大江がノーベル文学賞をもらった時の演題が『あいまいな国の日本』だった。おおよそ、文学者といわず言葉の専門家がこの国の成り立ちを少しでも省察してみれば、無論、過去に於いては審美主義を追求する谷崎や武者小路のような方もおられるが、そうでなくても多くの名の知れた文学者、小説家はこの国の思想の土台のありようを言葉にすれば、大江が世界の論壇の中で『あいまいな・・』と言ってのけた、実は深刻なことなのだけれど、その不条理のような壁に突き当たって悩んだことが理解されてくるように思われる。
夏目漱石が西欧との出会いで悩み、森鴎外が自分の墓には、森倫太郎だけの墓碑銘でよいとか、あるいは坂口安吾でさえ、さらには現代でいえば、左翼の思考を語り始めた島田雅彦など、三島のようにまったく迷わずそちらの方面に行って演劇的自殺をされた方もおられたけれど(ところで作家平野啓一氏は『三島由紀夫』がとても好きらしい)、おおよそこういう将来、世的に影響がありそうな若手にはさっさと立派な賞などを与えて思惑的に取り込み、口封じのようなことをする。無論これは一例。
歴史学者でさえようやく、この時代になって過去の歴史の実際はこうであったと実証され、あばきだされても今までの伝統は簡単には揺るがない。巷の大学の先生の範疇ではその体制はびくともしない。一線から外れていただくである。ましてや、海外思想の流入など一瞬だけの宣伝で、それがブームにならぬことをお上は願っている。それが怖いのである。それと、深層においてはすでに敗戦となってからその人民の思考傾向を充分把握して、メディアや幼小の教育などですでにその思想基底に歴史を土台にしつつも、それを利用して政府がメディアに規制をするどうのこうのは、まさに今、国会で問題にされていることではある。
政治には口を出してはいけない。投票率があがらない・・・それはむしろ、今までの子供の頃からの学校の教えの中に、前頭葉を用いて、そちら方面の思考言語は学ばなくてもよいという、文部省方の方針があったからではないのか。思想や哲学などの、そもそもそれを思考する人そのものへの問いまでは決してこの国では行きつかないように思われる。そう、難しいことは、というより分からなくしている上からの作為など理解するような言葉をもってもらっては困るのであると。国の方針には素直に従って欲しい。あぁ、国民が政治には口を出さない愚衆であって欲しい。自らの身体(国体)を言葉にしてもらっては困るのであると。
蛇のようにさとく、鳩のようにすなおになりなさいと。あるいは、おさなごのように神の国を受け入れるので無ければ神の国を見ることはできない、とか。それは実は、鳩のように素直な外形であっても内なる思考は、蛇のように聡くあれ、とうことで最後は勝利するということである。幼子のように受け入れるのは、神の側から見た幼子であり、誰でもが子供のように疑いも無く神を受け入れるようにとは、神を知らない大人が考え、言うことができる言葉ではないだろう。まったくおかしな話で、まず大人であるあなたが幼子になり受け入れているという前提条件があっての話であるのだ。問うているのは今を生きている、まず『あなた』なのであるということだ。
何処におわすか知らねどもかたじけなさに頭下がるる、ではなく、地上にいる神に我らは目を開くべきなのである。事実、我らはその民であるから。研ぎ澄ませば、悪魔もみえて来るであろう。
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『神』とは何か? 彼らの似姿にわれらを創造された方である、と。霊を吹き込み命を与えておられる方であると。肉体においては死亡率100%において、神の住まい永遠の命への帰還を求めておられる方であると。それ故、彼の独り子、イエスを地上につかわし、彼の業を信じた者に帰還の保証を与えれた方であると。彼は復活したが、十字架を背負って今なを歩んでいる。
不完全なDNAを引きずってこの地上に生まれた個々の人生において、それを自らの障害と見なすのであれば、イエスが十字架によりその重荷を共に担い人生を歩む者にならしめると。死にも勝利した。とすれば、そこにすべての自由が到来しているのではあるまいか。
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『知れ、主こそ神であると。主は我らを造られた。われらは主のもの、その民。主に養われる羊の群れ。』(詩編:100篇)
低次元の意識で読むと、これは実に隷属的な怖い言葉でとらえられよう、統一教会があったように。しかし、この言葉は我らが意識するしないに関わらず実にはるかに高い次元のことなのである。宇宙のありように、出演しつつも演出をされているかた。それが、いま様々なところで顕わになって来ていると言えるのだ。あなたのそばで・・・