あぁ~、どうもこういう次元の低い話からヘーゲルの『精神現象学』などという話題には持って行けそうも無い。
誰だ、その人は?などとは普通はいわないが、話題のもう世界は確実に終わりに近づいているぞ!と『大洪水の前に』でドイッチャー記念賞受賞した斉藤幸平の一連の著作を読んでいたのだが、巷の言葉を持たない、持っても分からせようとしない、つまりあんたはそういう男だと驚くべき事をいう女と、話もせずに二度と口は効かない、と振り切る女がいたとすれば、いかような崇高なあるいは、思考の哲学の心理学の・・・・そういう本の話をしようとも惨敗という訳である。
現にこの空間に存在し、違う空の下といえど同じ空気を吸っている訳であるのだから。(大洪水とは、神が人類を滅ぼそうとした旧約聖書のノアの物語である。)
こういう人らは、他者を判断するにおいての基準を、その基準が低からろうが勝手な思い込みであろうが、私達は命を生むという機能を持っている故に、ただそれ故にそれを肯定し、自分を保護してくれるのみを願望として身体生存の基底に強く根本的にもっているのであるし、そのことが言葉をもつ以前の大前提なのである、と。それは女という生き物の志向の最大公約数的基盤なのであろうか。
なんて言うこともない。男(雄:おす)とすれば昔からの伝統で部族間の闘争で、守るのは我らの仕事と昔は剣で今は銃をぶら下げている者らもいる訳だ。あからさまに言えば、現在もイデオロギーで論争するなどはまだしも、それさえも無視し、節操も無く人の命など省みず領土拡張する雄がいるのである。万物の霊長どころか、人は動物と言う種の中で最も最低の生き物となってしまっている。
ところで、その二人の女ならは、いずれも復活者を知って居る者らではあった。しかし、彼女らの目からすれば、実際の生き物としての男が目の前にいれば、どうしようもない快楽思考を遮断するいかんともしがたい男が僕であったというわけである。ホルモンのアンバランスが生じエストロゲンが枯渇して更年期障害か、以上の事から他者の存在は如何にという向上的な思考はそこで止まったということであった。否、僕にとっては人を学ぶべく神が与えたもうた試練ということで理解はしているのであるが。。。
生物学な男や女の肯定、否定事象は、復活者が召天し、弟子達が自らの言葉で神の言葉の解釈という、それは神が人を創造したという画期的な出来事からかなり経ってからの考察により言語化され、流布されるようになったのであったが、それ以前は、疑うこともなく、これが与えられた運命であると受け入れるしかなかった時代を女という生き物は受け入れ生きて来たのであった。
しかし、この話に落ちがあるのは、その女Aともう一人の女Bが会話を進めた時、なんのことはない、お互いがお互いを『あんたはそういう人だ!』と決めつけて、嫌悪していたということであった。AはBに対し、BはAに対し。それが雄としての僕への反応は異なって著されたということだけのことだった。一人は言葉で、ひとりは行動で。
よって、『精神現象学』の中の・・・などという以前に、その先を自分を知る言葉をもち、相手の事も知るという言葉をもってお互いの承認を得ることが無ければ、まったく話にもならないということである。実はヘーゲルさんが言わんとすることもここにあった。シスター渡辺和子や鈴木秀子の云わんとしたことは、困難な人生において男も同様に学ぶべき初歩でそのことだったのである。この人らは、復活者に会い、知らせる役目を持って、その方との体験を大いに語らんとして人生を生きた人らではあった。(一人は故人)
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事実、書きたいことは、男、女という舞台上の主人公ではなく、その舞台の世界のシナリヲを書いている黒子Xらのことであったのだけれど、それは実に人類の頭の範疇を超えてしまう事柄であって、ここでかなり肉なる低次元のしかも巷のありふれた心情解析から、と言っても実にこれも重要なことではあるのだが、いきなり高尚な話に結び付けようとしても無理というものであったということだ。
ちなみに、理解して欲しいと心から願っているのは『神』という流布された漠然とした対象化された観念たる言葉の存在ではなく、具体的に実態に影響を及ぼしている『主』と言われる方である。”方である”と書いたのは、理解するに人格的概念をもつ存在である、と理解するが故である。僕が宇宙人や黒子や、そのX、シナリオライター、プロデゥーサーなどと書いて来たのは、その作用を主に六次元から及ばされる方のこと。
その方は人が地上に現れてからずっと存在し、今も影響を及ぼし、意識すれば、それを人は会話するとか祈りともいわれるが、その方と繋がることが出来る。彼らが存在することは我らも存在し、我らが在することは彼らも存在する。今生で精度を高めて個人として彼に出会いなさいという勧めをしている訳である。少なく知る限り、多少係わる空海の伝えた”真言宗”ではその制度を高めよ、と教え、あからさまなる『主』は、まさにイエス・キリストである。
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ただかろうじて書けそうなのは、男にとって女という生き物は、男をひきつけ、あるときは亡国をもたらすものであったし、第一に子供を産むという生産力を持つ者であったし、そういう生産機能を持つ種がこれで政治的主導権を持ったとすれば、男として争いを好む闘争心をもつ生き物としては、社会の制度が整い闘争が穏やかになるにつれ、逆に男に取っては恐怖をもたらす生き物となってきたのではなかったか。
第一にその新しい魂をもつ、それには霊の受信装置でもある肉体を新たに誕生させることに男という生き物は圧倒的な敗北を内心恐怖を持っていたのであるから。それは当初、動物としての種の拡張と維持であって、犠牲をもって種の繁栄を守るという雄という種の働きであったが、時代が下り本来の雄の存在の意味あいが違ってきてしまったのであった。雌としての生き物としての引きつける魅惑、この錯覚が無ければまさに人類は滅びていたであろうけれど。
このシェアーされた一般に雄にはない自然体でのアトラクティブな機能は、無論、違った意味で種(自分のこと)を守ってくれという白馬の王子様の多いなる錯覚を雌が雄にも持つことによってドラマは出来るのではある。イケメンであるいは筋骨隆々で、私の肉体をとおして可愛い子孫を残してくれそう・・・というような規定がまずあって。人はその思いの奇形も芸術化するのではあったが、生き物の歴史はそれが原型になっている。
雄(男)を引きつける美貌を雌(女)が持ち、性的魅力を沸き立たせる女の顔はまず第一に隠さねばならない。そういう体の部分も隠さねばならない。そういう基底が醸し出す、普段の思考ではどうしようまない性的欲求処理の対象となって動物闘争のきっかけとなってしまうと彼女らが虐げられた某国では、すべてを隠すことが要求され、男が剣の代わりに銃を持っている。部族間の血を流す闘争もなくなり、実生活において生産性のない無能な男たちは、ぶらぶらと銃を持ってしかも徒党を組んで権威を保たねばならないという訳だ。それは、アトラクティブな機能を持たない男たちの補填のようにも見える。
さて自由にならんとする女という生き物の地位に、わたしは好きになった男の子供を産むのだ。気にいらなければ分かれれば。そしてイイ思いにさせてくれる、わたしの気にいった男と楽しむのだ。それで、雄という正にその男は子供を産ませる脳髄の本来に基底欲求を満たそうとするのが最低限の外交的能力であるから、そもそも駄目な男でも神はこの生殖能力だけは盛んにし、この機能だけは衰えることはなさらなかったことから、違ったドラマも生まれてくる。実際、暮らしてみなければその男の本懐はわからないというわけだった。
生理現象から、その生き物は男より自分の身体という肉体の困難さに自らの言葉を持ち対応しないといけない。曰く、生理という面倒な肉体を持たされる訳である。しかし、その分、より人の人体が何らに依存しているとか、身体からの行動されるとか、つまるところ身体から思考への影響を自分の言葉でもって勝ち取らなければいけない宿命を成長期に負わされているのであった。したがって、成長期は女が自分の肉体について言葉を持つ者としては男よりは秀でているものであった。
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それは、誰しもが、出自に起因する人生ドラマの基も自分ではいかんともしがたい幼少期に起源があるのであって、しかも、個々のそれらが地上の人類ここに存在して、歴史を通して集団をつくり、自らの出自を考慮しできずに消費と争いを繰り広げ、それがひいては首を絞めていることも理解できず、吐出した奇形が人類を一息に破滅に落としいれることもあるという、恐ろしい時代にもなったいるということである。最後にそういう生きている方であるという意味合いで漠然とした『神』と言葉の説明を、当初からベストセラーに著しているのである。
”心を尽くし、精神をつくし、思いを尽くして『主』なる神を愛せよ!” ”あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛せよ”
律法と預言者(つまりは聖書の云わんとすること)は、すべてこれに掛かっている、と。
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結局それは、『主』と創造された『人』との地球上のドラマである、ということなのである。・・・くだくだと一歩的に長話をし一部眠く、彼が僕に乗り移った言葉もあったようだが、深夜忽然と彼は消えた。