まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

安心してサボれる会社づくり

2010-03-16 14:52:25 | お仕事のオキテ
私の研究室のドアには写真のような飾り物が掛けてあります。
これは、北海道の 「べてるの家」 を見学に行ってきた学生さんから、
おみやげにもらったものです。
「べてるの家」 というのはけっこう有名な、
精神障がい等を抱えた人びとがともに生活しともに働く施設です。
この飾り (のれん?) も彼らが作り、彼らが福祉ショップべてるで販売しているものです。

この中にある 「安心してサボれる会社づくり」 というフレーズは、
べてるの家のモットーだそうです。
彼らは、出勤する途中や働いている最中にキーッとなり、そのままいなくなってしまったり、
しばらく働きに来られなくなってしまうことがあるそうです。
それを咎めたり、むりやり働かせたりするのではなく、
しんどい時には無理をせずちょっと休んでもらい、
その分をみんなでバックアップしてあげることができるような組織を目指しているのだそうです。

これは別に障がいを抱えている人びとに限ったことではなく、
健常者にとっても 「安心してサボれる会社づくり」 というのはとても大事だと思います。
私たちだっていつ、自分がケガや病気をしたり、
子どもが産まれて面倒をみなきゃいけなくなったり、
家族の介護をしなきゃいけなくなったりするかわからないのです。
そういう時に誰もが安心してサボれるくらいの余裕が、組織には必要なはずです。
ところが最近では、企業も官公庁も教育機関も人件費削減に躍起になっており、
ギリギリの人数で全員がマックスの力を発揮して、何とか切り盛りしている状況です。
これではとても仕事のクォリティを保つことはできないでしょうし、
誰かに何かあった時には組織全体が回らなくなってしまうでしょう。
そんなせせこましい組織ではなく、
「安心してサボれる会社」 を作っていこうではありませんか。

地震の被害

2010-03-15 16:04:23 | 生老病死の倫理学
福島では、昨日、一昨日と続けてけっこう大きな地震がありました。

特に昨日の地震は相当長い時間揺れていましたから、

かなり怖かったですね。

幸い自宅ではモノが落ちたり倒れたりということはありませんでした。

なので、喉元過ぎれば熱さ忘れるで、

今日になったらすっかり地震のことは忘れてしまっていたのですが、

大学の研究室に入ってみたら、ご覧いただいている写真のように大惨事になっていました。






と思って、被害を逐一調べてみたら、

なんのことはない、地震による被害は足下に落ちている雑誌だけでした。

その他の被害は地震のせいではなく、すべて私の仕業でした。

こっち側も足下にいろいろ散乱していますが、

これはたんに私が自分で下に置いただけです。

何をやっているのだ、私は

あーあ、早く片づけなきゃ、また新学期が始まってしまう

ガンジーの危険な平和憲法案

2010-03-14 23:09:34 | グローバル・エシックス
ダグラス・ラミス著 『ガンジーの危険な平和憲法案』(集英社新書、2009年) を読みました。

ガンジーの平和思想&運動については、私の講義 「戦争と平和の倫理学」 の中で、

ほんの1回だけ取り上げているわけですが、

私の語り方がマズイのか、学生の皆さんからは、

理想論としてはわかるけど、まったく現実的ではないでしょう、

というような感想を頂戴しています。

しかし、現実にガンジーは非暴力抵抗運動によってインドを独立に導いた、

ということは繰り返し思い出されるべきでしょう。

なぜそれが可能となったのか、ということをこの本はうまく説明してくれています。

簡単に言うと、被支配者が協力することによって支配は可能となっている、

したがって被支配者が支配者に協力することをやめれば、支配から脱することができる、

とまとめることができるでしょう。

だからこそ、暴力によって相手を打ち倒すことよりも、

自分たちの考え方や行動をガラッと変えることのほうが重要なのです。

これはガンジーの権力論 (=革命論) といってもいいと思いますが、

そのラディカルさ、その有効性は歴史に刻まれるべきだろうと思います。

この本では、ガンジーのそのような思想と運動によってインドの独立が可能となったにもかかわらず、

独立したインドはガンジーの権力論をまったく採用せず、

普通の権力をもった普通の国家を作ってしまったこと、

そして、今のインド人たちがインドの父であるガンジーに対して、

きわめて屈折した思いをもっているということも描き出しています。

それを日本人の平和憲法に対する屈折した思いと対比してもいます。

私の講義を受けてまだ腑に落ちていない人は、ぜひこの本を読んでみてください。

初・南福島

2010-03-13 23:57:03 | 人間文化論
南福島というのは、自宅のある福島駅と、大学のある金谷川駅の間にある駅です。
この駅周辺に住んでいる学生も一定数いるので、
学生たちには 「ナンプク」 とか 「ミナフク」 と呼ばれて親しまれています。
しかし、基本的に途中駅というのは用はないわけで、
私などは南福島に来ることはめったにありません。
ただし、このあたりにも飲み屋さんはあるので、
南福島で飲む機会がまったくなかったわけではありません。
駅前の八剣伝や、養老乃瀧、ちょっと遠いけど大吉などは、
それぞれ何度か行ったことがあります。

で、昨日なんですが久しぶりに南福島での飲み会でした。
最近では南福島で飲む機会はほとんどなかったので、
本当に数年ぶりに来るという感じです。
大学での仕事を終えて、電車で南福島に向かいました。
いつもなら2駅乗って福島まで帰るところを、
今日は1駅乗っただけで途中下車します。
南福島駅のホームに降り立ってみて初めて気づきました。
あれ? この駅で降りたの初めてじゃない?

そうなんです。
電車通勤するようになってから南福島に来たのは初めてなので、
電車で南福島の駅に来たことはなかったのです。
以前は自動車通勤だったので、クルマで南福島まで来て飲み、
帰りは運転代行を頼むというのが常でした。
したがって、福島に来てからもう16年も経つというのに、
南福島駅は今日が初体験だったのです。
毎日電車の中から見ている見慣れた風景ではあるのですが、
しかし、ホームに降り立って見てみる駅の感じはなんかとても奇妙です。
ついつい写メを何枚も撮ってしまいました (全体像反対ホーム改札口)。

ところで、駅から出てみんなが集合するのを待っている間に、私の身体に異変が。
鼻がムズムズし始めて、クシャミをしてしまいました。
私のクシャミは音が大きいので (これについてはそのうち書きます)、
みんなが振り返って笑います。
お店に入れば落ち着くかと思っていたら、
席に着いて飲み始めても、さらにクシャミと鼻水が止まりません。
と思っているうちに目も痒くなってきたので、
どうやら花粉症の症状が出てきたようです。
今年は冬が冷え込んだだけあって、花粉症のスタートが遅くていいなあ、
なんて喜んでいた矢先のことでしたので、急な展開にビックリです。
南福島のあたりは杉の木が多いのでしょうか?
それとも誰かが杉花粉を蒔いているのでしょうか?
たまたま今日が私の花粉症のプレイボールの日だったというだけのことなのか、
それとも南福島には何か秘密が隠されているのか、
とにかく 「初」 なことの多い南福島の日でした。

修正提案

2010-03-12 17:29:18 | お仕事のオキテ
また修正情報です。
一昨日も情報訂正したばかりですが、
このところこういうことが続いていますね。
実を言うと、今日は仕事上でも信じがたいほどの大ポカをやらかしてしまいましたので、
(自虐ネタが好きな私もさすがにこれはブログには書けない…
ちょっとマズイ雰囲気です。
どこかで気分一新しなければいけませんね。
そのためにもぜひ春休み中に研究室の片付けをしたいと思います。

それはさておき。
もう5日ぐらい前のことでしょうか。
「退学のススメ」 を提唱いたしました。
一昨日、教員会議があり、関連する議題がありましたので、
その場でも先生方に、経済的に苦しくて学費納入の困難な学生がいたら、
除籍になるのを待つのではなく、退学するよう薦めてあげてくださいと発言したところ、
関係委員会から正されてしまいました。
学費を納入していないと退学することはできないのだそうです。

うーん、言われてみればそりゃその通りなのですが、
私が考えていたのは、払い終わったところまで遡って、
その時点で退学する、という意味でした。
例えば、3年生の前期までちゃんと納入していたけれど、
3年の後期になんらかの事情によってもはや学費が支払えなくなってしまったという場合、
後期に取ったすべての単位はあきらめて、
前期末で退学にしたことにする、ということを考えていたのですが、
どうやらそういうフレキシブルな制度は整っていないようです。

というわけで、学費納入ができなくなってしまった場合には退学することはできないようです。
うーん、困ったことです。
やはり将来的には、復籍という制度の導入をはかるほかないのだと思いますが、
それまでにはしばらく時間がかかってしまうでしょう。
やはり、前回書いた学費融資制度とかをなんとか活用するなどして、
その場を乗り切るしかなさそうです。
なんにしても、すぐにあきらめてしまうのではなく、
アドバイザー教員や学生総合相談室などに相談に乗ってもらいましょう。
こういう御時世です。
お金の問題は恥ずべきことでも何でもありません。
1人で抱え込んでしまったり、あっさり投げやりになってしまうのではなく、
なんとか乗り切る道を模索するようにしましょう。
こういうときにどんな最善ないし次善の解決策を見つけ出せるか、
そういう力こそが大人の力、生きる力なのです。

病気が教えてくれたこと

2010-03-11 18:40:01 | 幸せの倫理学
アステラス製薬というところ (初耳) がエッセイコンテストをやったそうです。

テーマは 「病気が教えてくれたこと」。

先日の私の 「病の贈り物」 という話と重なり合っています。

11,970通の応募があったそうで、

そのうちの入選した120編のエッセイが公開されています。

どれも感動もので、涙もろい私はおいおい泣いてしまいます。

そのうちのひとつに 「当たり前の幸せ」 というタイトルのエッセイがあって、

私がこのカテゴリーで繰り返し述べていることを代弁してくれているようでしたので、

その一部をご紹介しておきます。



「当たり前の幸せ」

病気が教えてくれたんやで

普通にすごせることがどれだけすごいことかって。

「できて当たり前」 のことは、1つもないんやって。

生きてるだけで、どれだけ幸せかって。

できないことを数えるんじゃなくて、できたことを喜ぼうって。

あと、「みんな」 は関係ない、大切なのは 「自分」 やって。

きっと、病気になることで、改めて 「生きる選択」 をしたんやと思うねん。

だから、今は、自分なりのペースで生きていきます。

病気にしてくれて、ありがとう。



引用したのは最後の部分ですが、

前半を読むと、「病気にしてくれて、ありがとう」 の意味がよりはっきりとわかります。

120本というとけっこうな数ですので、読破するのはたいへんだと思いますが、

ぜひ一度ご覧になってみてください。

卒業記念演奏会と60周年記念美術展

2010-03-10 11:50:02 | 人間文化論
先日、まちがった情報を配信してしまいました。
芸術文化クラス (音楽) の学生たちによる卒業コンサートは、
今度の日曜日に開かれるようです。
正確な情報を記しておきましょう。


   福島大学音楽科学生による卒業記念演奏会

          日時:3月14日(日)

        開場:13:00 開演:13:30

        場所:福島市音楽堂大ホール 

内容:器楽(ピアノ他)・声楽などの演奏・作曲の作品発表

            入場料:無料


ということだそうです。
ところが残念なことに
この日はすでに先約があって、聴きに行けないのです。
うーん、残念
それにしてもなぜ5日と勘違いしていたんだろう?
たしか音楽のS先生に5日と聞いたような覚えがあるんだけどなあ…。
とにかく残念です。
皆さん、ぼくの代わりに聴きに行ってあげてください。
去年はこのコンサート聴きに行ったんですけど、
ホント驚きますよ、みんな本格的で。
あれがタダで聴けるっていうのはとってもお得だと思います。


もうひとつ告知を。
60周年記念美術展も開かれるそうです。


福島大学創立60周年記念 美 術 展
                 1949-2009
        学芸学部-教育学部-人間発達文化学類

2010年3月11日(木)~14日(日)

9:00~17:00 (最終日は15:00まで)

福島県文化センター3F

入場無料


出品者の一覧にはズラーッと卒業生や現役学生の名前が並んでいて、
数えてみたら総勢177名。
どんな展覧会になるのでしょうか。
時間の余裕をもって見に行かなきゃいけないでしょうね。
こちらは明日からです。
登校前にでも寄ってみることにしましょう。

私語の世界(その3)・私語を許してはならない

2010-03-09 15:54:07 | 教育のエチカ
 私語してしまう動物である人間に私語をさせないようにするために、最も重要なのは、私語を許してはならない、ということです。これも当たり前すぎるように聞こえるかもしれませんが、授業公開などで他の先生方の授業を見せてもらって感じるのは、私語を許してしまっている先生がけっこう多いということです。もちろん、「私の授業ではいくらでも私語してかまいませんよ」 と明言する形で私語を許可している教員などいるはずありません。そうではなくて、暗黙のうちに私語を許可してしまっている人がとても多いのです。それはどういうことかというと、学生の誰かが私語をしているのに、そのまま講義を続行して話し続けてしまう先生がいるということです。
 これを学生の側から考えてみましょう。自分たちが私語をしているにもかかわらず、先生の授業が淡々と進んでいったとしたら、自分たちの私語は誰にも聞こえていないのか、聞こえていたとしてもほんのわずかで授業の妨げになっていないのか、のいずれかと判断してそのまま私語をし続けてもいいのだと判断することになるでしょう。つまり、私語を許可してもらったということになるのです。そうやって誰かの私語が許可されたならば、他の子たちが私たちも大丈夫かな、と私語し始めるのは目に見えています。そうして教室中が私語に包まれてしまったあとになって、先生が怒り出したとしても、学生たちには先生が逆ギレしているようにしか見えません。だってもともと私語を許可してくれたのはその先生なのですから。
 ですので、たったひと組でも私語している学生がいた場合には、授業をストップして私語をやめさせなくてはならないのです。どうやってやめさせるかは後述しますが、とにかく、すべての私語はこちらに聞こえており、ひとつたりとも許さない、という態度を示す必要があります。そのためには、私語がある中で話し続けては絶対にいけないのです。
 難しいのは、授業開始前の喧噪をどう静めるかです。授業前に学生どうしが話しているのは自由です (私たちの学生時代は、授業前からノートを開いて鉛筆をもって、シーンと先生が入室してきて授業が始まるのを固唾を呑むように待っていたものですが、今となってはそんなの夢物語です)。いったん授業が始まっても話し続けていたら、それは私語になるわけですから、授業を開始する前に一度静寂状態を作り出す必要があります。これは大教室ではなかなか難しいことですので、とりあえず話し始めてしまってしだいに沈静化するのを待つという先生もいらっしゃるようです。これは私語の許可につながりますのでできれば避けたいところですが、大教室の場合はいたしかたない面もあります。そういう場合は私はまだ授業を始めるのではなく、ただの雑談だよという体 (てい) と内容で話し始め、しだいに注意がこちらに向いて完全に静かになるのを待ってから本格的に授業を開始するようにしています。あくまでも授業中の私語は許さないというスジは通しておきたいからです。
 これよりも最近のお気に入りなのは、大きな声で挨拶するという方法です。朝なら 「おはようございます」、午後なら 「こんにちは」。これをできるだけ大きな声で言うのです。小声の挨拶はただの常套句のように聞こえて無視できますが、こちらが大きな声で挨拶すると学生も挨拶を返さなくてはならなくなります。挨拶を返すためには私語をやめなくてはなりません。そうやって静寂状態を作り出すのです。たいていは一度の挨拶で静まりますが、それでダメな場合はもう一度さらに大きな声で挨拶します。二度もやればまずどんな大教室でも静まらなかったことはありません。
 大学教員の中には大きな声で挨拶なんかしたくないという方もいらっしゃることでしょう。その場合は、教壇の上で黙って学生を睥睨 (へいげい) する、というのがオススメです。話し始めたいんだけど、みんなが騒いでいるから始められないよお、という表情で黙ったまま学生たちをゆっくりと眺め回すのです。これは先ほどの挨拶よりも時間がかかってしまいますが、いずれ必ず喧噪はおさまってきますので、完全に静寂が訪れるまでじっくり待ちましょう。ある程度のところで話し始めてしまうと、私語を許可したことになってしまいますので最後まで待ちます。これはいくら時間がかかってもかまいません。むしろ時間がかかったほうが、あなたが話しているせいでみんなの時間が奪われているのだ、ということのデモンストレーションになりますので、学期はじめはじっくり時間をかけて静寂を待つようにしましょう。そのうち彼らも、自分が話している限り授業を始めてもらえないということがわかってきます。
 けっしてやってはならないのは、「静かにしてください」 などとお願いする行為です。よく生徒会総会などで生徒会長が連呼していたのを聞いたような気がしますが、これで静かになったことはないはずです。教員の側がお願いなんかしてしまったら学生にナメられてしまいます。すると、よけいに私語はおさまりません。しかも、こちらが声を大きくすればするほど、学生たちは自分たちの声が聞き取りにくくなるので私語の声を大きくしてしまうのです。同様に 「うるさいっ」 とか 「静かにしろっ」 などと怒鳴ったりするのも厳禁です。これをすると、その場を静かにすることには成功するかもしれませんが、怒鳴らないと私語も制御できない教員というレッテルが貼られ、学生からの信頼や尊敬が失われてしまいますので要注意です。(つづく)

子どもの発見 (その2)

2010-03-08 18:25:21 | 人間文化論
子どもの頃の赤っ恥をさらすシリーズ・第2弾です。
こいつは本当にイタイので人には言いたくない感じですが、
ネタが尽きているのでやむをえず公表します。
私は小学校の頃、毎日電車通学していました。
横浜市にある京浜東北線 「関内(かんない)」 駅から 「山手」 駅まで、
ほんの2駅ほど国鉄 (今のJR) に乗って通っていました。
小学校1年生の頃は特に不思議にも思っていなかったのですが、
2年生だか3年生の頃から 「あれ?」 とわからなくなり、
それから数年間悩んでいました。
謎が解けたのは高学年になってからだったように覚えています。



発見その2 「駅は1つでいい」



これが私の発見なんですが、わかってもらえるでしょうか?
私が抱えていた悩みはこうでした。
朝、関内駅から電車に乗って山手駅に着き電車を降りますね。
帰りは山手駅から電車に乗って、関内駅に着き電車を降ります。
電車が走る向きは完全に逆です。
朝電車に乗った関内駅と、帰りに電車を降りた関内駅は同じ駅なのでしょうか?
もしもそうだとすると、逆向きに走っている電車が正面衝突してしまうのではないでしょうか?
しかし毎日乗っていて一度も正面衝突したことがないところを見ると、
朝乗った関内駅と、帰りに降りた関内駅は別の駅なのではないでしょうか?
つまり、関内駅は2つあるのではないでしょうか?

今思うとこれのどこが問題だったのかよくわからないのですが、
とにかく当時はこれが不思議でしょうがなかったのです。
あの頃は、帰りの電車を待つあいだ、
あっちのホームとこっちのホームでボールの投げっこをしたり、
向こうのホームの電車が先に来て、それに乗っていく友だちを見送ったり、
ちょうど同じ時刻に電車が入線して、すれちがって別れていったりするのを、
毎日のように見ていたにもかかわらず、この問題が解けなかったのです。

ちっちゃいまーちゃんの弁護を試みるなら、
通学でしか電車に乗ることがなかったので、
朝は関内駅でまっすぐ下りの1番線ホームに行き、
帰りは山手駅でまっすぐ上りの2番線ホームに行くだけで、
その動きが完全にルーティーン化していたので、
1番線ホームや2番線ホームのことを意識化できなかったんだよね。
それは、仕方ないよねぇ。
とはいえ、この問題に対して疑問を感じていたんだから、
そのつもりで見ていればすぐにわかりそうに思うのですが…。

とにかく高学年になるまでずっと謎を抱えていたまーちゃんに、
ある日、突然啓示が降りてきたのです。

「おおっ、ホームが2つあるじゃないか。
 1番線と2番線があるから電車はぶつからなくてすむんだっ!
 そうか、だから駅は1つでいいんだっ

いやいや、そんなの毎日見ていたでしょう。
なんでそれがわからないっ
うーん、不思議だっ、ちっちゃいまーちゃん。
君は何を悩んでいたのだっ?
でも、ちょっと恐ろしいことが。
あの頃の関内駅や山手駅は (その真ん中にある石川町駅も)、
上り線と下り線がピッタリくっついて走っていて、ホームがその両サイドにあるタイプの駅でした。
意味わかるでしょうか?
駅によってはそうではなくて、ホームが真ん中にあって、
その両側に上り線と下り線が走っているタイプの駅ってあるじゃないですか。
図示するとこんな感じ↓です。

 関内駅タイプ        その他タイプ

 1番線ホーム         下り電車
  下り電車         ホーム(1番線)
  上り電車         ホーム(2番線)
 2番線ホーム         上り電車

もしも関内駅や山手駅がその他タイプの駅だったとしたら、
ちっちゃいまーちゃんは小学校を卒業するまで、
駅が1つでいいということに気づけなかったかもしれません。
だって啓示が降りてきた日、
あっちのホームとこっちのホームを何度も見比べて、
「おお、駅が2つある」 って思ったんですから。
で一瞬間を置いて、
「ああちがうちがう、ホームが2つなんだ。駅は1つでいいんだ」
と気がついたのですから。
その他タイプの駅ではいつまで経っても、
ホームが2つあるということに気づけなかったかもしれません。
小学生のうちに気づけてよかったね、まーちゃん。

たぶん今日の話は誰にも共感してもらえないだろうと思います。
いいんです、それで。
とにかく、子どもはわけのわからないことに躓いているというお話でした

退学のススメ

2010-03-07 18:16:15 | 教育のエチカ
大学教員としてこの時期に聞く 「除籍」 の報告ほど切ないものはありません。
学費納入時期というのはだいたい前期・後期が始まって1ヶ月くらいのあいだと
相場が決まっているわけですが、
最近はこの不景気で学費を滞納する人が相当増えてきています。
そして、最終のタイムリミット (福島大学の場合3月31日) を超えてしまうと
「除籍」 という処分になってしまうのです。
この 「除籍」 という扱いがどれほど理不尽なものかということを理解している人は、
保護者も学生も、そして大学教員の中にも、それほどいないのではないでしょうか。
しかし、これはとても大事なことなので、
ぜひ皆さんには理解しておいていただきたいと思います。

「除籍」 よりも 「退学」 ということばのほうがよく耳にしたことがあると思います。
高校などで素行不良者が退学処分になった、なんていう言い方がされますので、
「退学」 にはいいイメージがないかもしれませんが、
本来 「退学」 というのは、「なる」 ものではなく、自ら 「する」 ものです。
つまり、「退学処分」 とか 「退学させられる」 というのは誤った用法であって、
本人自ら学校をやめる (退く) のが 「退学」 なのです。
それに対して、「除籍」 というのは主語は学校側です。
つまり、大学側がある学生の学籍を排除する (除く) のが 「除籍」 なのです。

両者を比較すると、
「退学」 はあくまでも自己都合です。
しかし、「除籍」 は処分であり、罰を下したということになります。
「除籍」 というのはそういう恐ろしい処置であるということをまずは理解しておきましょう。
具体的にはどういう違いが出てくるのでしょうか。
「退学」 の場合は 「復学」 することが可能です。
学校によってまちまちではありますが、一定の条件を満たすと、大学に戻ってくることができるのです。
それに対して、「除籍」 の場合は 「復学」 の可能性は基本的にありません。
籍が除かれてしまっているのですから。
どうしても戻ってきたい場合には、大学受験からやり直さなければなりません。
受験料を払い、受験勉強もして、合格したら入学金もまた払わなければなりません。
「退学 → 復学」 の場合はこれらのステップは免除して大学に戻ってこられるのです。
この違いは大きいと言えるでしょう。

疑問なのは、学費が払えなかった者に対して、
どうしてここまで過酷な 「除籍」 という処分を下さなければならないのか、ということです。
家計が苦しい中で、入学金免除や学費免除、奨学金制度などに一縷の望みをつないで、
なんとか受験勉強もがんばってやっと入学できたという人もいることでしょう。
ところが入学後、それらの審査にパスできずに恩恵にあずかれず、
急遽、入学金や学費を工面しなければいけないことになって、
けっきょくそれが叶わなかったというケースもあるはずです。
あるいは、入学当初はなんの問題もなかったけれど、
あるとき急にこの不景気で、保護者の方の収入が途絶えたとか激減してしまって、
とても年度内に学費を納められなくなってしまったという場合もあるでしょう。
そういう人たちは、払う気がないわけではなく、払えるものなら払いたいと思っているはずなのです。
その人たちを復学不可能な形で 「除籍」 扱いにしなければならない理由がわかりません。
どうやら元はというと、まだ国立大学の学費がむちゃくちゃ安かった頃、
学費が払えないということはないのだけれど、
大学の方針に反対するために、学費不払い運動みたいなのが行われたことがあり、
それへの懲罰として、この学費未納者除籍処分が設けられたらしいです。
その制度の起源は理解できないではありませんが、
国立大学の学費がこれだけ上がり、しかもこんなに経済状況が悪化している中で、
そんな昔のシステムを後生大事に温存し続ける意味はまったくないと言えるでしょう。

というわけで私はここ数年、教員会議でずっとこの問題について提起し続けているのですが、
いっこうに改善される気配がありません。
もちろん、大学としても銀行と提携して低金利の学費融資制度を設けたりはしているのですが、
それはそれとして、この学費未納者除籍制度は即刻、解消すべきだと思っています。
聞くところによると、他大学では、除籍処分は変わらないのですが、
復籍制度を設けて、そういう人たちが還ってくる仕組みを設けているところもあるみたいです。
福島大学もそうした改善の道を探ると言ってくれてはいますが、
それが出来上がるのがいつになるかはまったく見当つきません。
ですので、万が一学費を納入期限までに納められるか難しそうだという事態に陥ってしまった人は、
最終リミットが来てしまう前に、自ら 「退学」 するようにしましょう。
けっして 「除籍」 なんてされてはいけません。
福原愛さんも今度、卓球活動のほうが忙しくて学業と両立できなくなるということで、
早稲田大学を退学するそうですね。
しかし、現役での活躍を終えて、今後の進む道を新たに考える日が来たとき、
彼女は再び早稲田大学に戻って学び直すことができるのです。
「退学」 というのはまったく恥ずべきことでも何でもありません。
自然に 「除籍」 されるのを待つのではなく、進んで 「退学」 するようにしましょう!

私語の世界(その2)・人間は私語する動物か?

2010-03-06 21:02:46 | 教育のエチカ
 人間は本当に 「私語する動物」 なのでしょうか? 簡単に証明してみましょう。ふだん学生に私語してはいけないと言っている教員たちですら、教員会議では必ず私語をしている。ゆえに、すべての人間は私語をする。以上、証明終わり。どうです。納得してくださいましたか。え? 教員会議での私語と講義中の私語は別物だろう、ですって? ではもうひとつの証明。福島大学がFDの一環として行っている 「授業公開&検討会」 では 「授業者と参観者の皆さんへ」 という文書が配布されていますが、その一番下に大きなフォントで太枠に囲われて次のように書いてあります。

「(注意)授業公開中の教員同士の私語は、学生の受講の妨げになりますので、くれぐれも慎んでください。」

 授業公開を開始した初期の頃にはこの注意書きはなかったのですが、やってみたら学生からのアンケートに 「先生たちの私語がうるさくて授業に集中できませんでした」 という屈辱的な指摘があったために、翌年からこの一文が追加されたという歴史があるのです。しかも、最近私が参加した何回かの授業公開でも、このような注意書きにもかかわらず、あいかわらず毎回、先生方の中に私語をしている方々がいらっしゃいました。「講義中に私語をしてはいけない」 という倫理を共有しており、かつ他人にそれを指導する立場のはずの大学教員ですら、講義中に私語をしてしまうのです。それくらい私語は人間の本性に深く組み込まれた性(さが)であると言えるでしょう。証明終わり。
 ことほどさように人間は 「私語する動物」 なのです。ですから、私が話している最中に私語をするなんて許せんっ!などと感情的になってもムダです。最初の授業であれほどなぜいけないかを説明したのにそれを破るなんてお前らは確信犯だなっ!と逆上してみてもまったく意味がありません。いくらルールを頭で理解していても、本性に根差した行動はなかなか制御できないのが人間なのですから。もちろん、だからといって講義中の私語はしかたないのだとあきらめてしまうわけにもいきません。前回書いたように、私語は他の学生の権利を侵害する行為なのですから。そこで、私語をしてしまう動物である人間に私語をさせないようにするための具体的な手立てが必要になってくるわけです。(つづく)

私語の世界(その1)・なぜ私語はいけないのか

2010-03-05 16:16:47 | 教育のエチカ
FD (これについてはそのうち書きます) 関係のある媒体に、
原稿を提出しなくてはいけないのですが、
その原稿執筆とブログの執筆が両立できる気がしないので、合体させてしまいます。
テーマは私語についてです。

私語の世界

 講義型授業において、学生の私語に悩まされている先生方はあいかわらずいらっしゃるのではないでしょうか。特に共通領域(いわゆる一般教育科目のことです)や学群・学類共通科目など100人を超える大規模授業では、どうしても私語は発生してしまいがちです。私語に対して私がどのように対処してきたか、という話をご紹介させていただきます。
 まずこの問題に取り組む際に、講義中に私語をしてはいけない、なんて当たり前だろうという常識を捨て去るところから始めたいと思います。このような常識は、二重の意味で、もう失われているということを理解しなければなりません。ひとつは、「講義中に私語をしてはならない」という倫理(義務、ルール)を学生たちは共有していないということ。もうひとつは、そもそも人間というのは私語をしたがる動物であるということ。したがって、講義中に私語をしてはいけない、ということを前提にして話を始めるのではなく、講義中に私語をしてはいけない、という文化をどうやって新たに創っていったらいいかという観点で考えていく必要があります。
 まず、倫理をどのように創り上げるかという点からいきましょう。「講義中に私語をしてはならない」という倫理を学生たちに浸透させるためには、なぜ講義中に私語をしてはいけないのかという理由(倫理の根拠)を彼らに納得してもらう必要があります。私の講義では第1回目の授業の時に必ず「教室の倫理」について語るのですが、その中でこの問題についても論じるようにしています。
 なぜ講義中に私語をしてはいけないのか、その理由はさまざまありえますが、最も強力な論拠は、他の学生が講義を聞く権利を侵害しているから、だろうと思います。どんなに小さな声であっても、近くで誰かがヒソヒソしゃべっていたら、ものすごく気になって講義に集中できなくなりますから、その話を聞きたいと思っている人にとってはたいへんな迷惑になります。だから私語はいけないのです。
 このことは、映画館の例を出してあげれば、だいたいの学生が納得してくれます。映画館にはその映画を見ようと思ってお金を払ってお客さんがやってきています。あなたが座った席の隣で、どこかのカップルが映画に関係あることだろうがなかろうがずっとヒソヒソしゃべっていたとしたら、あなたは頭にきますよね。学生の皆さんは自分で学費を払っていない場合が多いですが、しかしやはりこの授業を聞くためにどこからかお金は払われているわけで、せっかく聞こうと思って教室に来ているのに、それを隣の誰かにジャマされたら、それは権利を侵害されたことになるのです。
 その授業の内容が期待外れでどんなにつまらなかったとしても、だからといって私語をしていいということにもなりません。あなたにとってはつまらなくても、それを楽しみに聞きに来ている人がいるかもしれないのです。100人中99人がつまらないと思ったとしても、たった1人でもその授業を聞きたくて聞きに来ている人がいたとしたら、その人の権利が守られなければなりません。
 私はこの話をするときに、権利は自分で守らなければならない、という話もしています。もしも近くの誰かが私語をしていて気になって授業に集中できないような場合は、あなたの権利が侵害されたのだから、あなたがそれに異議を唱える権利があります。自らひとこと「静かにしてください」と注意してもかまわないのです。とはいえ、対等な学生どうしで相手に注意をするというのは相当な勇気が要るでしょうし、ひとこと注意してもやめてもらえず、そこで口論になったりした場合には、客観的にはその注意した人も私語をしているとみなされかねないので、学生が自分で注意するというのはなかなか困難だと言えるでしょう。映画館でもお客がお客に注意するというのはなかなか難しいことですので、やはり映画館側に鑑賞環境を良好に保つ義務や責任が生じてくるでしょう。それと同様、教室でも私語を根絶させる責任は最終的には教員の側にある、ということになるでしょう。
 私は第1回目の授業の時に以上のような話をして、「講義中に私語をしてはならない」という倫理をみんなで共有するようにしています。いずれも、そんなのわざわざ言うまでもなく当たり前の話のように思われるかもしれませんが、少なくとも今の学生たちは、この程度のことも常識として共有してはいませんので、噛んで含めるように納得させてあげることが重要です。
 しかしながら、こうして倫理を共有できたからといって、では次回からは誰も私語をしなくなるかというとそんなことはありませんし、私語をした者を、倫理に反するなんて言語道断だと厳罰をもって処するというのも、得策ではありません。なぜならば、最初に述べたように、人間というのはそもそも私語をしたがる動物なのだからです。では、その点も踏まえた上でどう対処したらよいかについて、次回論じることにしましょう。

「反省ゲーム」 の闘い方 (その2)

2010-03-04 12:28:08 | お仕事のオキテ
「反省ゲーム」 で勝つためには、こちらが反省しているということを、
マスコミならびに一般視聴者に納得してもらわなければなりません。
こちらがどれだけ心底、反省しているかいないかはこの際問題ではありません。
相手から見て、こちらが反省しているように見えるか見えないか、
心から悔いているんだなと納得してもらえるかもらえないかが勝負です。
私がこれは Games of Perceptions であると主張し続けている所以です。

ぶっちゃけたことを言えば、本当にこのゲームに勝ちたいのなら、
プロを雇うのが一番です。
はっきり言って素人がこのゲームを闘い抜くのは至難の業です。
プロの助言をもらい、プロにセッティングしてもらって、
このゲームに臨むに越したことはありません。
いまどきの広告代理店などは、当日のシナリオを用意してくれるばかりでなく、
どんな服を着たらよいか、どんな言葉を選び、どんな表情をすればよいか、
お詫びのお辞儀は何秒くらいしていたらよいか、
いかなる質問にも感情的にならずに対応するにはどうしたらよいか、
等々を丁寧にレクチャーし予行演習までさせてくれ、
その上、記者会見場をどのように設定したら、
こちらが反省しているように見えるかまで計算して、段取りを整えてくれます。
(テレビカメラの位置を高くして会見者を見下ろすようなショットになると、
 反省しているように見えるが、逆にすると尊大に見えてしまう、など。)

みごとなプロの手並みを見せてくれたのが、ノリピーの謝罪会見でした。
一分の隙もなく完全なるプレゼンテーションが繰り広げられたと言っていいでしょう。
夫の職務質問の場から立ち去って、1週間も雲隠れしてしまうという、
ただひたすらマスコミを喜ばせるような、素人まるだしの逃走劇から一転、
タトゥーも隠し、衣裳から化粧まで完璧に整えられ、
薬物使用に関しても逃走劇に関しても心から反省している、
ということを一発でマスコミと世間に納得させてしまう会見でした。
たとえプロの仕事だとわかっていても、
いいんだよノリピー、きっとあいつが悪かったんだよね、
いつまでも応援してるから早く立ち直ってね、
と優しく声をかけてあげたくなってしまうプレゼンテーションだったと言えるでしょう。

いいプロを雇えばああいう窮地も乗り切ることができるわけですが、
プロを雇うとなるとそれなりの金額が必要になりますから、
私たちのような一般庶民がそのような恩恵にあずかれることはまずないでしょう。
とすると、見よう見まねで何とか自力でがんばってみるしかありません。
まずは、関係者全員で事前によく打合せをしておくことが必要です。
特に気をつけなければならないのは、
こちらが謝罪会見のつもりでセッティングしたわけでもないのに、
報道陣から問題点について突っ込まれてしまうという場合です。
繰り返しますがこれは Games of Perceptions なのですから、
こちらがどういうつもりで会見を設定したのかということは関係ありません。
なにか問題が発生していて、そこに会見の場が設けられれば、
彼らにとっては 「問題糾弾ゲーム」 のゲーム会場になるわけです。
最近では、「本日は○○に関する以外のご質問はご遠慮願います」 などと、
質問に制限を設けることがよくあるようですが、
そんなことお願いしてみたって時間のムダでしょう。
それで勘弁してもらえると思うなんて、このゲームのことも、
ゲーム相手のこともまったくわかっていないということをさらけ出しているだけです。
ですので、いつ実弾の撃ち合いになってもいいように、
準備を整えておく必要があります。

何よりもマズイのは実戦のその場で、打ち合せをしたり指示を出したりする行為です。
そのことは、船場吉兆やオリンピック選手の会見を見ていればわかるはずです。
それは、こちらの心の中の思いを声に出して言ってしまうのと同じくらい、
自滅的な行為です。
指示されないと何を言えばいいかわからないなんて、
心から反省していないということの証拠にほかならないからです。
技術的なことで言うならば、最近のマイクはむちゃくちゃ感度がいい、ということを、
肝に銘じておく必要があるでしょう。
どんなに小さな心のつぶやきも、声をひそめた指示のことばも、
すべてマイクに拾われてしまいます。
ですので、どうしても事前の十分な打ち合わせが必要になるのです。

事前打ち合わせでは、関係者全員で意思統一をはかっておかなくてはなりません。
そして、反省の意を示すことに決めたのであれば、
反省しているように見せるプレゼンテーションを完全に作り上げ、
徹頭徹尾、反省していることを演じ切らなくてはなりません。
「反省してまーす」 など言語道断です。
そんなこと言うくらいなら、これこれこういう理由で反省するつもりはありません、
とはっきり言明したほうがよっぽどよかったでしょう。
(いずれにせよ鎮静化は期待できませんが)
また、この期に及んで、(事実関係について) ウソをついたり、隠し事をするのは、
相手につけいる隙を与え、問題を長引かせるだけですので、やめましょう。
しかしこうやっていろいろ考えてみると、
やはり素人がプロ相手に闘いを挑むのはたいへんですね。
できることならこんなゲームに参加せずにすむものなら参加したくないですし、
万一参加する場合は私財をはたいてでもプロにお願いしたいものです。

トヨタはきっちりプロの指導を受けているようですね。
これまでのところよく闘っていると私は見ていますが、
日本のマスコミを相手にする場合と、アメリカで闘う場合とでは、
ちょっと勝手が違いますので、まだまだ予断を許さないところです。
引き続き健闘を期待したいと思います。


春の夕餉

2010-03-03 15:19:53 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
単身赴任の私には、東京にも別宅がありました。
この3年ほどは東京タワーの足下、増上寺を臨む東麻布のマンションに居を構えていました。
このたび、そこの借り主 (要するに私の妻ですが) の事情により、
引っ越すことになりました。
東麻布を離れるにあたって、2つ残念なことがあります。
ひとつは行きつけの飲み屋 Bar 510 とお別れしなければいけないことです。
もうひとつは、これも行きつけだったイタリアンレストラン Osteria Sughero とも、
お別れしなければいけないということです。
シェフの佐志原さんは一時期、テレビに出演して料理を作ったりしていましたし、
先日、「出没!アド街ック天国」 で東麻布が取り上げられたときも、
この店は取材されていました。
(ちなみに Bar 510 のほうは取材を申し込まれたけれどお断りしたそうです)
私たちは、そうやってテレビなどで取り上げられる以前から、
たまたまご近所に (徒歩1分) 美味しいイタリアンのお店を発見して、
それ以来ヘビーユーザーとして通いつめていたのですが、
引っ越してしまえばもうそういうわけにもいかなくなるでしょう。

というわけで、名残を惜しむようにスゲロでお食事をしてきました。
いつものようにまずはグラスでスプマンテを頂きつつ、
今日は何を食べようかじっくり作戦を立てます。
メニューには春らしい食材の名前がたくさん並んでいました。
文句なしに一発で決まるものもあれば、
あっちとこっち両方はムリだけどどっちにしようかと決断に悩んでしまうものもあります。
ああだこうだ議論したあげく下記のような構成にしてみました。

まずは、サヨリのマリネ・レモン風味です。
サヨリがプリプリです。
下に敷いてある葉っぱはチコリの一種だそうですが、
薄い黄色にピンクの斑点が春っぽさを醸し出しています。

次に、燻製サバとアスパラのオーブン焼きです。
鯖をシェフ自ら燻製にしたのだそうですが、
これは香りといい味といい絶品です。
アスパラガスも立派で、サバにかかっていたバルサミコ酢のソースを少しつけて食べると、
またゴージャスな感じになります。

そして、新物たけのこのロースト・アンチョビバターソース
春と言えばタケノコでしょう。
半分に切った切り口にアンチョビバターソースを塗って焼いてあります。
ソースのついていないところだけ食べて、タケノコ本来の味を楽しみ、
塗ってあるところを食べて、シェフの料理の腕を楽しみます。
タケノコはどこまで食べてよくて、どこからが皮なのかはっきりしないのですが、
アーティチョークのように口の中に入れてしゃぶりつつ、
食べられるギリギリの線を見極めていきました。
食べ終わったお皿の上はちょっと見苦しいことになっていますが、
タケノコを味わい尽くすためにはしかたないところです。

続いて、ハマグリと菜の花のスプマンテ蒸しです。
ひな祭りにハマグリは欠かせませんね。
スプマンテというのはスパークリングワインのイタリア語です。
日本料理屋なら酒蒸しにするところでしょうし、
それを洋風にして白ワインで蒸したりすることもありますが、
スプマンテ蒸しというのは初めてです。
スプマンテはほんの少量で、
そこにニンニクとハマグリから出た出汁で味がついていますから、
ものすごく濃厚なスープになっています。
当然それもスプーンで全部飲み干します。

そろそろ締めで、春野菜のオーブン焼きを選びました。
肉料理 (だったらホロホロ鳥とか) か魚料理 (だったら黒鯛だな) を
頼もうかどうしようか悩んだあげく、腹具合とも相談しつつ、
けっきょく最後は春野菜とパスタで攻めることにしようと決断しました。
野菜のオーブン焼きは毎回必ず頼むのですが、
今日はいつもと顔ぶれが変わっています。
写真では下のほうに隠れていてほとんど見えないのですが、シュガーキャベツ。
その名の通り、キャベツとは思えないほど甘みがあります。
右上の大きいのはモロッコいんげんだそうで、初めて食べました。
もちろん皮まで全部食べられます。
その上に乗っかっているのは沖縄産の島にんじん。
ゴボウみたいな見た目ですが、たしかににんじんです。
ヤングコーンとパプリカとほうれん草はこの季節に関係なくよく頂きますが、
パプリカの右下にちらっと見えているのは蕾菜だそうです。
初めて聞く名前です。
この時期に出回る山菜の一種なのでしょうか。
ほんのりとした苦みが春の味を感じさせました。

オマケの椎茸焼き
野菜を美味しい美味しいと言って食べていたら、
シェフが椎茸も焼いてあげましょうと言って出してくれました。
お父様がものすごく立派な椎茸を大量に持ってきてくれたのだそうです。
肉じゃないので肉汁ということばを使ってはいけないのでしょうが、
切り口から肉汁がしみ出してくる感じです。
ほんのわずかのオリーブオイルと塩だけで、素材の味をそのまま楽しみます。

自家製ソーセージのタリアテッレ・パプリカのクリームソース
自家製ソーセージをメインディッシュにするという手もあったのですが、
パスタも食べたかったので折衷案に落ち着きました。
タリアテッレというのはきしめんのような細長いパスタです。
フェットチーネとまったく見分けがつきませんが、
精確に言うと粉の配合とかが異なるのだそうです。
パプリカで作った黄色いソースが春らしさを演出してくれていました。

うーん、みごとな春の夕餉だっ。
こうやって書いていても、もう一度食べたくなってきます。
この店ではこういう幸せな時間を何度も過ごさせて頂きました。
スゲロとお別れするのは実に残念です。
でもまあたぶん、引っ越したあともはるばる通うことになるんだろうなあ。

初鳥取

2010-03-02 18:25:21 | 人間文化論
昨日は鳥取大学に視察に行ってきました。
鳥取は昔、島根に行く途中で通過したことはありましたが、
鳥取に上陸したのは初めてです。
鳥取大学は、福島大学よりも1年前に教育学部を改組して、
新しく 「地域学部」 を創設し、
教員免許の必修はやめて、開放制のもとで教員養成は続けながらも、
(教員免許を取りたい人は取れる)
教員以外の人材養成にも力を入れているという、
福島大学人間発達文化学類の先輩格にあたる大学です。
学部長、副学部長、副学長の先生方から、
いろいろとタメになる話をたくさん聞かせていただき、
はるばる鳥取まで来た甲斐がありました。

さて、残念ながら鳥取ではあまりゆっくりすることはできず、
鳥取砂丘を訪ねることもできなかったのですが、
ホントにざっくりと鳥取の町並みを拝見させていただきました。
鳥取駅自体はひじょうに古めかしい感じで、
エスパルやピボットを擁する福島駅ほど近代的な感じはしませんが、
駅前の町並みは、郡山と会津若松を混ぜ合わせたような感じで、
大丸やホテルニューオータニなどの大きくてきれいな建物もありつつ、
しかし駅前商店街は、昔ながらの小さなお店が軒を連ね、
閉店してしまっている店もさほど目立たず、
地方都市としてはがんばっているなあという感じです。

せっかく鳥取まで来たので、なにかお土産を買っていかなくてはなりません。
申しわけないことに、鳥取の名物が何なのか知らなかったのですが、
(福島の名物が何かご存じの方も少ないことでしょう)
とりあえず町の各所で 「ゲゲゲの鬼太郎」 が大きくフィーチャーされていました。
駅の中の一等地には 「鬼太郎商店」 が店を構えていました。
作者の水木しげるさんが鳥取の出身なのだそうです。
土産物として鬼太郎にちなんだグッズやお菓子などが、
このショップ以外でもたくさん売られていましたが、
さすがにそういうものを喜ぶ知り合いはいなさそうなので、
ざっと見ただけで素通りします。

砂丘にちなんで砂コーヒーや砂たまごも売られていました。
砂で焙煎すると美味しくなるという触れ込みですが、
たぶん私にもみんなにも味の違いはわかるまいと判断し、これも却下。
鬼太郎と砂丘以外には何が有名なんですかと聞いてみると、
梨と海産物が有名だそうです。
梨は秋に収穫したものをずっと寝かせておいて、
甘みがものすごく増したものを今売っているのです。
梨好きの私としてはぜひ買って帰りたいところですが、
1個1個がものすごく大きくて、4個パックでも相当な重量です。
これを福島まで持ち帰るのは並大抵の苦労ではありません。
そもそもお土産を探しているのであって、自分が食べる用ではないのだからと、
これも泣く泣く断念しました。
けっきょく海産物関係なのにとっても軽そうな、
エビせんべい・カニせんべい・イカせんべいの詰め合わせセットを買って帰ることにしました。

ところで、鳥取に来てものすごく驚いたことがひとつありました。
制服の女の子たちの中に、スカートの長い子がちらほらいるのです。
東京や福島のようにスカート丈をものすごく短くしている子はほとんど見当たらず、
普通そうな子でもヒザが隠れるくらいの長さにしていますし、
中には、私の高校時代の不良少女たちがやっていたくらいに、
本格的な長いスカートをはいている子もけっこういるのです。
ただし、そういう子たちも見たところいわゆる不良という感じではなさそうです。
私は勇気がないので、声をかけてインタビューしたり、
写メを撮らせてもらったりすることはできませんでしたが、
どうも鳥取では新しいウェーブが生まれつつあるようです。
これが今後、日本中の女子学生に伝播して若者の美意識を一新していくのか、
それとも鳥取ローカルの文化にとどまるのか、
慎重に見届けていきたいと思います。