露草が頑張って一輪。・・・朝方、こちらだいぶ涼しくなりました。そろそろストーブの設置準備をしようと思っています。こちらのストーブは、簡易ストーブという訳にはいきません。やはり、少し大型の長期海外時のトランク大の大きさですが、取り外した時はカバーを掛けて窓際横のテーブルにしています。ですから、設置は移動し煙突を繋げるだけで面倒ではありません。◆タイマーを掛けると朝、起きると部屋は暖かくなっているし、何しろ女性の声でいろいろセッテイング終了の声まで出してくれるというものです。量販店では、それなりのマージンを取っているので高いですが、以前の物を地元のストーブ掃除屋にお願いしたところ、中がぼろぼろでとても使えなくなっていますと、呼ばれて中を見せてくれました。そこで紹介していただいたのは、量販店と違い、マージンで儲けているわけではないので同じものでも2万円ほどもお安く紹介いただき、それを購入したわけです。◆何分にもロングランで使用するには、使用条件を少なくとも守ることです。数十年も使用の物は過去には、部屋内に蒸気を発するためヤカンなど載せて沸かしていたものですが、天板に網がありますが、載せて何かを沸かすということは、このものでは本来推奨されません。しかし、僕らが子供のころは、金網を載せて餅を焼いたり、スルメを焼いたり、ミカン?焦がしたりして食べたものです。無論、そのころのものは金物の鋳物やブリキの丈夫なストーブというもので(今でもありあますが)、学校では薪から石炭コークスなどが燃料で、当番で校舎の倉庫からバケツに入れて教室まで運んだものです。必ずそばにバケツに水を入れて備えておくので朝登校すると、氷が張っていたことを覚えています。その後、蒸気での配管が引かれて、朝方、登校するとカンカンと蒸気が配管を流れるハンマーロックといのだそうですが、音がしていました。◆無論、ストーブは、面倒ですが復古した薪ストーブや、その後、灯油ストーブ、電気、ガスなどありますが、やはり灯油ストーブがよいと思います。それにしても、薪ストーブなるものも進化して、燃やす木も選ばねばいけないのでしょうが、長時間燃え続ける物を、コーヒー店で見かけたことがありました。やはりお国柄、スウェーデン製で時間がゆっくり流れることを感じました。
・・・つづき、そしてメモの終わりです。
◆イエスが語られるみ言葉を受け容れるには、受け取る自分という根があり、点検してみなくてはいけないのだということになる。他力本願的に、漫然と委ねるのではなく命を得るためには、それに呼応する「自分の根」を持たなくてはいけない、ということになる。そのためには、自分の言葉で、み言葉を読む、ということが必要になるのではありませんか。ここで、一息で理解できない言葉を主が語られるのは、人はそれぞれ、さらに異なっての自分があるし、み言葉に教えられる自分というものも、地上に命を受けた人々はそれぞれに異なって宿題を与えられているからと教えられます。イエスの言葉は、命を与えられている万人の救済です。しかも、個々人の「自分の根」があるということは、神の言葉は、全人類のひとり一人に語っているということになるのです。黄金律で述べられた「自分を愛するように」とは、前半の「心を尽くし、精神をつくし、思いをつくして主なる神を愛せよ」と、並列の言葉では決してなく、そのことが「主なる神を愛するということが先にできているからこその自分」であり、「その自分を愛すように」ということと理解されます。それが本当の「自分」であり、本当の「自分の根」になっているということだと。ここに讃美歌の「我ならぬ我の現われ来て・・・」が分かってくる。又、「自分の命を憎む」その行為とは、このみ言葉の最後の「永遠の命に至る」、という言葉に関わり初めて「憎む」という意味が分かるようになっていることです。◆「自分を愛するように」とか、「自分の命を憎む」とか、そしてまたたとえで語られた「自分の根がある」とは、それぞれ文字としては同じ「自分」のという言葉がありますが、それぞれを関連づけてみると、真の自分を愛することは、神の言葉につながろうとしている本当の自分であり(信仰)、地上にのみ関わる肉の欲求のみ満たそうとするという「自分の命を憎む」ことであり、そのためには神と結びつこうと日々、祈る「自分という根」を持たなくてはいけないのだ、ということになるだろう。◆ここでは民衆に語っているのですが、おそらく何を言われているのかがよく分からなかったのではないかと思われる。しかし、永遠の命については、イエスは、それに続く語り掛けに隠れているのです。「私に従いなさい」これは、弟子だけでなく、その時の大衆、ユダヤ人、ギリシャ人、その他、異邦人に語りかえているのです。そういうことを踏まえて始めたここに、この言葉が理解されてくるのだ。天上に帰還した彼に言わせれば、代わりにあなた方に送った聖霊に繋がっていなさい、それに聞きなさい、それがすべてを教えてくれるであろうと。というのは、こういう手順を踏まえた人々に語り掛けるのだろうと。あるいは、そもそもそれが身についた神の目から見ればふさわしい人には、手順如何もあるやなしやも無関係だろうが。
◆ここでパウロは、このような言葉をどのように解釈したかというと実際の言葉上のあれこれではなく、肉と霊とに分けてそれを多く手紙に書いているように思われる。パウロの究極の言葉と言うものに触れてみ、締めくくりたい。
「私はイエスと共に十字架につけられた。(自分の命を憎む)もはや、私が生きているのではなくイエス様がわたしの中で生きているのである(本当の神を第一に愛する自分)。私が今、肉において生きているのはわたしを愛し、私の為に身をささげられた神の子に対する信仰によるのです(体験からの信仰)。」ガラテア2:19a-20
人からではなくイエスからの直接啓示を受けたというパウロの信仰の根底には深い内省した結果の罪の自覚があったのだということが手紙から分かる。まず、第一に直截の主の弟子ではなかった。第二に、福音を信じた人々を迫害しようとしていたから。これは多くの試練にあった彼にとって、根本の試練にあたるものだったでしょう。新約聖書で最も最初に文字にされたのは、彼の書いたテサロニケの手紙だった。彼は生前のイエスには会っていない、復活のイエスにあっていたのだ。今の新約聖書は本としては影も形もなかったのだ。ただ、イエスの送られた聖霊が充満していたのある。それが、時代を経た現在、世界に充満し希薄になったというのだろうか。・・・イエスは、今も私に繋がっていなさいと語り掛けている。(END)
・・・続き ◆更に種まきの例えにこういう例えもありました。マタイ13:20-21 石ころだらけのところに蒔かれたものとは、御言葉を聞いてすぐ喜んで受け入れるが、自分の根がないのでしばらくは続いても、み言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまう人である、とある。ここでの「自分の根」とは何か。
◆注意しなければいけないことは、ただ信じなさいと言われると、すべて放置して自暴自棄的に無責任になることではないだろう。また、他力本願的に全部投げやりになることでもないだろう。信じるというその自分の根があって、初めてそれから、その核心から、神の導きにゆだねるということです。すべて他人任せというのでは、決してない。つまるところ、神の愛する本来の「自分の核」なる永遠の世界に神が迎える霊を持つ「自分」が、肉にまとわりつく自分の選択できないDNAの不純物もまとわりつかせて、自由になれない自分が、イエスを信ずることにより、その肉が彼の十字架で消滅され、新しくキリストという礼服を着て(つまりイエスの体を食するという聖餐)にあずかり、まったくピュアな本来の自分となって天に迎えられる、天の故郷に帰還する(ここにモーセの脱出<エクソダス>が古来から絡んでいるという創世記以来の壮大な物語があったのである)ということなのである。その「自分の根」は神の言葉を受け容れるに足るものか、と自省するときに、その言葉のズレ=自らの「罪」というものが現れてくるのではないだろうか。主イエスはその解消のために十字架に掛かられた。主の十字架は、解消できない私の罪のためにあったと、深い理解が生じてくるのではないだろうか。彼の言われた「自分を捨て」や「自部の命を憎み」との言葉と「自分を愛するように」とのそのズレ、矛盾がここで、イエスの十字架で解消されることが、理解されるのです。・・・続く
続き・・・◆人も動物の一種ですから、漫然とある自然のごとくただ享楽的、あるいは額に汗水して労してもイエスを知らない生存するのみの生き物であり、永遠を知るようにその命は憎まねばいけない、それは本来の命(永遠の世界に行くべき霊を持たない)ではないからであると。憎み続けること、それを保って永遠の命にいたるのであるということは、自分の真の命、神が愛される本当の自分(永遠の世界に行くべき神の霊と繋がっている自分)というものが本来あるにも関わらず、十パひとからげに漠然とした自分として、実はその自分の考えではいかんともしがたい外なる肉の思い、その仕組みが絡みついていて、それが本来の自分(神の愛される真の霊なる自分)の様々な障害となっていることが理解されてくるのではないだろうか。それは、のちにパウロが肉と霊と区分して解釈するとよく理解できるように思われるのである。(実は仏教では、これを輪廻転生における前世からの霊の障害としている。この為、今生で第一に誰もが成仏しないと、次にまた繰り返す、転生すると語っているのである。釈迦はこれを第一に教えたのである。)◆8月2日にアップした902回や903回のブログの記事には、輪廻転生のことを書いたのだが、聖書には、現象として生まれ変わりや霊の転移を信じたいたらしい記事があるが、あからさままにこのことを書いていないのは何故なのか。この地上の僕らは人のことに関して、あからさまに事実は知らなくていい、公表してはならないという事実があるのである。例えば、人は生まれながら平等ではないこと、身体において、知能において、DNAにおいては優劣があるということ、などなど、である。しかし、これは地上からのことである。全人類の救済を知らない人の知識は、差別、区分するためにしか用いられないだろう。救済は上から来るのである。地上の命あるものに条件はない、ただ、イエスの死の意味を知っているかどうかであり、受け入れているかどうかだけである、というのである。
続き・・・◆それで話したのは、ヨハネによる福音書です。「永遠の命」というイエスの言葉が書かれているから読みなさい、とルターがガラテア人への手紙と共に勧められているところ。ところが、取り上げたイエス様の言葉は、不思議な箇所で又、普段の私達には一読、分からない箇所なのです。「自分の命を愛する者は、それを失う。この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」自分の命を粗末にするという意味ではもちろんない。結論から言えば、永遠の命に入る為には、自分の命を憎むことが必要だ、ということになるのだがそれはどういう意味なのか。
◆ここで、黄金律と言われている言葉もあることので考えて見たい。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして汝の主なる神を愛せよ」これが第一の戒めで、つぎにこう述べている言葉は、先ほどのイエス様の言葉と矛盾しないだろうか。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」これが第二の戒めであると。これは、旧約のレビ記に出てくる言葉だ。旧約だから当時の言葉はイスラエル人という仲間に対してなのだが、イエスは、だれでもに対する言葉のように普遍的解釈としてそれを新約の時代となって語る。ここで言われている言葉には「命」という言葉はなく、「自分」とだけ書かれている。土台となる言葉を受け取る「自分」をしっかり考えてみることは、とても大切なことだと思われる。しかし、ここで先の言葉と矛盾しているように思われるのはなぜか。イエスご自身言われる「自分」とは、普段の私達が思う、詰まり七面倒な、命とかのような言葉の細かな分析のようなことではなく、32や33節のように素直にそのまま、読めるのに聞く対し、私たち人に関する「自分」についてはひとひねり、ふたひねりしているのはなぜなのか。何に気づかせようとされているのだろうか。御言葉を聞く、私たちに関する「自分」といことばには、さらに細密に自分について考えなくてはいけないと促しているようだ。それは、永遠の命に係わることだから、ということになるだろう。イエスの言われた「自分」とはそして「命」とは、どういう意味なのだろうか。