marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その32)目覚めよと呼ぶ声あり! 歴史に現れた黒子達

2023-02-28 10:36:22 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

  THE LEGEND & BUTTERFLY  映画は現代にマッチしたものか、女性も強かったという主旨の内容で、側室も多数いて綾瀬はるかなる妻が信長に離婚を迫る強い女性を演じるというのが、現代にもマッチした肝となるに様だったようだ・・・が。

ところで問題は、このブログでずう~と取り上げて来た黒子なる古代から(天地創造の天から飛来して人の歴史をプロデゥースしたその黒子達の息<ある時はこれを人に吹き込まれた霊というが>)流れていて、地上に広がり歴史上に現れた黒子達が日本の歴史にその痕跡を引きずって来た宣教師たちの動きでのことである。カトリックと言ってもここはイエズス会である。ちなみに先に書いた家康が仙台の政宗によって使節を送らんとして同船したのはフランシスコ会のソテロであった。教派によって宣教の仕方が異なっていたということ。

僕にとってはやはり時代を動かされている地上の人が意識する、しないに関わらず”天上には歴史を動かされる方”が居られるのであろうと思わされるのだ。いままで冗長なブログを読まれた方は、何をいいたいのか、何を求めいるのかを少しでも理解して頂けるのではないかと思う。

普段、書店に行くことはあまりないのだが、3冊の本を紹介したい。僕はいつもながらくだくだ書いてしまうので途中で読者が息切れするみたいなので簡潔に書こうと思う。僕が追求してきた歴史に現れた黒子やこれから頻繁にコンタクトをして来るであろう👽が実在し、更にあなたや僕ら自身の生身の存在に関しての、僕らでも理解できるような全宇宙の中に存在する神の似姿に創造されたとされる人の解明がこれからもっと進むであろう。書店に立ち寄って立ち読みでもして欲しい。

1冊目は、掲題の写真。

令和5年1月20日初版である。『第六天魔王信長』消されたキリシタン王国(加治将一<かじまさかず>[著]:祥伝社文庫)。文庫本の帯には次のように書かれている。

【 天下統一を目指す信長の原動力は、イエズス=キリスト教、本能寺クーデターの黒幕は誰だ? 】

長篠合戦図屏風に描かれた犬山城白帝文庫所蔵のダビデ紋六芒星のそれが、なぜ大阪城天守閣所蔵では塗りつぶされているのか。なぜ、あの尾張の弱小武族が日本を制覇するところまでになったか。

殆ど僕らのこの国の歴史は、『信長公記』(太田牛一)によるが当時現存した記録に残るフロイスの『日本史』には目もくれないのか?

 冊目は、僕なりに今まで考えてきたことの集大成のような本である。

これも令和4年12月31日が第1刷である。『日本人とユダヤ人』(宗教学文学博士 IGLグループ理事長 永見憲吾[著]、聖書解説者 レムナント誌主筆 久保有政[監修]:ヒカルランド)

久保さんは、youtubeでも配信されているのでご存じの方が多く居られるかもしれない。本書には3名の方が推薦文を寄せておられる。その中でも日本民族総福音化運動協議会総裁の手束正昭氏は、日本基督教団高砂教会の牧師であられ僕もお話したことがある。

神学的にはポール・テリッヒの考えを押される方で、小難しい神学者は数多くあれど僕なりには、聖書の言葉を人の言葉で究明し雑音をそぎ落としていくと、ここに行きつくのではないだろうかと思っている。それは、僕らが人の言葉を超えて無意識の中にも命を生かしめてくれている、今も、生き、動き、働いているのである・・・何か。

3冊目は、久保有政氏が、つい最近、全国のプロテスタント教会に無償で贈られてきた『セカンドチャンスの福音』(久保有政[著]:イクスース出版)・・・直接か、amazonで購入できる。われらの教会にも送られてきた。

世界のベストセラーには、大いにご自分で考え遠慮なく疑問を持つことである。分からなくても放棄してはいけない。腐るほど解説書や神学書が書かれてきた。生きているあなたに語る言葉で、神の言葉に向かうことである。今までこう言われてきたからとか、こう信ずるべきとか・・・参考になるかもしれないが、納得は生きている今という自分の言葉で、極力介在物を排除して神の言葉に向かうことである。介在物には注意しないと悪魔が入る・・・安住してはいけない、僕らもそれはニュースでも見ることだ。

キリストの福音を知らず、あるいは受け付けず亡くなった方は、どうなるのか。これは、ザビエルが日本に来て、目まぐるしい働きの中で先祖供養に熱心なこの国にの人々の質問に最も頭を悩ませた問題でもあった。・・・地獄にいくのだ、ということは聖書には書いていないのだが・・・。神の判断を人の判断にゆだねていることなど、聖書のどこにも書かれてはいないのである。こういう意味で、西欧の神学は弊害な部分もある。

その答えは、「死後の人々にも福音は今も伝えらているのである」というのが、この著者の云わんとしていることなのである。それは聖書の言葉のここに示されているのであると語られるのである。死後の世界にも、福音を信ずるチャンスがあるのだ、というのが著者の云わんとすることなのである。

僕もこれは個人的宿題だったのだが、この点については僕なりの答えが出来ていた。使徒信条の文言の中に、「・・・死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり・・・」とある。「・・・くだった」とされる時のイエスの体(肉体ではなく)は、どうなっていたのだろうか。そんなことをずっと考えていた。

この神学的な箇所は真実な福音伝道においてもとても大切な箇所だと思われる。多くの人は『潔め』を優先するためにキリスト教は地上と個人とあらゆる世界を分別するものと考えやすい。したがって、信者とそうでない人は次元の異なる世界を思考する人達なのだと思いやすい。そうではない、というのが僕の考えの結論だった。彼は霊としていきて、この永遠の命への救済の福音を、時はきたのだ、起きよ!と伝えていたのであろう、今も伝えているのだ、というのが僕の結論だったのである。

神が創造された世界は繋がっているのである。そして人の神の示す頂点に(次の世界に)向かって止むことなく前進し動いているのである。神が自分の似姿に人を創造されて最高傑作と喜ばれ満足された方が、陰府の世界も支配されすべてのすべてを見ておられるであろう方が、そのような無視されるような空隙を残されている訳がない。ましてや”愛すべき人”についてはなおさらであろうと。神は”ひとりも滅びることを望まれず・・・”。

※目覚めよと呼ぶ声あり Bach:BWV645を聞きながら 終えることにします。・・・



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1 コメント

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Unknown (ffm)
2023-02-28 10:49:23
なかなか良い内容です。
ポイントをついて来ています。
良い記事と思います。
次回も楽しみです。
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