marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(460回目)余談その2:この国のアイデンティティーについてつらつらと・・・

2017-11-28 21:20:14 | 日記
 ここ数日、昔、買って読んではいたがこの寒い期間ずうっと再読していた。こういう本は難しいかもしれないが、繰り返し読むと知りたいことのヒントを教えてくれる。『沙門空海』(渡辺照宏、宮坂宥勝 著 ちくま学芸文庫)と『空海と日本思想』(篠原資明 著 岩波新書) 僕の家(連れ合いの家も)は代々、仏教では真言宗なので・・・。なぜ、イエスのことからこの国の宗教、仏教についてなのかは 追々又。
◆幼少のことから(お袋によると本当に幼稚園にあがる前からおんぶされて小さな神社を見ると僕は指を指して何かを言っていたらしい)疑問に思っていたのだが、それで、大きくなって会社人になってなおさら思ったことは、日本のあちこちに”諏訪神社”とか”八幡神社”、”八坂神社”・・・というのがあるのか不思議だったのだねぇ。同じ名前の神社が日本のあちこちに・・・。僕の生まれた東北のど田舎にも古びてはいるが、昔から由緒ある(というのは、過去の俳人などの石の句碑などが並んでいる)”諏訪神社”というのがある。”八坂神社”というのも。昔は、その田舎の方が賑やかだったのだろうけれど・・・。それから、息子の関西の結婚相手のご実家で、先方の父上にその爺さんが狛犬を寄贈したという小さな古びた神社にお参りに行かされたのは”八幡神社”でした。これも何かの縁なのだろうなぁと思ったのでした。
◆それから、今の若い人は”天狗”などというのを理解しているのかどうか、天狗猿というのを知っていれば分かるのだが、鼻の高い赤ら顔の・・・昔話には楓の大きな葉っぱなどを団扇にして不思議な術を使うなどの話があった。その天狗さんは、修験者の格好をしていましたね。現代で言えば今でも山形県の湯殿山あたりで修行は行われているのですが、頭に小さな黒い帽子のようなのを紐でくくりつけ、杖を持って、昔話の挿絵の僕の記憶では一枚歯の下駄を履いて、木で出来た黒い箱のランドセルのような箱を背負って、手首、足首を紐で絞って何か大きなぼんぼりのような紐がついた上着を着ていて、無論、鼻は天狗鼻、ひげも生えていた・・・。何を言いたいかというと、この人達が昔、大陸から新天地を求めて日本に渡り着いた失われた古代イスラエルの人々の一団ではなかったか、などと思っているのです。仏教が入るもっと古い時代の修験道者たちの一団ね。今の神道の神主さんたちは代々、世襲制なのだねぇ、これ旧約でいうところのレビ(司祭)の家系で・・・その因習ごときが代々守られて来たなどと・・・。こんなこと書くと一笑ものかと思うが先のブログで紹介した本にも似たようなことが書かれているけれど、これは僕が先知識がまったく無いときから、そんなことを長いこと思っていたので書いている訳なのです。それにしても、旧約時代のモーセの引率した時に担いで運んだケルビム(天使)の着いた神の箱は日本の御神輿だろうしな・・・世界中見ても国中にお祭りに御神輿を担ぐ国はないのではないの? 日本のあちこちで・・・僕の地方では御神輿が川を渡ったり、滝の水を通るというのがあるけれど、これ海が割れた紅海を渡ることの再現かぁ・・・などと
◆『沙門空海』(p151~)から引用し書いてみます。この辺が僕の頭の中で繋がるのですねぇ。
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 ここで国際人として活躍した空海についてまとめておこうと思うのである。今日、われわれは『公卿補任』『新撰姓氏録』などを見ると、奈良朝の末、平安朝の初めに活躍した目ぼしい官人たちの大半が帰化人であるか渡来氏族の出身であるのに気づくであろう。それは想像以上に数多いのに驚かされる。彼ら大陸から渡ってきた者達は中央政界で枢要の地位を占めて活躍したばかりでなく、その優秀な技術を伝え、あるいは全国各地の新田開発にあたって入植し指導的な役割を果たしている。空海と関係ある偉大な仏者を見渡してみても、最澄をはじめとして、勤操(ゴンゾウ)、勝道、護命(ゴミョウ)などすべて渡来系氏族の出身であり、如宝のごときは胡国(ペルシャ)の人である。また、当時、遣唐大使に任命されるほどの者はほとんどが、その母方をみると渡来氏族であることに気づくであろう。実に上代日本文化はかれら帰化人もしくは渡来氏族によって開発されて、次第に一般民衆の中に浸透していったのであって、決してその逆ではない。この点は、生活技術をみれば、全く明らかな事である。このようにして、上代の一般文化および仏教はわれわれが考えている以上に大陸のそれと深く結びついているのである。そしてこの点はまた空海が開いた真言密教の独創性を理解する上の大切な鍵でもある。
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世界のベストセラーを読む(459回目)余談:この国のアイデンテティーについてつらつらと・・・

2017-11-19 07:27:41 | 日記
 昨日の少し訂正です。真面目に読まれておられる方もおられると信じて・・・「礼拝次第」に入れているどうのこうのというのは後半の「使徒信条」のこと、「・・・教団告白」冒頭からは何処の教会も式文には入れてませんのでわかりにくかったので訂正します。で、天皇が沖縄を訪問されていたことに感じて
◆この国の天皇が古代イスラエルの失われた十部族の末裔に当たるかも・・・というのは興味のある方には知られている。日ユ同祖論というのもありますけれど、近代の隠れた歴史かな。”六千人のピザ”の杉原千畝(スギハラチウネ)さんという方など知られているけれど、昔の外交に携わる方はきちんと勉強していたと思います。戦時中、満州国にユダヤ人の人たちの国を作ろうとしたこともあったとか。
◆昔、この国に来ていたR.マクレオドさんとかいうかたの調査や、僕らの時代にはケン・ジョセフさんが親子の代にわたって調査をして本を出版しているのは、今も読む事ができます。レムナント出版のの久保有政さんものもありますから、面白く読めます。が、しかし、検索すると反論も多いですよ。何でもキリスト教は正しいと言っているだけだとか、精神異常?などとう方もあるようで、人それぞれでいいとは思いますが(ここで是非は問いません)僕はどうも、いつも違う観点に考えがいってしまうのですね。人はそれぞれ、他を批判することも必要ですが、その判断の基について、善いとか悪いとか、波長が合わんとか、イケスカナイとか・・・の、判断基準はどこから来るのだろうと思ってしまうのです。それで、神が人を創造された時に園の中央の”善悪の木の実”を食べてはいけないと言われて、結局食べたのですが、それぞれの人の判断基準が最終問われてくると思うのですね。すべてに於いて・・・。人という生き物はなんぞや!ということを考えてしまうのね・・・  (よく考えてはいない肉に引きずられる言葉・・・これが統べて)
◆先のブログに第94回芥川賞をもらった米谷ふみ子の”過越しの祭”の事を書かせて頂いた(カミュの「異邦人」についても同様)。この内容と同じなのです。ユダヤ人の方は今でも、どこの国であっても”過越しの祭”をその意味を持って祝われているのですが、かたや知らん人は、何を古臭いことを阿呆チャウかぁと一笑する訳です。この違い! 自分のこの国の歴史も知らないで・・・と反論することは止めますが、この論法でいくと、聖書がどうのこうのと屁理屈こねて言うとるより、訳の分からんけど仏教の方がまだ、あれこれ言ってこなくていいわなぁ・・・となる。毎週、楽しい日曜日の午前を礼拝に行き、献金(稼いだお金)を献げて阿呆チャウカとなる、何を訳の分からん死後の世界に保険を掛けるようなことしてんねん!(小説のごとく大阪弁になってきた)となる訳だ。まして”苦難をも喜ぶ”なんてトンでもない・・・と。使徒パウロの手紙にそれ実は書いているのですね。死んだ人(イエスのこと)の復活が事実でないのにそれを信じているのであれば、我々はこんな哀れな(阿呆な、馬鹿な)人間もいるまいと!
◆メメント・モリ(常に死を思え)、で これは仏教でもキリスト教でも同じでしょうが、僕は死んでから、草履を履いて六文銭の入った頭陀袋を下げて、杖ついて、△頭巾を頭に縛って、浄土(キリスト教では天国)へ入れるように巡業の旅をし続けるのは、はっきり嫌なのです。 イエスの十字架の右に掛けられて天国への保証をもらった罪人のようには行かないだろうけれど、天国への保証が欲しいのです。 誰も肉体が亡くなると霊魂までは同時に消滅するなどとは決して思っていないのにも拘わらず、どうなるだろうと人は考えないようにつくられているのだろうなぁ。(あまりに遠く離れてしまったから)
◆ですから、イエスがキリスト教をつくった訳ではないのだが、人間は弱い者だから組織の維持のために規則や、瘡蓋のようにあれやこれやと総括してしまう。それが出来てしまうと、その組織維持の為に今度は、言わなければいけないことも言わなくなる。自分の言葉で宣教しなくなる。知られた一般論で「後は神の導きを・・・」となる訳です。伝道はしませんという牧師も出てくる始末だ、なんだオイ! フォーサイスは「教会形成には神学が必要だ」と言い、今年、宗教改革500年、M.ルターは「神学には”試練が必要だ”」と書いているのをどう思ってるんだ。さて・・・
◆故、三笠宮崇仁親王は古代オリエントが専門でしたから、これはユダヤ人どうのこうのという以前のもっと古い時代、古イスラエルの歴史にも詳しかったと思います。それで第二次の戦争には反対していたこともあったようですが、冒頭の疑問は、紀元前1000年頃にダビデという王様が立てられてそれ以降、その子ソロモンの栄華と言われた知恵を求めたソロモン王が出たのですが、あにはからんや繁栄を謳歌すれば神の心から離れるという道理からは免れず、国は分裂、12部族の一つの国が北イスラエルと南ユダに分かれてしまう。それで北イスラエルの10部族はどこに行ったのか(アーサー・ケストラーの本もあったなぁ)・・・というのがキモで、それが、この国に渡って来ていたというのが、前に書いたお二人の(もっと他の方の調査もありますが・・・)意見なのです。カスピ海南沿岸にい秦氏の移動などは本にもなっています。映画の撮影の知られる京都の太秦(うずまさ)というのはその人達の来て最初に住んだところなのだろうと・・・。エフライムの系図は天皇の家系図に似ていたとか、ミカドというのは、12部族にあったガド族から(「ミ」というのはヘブル語で「~から」というらしい)という話もあり、本当??
◆まちがっても学問的にどうのこうのは表には出てきませんけれど。それにしても正倉院展示会が開かれていることの紹介がニュースで流れていましたが、ペルシャの貢ぎ物などどうしてあの時代、この国まで来ていたのだろうなぁ・・・やはりエフライムの人々はこの国に来ていたのかなぁ、古代にはいずれ優秀な方々がこの国の基礎を考えていたのだろうなぁなどと この寒い日につらつらと考えたのでした。 ・・・・


世界のベストセラーを読む(458回目)しがらみの解消 実は人気の無い『日本基督教団信仰告白』

2017-11-18 17:06:46 | 日記
 前回のブログに紹介しました内容は、日本のキリスト教団に属していますキリスト教会は、大切にしていますが、実は人気がありません。ですから教会によっては、礼拝にこれを式文に入れていないところもありますね。これまでまとめた先人達の苦労を心から敬服します。組織ができあがるとそれを統括する信条ごとき共有事項の信条がやはり必要となる訳だから。
◆人気が無いのは僕が思うに、まさにデリケートに考えれば、しがらみを作ってしまう元凶のようにも察する人がいるからと思います。人間は弱い者ですから、一通りの解釈をすると今度は、その知識を総括し始めるのですね。人の言葉に置き換えてしまうということ、分かったように満足してしまう。他の人の心を組織という機構が束縛していく傾向と思われてくるのを感ずる。人間の学習はこの繰り返し。しかし、こと宗教になると今度はそれに縛られていくのですね。そこに宗教は、教祖様が出てきたり、アヘンだとか、ニーチェがアンチクリストを書くようになる訳です。考えて見てください、一番前の「日本」という国はそもそも何かということが気にはなりませんか。これが、中国基督教団信仰告白とか北朝鮮基督教団とかであれば、どうです? ちょっと引いてしまいます。
◆弊害はカトリックの歴史を見れば察する。昔、わたしは神だといった法王も本当にいたのだから・・・。”使徒信条”を検索しても、そういう思いがする。つまり、人間の言葉で分かったように総括し始めた途端に腐敗していくのだ・・・。前に書いたけど、エマオの途上の二人の弟子が、キリストの磔刑に会い落胆して帰るところ道すがら復活したイエスに会うが気がつかない。心が燃えた二人に頼まれたイエスが、泊まる部屋でパン裂きをすると、弟子の二人はそれが復活したイエスだと分かる、と同時にイエスの姿が消える・・・。二人はすぐに復活のイエスに会ったことをエルサレムの弟子達に告げに引き返す、という場面。僕はこの場面がそんなところから好きなんですねぇ。
◆今年は、宗教改革500年 何度も書きますがM・ルターが新約聖書を読むならまず、”ヨハネによる福音書”を読みなさいと。自分の言葉で読んでいけば、どうして”三位一体”というようなことが言われたかがそれなりに分かります。

 僕はとてもひねくれているのか、イエスの復活は無論、ラザロの死んで四日も経った墓からよみがえりや、マリアの処女降誕などは、まったく疑わなくなった、今までのいろいろな学びや、体験から素直に通りだと感じられるようになった。高齢の域になったきて、痴呆が進んだのかも、子供に戻って来ているかもしれない。

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「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない。」(マルコによる福音書10:15) 
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世界のベストセラーを読む(457回目)『日本基督教団信仰告白』と『使徒信条』

2017-11-16 07:23:24 | 日記
 今回のブログは、今年の8月に書いて「下書き」として保留していたものです。

◆旧約聖書は身を制して読まねばならないところもありますが、聖書というのは読む人間の生き様がその解釈に影響してますから、読んで書かれたことが一般化してこう読まねばいけないとか、解釈しなければいけないというようなものではないと僕は今の時点、そう考えます。このようなことが常にすべての解釈についてまわるといっても過言ではありません。神学者といっても解釈が異なったりしますので・・・しかし、おそるに足らずです。イエスの言葉は、一人ひとりに語るのですから。信じて、そのエッセンスを自分の核としていただければ、巷の情勢に漂う事があってもいついかなる時もその錨のをたぐり寄せればイエスの言葉、彼の存在はあなたのそばにおられることを教えてくれます。
◆人それぞれは異なりますが、変わらぬところはで主張すべきことは、誰が語ろうとも同じもので変わらない事柄があります。
 それで、今どこぞのキリスト者に尋ねても返答できることがあるかと思われます。それは、キリスト者は「どういう人を信じているのか」ということに対して、世界共通同じ返事が返ってくるでしょう。それは「使徒信条」と呼ばれているものが適切かなと思います。教派によって礼拝の中では言わない教会もありますが、この中にはイエスはいつの時代のどういう方で、わたしはその方を信じているのだ、の告白文です。
◆しかし、今までの僕のブログの内容からすれば、すべてのしがらみから解放されての、しがらみに当たる部分が日本基督教団組織となりませんか・・・という疑問が当然出てくるかもしれない。
◆はい、そうです・・・教団といえども組織ですからいろいろ多々、様々あります。教団は、それぞれの宗派の合同されてもので、個々の教会ではそれぞれの教派の考えが反映されています。(ここでも、イエスの伝道とその表現に一般化はありません。)
 イエスが言われたこと、それは「自分の足で立ちなさい」ということでした。そしてあなたに「それは、あなたと話をしているこのわたしである」(ヨハネ伝4:26)と語られることを願っています。
 
日本基督教団信仰告白とその後半に使徒信条を掲載します。後半の「我は天地の造り主・・・」が「使徒信条」と呼ばれている箇所です。

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 『日本基督教団信仰告白』

我らは信じかつ告白す。
  旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、
  教会の拠るべき唯一の聖典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救い
  につきて、全き知識を我らに与ふる神の言葉にして、信仰と生活との誤りなき
  規範なり。
   主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せられる唯一の神は
  父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。御子は我ら罪人の救いのために
  人となり、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲(いけにえ)として神にささげ、
  我らの贖ひとなりたまえり。
   神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して
  義としたまふ。この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の実を結ばしめ、
  その御業を成就したまう。
   教会は主キリストの体にして、恵みによりめされたる者の集いなり。教会は公の
  礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い、
  愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまうを待ち望む。
  
   我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す。

   我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・
  キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生まれ、
  ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、
  陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の
  右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。
  我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、
  永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。      アーメン 

 ****************************************** ・・・ Ω 
 

世界のベストセラーを読む(456回目)悪魔は人殺しである、その手下にならないように真理の霊に繋がっておれ!

2017-11-15 21:47:10 | 日記
 神奈川の座間市での怖い事件を考え、書いてきた。永遠の命などと文字面で書きつつ、現実世界では殺人だ。今回ばかりでない、何故か考えられないような恐ろしいことが起こるのは何故なんだろう。命を与える神に、敵対するのが悪魔である。人の心の隙間に悪霊として入り込み当人には意識せず、殺人を成し遂げる。
◆昔、田舎のお寺に行くと怖い閻魔大王(これが仏教でいうところの審判者)の置物などがあったのを記憶している。それから地獄での有り様を描いたこれも怖い絵だ。生前、しでかした悪い行いに報いていろいろな罰を受けるというやつ。鬼がいて繰り返しその苦しみが行われるのが怖かった。ちょんまげを結っていた頃から、こういう教えを昔の人は代々宗教から学んだのだろうが、今の時代も死後の世界のことをまともに学ばなければならないと思っている。今の時代は、鬼はどこかへ行ってしまって、もっと僕らにはどうしようも出来ない悪魔が入り込んでいるのである。悪魔は神同様の霊の使い堕天使であるのだから。僕は長いこと考えてきた。キリスト者の秘密。
◆〔ここからが僕の現時点までの到達した結論みたいなもの〕 
1.人はその肉体が亡くなっても霊は死なない。しかし、時間がかなり経過すれば消滅する。それで、生き続けたいと願えば、その霊はリンカーネーションする。つまり、生まれようとする命を選び移行する。だから、前世の記憶などがあって生まれ変わりのような事態も生ずる、これは不思議でも何でも無い、そのようになっているのだから。昔から、(聖書)の時代からもそれがあたり前のように考えられていたと思われる記事が見られる。
2.仏教の考えでは、死後も生前の肉体に伴う魂の浄化の為に巡業の旅にでるようだ。○○回忌というのがある。よって、その旅が毎日、順調であるようお仏壇に向かい生前の僕らはお勤め(お経を読むなりして)をするのが推奨されること。お坊さんは毎日お勤めをする。これは死者の為であるが同時に自分(衆生)の為ともなるという教えである。キリスト者は、死ぬことを”眠る”という。死後も新たなる巡業としての旅はない。生きている今がそれに当てはまると考える。生きているキリストが聖霊として伴い、共に日々、戦う。従って、僕らはそれを忘れぬように祈る。死後の裁判、審判での欠点暴露、それは、イエスを信じた人間は、彼がそれを十字架で担ってくださったと考えるのである。再び、彼が地上に僕らを迎えに来た時、よみがえり共に天上界にいく。福音は死後の世界にまで宣べ伝えられている。キリスト者はイエスが復活した日曜の朝、礼拝し、永遠の命の確認の感謝の礼拝を献げる。
◆人には、命を吹き込まれ肉体を持たせられることによってのその吹き込まれた霊のその肉体を通しての人生の宿題がある、選択肢の出来きない肉体を与えられ生きている人間の内なる霊は、代々からの宿題を抱えている。最終、永遠の命への帰還である。人生はそのため切磋琢磨の期間でありイエスの言葉に出会うかどうかである。それが”今”である。人には霊的自覚というものになるまで、つまり人生の課題を見出すまで、中間時がある。ここに踏ん張りが必要だ。悪魔はこのときを狙う。「一緒に死にませんか・・・」。聖書は語る、「若きうちに汝の造り主を覚えよ!」である。永遠の命への出発であり、彼を信ずる、そこには地上に転生することはないのである。転生し巡業し魂の浄化の為の人生の宿題を繰り返すことはない。彼の十字架がそれを帳消してしまったからなのである。従って、この方以外には、永遠の命への救いはない、と書かれているのはそういう理由からである。仏教はどうなのか、ということはいずれ書きたい。
◆イエスが言われていることは、僕らに目には見えないが不思議な事ではなく事実なのである。彼が言うのは、真理の霊(聖霊)に繋がっていなさい、ということである。キリスト教の死後の審判、生ける者と死ねる者を裁きせんため・・・とは、神の霊に繋がり、永遠に生きる者とそうではなく、時間経過と共に消滅していく霊を持つ者とが分けられるということである。
***「命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(ヨハネ伝6章63節)***
◆生前、無念の死を遂げた者は、彼、彼女の地上での宿題を消化すべくふさわしい肉体を求め転生する。殺人を犯した者は、死後もその相手の苦労、生前こなさねばならなかった宿題の労苦を一心に担う、よって殆ど、天上界には戻れず、地上を徘徊し時間経過と共にその霊は消滅する。完全な死を迎えることになる。次回は、ドン引きするかもしれないが、今、この国のキリスト者はどういう方を信じているのかを、日本キリスト教団の信仰告白を紹介します。・・・・