marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

哀悼!(その9)大江健三郎:つまらなくなる前に想像力を強いて言語化せよ!

2023-04-15 10:01:55 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 大江がノーベル文学賞をもらった時の演題が『あいまいな国の日本』だった。おおよそ、文学者といわず言葉の専門家がこの国の成り立ちを少しでも省察してみれば、無論、過去に於いては審美主義を追求する谷崎や武者小路のような方もおられるが、そうでなくても多くの名の知れた文学者、小説家はこの国の思想の土台のありようを言葉にすれば、大江が世界の論壇の中で『あいまいな・・』と言ってのけた、実は深刻なことなのだけれど、その不条理のような壁に突き当たって悩んだことが理解されてくるように思われる。

夏目漱石が西欧との出会いで悩み、森鴎外が自分の墓には、森倫太郎だけの墓碑銘でよいとか、あるいは坂口安吾でさえ、さらには現代でいえば、左翼の思考を語り始めた島田雅彦など、三島のようにまったく迷わずそちらの方面に行って演劇的自殺をされた方もおられたけれど(ところで作家平野啓一氏は『三島由紀夫』がとても好きらしい)、おおよそこういう将来、世的に影響がありそうな若手にはさっさと立派な賞などを与えて思惑的に取り込み、口封じのようなことをする。無論これは一例。

歴史学者でさえようやく、この時代になって過去の歴史の実際はこうであったと実証され、あばきだされても今までの伝統は簡単には揺るがない。巷の大学の先生の範疇ではその体制はびくともしない。一線から外れていただくである。ましてや、海外思想の流入など一瞬だけの宣伝で、それがブームにならぬことをお上は願っている。それが怖いのである。それと、深層においてはすでに敗戦となってからその人民の思考傾向を充分把握して、メディアや幼小の教育などですでにその思想基底に歴史を土台にしつつも、それを利用して政府がメディアに規制をするどうのこうのは、まさに今、国会で問題にされていることではある。

政治には口を出してはいけない。投票率があがらない・・・それはむしろ、今までの子供の頃からの学校の教えの中に、前頭葉を用いて、そちら方面の思考言語は学ばなくてもよいという、文部省方の方針があったからではないのか。思想や哲学などの、そもそもそれを思考する人そのものへの問いまでは決してこの国では行きつかないように思われる。そう、難しいことは、というより分からなくしている上からの作為など理解するような言葉をもってもらっては困るのであると。国の方針には素直に従って欲しい。あぁ、国民が政治には口を出さない愚衆であって欲しい。自らの身体(国体)を言葉にしてもらっては困るのであると。

蛇のようにさとく、鳩のようにすなおになりなさいと。あるいは、おさなごのように神の国を受け入れるので無ければ神の国を見ることはできない、とか。それは実は、鳩のように素直な外形であっても内なる思考は、蛇のように聡くあれ、とうことで最後は勝利するということである。幼子のように受け入れるのは、神の側から見た幼子であり、誰でもが子供のように疑いも無く神を受け入れるようにとは、神を知らない大人が考え、言うことができる言葉ではないだろう。まったくおかしな話で、まず大人であるあなたが幼子になり受け入れているという前提条件があっての話であるのだ。問うているのは今を生きている、まず『あなた』なのであるということだ。

何処におわすか知らねどもかたじけなさに頭下がるる、ではなく、地上にいる神に我らは目を開くべきなのである。事実、我らはその民であるから。研ぎ澄ませば、悪魔もみえて来るであろう。

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『神』とは何か? 彼らの似姿にわれらを創造された方である、と。霊を吹き込み命を与えておられる方であると。肉体においては死亡率100%において、神の住まい永遠の命への帰還を求めておられる方であると。それ故、彼の独り子、イエスを地上につかわし、彼の業を信じた者に帰還の保証を与えれた方であると。彼は復活したが、十字架を背負って今なを歩んでいる。

不完全なDNAを引きずってこの地上に生まれた個々の人生において、それを自らの障害と見なすのであれば、イエスが十字架によりその重荷を共に担い人生を歩む者にならしめると。死にも勝利した。とすれば、そこにすべての自由が到来しているのではあるまいか。

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『知れ、主こそ神であると。主は我らを造られた。われらは主のもの、その民。主に養われる羊の群れ。』(詩編:100篇)

低次元の意識で読むと、これは実に隷属的な怖い言葉でとらえられよう、統一教会があったように。しかし、この言葉は我らが意識するしないに関わらず実にはるかに高い次元のことなのである。宇宙のありように、出演しつつも演出をされているかた。それが、いま様々なところで顕わになって来ていると言えるのだ。あなたのそばで・・・


哀悼!(その8)大江健三郎:『性的人間』

2023-04-13 16:52:32 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 現代作家の中で大江ほど一作ごとに思想的冒険をこころみる作家はいない。『性的人間』とはショッキングな題名だが、セックスの世界にしか自己の生存の条件をきわめることができなくなった人間たちの、寓話的小説である。大江の書く性の世界には「性が文学の最後の開拓分野だ」というノーマン・メイラーやヘンリー・ミラーの思想と共通したものがあるが、それ以上に現実世界とは切り離された観念上の探求がある。『性的人間』書評(産経新聞38・7・22)

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そもそも、サルトルの実存主義とは、行きつけば動物として生きる人の肉体からの思考、意識、無意識如何のその言語化を用いた解体であったように思われる。それは、誰しもがこの人の種としての肉体を持ち、それにかかわる環境から影響を受けて、無論、親からのDNAをもとにしたものであるのだが、それらに自分の言葉で自らの実態を解明を試みようとすれば、まさにサルトルの作品のハキケ(『嘔吐』)になるのは推察できるように思われないか。

実存主義とは、そもそもあのデンマークの哲学者キィエルケゴールから来たと言われ、実に宗教的なことがらだった。

『己自らを見よ!汝、死すべきを。』 

冬の暗い北欧の空のもと、猫背ぎみの彼が親から受けついだ憂鬱気質と、環境によって当時の宗教界の個々の自己の実態の課題を宗的あいまいさでごまかしていると思われた宗教界と厳格な父親の背後の隠れた不安に痛烈な批判を浴びせかけたものだった。実のところ彼は、霊的不安との格闘をしていたのだというふうに僕には見てとれる。

それが時代を経て、その不安さえも人の言語による解析、つまり言語による意識化によって分析し、人とは何たるかを抑え捉えようとする作業を強いて行おうとする作家たち。まさに、当時は『性が最後の開拓分野』と言われるような時代でもあったのだが、そこにはどうしても『霊的異界』の分野への挑戦が現れる。異界の世界への不安への挑戦。

世的には性に対する禁忌事項が内心より興味をもたらすように。しかし、それゆえに内心、人の『霊』は実はそれを大いに拒絶している。さらには、『霊』は強制的にも実際として仕返しをして反省を強いる。

最後の領域は人という種が言葉を持つという悲しさ故にそれさえも言語化せよと『霊』に促されたのが彼の『個人的体験』であるのだと僕には思われる。従って、彼は、当然のごとく世界の作家の引用から、命の救済に向かわざるを得なくなる言葉を探さざるを得なくなるのであった。

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この時代、吉本隆明の言葉について評論や岸田秀の性的幻想論も読まれた時代であった。しかし、幻想領域の言語意識化が行われ続ければ、非常に生きにくい時代になってくると言えるのではないだろうか? 自己を見つめた吐き気を凝視できる人間はそう多くはないだろうから。・・・


哀悼!(その1)ノーベル賞作家 大江健三郎

2023-04-12 19:25:26 | 手紙

 哀悼!大江健三郎。僕の机上に今もある彼の一冊の本を掲載した。

半世紀以上も前の話。三重に出張に行った列車の中で、津を通り過ぎようとするころであったろうか、彼の『ピンチランナー調書』を若い女性が座席の前に座り、その本を読み始めた。ロボットのような親子の版画の絵が描かれたハードカバーの本だったのだが、途中までは読んでいたようなので「面白いですか?」と思わず尋ねたことを覚えている。

どうして大江なのかと思っていると、その若い女性は、自分は子どもを扱う幼稚園や保育、障害児を扱う保育士になろうと思っている。彼には障害児のお子さんが居られるでしょう。少し、こういう作家はどのように体験され思われるのか知りたいと思っているので、と続けて語った。

「あぁ、光くんですね。」と僕は返答し、「面白いです」と彼女は言ったけれど・・・。邪魔をしてはいけないと思い、それで会話は終わったのだが。若者が学生運動で盛り上がったあの時代、『性的人間』や露骨に女性器の言葉も出てくるものもありますようねぇ、どう思われますか? などとこのようなうら若き純粋な女性にたいしては間違っても語ってはいけない。

大江文学は、少し、当初、著名な評論家から批判されたように、それまでの文学というか、それは文章による情景や心理描写の表し方が、うまいとか、余韻が考えさせるとか、であったのに対しそうではなく、文章が冒頭から内面のイメージが言葉として唐突に書き著されている文章が多いので、思考訓練でもさせられるような前頭葉にきしみが起こる。

こういう表現は文学のしきたりとしてはどうなのか。エッセイのようでもあり、一種の哲学ジャンルにも踏み込むようでもあるし、いろいろな思想の部分的な解説書でもあるような、時代に対する思いを吐露するいろいろな断片の思いのつなぎ合わせでもあるようだし、短編ではそういうものが多い。

つまり、誰でも思いを言葉にまとめようとすれば、思索において自己肯定ができるのだ・・・物語を想像していける、とそういう勧めであるように僕は思ってしまうのだ。私小説というジャンルに関わるのか、彼が同時に同期に体験していることをその中に盛り込んでいるものだから、読みにくいと思われる人も多いのではないだろうか。

ナラティブ(語り)とかメタファー(隠喩)とかの言葉とか、幼小時代に母親から与えられたハックルベリーフィンの冒険の本とか、W・H・オーディンの詩(彼の短編『見る前に飛べ』はこの詩集にある)、ウイリアム・ブレイクとか・・・時代を読み解く世界の様々な哲学書や思想の書物を読み込んでいけば、それに彼は公然と、他からの引用を認めている訳だから、逆に彼の書いたこの作品は、世界の誰の思索からインスピレーション(彼にとってはメタファーのきっかけという意味になろうけれど)を受けたものではなかろうか、というようなことも推論できていく。

そして、誰でも人生には限りがあるのだから、世界のそれらのそして時代を動かしている底辺の思想ごとき何かを追及していけば、作家は仕事柄表立って口にしないまでも誰もが宗教的人間なのだから、一つの書物に収斂していくことを語っている。

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3月12日レント(キリストの受難の時期)の礼拝の牧師の話に、たまたま大江健三郎の話がでてきた。その後、少し会衆に報告することがあったので、大江が加藤周一(故)と共に立ち上げた『九条の会』の話をさせていただいた。

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大江が早逝した兄からもらった英語の辞書の話を、彼のエッセイで読んだこともあるが、教会の礼拝では二度異なる牧師から伺ったことがある。早熟だった健三郎が兄から、好きな言葉をその英語の辞書から探して教えてくれと言われた時、彼は『CHAMPION』ということばを語ったのだそうである。

何故、その話を牧師は語ったのか。それは、その『CHAMPION』という単語の意味には『競技の優勝者』の他に『特定の集団、思想などの為に代弁し、戦う人➡(主義・主張の)擁護者、闘士』の意味があり、つまりそれは、イエス・キリストのことでもある、と語りたいが故でもあった。

『イエス・キリストは我らの不義のために、わが身を負って十字架に掛けられ身代わりとなった。彼を信ずる者は死んでも永遠に生きる』

彼は今も生きて語っているというのである。ご自身(イエス)を信じた者が永遠の命に入らんがために、父なる神にその擁護者となっているというのである。

今年2023年のイースター(復活)の主日は4月9日である。・・・


哀悼!(その7)大江健三郎: ふるさとの山はありがたきかな(啄木)

2023-04-12 11:31:19 | #日記#宗教#思想・哲学#宗教#手紙#小説

 誰でもが幼少の頃にその人生の原点が創成される。森山のここ麓一帯は、八郎潟湖につながる沼地の海だった。

無論、本人の無自覚のご先祖から来るDNAを土台にするのであるが、10歳ころまでの成長期の環境のありようからも大いに影響を受けているものである。大江が四国の田舎の谷間で育った頃からのインスピレーションを受けて、それを土台に小説が描かれていることに関心があった。あぁ、僕の田舎にもこんなことがあったのかなぁと思い出すのである。そして誰もはそんな故郷を持っているのではないだろうか。

あの谷間で蜂起した爺さんの話や、現在の彼の居場所、それは海外の大学の官舎からだったりと、彼が専攻した新実存主義なるサルトルの手法が、それは実存、つまり誰もが身体(肉体)からの省察により志向をもたらす意識の言語化というものを、つまりはこれは僕なりの解釈なのだが、それは言葉を持つ人であれば冷静に自分の意識を形成する内省言語の開拓を行えば、普段の生活であたりまえのように行っていることではある。(専門の宗教者はこれを早朝からの祈りというかもしれないが)

僕の生まれたふるさとも、ネットで多く出てくから穿り出せば、その歴史はとても面白いものなのだろう。まず、生まれた田舎についてなのだがネットでは『「浦城」の歴史を守る会(NPO法人)』がググると出てくる、それから『副川神社(そえがわじんじゃ)』の入り口にもあたる『常福院』という真言宗の由緒あるお寺もあり、この神社は歴史的のも由緒あるところでこれも出てくる。

『浦城~』は歴史的には面白いところである。そのNPOの責任者は、長年高校の校長などを務めた方でとても温厚な方で、周囲から先生と呼ばれていた方であった。お話した時「あんたはこの村で生まれたんか、お前さんはこの村の宝じゃのう。」と言われたがつづいてこんな話をしてくれた。

この浦城の地域では、昔、殿と呼ばれた方が反乱をおこしたことがあってな、この下の石垣が残っているじゃろ、あそに住んでおった。浦城は古代豪族三浦氏が居て戦禍で敗れ、当主は裏山の『叢雲の滝』(この滝の中の岩には梵字が刻まれて修行の場でもあった)の傍で切腹して果てた。その生き残りだったのだろうかなぁ。詳しくその話を聞く時ではなかったのでそれでその語りは終わったのだったが、学校で習うような古来の歴史の中の続きとして細かなドラマがどんな田舎でも起こっていたのだろうな、というようなことを強く思ったのである。

それを聞いていた時、お袋が語ってくれた昔の話を思い出した。爺さん(僕を可愛がってくれた)の親戚に浦城に住んでいる人がいてなぁ、あまりに勉強しすぎて気がふれた人がいたんだと。小さいころの話で、少し怖い思いもしたのだが、身内でそんな人などいれば普段は隠すものなのに、その気がふれたというのは、どうも村一帯に反乱めいたことを起こしたらしいのであった。

この地域は古来から大陸からの移住者も多くいたのだろう。この地は、古代神道に熱心だったようで、その気のふれた親戚の爺さんは、廃仏毀釈の令が出た時に、一斉にお上の威光を示すお寺に対して反旗を翻して村人と一緒に廃物希釈の運動を蜂起したようなのである。僕の爺さんも数を数える時、1,2,3~ではなく、ひぃ、ふぅ、みぃ・・・だった。その、ひぃ、ふぅ、みぃ・・・というのは、神道の祝詞の呪文であるそうな・・・。

 その名残だったのか、新しく建てられたが、昔のお寺の門の傍らに立つ六地蔵の頭がすべてもぎ取られているし、お墓の脇の上部落と下部落のちょうど真ん中あたりの田圃道を上っていなかのお墓につくのであるが、下部落の六地蔵は頭がすべてもぎ取られていた。その石垣には今はひっそりとした苔むしたと言わんばかりの小さな民家が残っている。そして、その家の脇道は山手のお寺に続く道にもなっている場所で登った先の一帯がお墓なのだが、お寺に向かうお墓がすべてお寺に背を向けて建っているのである。

名前を見ると「金○○」が多い。あぁ、隣国から海を越えてきたこの地域の人々のご先祖様なのだろう。「金○○」という名字の方は改姓をしたためか、今はこの部落にはいないようだ。山に行く道沿いには『庚申』の板碑が(これは市内にもあるが)多く見られる。これもこの東北の地に古来、大陸から多くの人々が来ていたのだろうなぁ。

 さて、今、僕のいるところは、裏山に古代東北の最先端の守りだった秋田城があって、ふるさと創成の基金もあったせいかだいぶ整備がなされ古代の城の門も建てられた。ここで大河ドラマでもやらんかな。裏山の高台に昇れば南の鳥海山や北には男鹿半島が見え海が見渡せる。その場は今は、春のラッパ水仙での絨毯になり始めた。・・・さぁ、田舎の山へ出かけるとしよう!


哀悼!(その6)大江健三郎の内心:良き日、復活祭!

2023-04-07 11:22:08 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

  とかく宗教というのは、個人のこと、さらに観念的なこととして自分とは無関係なことと思っている、というか自覚しない。特にキリスト教というのは、個人の言葉を要求するからなおさら、この国では疎まれる。言葉のない情緒的な総まとまりの中に押し込まれていて、それを言語化することは、いらぬものを穿り出すような思いをさせられるのである。

しかし、なぜ彼(イエス)が生き返ったこととおまけにそれが、哲学、政治や経済までの深層を探れば、そこには彼が死んで復活したということについての格闘が、信ずる信じないに関係なく、意識するしないにも関係なく、その事実の基にすべてのものごとについての人が吐き出す物事への、その業への深層究明の言語化への格闘が歴史の中にあったことが理解されて来る。

それはそちらの人とか、こちらの人とか、まして異邦人とかなどでは決してなく、世界人類のドラマを作っている人、それは神の似姿に模して創造されたという肉体に注ぎ込まれた霊をもつ、事実としての瞬間、瞬間を生きるあなた、わたしを問うているのである。

彼は死んだ。しかし、彼は復活したのであるという。肉体は消滅したが今なお生きているというのである。そのことの故に、生あるすべての我々に、歴史を通して自らを問うことを強いて来たのである。聖霊として生きてる彼と、死亡率100%のこの時を生きている己という生き物のありようを。

ぼくらは、あれはどうの、これはこうのと思考の対象としての事柄を思い浮かべながら考え、話す。しかし、彼は、その人によって変わる意見や考えについての議論ではなく、議論をしているあなた、わたし、そのもの(発信源たる今を生きるその人)をいつも問うているのである。だから、自分自身から逃避できることはできないように(不思議なことに誰もの多くはこのことも思わない)それが終わるのはひとり一人が地上を去るときであろうが、生ある内に彼に出会えと今なを語り続けているのである。

彼は、いつもそのことを問うている。『わたしを誰と言うか?』、それは同時に『わたしとは誰か?』という問いにも聞こえて来ていた。

生命を与え、人生を無意識のうちにも歩み、死後にも霊としてある。生死も含めすべての創造物の支配者として彼はあると。・・・