小説内の主人公の憤懣やる方のない愚痴、放言は今回で終わります。しかし「過越の祭り」は、この地上の歴史が終わるまで、決して途絶えることなく行われていくでしょう。
◆以下、これは僕の考えです。掲題の言葉に、白か黒かなど決して判断してはいけない内容、歴史の中でかなり複雑になっているのですから、上っ面だけであれやこれやは決して言えない禁忌事項ですね。特に知識に素人の方は・・・。彼らが本気になれば、この地上から国の一つくらい、政権を無くすことができる・・・そういう歴史が僕が生まれる近くまであったと・・・そして、彼らは(考えと言ったらいいいか)今もそういう考えがじんわりと世界に・・・そして昔から、すでに身近なこの国にも・・・ブログ7月1日375回目~を参照ください。落合信彦さんの著作も面白いかと思います。最近では評論家、副島○○の本も、彼はハーバード大学はユダヤ人の巣窟だなどと書いているのを読んだことがありますが、いずれ実際に世界を動かしてきた宗教(こういうジャンルからはとうに逸脱しているのだが)のように僕には思えます・・・。 さて、
◆この国の、平成3年2月25日発行に発行された新潮文庫、米谷ふみ子『過越の祭』の憤懣やるかたない放言は、今も同感する人がいるかもしれないし、僕ら異邦人は全く関知しないという人のどちらかだろう。彼女が書いたパス・オーバーの儀式の様子は、僕が知っている内容その通りだし、内容の説明も意味も間違いないと思った。
◆著者の体験の小説と見えるが是か非かは書きませんが、視点が全く異なっているというか、全く正当に批判するには、同じ土俵に立たないといけないということ。宗教の対立というのは、その上っ面はともかく、全部脱ぎ捨て同じ地球上に住む、同じホモ・サピエンスという種が行っている争いということなのだなぁ、その地点までまずは、同じレベルにすることが必要ではあるまいか、だから、神は言っておられたではないか「異邦人」とは結婚するなよ・・・と(これはあくまで旧約のことです)。これは差別ではなく、相手の事を思ってのことなのだなぁ、きっと。
◆で・・・不細工な義姉の「私たちは神の選民だから優れているのだ」との会話を聞いて異邦人である自分(主人公)は・・・
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結婚前にもこの言葉を聞いたことがあった。それは日本に宣教に来たビリー・グラハムの説教や、アメリカの宣教師達であった。あの時、わたしは友人と「わたしらは神に選ばれなかった下賎ななんやろか。全く馬鹿にしている。何というぬぼれ!」と憤慨したことがあった。自分が自分で神の選民であると呼ぶなんて、神が聞くと”へそが茶を沸かす”とあのとき二人で大笑いをした。西洋ではそれが当たり前のことのようにいわれ信じられている。ユダヤ教徒は自分達が神の選民であると豪語し、キリスト教徒は自分たちが神の選民であると豪語する。果ては選民が他の選民グループを殺すことになる。西洋人は自分のことを褒めそやす。自分が他の人より優れているのだ。自分のしていることが正しいのだから他の人も同じことをしなければならない。そこに何のわだかまりもない。そういうことの原因がここにあるのかもしれない。〔・・・・〕(p148)
それから首を振り振りヘブライ語でわたしの続きを読み出した。得々として、選民らしく、如何にもクラスの秀才が教科書を読んでございというふうなのを見ると、20年昔の憤怒がますます募ってくるのを押さえられなかった。〔・・・・〕(p149)
終わりのない苦しみが待っている。〔・・・・〕若い時に失った時間は永遠に失ったのだ。この一線を飛び越えると他人と同じ生活が、心構えが出来るなんて夢物語であると思う。永い永い回復期がわたしには要る。そしてその果ては回復しないかもしれないのだ。西洋のボーボワールの世界なんて絵空ごとだったんだ。彼女のさかしさだってわたしの問題は解決できない。(p150)
残り少ない命を大切にしなくては。20年間をこの病んだ家族に注ぎ込んだのだ。少しでも自分を大切にすることを考えないと、何のために生まれてきたのか判らなくなってしまう。そうだ、今出ようと思えば出られるのだ。誰も見てやしない。外は聖書にあるように砂漠でも海でもない。タクシーもあれば飛行機もある。何とかしてこの家族から飛び出さねばならない。そうしなければ、わたしの一生は奴隷のように終わってしまうだろう。〔・・・・〕(p152)
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◆それから彼女は、気づかれないように儀式を抜け出し、夜の町へ抜け出していく。マンハッタンの、20年前昔わたしがやって来た時のように、希望に溢れた陽気なまちに見え始めた。〔・・・・〕あそこで明日からのことを考えよう と道子は思うのだった。・・・・ Ω
◆以下、これは僕の考えです。掲題の言葉に、白か黒かなど決して判断してはいけない内容、歴史の中でかなり複雑になっているのですから、上っ面だけであれやこれやは決して言えない禁忌事項ですね。特に知識に素人の方は・・・。彼らが本気になれば、この地上から国の一つくらい、政権を無くすことができる・・・そういう歴史が僕が生まれる近くまであったと・・・そして、彼らは(考えと言ったらいいいか)今もそういう考えがじんわりと世界に・・・そして昔から、すでに身近なこの国にも・・・ブログ7月1日375回目~を参照ください。落合信彦さんの著作も面白いかと思います。最近では評論家、副島○○の本も、彼はハーバード大学はユダヤ人の巣窟だなどと書いているのを読んだことがありますが、いずれ実際に世界を動かしてきた宗教(こういうジャンルからはとうに逸脱しているのだが)のように僕には思えます・・・。 さて、
◆この国の、平成3年2月25日発行に発行された新潮文庫、米谷ふみ子『過越の祭』の憤懣やるかたない放言は、今も同感する人がいるかもしれないし、僕ら異邦人は全く関知しないという人のどちらかだろう。彼女が書いたパス・オーバーの儀式の様子は、僕が知っている内容その通りだし、内容の説明も意味も間違いないと思った。
◆著者の体験の小説と見えるが是か非かは書きませんが、視点が全く異なっているというか、全く正当に批判するには、同じ土俵に立たないといけないということ。宗教の対立というのは、その上っ面はともかく、全部脱ぎ捨て同じ地球上に住む、同じホモ・サピエンスという種が行っている争いということなのだなぁ、その地点までまずは、同じレベルにすることが必要ではあるまいか、だから、神は言っておられたではないか「異邦人」とは結婚するなよ・・・と(これはあくまで旧約のことです)。これは差別ではなく、相手の事を思ってのことなのだなぁ、きっと。
◆で・・・不細工な義姉の「私たちは神の選民だから優れているのだ」との会話を聞いて異邦人である自分(主人公)は・・・
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結婚前にもこの言葉を聞いたことがあった。それは日本に宣教に来たビリー・グラハムの説教や、アメリカの宣教師達であった。あの時、わたしは友人と「わたしらは神に選ばれなかった下賎ななんやろか。全く馬鹿にしている。何というぬぼれ!」と憤慨したことがあった。自分が自分で神の選民であると呼ぶなんて、神が聞くと”へそが茶を沸かす”とあのとき二人で大笑いをした。西洋ではそれが当たり前のことのようにいわれ信じられている。ユダヤ教徒は自分達が神の選民であると豪語し、キリスト教徒は自分たちが神の選民であると豪語する。果ては選民が他の選民グループを殺すことになる。西洋人は自分のことを褒めそやす。自分が他の人より優れているのだ。自分のしていることが正しいのだから他の人も同じことをしなければならない。そこに何のわだかまりもない。そういうことの原因がここにあるのかもしれない。〔・・・・〕(p148)
それから首を振り振りヘブライ語でわたしの続きを読み出した。得々として、選民らしく、如何にもクラスの秀才が教科書を読んでございというふうなのを見ると、20年昔の憤怒がますます募ってくるのを押さえられなかった。〔・・・・〕(p149)
終わりのない苦しみが待っている。〔・・・・〕若い時に失った時間は永遠に失ったのだ。この一線を飛び越えると他人と同じ生活が、心構えが出来るなんて夢物語であると思う。永い永い回復期がわたしには要る。そしてその果ては回復しないかもしれないのだ。西洋のボーボワールの世界なんて絵空ごとだったんだ。彼女のさかしさだってわたしの問題は解決できない。(p150)
残り少ない命を大切にしなくては。20年間をこの病んだ家族に注ぎ込んだのだ。少しでも自分を大切にすることを考えないと、何のために生まれてきたのか判らなくなってしまう。そうだ、今出ようと思えば出られるのだ。誰も見てやしない。外は聖書にあるように砂漠でも海でもない。タクシーもあれば飛行機もある。何とかしてこの家族から飛び出さねばならない。そうしなければ、わたしの一生は奴隷のように終わってしまうだろう。〔・・・・〕(p152)
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◆それから彼女は、気づかれないように儀式を抜け出し、夜の町へ抜け出していく。マンハッタンの、20年前昔わたしがやって来た時のように、希望に溢れた陽気なまちに見え始めた。〔・・・・〕あそこで明日からのことを考えよう と道子は思うのだった。・・・・ Ω