marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その13)脳科学と霊

2024-03-28 19:02:36 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 昨年2023年10月6日のブログは前置きがいつもながらに長くて、あまり読まれていなかったのですが、人という生き物の誰でもに当てはまることなのですが、自分の生い立ちの不幸を穴埋めをしよとしなければ、誰でもがそのことを考えてみようとは思わないものです。

同じことを書いているのですがね。異界を垣間見る、彼らと会話する、つまりそこはフェーズⅢなのだが・・・。

それが、脳内の神経系もビジュアルに観察して大いに医学が進展すると、海馬と線状体あたりが活性化しているときは、やる気がでているとか、脳のどこそこが活発な時なはどういう思いだなどと・・・かなりのことが分かるようになって来ている。記憶に対しての神経系の働き、どう神経網が伸びていくのか、

それで、僕らが大谷選手のようになれるのか、藤井翔太のようになれるんか、と言えば、その時点でアウトかもしれないなぁ。誰がいつそう思うのですか?思った時点でもう、重要な如何ともしがたい時期がすぎさっているのだからね。その時期に二人に先行する、啓示する彼ら(👽:宇宙人ではなく霊の使いというべきか)が見えないからである。

天性のようなものは、立花隆は、それを生まれつきの性(さが)と書いたけど、まさに『遺伝と環境』ということで、親からのDNAと10歳ころまでの脳神経系がおおよそ固まる時期に、どういう環境の基に育てられたか、ということで大いにその人の人生は決まると言っていい。(子供を育てるお母さん方は心して欲しい)。

とすると、自分ではどうしようもない、成長時期が一番、生涯の基礎ともなっていることだ。じゃじゃーん! つまり僕らが自分で誰それになれるのか、などと思った時点で少なくと自分にとっては終わっている訳だ。前に書いたけど、特にOUTへの活動をされる人はその自己を同時に今はフェーズⅠだ、Ⅱだ、などとは思ってはいないということ。

ところが、動かぬフェーズⅢは、そのことが出来るらしいのだ。自分の意欲と行動にズレが生じて、これはどうしてなんだ、いやだな自分だな、などと言う人は。いやが上にも自己のズレ、周囲との不愉快さを自己の中で是正しようと、言葉を捜すものであろうからである。今の苦しみや困難は、過去の誰かが考えて言葉を残しているのものである。

”ちょっぴり将来への意欲、喜び” は、つまりそれをある人は、自由というかもしれないけれど、脳のその部分の領域の脳の神経系が、伸びていてドーパミンが、どばっと放出するという、喜びの神経回路が出来ているのかもしれない。それが子供の脳の神経系時期にどういう環境のもとにあったか、も大いに関係しているということだ。

実は、実存主義などと言ってるけれど、ばっちりまさに内面の思いをこねくりまわすフェーズⅢなのですね。キリスト教がいうところの”罪”の問題も、誰彼ではなく自分のことであるので、ほとんどの人は自己否定などせんわなぁ。

それで、そうすると自己判断の基準となるべく自分のどこにある基軸をもとに善悪の判断をするのか・・・という、ややこしいことにぶつかる。そこが、思考のピークとなるらしいのだ。下手をするとそのまま、耐えられないと自己消滅、暗澹たる思いで自己を消滅させたいという思いが、湧いてきてどうしようもなくなる人が出てくるらしい。(自死するのはやめたまえ! 恥をかいても生き抜け。)

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しかし、それをクリアーすると、イエスと言う方が、何故死なれたのかということが、理解されてくるといことらしいのです。自己から人、神の似姿に創造された人類全般にまで、階層をあげて考えるようになるからだねぇ。しかも、空間が裂けて見え、まったくの霊の異次元が現れる体験をする人が存在する。

僕らが今生きているということは、無論、動物でもあるのだから先祖代々のDNAがその遺伝のあるものを引き継いで、僕らは気づかず、あるいは遺伝病であるならうっすら気づいても決して公にせず、僕らは堂々と自己主張したがり、しなくても生きるということは生命の維持にそのことは誰でもが当たり前のように欲しているわけなのだが、そこでは、波長があわないとか、どうもこの人は欠点があるとか・・・もろもろの他人への評価があって、無論自分も含めて生まれて生きて死んでいく。

そのポコンとこの地球上に自覚せずに誕生してしまった僕らひとりひとりが、人生100年ほどで多くの人が地上の生涯を終えていくわけで、昔も今もそうかも知れないけれど、どうしてこういう私なのだ、という疑問、さらには人は何ぞや、などという、もっと上の階層(ここでは頭脳の働きの、立花隆が言っている先のフェーズⅠ~Ⅲではなく、強いて言えフェーズⅢだろうけど、思考の階層といえばいいか、彼は実存主義の開祖キエルケゴールの『死に至る病』からこの考えを引き出して来た訳で・・・)から、地上の人類を見てみた場合、僕はせっかくなのでもっと知りたい、すくなくとも考える脳みそがあるのだから、地上の生涯があるうちに次の世界まで是非知り合いと思ってしまったわけだった。

それで、まずその基盤となる脳みその仕組みを知る、とうことは重要な一つとなったわけですが、そのまえにこれはとても大切な事なのだけれど、ここに大きな大前提がある。その前提もその自分の今の思考階層の位置を設定することによって、違った見方、方向性が新たなる前提という土台で考えるという条件を作ってしまうことになるんだねぇ。そこに、すでに自分が気づかない先に述べた幼少期の自己判断基準ができてしまっているということになる。

こんな話もまったく自分とは関係ないと思う人はいる。しかし、僕ら(複数形になっているの僕個人の意見ではないからだ)はいう、命ある人、すべてに関わる事だ。しかも、かなり階層の次元の高い話である、同時に今、あるが高すぎて人の思う次元という枠を超えている。『高い』とう思考的は上下という意味合いととれるだろうが、同時に全体がタマネギのように包まれているというイメージでもある。人の存在する三次元、時間を入れて四次元というものも更に超越している自分も含む全体をなす実態といったらいいか・・・。

説明し出すと飛躍的な表現となるからやめるが、ひとつ、俳句でも短歌でもいいけれど、あるは詩や物語文学でもいいけれど。で、亡くなった人を思いだすでもいいのだが、個人親族などの体験は当たり前だけど人類に共有化できない。それで、その歌われる俳句、短歌、詩、あるいは物語の各個人が思い描くところの次元はどこにあるのだろうか。

人が生きる時間も含めた四次元のその先に五次元の空間に僕らは思い描いているのではないだろうか? そこで五次元の世界は、確かな思い出もあろうし、あるいは俳句、短歌、文学作家への共感の何かでもあろうし、しかし、さらに求めるとその余韻は六次元までいって、もう共有化できない世界にまで行ってしまうのではないだろうか。文学などは、その次元をことさらに、共有化できうる言葉として駆使し著わすのが ”うまい表現” というらしい。

ここで異次元からの来訪者について語っている世界のベストセラーがある。それは、新約聖書のだが、これは亡くなった人、後によみがって、さらに霊としてのありようをあからさまに語った人であった訳だ。以前に『陰府(よみ)』について思えば、前に新約聖書のイエスが何を語らんとしているかが理解されていると述べた。また、違う箇所には、モーセとエリアとイエスが地上で語る『栄光』あるその次元の開示が、語られたりする。そのいずれの次元も今生のあるのだろうが普段には見えず、聞こえずの世界である。

しかし、それは実のところ、我らの次元はその彼らのいる『栄光』/『陰府』の次元との行き来があるということだ。僕らは、それに気づかず肉体に閉じ込められているということ。で、彼は行き来する世界において我らがそのままでは閉じ込められて生まれたとき授与されたものが、そのままでは肉体が劣化し消滅したときに、それに合わせ霊、僕らは肉体に一体化されたものを『魂』と呼んでいるが、同時に消滅してしまうのである。

彼らの霊は、我らに関与するものがある。よって、我らはまず、今生においては我自身の霊をかっこたるものにしないといけない。『我はある』ということ。そこに、イエスが地上に完全なるひとりの人として来られたという意味が出てくるのであると。我らは『神』というと、思考における観念的なことのみイメージするが、これを改めること。実体としてのイエス、この方との同期を願うことである。『人権』はこの辺から出てきた言葉である。

彼は世界中に共有化された亡くなった人、つまりかの次元でも世界に知られる誰でもにその次元にあって共有化された人になったし、今もそうである。彼が地上に来なければ、我らは次の世界は分からなかったということである。よって、読めば無味乾燥と思える彼の生涯を、言動を淡々と著者らは書き残すこととなったのである。そこにつなぎ言葉はあったろうが、次の世界から来るところのイエスの言葉になんとなくではあるが、2024年の今でも地上の人の考えでは不明なところがある。彼は、その空間をその言葉で異次元を求めることを願う。

「わたしはそこから来て、どこへ行くか知っている。みなはわたしの行くところには行けない。」とイエスはいう。

多くは『例え』で語り、弟子たちでもその言動を霊として感じ取ったというのが正解となるのだろう。しかも、実体として彼らは甦ったイエス個人に遭遇したのだった。死から甦った実体としてのイエスにあった。そして、さらにその言葉を聴いたのである。

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イエスが甦って弟子たちに現れたとき、トマスという弟子はいなかった。彼は、あの方(イエス)の刺された槍の穴に指を入れて見なければ決して信じないと言った。イエスはトマスの居る弟子達に再び現れ、「指を入れて見なさい。見ないで信ずる者は幸いである」とイエスはいう。

トマスは驚き、「あぁ、我が主よ! 我が神よ!」と叫ぶ。その後、トマスは奴隷に身を落としてまでインドに伝道にいった。彼が伝道した町の名前はMylapore(ミラポール)。現在のツェンナイ(Chennai)にあり使徒トマスのお墓もあると言われる。

今の我々もそうであろう。読んで理解でるのであれば、聖書は古文書で終わっているはずだが、今もそれは人々の霊に語り続けているというのだ。しかも、聖霊として。イエスが送る潔い霊として。

今日は弟子たちの足を洗った『洗足の木曜日』である。

明日、十字架に掛かり、三日目の日曜にイエスは復活した。今年2024年のイースター(復活祭)は3月31日(日)である。・・・・


(その12)人(私)の形成、僕らは大谷選手になれるのか。

2024-03-19 18:22:41 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 写真は養老孟司監修。『脳と心の地形図(ビジュアル版)』(原書房:ここはビジュアル専門系の書店)。立花隆の『脳を極める』(朝日新聞社)や『脳を鍛える 東京大学講義①』(新潮社)の方が断然面白い。で、その続きです。前回からつづく大切な話の二つ目の結論は本ブログの*****に書いた。

◆キィエルケゴールの実存主義から、立花隆は”脳を鍛える”とうい本の中で、”世界のとらえ方”として、フェーズⅠ、Ⅱ、Ⅲとみて来たわけです。これは、今までなんとなくそのようなことを気にもしていなかったが、改めてそのフェーズの立場になったつもりで自分に当てはめ意識して見れば頭脳のどの辺が働くかが、理解されて来るように思われますね。

数学が好きな人は対象としての数式レトリックの美的一致、物理が好きな人は事象としての機構のイメージの数式化、前頭葉に血液を集中させて、身体的な疲れから遊離し、すっきりするイメージを持つ。山に登るのが好きな人は、地球(自然)の中で生きているという一体感を持ち、肉体的に征服感が湧いたりする。

専業従事され、楽しんでやっている人は、生まれつきその脳みその活性化する箇所が、ちょっぴり秀でていたわけだ。しかし、そんなに多くはいないね。何故なら、誰でもが専業従事ではないだろうし、楽しまない人は”ちょっぴりの未来へ思考する喜びイメージ”を作れないし、倦怠が生じてくるものだから。

知性とは予測できる能力らしいけれども。専業主婦の方もささやかな事に目標を持ったりすると、脳みその指向性が働いて、たいそうなことでなくてもそれをやり遂げれば達成感が湧く、という具合。

実はこの”ちょっぴりの未来へ思考する喜びイメージ”を作れるか否かは、実に大切なことなのであるなぁ。まず、条件がある。良く寝ていて疲れてない、疲れから解放されているということ。このことを将来にわたり考えることだけでも、自己と他者ともに肯定し喜べるか、ということになると、暖簾に腕押し状態になる。

いずれ、身体的な疲労を通しても明るいイメージ、意欲や想像力に影響しているというわけだ。まさに、実存とはまず対象がどうなのかというより、その今というあなたはどうなのか、から問い続けるという考え。

大抵疲れてると、せいぜい脳みその古い部分がかろうじて働き、ろくなイメージしか湧いてこないねぇ。大谷選手は午前9時まで寝てるらしい。小学生は9時間から10時間は寝た方がいいらしい。

それは、このフェーズのどの位置に自己があるかということが、考えられるが、喜ぶという行為に、自己意識そのものは消えているものだから。喜んでいるときにもう一か所の頭脳が、これはフェーズⅢだ、などと主人公と演出家が、同時に頭の中にいるというようなことが、あれば、どうもそれは正直ではない。

実際、多くの人がこのようなことを思ったりするのだろうけど。つまり、身体と思いのズレ、それを見ている自分がいる。こういう人は、心理学者が精神医学者になるか、自分をつくってくれた神を考えるだろうねぇ。

どうも、小難しいような話ですが、そもそも西欧の哲学からの根源をさぐれば、日毎、食い物探しや生殖に始終してしている人らとは別に、余る時間を思考に費やした余暇人がいたのだが、奴隷制度などが当たり前で彼らがいたから余裕の時間を持てたわけで、そもそも奴隷となっている人も今のイメージとは全然ちがって、雇用者使用人と被雇用者被使用人という具合で、使われる者は実は最低限の衣・食・住が保証されていれば、それが自分の人生だとなんとも思わず生きていた。

とにかく、生殖するし、食って生きることだったわけだが、その間、この他の動物よりは多少、頭脳が大きくなり、困ったことに遭遇した時に、快適を求めて思考し、ひとりよりは多数の時も危険に冒されることもなく、いいこともあり、また、逆に欲求により侵害することもあったが、その中で不明なことは、すべてシャーマンに、つまり神頼みに依頼することが多くあったわけだ。

古代は、宗教も政治もすべて一体だった。それで多くの人が生き死にして歴史を作ってきた。そんで長い時を経てそろそろという段階で神が介入し、飛躍的に人類は進化した。自分自身のことを自分自身の脳で考えることもできるようになったのだ。ずう~と時代を経てどうして我(私)なのかも。

その長い期間があって、人を創造した神が介入し次の段階に歴史を進めたということだった。そのために、その意図を遂行するために地上で一つの弱小民族、しかもかなりかたくなな民族を選ぶことになる。それは、古代、彼ら(👽:霊の介入者)が働きかけたへブル人、のちにユダヤ人と呼ばれる民族だったわけです。それはそれとしてこれは長い話になるので別に。

ここからは、人の形成はどうして、起こるのか。人の形成といっても性格や個性とよばれるもの、みんなから優秀と言われ、ある場合はどうしようもない人と呼ばれ・・・人生を決するような幼児期の段階。自分ではどうしようもない段階。人生を決する時、自分では如何ともできない時期。すべては、多大に脳内の形成時期に関係しているのだった。

神に創造された人の課題解決は、とうとうここまで来た。人格や人権などという高尚な事柄以前に、もう答えは出てたじゃ無いかという点を、どう思うのか。しかしだ、ここが人が気がつかない、ぽっかり空いた人生の個人の空白なのである。自分ではどうしようも無い空白。

親も選べなし、育つ環境も選択できない。おまけついでに彼ら(👽)に殺されそうになり、それからが危ないと始終保護され、まったく自己意識の成長がなされなくなり、つまり脳みそはすっからかんになり、その意味を捜すべく長い長い人生の旅路となった僕がここに居るわけだ。

その答えが『脳を鍛える』の第三回講義に書かれている脳みその形成だったわけだ。それは、誕生して生きて来たすべての人に関係することでもある。人の形成。『遺伝と環境』幼少の頃のこれは、自分では選べない。おまけにこの時期に、彼ら(👽)に殺されんとする事態となり、あまりの環境防御に、脳の成長がストップしてしまった。この重要な時期に、人生のすべてが起因していたのであった。

それに気がつかない人のドラマとは何なのだろうか。

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『脳を鍛える』から

 p72「ヒトは生まれながらに、ひとそろいの脳の神経細胞(ニューロン)を全部持っていて、それは死ぬまで、減ることはあっても増えることはないと言われています。新生児の脳の重さはだいたい400gで、それがあっという間にグングン増えていきます。だいたい生後半年で二倍になります。増加のカーブは鈍りますが、その後も増え続け、成人男子の脳はだいたい1350g(女子は1250g)あるんですが、五、六歳でその重量の95%に達します。・・・」

 p79「脳の発達過程には、こういう感受性期(乳幼児などに受けた身体的外部環境を受ける時期)がいろいろな形で現れてきます。・・・低次の生理機能についてだけではなく、高次機能についても感受性期があると考えられます。その感受性期にどういう入力があったかによって、その機能がどういう方向に発展していくのか、その方向付けが出来てしまうということです。・・・」

前頭葉にこそ人間は宿る

p101-102「比較解剖学的見地から、人間と動物の脳の最大のちがいは、前頭葉にあるということははっきりしています。これだけ発達した前頭葉を持つ動物は,人間以外にありません。・・・脳進化は、大脳が大きくなる方向に、なかんずく、大脳中でも前頭葉が大きくなる方向に進んで来たんです。・・・人間らしさは、必ずしもいわゆる人間の知性にあるのではなく、むしろ、生きる方向付け、動機付け、気力、意欲、目的、目的実現のための計画力、注意力、自己抑制力といったものにあると考えられるにのは実に興味深いことです。・・・

では、そのような能力を如何にして個々人が獲得していくかといえば、大部分はその人の持って生まれた性(さが)によるものだろうし、それに加えて、家庭教育、初等教育、社会教育などを通して幼い時期から各人に与えられたものが総合されて、できあがっていくのだろうと考えれます。・・・ここで覚えておいて欲しいことは、人間が生きる上で、一番大切なことは、知の領域にあるのではなく、大切なのはなんといっても、生き方に関わる問題です。生きる意志であり、生きるパワーです。ひと言で言えば、生命力です。」

◆最後の言葉は、観念言葉でまとめられているけれども、それは、さとりを開いた大人になってからの考えであって、問題は個々人の性格や知力や意欲など諸々の掲げれた機能は、個人の幼少期では如何ともしがたいものなのではないかということである。

遺伝と環境、選べない親のDNA、選べない育てられたその幼少期の環境(幼稚園前に一度死にかけた彼らによって)。我らは、貧しい精神においても恨まず、これが私の人生だと納得して生きている。そしてそのことに対する他人には分からない個人の自己の闘い、人生を歩み生涯を終える。自分の自己認識の歪みを思い、いかんともしがたく、思いと自分自身との思考の認識のズレを生じ始めた時、そして強いてそれを打ち破ろうとしたとき、神の領域の避けた異界の領域が見え始め、彼ら(👽)の存在を感じて来たのであった。・・・


(その11)受難節(レント)を覚える:世界のとらえ方

2024-03-15 15:48:01 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 つづきです。

大切な事を2点書き遺したいと思います。一つ目の今回は、先に述べた立花隆の『東大講義 人間の現在 脳を鍛える』に実存主義の開祖となったキィエルケゴールについて述べた箇所に、頭脳を働かせた場合、誰でもに関わっているであろう”考え方の位置”についてのことが書かれているからです。それは世界のとらえ方について述べた箇所です。先に僕らの思考も含めた次元(dimensional)について考えてみましたがフェーズ(位相:phase)という世界のとらえ方があると。面白いので述べてみたいと思う。(pーは「立花隆 東大講義 人間の現在① 脳を鍛える」(新潮社)からのページ箇所。◆とその以外は僕の見解)

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p33 三つのフェーズで考える

「さて、実存主義にの考え方には、もっと先のレベルがあります。『死に至る病』はこう続きます。・・・」

◆まさに、実存主義というもとになった、考える時の基軸をどこに置くかによって、世界のとらえ方が違ってくるだろうという考え。(実存とは自己内部においての見方)

p34「<私>の視点から外部世界を見るのではなく、自己の内部に入って<私>と<自己自身>の関係性において自己をとらえ直してみるという新しい見方です。(◆今では新しい見方では既になくなってますが実に大切な考えです。特にキリスト者は必ずこの視点を通るであろう)・・・

「そうすることによって、自分自身の内部に、もう一つの宇宙が見えてくるはずだというわけです。自己の内部世界というのは、宇宙に匹敵するくらい広くて深い。<私>というものを、<私を見る私>と<私に見られる私>に分割し、その両者の関係性において、自己をとらえてみると、そこにはあらゆる矛盾とに律背反が現れてくる。それを統合するものとしての自己があるというのです。」

「世界のとらえ方には、いつでもこの三つのフェーズ(位相)があります。

フェーズⅠでは客体それ自体を、それだけで自立している世界としてとらえる。自分はその世界の外に立って眺める立場に徹し、その中に入らない。自然科学が世界を見るときの基本的な立場はこれです。

フェーズⅡでは自己を客体世界の中に投じ、すべてを自己との関係性において見る。行動者として世界に関わって行こうとする人が見る立場である。フェーズⅠの人は世界に対して第三者の立場におり、フェーズⅡの人は世界に対してインタラクティブに関わって行こうとする人です。理系で言えば、理学部視点がⅠで工学部視点がⅡです。医学部で言えば基礎医学がⅠで、臨床医学がⅡです。文系においては、法哲学、理論経済学がⅠで法学、経済学大半が現場に身を置く実学でⅡの立場。文学では、文学研究者はⅠで、創作する側はⅡであるといっていい。

フェーズⅢとして客体世界を離れて、自己の内部世界にどこまでも入っていき、自己の深淵の中に小宇宙を見出し、外部世界は内部世界に反映する限りにおいて見ていくという立場。この立場に近いのは、哲学、文学の一部、物理学の一部、医学の中の精神医学、脳科学の一部といったところ。」

p35「人間の現在を語る」にあたっても。あらゆるものの見方には、この三つのちがう見方がある。

◆この後で、あの科学者ニュートンを書いてますが、彼は当時、キリスト教の神学論文も書いた人であり、立花隆はこう述べています。「・・・かつてニュートンは、自分の業績を偉大だと崇める人に対して、自分のやったことなど、神様の目からみれば、真理に大海を前にして、その大海の方に目もやらず、その辺に転がっている小石を一つ二つ拾って喜んでいる幼児のようなものだといったことがあります。・・・」

こういう意見からすれば、当時のニュートンが永遠の命というものをどのように受けとめていたのか分かりませんが、立花隆が、この本の冒頭、第一回で述べていた次の言葉と矛盾しませんか?

p29-30「・・・要するに、宗教とか思想というものは、ある時代の誰かが頭の中でこしらえて、頭の中からひねり出した一連の命題です。どんな大思想(といわれているもの)にも、笑ってしまう他ない珍妙な部分があります。そういう部分でちゃんと笑えることが精神的に健康であることの証なんです。しかし、若いうちから何かにのめりこんでしまうと、そういう健康さを失ってしまいます。・・・精神的健康さを養うために、若いうちは、できるだけ沢山の思想的浮気をするべきなんです。・・・」

◆つまるところ、神のことを考えるところの、異なる思考の階層(レベル)異なる次元で神をとらえているということです。そこから神についての考えにずれが生じてますね。多くの思想的浮気をして、それらが結局、神から来ていたということに気付くには、僕ら異邦人は、放蕩息子にならなければ、いけないのかということですね。多くの思想の根源を追及すれば、天地万物創造来の神に行きつくのですがね。このような筋道で、キリストにであった人は実に多くいる。

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実存主義においての『実存』とはつまり、誰彼ではなく自分が存在することがまずあって(意識しなくとも実際誰にでもあてはまることなんだが)、思考の対象をそのまま対象としてあれこれいいくるめるのではなく、その事前の自己了解事項として対象を主体的に考える基軸としての自己についての自省が求められているということ。罪の認識が、実存主義を通らなければ理解できない、とはそのこと。しかし、誰もが○○主義などと考えないがその経路を通ってはいる。

つまり、そこには生まれたまんまの自分の勝手なあれこれを自由だ、などということ以前に、まさにこれが今も民主主義と言われる自由な国での困難な問題でもある訳なのだが、キィエルケゴールは時代のキリスト者であったから、その点の究極課題を抜きにして、つまり彼にとっては、人の『罪』について深く考えていたわけだが、キリストによって『罪解消されてお目でたいと、自己を御破算に願いましては』ということは決してありえないのだ、という当時の世論に反論した評論をしたものだった。民主主義の課題、自由の問題課題、それは今もそうだろう。

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キリストは十字架に掛かりつついつの時代も、そして今もある、と。レントはそのことを覚える時期でもある。多くの災害、戦争、飢餓、地震、彼は時の終わりに起こることを予言した。事実、そのことは起こっているではないか。21世紀になっても、多くの方があまりに理不尽な死を迎えている。悔しくはないか!本当に、本当に。

自然状態で生まれたままの自分から、自分で自分のことを考えてみるという一歩ステージアップした自省がともなう訳で、さらに突き詰めていくとそこに神に創造された人とは何か、ということが無ければ客観的に自分を考えることができない、何を判断基準とするのか、ということが無ければ、「俺が思うのだから確かだ」などと言い張れば、さらには「あんたの話など二度と聞きたくもない」とやられてしまえば、話し合いでなどということが無駄な努力となってしまう。

それは今も世界を見れば分かることだ。

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キリストが言う「すべて捨てて我に従え」というような実に彼に従うことへの理不尽な言葉が書かれている。その意味はこうでしょう。

キリスト神学では『罪とは神の摂理の的外れ』と言われる。これは多くの人は、悪いことをしないなどの道徳的な面に解釈されやすいが、そうではなく、もっと階層の高いレベルでの神の摂理の分かりやすく言えば、神のシナリオ、プログラムに沿うべき個々の人の歩みが、筋道から外れている、外れていくということを意味する言葉です。

的(まと)の中心から外れていく、そのことへのイエスの厳しい言葉、貧しいやもめの話もそうですが、その警告であるということです。マンネリ化してしまう人という生き物への警告です。ですから、その理不尽のイエスの言葉が、我らに気付かせ、霊的活性化が起きて生きてくるのではありませんか。的を外すなと。「すべて捨てました」で終わらない、それで次に伝道に励むという弟子たちの、更には死までが彼らの勝利の言葉となって残ってきたのである。

ですから我らへのその厳しい言葉は、すべてのしがらみから脱出して,的の中心、キリストの言葉を直接、聴くことを心がけて生きるべきとの警告です。それがキリスト者の生き方となるべきものでしょう。彼は今も生きているのだからと。自分の言葉でイエスと語る。最終、そこを日々めざすことです。

どのような時代に生きても我らの人生は死亡率100%です。ですから、人という生き物が逃れられない一度きりの人生と言われる。だからこそ、『死に至る病』の初めに、キリストが愛するラザロを『彼は死んだのだ』という話からキィエルケゴールは始めたのです。しかし、ラザロは墓から出て来て再び生きて生活し人生を終えて、結局肉体の死を迎えた。二度目の死を迎えてラザロは死んだのだ。そのことをキィエルケゴールは結局『ラザロは死んだ』と語るのです。

『死に至る病』とは『絶望』のことである、しかし、二度目のラザロの死は違っていた。彼は『希望』をもって天に帰ったのである、と僕はこの本をそのように解釈してきた。キリストは、信する我らが霊的に永遠に生きるという希望をもって死ぬために、すべての理不尽、すべての不条理を我らに代わり、身に負うて十字架に掛かり、昇天されたのである。彼を信ずる者の死を霊的(かの地では実態としても存在する)に迎えて、ともに永遠に生きるという希望をもって生涯を終えるのであると。

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「わたしは肉体において見えなくなるが、聖霊を送る。それが全てを教えてくれるだろう。いつも繋がっていなさい。困難はあるが決してあなたたちを孤児とはしない。」 と、彼は語る。

今年の受難週は3月最後の週で、復活祭(イースター)は、3月31日である。年度替わりの最終日。キリスト者にとって新しい年が始まる。・・・


(その10)思索の障害、宗教にまとわりつく思惑の清掃。汝、潔かれ!

2024-03-08 14:09:19 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 つづきです。先に進む前に沢山のことを述べておきたいのですが・・・。

本当に語学もできて頭のいい知識人の方は、実に沢山いらっしゃるし、宗教なんてものはと否定される方もいっらしゃる。そこはまったく否定しません。そちらに入り込んでしまったら、多くの救済を願う方の思いも実際あるのにその否定にもなりましょうから完全否定も問題でしょうが、そこをどうのこうのと闘わせるのは、人の思考の階層においてまったく別次元のことだと思われます。

先のブログに人の思いつく次元について述べました。しかし、我々が示されている神の次元は人の思考次元のまったく外にある次元で定義も何もできません。よって、人社会においての言葉での認識世界において、次元の異なる話をし始めてもまったくかみ合わないのはその通りで正しく、そのためにはまずは軽い思想の宗教は否定しなくては、始まらないのですねぇ。次元が異なる。ここは分かるねぇ。神の次元を人の言葉で肯定し、議論をかわせても答えはでない。

我々の人間界の次元に入られたのが、キリスト・イエスということになるのでしょうが。

立花隆のご両親は、内村鑑三の無教会主義ではなかったかなぁ、昔、そんな話を聞いたことがる。それなら分からないこともない。直接、神の言葉を聴こうとするものらであって、周囲の人の雑事を排除しようと教会は成り立ってきたきたからねぇ。そこには、宗教の定義みたいなことはない。つまり、神そのものの事象の存在と『我』しかなくなるから『我の存在は、即、生かしめている者の存在』となる、という考えで、そのこともあえて意識しない。

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p29「最近は永遠の真理があるなんていうことをいう人は、だいたい宗教思想か疑似宗教思想によって立つ人で、そういう人たちはたいてい最後はこういう言い方で信じない者をおどしにかかるわけです。・・・それに対しては、「永遠の生命なんてもらっても迷惑ですから、ほしくありません」とはっきり言えばそれですむことです。逆に永遠の生命が欲しいなんて思い込むと、簡単に宗教のワナにハマってしまいます。たいていの宗教が永遠の生命を約束していますから、・・・宗教にハマっていると、そのおかしさに気が付かないんですね。・・・永遠の生命なんてありません。生命というのは死と裏表なんです。死を受け入れることにおいて生命は成り立っているんです。・・・「永遠の生命なんてない」、「絶対の真理なんてものはない」ということを信仰箇条の第一に於けば、それから多くのことが導けます。・・・まず、いかなる思想にものめりこまず、ハマらず、必要以上に尊敬したりせず。軽い気持ちで接触することがたいせつだということがわかります。・・・」

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「永遠の命なんてありません」「絶対の真理なんてものはない」・・・こう述べているのは彼の決定論としての見解ではなく、「そういう条件でもって、考えていかないと、あらゆる思想をつかみきれない」という前提条件としての見解でしょう。なぜなら、否定をすることは、そのことを知っていなけば完全否定はできないからです。まず、そいう条件で・・・という前提をもって学ぶということ。

そのように彼のこの文書を解釈しなくては、先のブログにあげた諸々の哲学者も、彼が文中に渡ってのべているすべての国外の学者さんや作家や宗教家はキリスト教がベースになっているから、論理矛盾におちいりますねぇ。彼が持ち上げて文中にしたためている国外の知識人はすべてキリスト教が根底にあるのですよ。ですから、神のことを人間界の言葉で議論するのではなく、まさにその歴史において歩んだ者らのその業(わざ)や言論についての制限ある次元においのみ、と学ぶ者は了解する必要があるということですね。

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僕が改めて嬉しくなったのは、僕が2016年11月25日にブログで取り上げた彼のことが書かれたいたからだ。彼はカトリックの司祭である。僕の部屋には彼の写真が掲げられている。

 p16「ティヤール・ド・シャルダンは『現象としての人間』だけで済ませていたのを、著作集全11巻を買ってきて、全部読んだ。すると『現象としての人間』だけでは全然理解できなかったティヤール・ド・シャルダンの全体像が見えてきて、この人はとんでもなく大きな人だとあらためてわかってきた。・・・」

(※ティヤール・ド・シャルダン Pierre Teilhard Chardin(1881-1955) フランスの古生物学者、哲学者、イエズス会司祭。1929年北京原人の発見で世界的な注目を浴びた周口店の発掘に従事。敬虔なカトリック教徒でありながら独自の進化論を主張した。)

ちょうど、彼の本に出合った時、再度の大学で(というのは工学部あいまに教育学部に顔を出してたんで)の生物学で、例の進化論の系統樹を学んだんだが、これと似たようなのが、『現象としての人間』に載っていた。我ら人類は地上に神が人を創造して、進化の過程を経て神の介入により、完全なる人、まことの人なるイエス・キリストの身姿という頂点(αからΩ)のΩに向かって進化発展していくのであると、そう僕は当時とらえ、偉く感動したものだった。・・・


(その9)観念彼らの世界に没頭する前に、受信器設備(脳)を鍛える!

2024-03-06 12:04:01 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 『脳みそ』の話が出始めて、無論これは僕がそれなりの脳梗塞の兆候で入院したからなのだが、といっても病状は、多少、右手と右足にツッパリ感があるものの全く変わらず動いている。という訳で、脳の本を引っ張り出したついでに関連する本も引き出して、この当時は、養老猛司先生の『唯脳論』という本も結構売れて脳みそのブームになった感があった時期だった。

前回に続いて引っ張り出して再読した立花隆の掲題写真の本は、『東大講義 人間の現在① 脳を鍛える』 これは、彼は勉強のために2回も東大に入ったので(確か)、卒業した彼は学生に講師として呼ばれて行った連続講義である。いや~、若かりし頃を思い出して面白いなぁ。これは2000年4月30日第3刷である。(以下p○○と書いているのは、この本に書かれていること、そうでないのは僕の意見)

知の巨人と言われた彼の住処は、猫屋敷と呼ばれた地下から3階までの本だらけに埋まった三角エリアに建てられたところだった(確か)。読むと博覧強記、知識満載で面白い。

いろいろ刺激を受けた歴史上の知識人も当初分からなかった内容も、歳をとればそれ相応に生身に体験して考え、悩んで読んだものも、改めて著者の時代は、彼らはこう考えた、思想の走りとなった、それを土台に今、我々は生きている、などと総監すれば、人として生きることの魂の流れの通奏低音のような響きを今もありありと感ずるのであった。

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p24「僕らの学生時代は、実存主義全盛時代で、実存主義といってもいろいろありますが、いろんな実存主義についてそのかけらくらいはかじっておかないと、友達と話が出来ませんでした。それで、みんな、サルトル、カミュ、ハイデッカー、ヤスパース、キエルケゴール、なんかをかじってみて、わかってもわからなくても、知ってるふりの議論を盛んにしたものです。」

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僕は、ブログで過去にカミュの「異邦人」、「ペスト」のことを書いた。サルトルも少し。論争があったけど、サルトルは、無神論の実存主義を唱えていたからカミュですね、僕は。それに実存主義では、その開祖と言われるやはりキリスト者のキエルケゴールです。(ここでキリスト者と書くことに制限がある。ひとつのイメージができあがってしまうからねぇ。キリスト者でない限り、人は言葉にするとこの流布されている先イメージの束縛から逃れることができないと僕には思われる。したがって、立花隆彼自身は、宗教に嵌っていると絶体の真理と思い込むが、絶対不可侵の神聖な起源なんてものは何もないのだときっぱり言い切っている。)

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p26「『はじめて体験』を前にしたきみたち

実存主義の主体性論の立場からするとき、世界と自分との関係の上に捉え直すということは、是非とも必要なことですが、それだけでは皮相な主体性論に終わります。もう一段考えを深めるためにさらに大切なのは、今世界を見ている自分自身をどうとらえるかというもう一つ深いレベルの主体性論です。(キエルケゴール『死にいたる病』斎藤信治訳[岩波文庫])」

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キエルケゴールはキリスト者であった。当時のキリスト教界(会)と闘ったのだった。今も多くの神学を学ぶキリスト者は、実存主義開祖の彼を知らない人は一人もいないだろうと思う。それは、先の言葉、「もう一段考えを深めるためにさらに大切なのは、今世界を見ている自分自身をどうとらえるかというもう一つ深いレベルの主体性論です。」の中に、人の「罪」といものを考えざるを得ない事柄が示されるからである。正統なキリスト者は(と僕は思っているが)実存主義は避けて通れない。

立花隆は、ジャーナリストでもあるし、一転、宗教を認めることにおいて既にその中に、真の追及する精神を気付かづ阻害するものが、多くあることを感知しているので、一般的な宗教を否定する。これは僕にはよく分かる。偏った考えをしてしまうものだからと思われる。・・・世の終わりになるとキリスト者は迫害を受けるという。それは、デリケートな問題ではあるけれど、実はこの辺のところで大きな誤解を受けるからであると僕には思われる。・・・そこはどこにあるのかは、人という生き物にとっていつの時代も付きまとう課題であるようだ。

ところが、宗教を信ずるも否定するも、西欧の思考の底辺には抜きがたくキリスト教思想が流れて形成されているのは疑いない。

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p29「宗教に溺れた人が言うように、いかなるものにも、絶対不可侵の神聖な起源なんて何もないんです。要するに宗教とか思想というものは、ある時代の誰かが頭の中でこしらえて、頭の中からひねり出した一連の命題です。・・・」(これから彼が脳についての話を少しし、僕が入院時に持っていった『精神身体医学』に関係する話をしだす。)・・・p30「認知科学や精神医学を学んでみると、人間の頭がどれほど狂いやすくできているかが分かります。どれほど真実でないものを真実と思い込みやすくできているかが分かります。僕は認知科学や精神医学の初歩は義務教育の中である程度教えるべきだと思っています。・・・

いろんな思想を味わってみるという経験をある程度積まないと、新しい思想に出会ったときに、それを正しく評価できません。経験なしには、思想を評価する座標軸ができないからです。思想の世界の幅と奥行きが分からないと、正しい定位づけが出来ないんです。」

(僕:これは大いに賛成です。)

*****立花隆の『死に至る病』の説明に第一編の冒頭を書く。『死に至る病』とは『絶望』のことなのである、と。

 p26「この本の最初のページを開くと、いきなりこうあります。『人間とは精神である。精神とはなんであるか? 精神とは自己である。自己とは何であるか? 自己とは自己自身に関係するところの関係である」・・・

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ここからくだくだと細かに当時のキエルケゴールは事を思索しはじめるのだが、この仕事上のジャーナリストの言葉を無視して、何をこの著作(『死に至る病』)が語ろうとしているかと言えば、答えはキエルケゴールがその『答え』を冒頭の『序』と『緒論』の中に既に書いているのである。

『死に至る病』から******

 

p12,13「序ーキリスト教的な英雄的精神(おそらくこれはごく稀にしか見出されないものであるが)とは、人間が全く彼自身であろうとあえてすること、ひとりの個体的人間、この特定の個体的な人間であろうとあえてすることである。-かかる巨大な努力をひとりでなし、またかかる巨大な責任を一人で担いながら、神の前にただひとりで立つことである。・・・『死』もまたキリスト教の用語では精神的な悲惨の絶頂を示す言葉なのであるが、しかも救済はまさに死ぬことにおいて、往生において、成立するのである。1848年。」

(※キリスト者は次の緒論の数行を読んだだけで、『死に至る病』が何を語ろうとしたのかすぐに理解されるはずである。ここで『陰府(よみ)』のことが思い出されるだろう。)

p15「緒論(冒頭)ー『この病は死に至らず」(ヨハネ伝11・4)。それにもかかわらずラザロは死んだ。キリストの弟子たちが、「われらの友ラザロ眠れり、されど我よび起こさんために行くなり」というキリストのその後の言葉の真意を理解しなかった時に、キリストは弟子たちに直截にこう語った。ー 「ラザロ死にたり」(11・14)かくて、ラザロは死んだ、にもかかわらずこの病は死に至らなかったのである。ラザロは死んでしまった。にもかかわらずこの病は死に至っていない。・・・」