◆2020年12月31日 NHK BS1にて 午後5時 第104回 インデアナ・ポリス インディー500マイルレース 最高速380キロ以上も出る世界最速のレースで佐藤琢磨が2度目の優勝を飾ったを見た。殆どのエンジンはHONDA。他にはシボレー・クライスラー。エンジンはチームにこの2社から選択、車体も同じ物と決められ、後の改造はそれぞれのチームに任せられているそうだ。レース後の番組に続き、ロスアンゼルスにあるHONDA技術の詳しい内容、琢磨の体験を積み知り尽くした技術的戦略、いやーまったく面白く見た。大変な技術的進歩だ。四輪のタイヤの劣化防止の為、荷重調整も運転中にでき、燃料の混合比も車内ハンドルから変えることができるとは。嬉しいので記録として残します。◆車が好きだった僕は、中学の時、学校の帰りに友人Nの家で、無論当時は、モノクロテレビ、昔のインディーレースをワクワクして見た物だった。ちょうどスロットルカーが流行ったころだった。インディー500で日本人が勝利するようになるなんてなぁ、感慨深い。モナコ、モンテカルロ、それにインディー、三大レース。HONDAがF1で初めて優勝したのは、リッチ・ギンザーというドライバーでメキシコGPであったように思う。空飛ぶスコットランド人といわれたジム・クラークやグラハム・ヒルというドライバーがいたなぁ。◆個人が、”がむしゃらに全力を尽し頑張る”ということと、細かなことも知り尽くし、チーム力で”Bestを尽くし結果を出す”ということは違うのだということを知った次第であった。HONDAとPanasonicのロゴ・・・(あれ、今、花火が上がった音が聞こえた。今日は2020年最後の日。今晩、大晦日を迎える港での花火だ。)
◆このあい矛盾する「自分」ということについて、生まれたままの肉としての自分が、イエスに出会う前の姿をを省察したパウロは、ローマ人の手紙にこう述べた。『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意思は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲していないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪が入り込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体(したい)には別の法則があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんとみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。』(ローマ人への手紙7:18~24)◆人は誰でも、本当の自分に気づいていない。気づけば、どうしようもない思い通りにならない自分が立ちはだかって、悩む自分がいるのに気づくのだ。自己省察すれば、人とは本来そういう存在なのではないだろうか。イエスが語るあい矛盾するような『自分』。そのイエスが語る『自分を捨てよ』とは、パウロが、わたしの肢体(外なる肉)としての『自分』であり、『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』と語るその『自分』とは、『神が求め、愛しておられる真のその人の内なる霊に目覚める自分』なのである、という解釈ができるであろうと言うことである。◆パウロはこう締めくくる。『わたしたちの主キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにしてわたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。』(ローマ人への手紙7:25)
◆イエスが「自分を愛する如く隣人を愛せ」と言い、他の箇所では「自分の命を得ようとする者はそれを失い・・・」と言っている、その「自分」とは、人が誰でも自分の中に愛する自己という自分と、排他する自分というものがある、ということを言っているように思われる。前者は神が愛したもう真の生命ある核であり、後者は動物的としての先祖伝来の欠陥を引きずった肉なる自分ということ、と考えてよさそうだ。遺伝的に知能優秀なDNAであれば、後者としても欠陥を引きずるということがなく、社会に大いに貢献するだろうが、多くの後者は、より肉体的努力が必要となるだろうということだ。◆しかし、イエスが言わんとしたことは、そのそれぞれの多様化の中の劣っているであろう部分を、病人を救いに来た、などといっているわけでは無論ない。そういうより優秀な人をもっとこの世に作りましょうなどと言っているのでは無論ない。誰でもが今生においては朽ち行く肉体を持ち、それ(肉)に関与する(人は誰でもが関わることでありながら考えもしないのだが)肉体が消滅しても最後に「生きるか」「死ぬか」に係わる「霊」、そのことなのである。◆たとえて言えば、神の霊をもって生きる我々が、それをラジオの電波とすれば、受ける受像機としての我々の肉体が、実に多くの欠陥をもって生まれて来てしまっている、うまくチューニングされ電波をきちんと受け止められなくなってしまっている、受像の欠点があるがゆえにかなりの雑音や悪い電波(悪霊)をも受けてしまっているということになるのであろうと。したがって、まずは自分の核となる真の自分と言う核「G」を持ち、点検し、その受像を正しく受けるべくチューニングをし「自分の(G)」を毎朝、点検再生することが必要であるということだ。◆これから言えば、イエスの言葉はこう聞こえないだろうか。神が自分を愛されるが故に、自分の中の、神の霊を受けるにふさわしい自分となるべくその障害となる自分を憎む、生まれつきの肉なる汚れも生涯をも憎み、捨てる、そして新たに生まれ、神の霊(聖霊)を受けつつ歩み、絶えずそれに努め、更新されていく。そして、永遠の命に入るべくこの地上で共に歩む、本来、自分を愛するとはこういうことなのであると。・・・続く
◆「自分」についてというのは、誰しにも関わるものです。今生に一人しかいないのですから。そして、人生は一度しかないのですから。使徒パウロは「自分の救いのために励みなさい」と手紙に激励します。ここで、キリスト教会に行って、いきなり「自分を捨てて、イエス様に従いましょう」などと、簡単に話される牧師さんがいたら、深みのない浅薄な経験しか持たれたいない方だと思ってまちがいありません。先のブログのとおり、そんなに簡単な話ではないのです。後のブログで書きたいのですが、イエスの言葉は多層化した霊界からの言葉もあると思われるからです。◆相矛盾するようなイエスの言葉について、実際に多くの書物が書かれてきたと言って過言ではないのですが、あまり考えもせず、肉の次元での我々の言葉でイエスの言葉をそのまま語ると大やけどする言葉もあるように思われます。◆その「自分」に、選択のできない肉なる、つまり人も生き物としての生殖行為で、この世に誕生してきたという自分がいます。これは選択できないが故に、こんな境遇に生まれてなんだという物語も多く書かれるのですが、それと同時に、日々、新しくなりたいという自分との格闘をしている人も多くいるのではないでしょうか。そこでは、肉体に備わった限界のある能力を土台としての学習として叱咤激励して頑張る訳です。スポーツが、肉体の限界力を克服しようとしてアスリートが戦うところに感動が生まれるのは、こういう肉なる人と言う生き物の能力への限界に挑戦しようとするからでしょう。◆それは、キリスト教以外の宗教の修行という行為にも現れています。しかし、ここでイエスが語るのは、「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われていることです。いわんとすることは、誰でもが生き物として生まれ、生き、死んでいく人というものが、神の創造では本来、永遠の命の元へ帰るべき存在であり、その格闘が個人の中で行われているということ。古きは過ぎ去り、新しく生まれる、つまりは肉において生まれたままでは、神の国へは入れないということを、入るべきその人の「霊的核=本来の真の自分」に肉を脱ぎ捨て、霊なる新しき人に生まれ変わって、永遠の世界に入っていくということを述べているのです。それを可能にしたのが、イエスの十字架を信じることであると聖書は述べるのです。・・・続く
◆多くの人に「自分の言葉」で「世界のベストセラー」聖書を読んで欲しいと思っている僕にとって、そもそも「自分とは何ぞや」というところから、つまずいていたわけです。多くの人が、そうだろうが、第一、生まれたままで疑問にも思わない人は、そのままの自分で、イエスの言葉を読もうとすると拒絶するか、ヤケドするのではないだろうか(これは僕の体験からで、そうでない人もいます)。自分が大切と思っている「自分」、「霊」、「生きている者」、「死んでいる者」・・・との言葉は、第一生まれたままの人には理解できにくい。◆今回、イエスの語られた「自分」について、何が「自分」として見えてくるか考えてみてください。どの戒めがもっとも大切かとパリサイ人に問われたイエスは二つのことを答えられた。この二つに律法全体と預言者(予言の書)のすべてが掛かっていると。『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、あなたの主なる神を愛せよ。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。』(マタイ伝22:37~39)◆そして他の箇所でこうも言われているのです。一粒の麦の例えの後にこう言われた。『自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。』(ヨハネ伝12:25)◆ここで疑問がおこらないでしょうか。「自分を愛せ」と言われ、「自分の命を憎め」とも言われているのです。捨てる「自分」と神の望まれる「自分」・・・。魂の核となっている=真の命の核、今生においては神の見えないが霊の流れ、その永遠の命につながる真の自分、そのシステムに載る核(「G」)の発見は、多くの人が望んでいるものなのではないでしょうか。『だれでも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない。』(ヨハネ伝3:3b)・・・Ω