(426回目)寄り道その五:昭和の文学 評論家佐古純一郎という人がいた④

2017-09-02 02:55:24 | 日記
 評論家佐古純一郎のこの著作を本棚に持っていた理由は、表題から見られるように時代考証から当時の文学を同じ時代を生きている読者の声を聞きながら倫理的考察をして、何が僕ら人としての普遍性のある倫理性の核のようなものを追究していくのか、難しく言えばそのような考察が見られたからだ。真摯にどこまでも人の言葉を追究すれば、地球に「人」という「種」がいる限りイエス・キリストの「ことば」に必ずぶつかる。ここで宗教性か、など照れくさく考えを引いてしまうのは、その考えの媒体に今までの人の言われてきたことが少なからず、正しい自分の意見を持つ前に障害となっていることを冷静に思ってみるべきです。
◆彼の批評には(だからというか)いろいろ批判もあったようだが、日本の今を形作る過渡期の言葉の専門家たち(作家)の言葉の格闘を見れば(作品を読めば)、生きるという事において、その通奏低音のような「おもり」が、この国に於いてはどうにも観念的なぼんやりした過保護的な想念にまとわりつかれているようで、相対的に自己を見る、自分のことを自分の言葉で突き放してみる、そして新しい自己として前進する(ここは旧約聖書で言えばアブラハムの出発の必要性・・・あえて)ということの、そのための足がかりが見つけられないために挫折が見られてきたことです。そういう中で、戦争に負けて自己の言葉を追究することが、戦後の復興の中でさえ暗中模索されてきたのですが、例えば1960年代の評論家福田恆存の文学談義の総括なども、ストレートに西欧との比較について問題提示(キリスト教にぶつかってみること)の必要性を説くのですが、こういう批評の文章もこの国では内心の恐れがあるのか課題として、ましてや流布されることは一般受けしないので残らない。しかし、佐古の「文学をどう読むか」1958年初版という僕が引っ張り出してきた文庫も20年後には41版を重ねて、その内容はキリスト教との関わりについて大胆に自分の見解を述べていて60年近く経た今も決して古くない。
◆学校では、それでも日本の文学者として、夏目漱石、芥川龍之介や幸田露伴や森鴎外、川端康成などを読ませるわけでしょう。人が生きてきたそのベースを本来教えるべきなのに「神」に触れる言葉がないがために技巧だけに(知識だけに)終わってしまわざるを得ない。それで「主体的に考える」などが改めて指導要領に加えられても、困難至極というものではないだろうか。それをカバーするために「道徳」教科の復活は心の芯までは変えられないだろう。2017年の今日においても子供たちに教育勅語の暗唱させていたとう驚きの学園が問題を起こしていたが、そいうベースがないこの国のそれが実態。(※余談・・・現代は、流行作家の村上春樹などがノーベル文学賞を貰えるかどうかなど言われているが、貰えるかの話が出てくるのは翻訳されているかどうか、その数、あるいは国内に推薦する専門家がいるなどだが、僕の意見、ある条件を見たさない限り彼は貰えないというのが今のところの僕の意見です。数年前のある新聞記事を読んで彼は貰えないと思った。)
◆それでは、佐古の昭和の文学の問題から抜粋します(改めて書くがこれは1958年初版の文章です。教育勅語の暗唱の学園に入れてなんとも思わない親がいるということは、この内容は古くないということです。
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〔・・・・〕「自我」という原理が、ヨーロッパ的世界でもっていた意義と、ヨーロッパ的近代を移入のかたちで自己の中にとりいれた私たちの近代での意義とは、これはまったく異質的だったので、そこのところを無雑作に混同するところから、実は私たちの現代のいろいろな問題が出てきているのだということを、根本的に考えなおしてみることが大切なのである。わたしたちはつねにばくぜんとそういうことに気づいていたのであって、ヨーロッパ世界での近代的ヒューマニズムの背景にキリスト教がげんぜんと横たわっているということは、およそヨーロッパを論じる人なら誰しもが知っていたのである。知っていながら、じつはその背景にあるキリスト教との深い関連ということをきりはなして、ヨーロッパ的近代というものを私たちは移入してきたのである。・・・・続く 
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