おはようございます^^
昨日の続きです^^新選組の煙管(キセル)の話しでしでしたがその宿屋には去年に行きました。私の説明の不足…でもどこか最初の処に書いていたと思いますが、要は今年の5月5日(こどもの日)
に不用不急の外出を控えるように というお達しのド最中のことです。きっかけをどう紹介して良いのか分からず かと言っていきなりでは余計に分からないんじゃぁないかと心配をしつつ
…では ここに行ったいきさつを思い出しながら戦国の時代に いざ!誘(いざな)いましょうか^^この 信長公馬繋(つな)ぎの松 のあるS県は戦国時代に有力な戦国武将が目指した京に次ぐ
重要な国でありました。又私の生まれた故郷でもありますが、この不用不急のお達しが出ています関係で混乱を避けるため、場所は伏せておきたいのです。それでここを訪れようとしたのは そう…
十年くらい前でした…新聞に 信長が遠征時に途中休んで馬を繋いだ松が実は250年よりなくて…というような記事だったと思います。何のことかもう少し詳しく話しますと、時は戦国時代、尾張
の国に興った織田信長はその気鋭なる才能と新兵器の鉄砲を駆使してたちまち近隣諸国を併合してゆきました。信長の鋭さは自らの拠点を戦線の拡大に応じて移動させていったことでしょう。最初尾
張の中の弱小勢力だった信長の拠点は清州城でした。それからようようにして尾張の国を統一すると次の侵略目標を美濃の国に定めると拠点を清州より美濃の国に近い小牧に移します。数年後美濃の
国を獲ると岐阜に本拠を据えて今度の目標を近江や伊勢の国にします。そしてその先には幕府や朝廷のある京があります。信長は東方にある武田信玄や上杉謙信は非常に手強いことを知っていまし
た。それに比べて西の方は比較的脆弱な勢力しかいないのも幸いしました。
信長はその中で若くて闘争心溢れている北近江の浅井長政との戦いを避けて縁組を行い同盟関係を築くと南近江の六角氏を攻め 合わせて伊勢の名門北畠氏を壊滅させます。
日の出の勢いの織田信長が岐阜城から近江や伊勢への遠征の途中 休息を取るために用意された土地の郷士早見(現速水)氏の屋敷にそれは見事な黒松がありましてさすがの信長も これは見事
な松じゃぁと感心しながら 自らが乗っていた馬の手綱(たづな)をその松に結(ゆ)わいた との言い伝え(伝承)が残っています。 その松が長年の歳月を経て病に罹ったようで植木のお医者様
に診てもらって何とか治して貰いました。そのついでと言っては語弊がありますがこの老樹は一体どれくらいの年齢なのでしょうか?と要らぬお節介者が聞きました。さて…植木のお医者様が鑑定を
したのか 何処かの偉い先生が調査したのか聞き洩らしましたが、 ”この松はおよそ250年くらいの年輪を重ねているでしょう…といわれて250年といえば人間では絶対有り得ない
歳で 確かにこの松の樹幹の太さといい枝の広がりの具合などは堂々としていました。さすが250年や^^と感心をしたのでしょうけど、ちょっと思うと 信長が活躍をした戦国時代は西暦
1570年代で今から450年も前のこと…いえ、信長が見事な松じゃと感心をするくらいですから黒松は既に何十年かの年齢を過ぎた松だったとしますと、500年近くの年月が経っているので
しょうか。
いずれにしても 現代の鑑定した樹齢250年とは遥かかけ離れているようですね。私はその時の新聞の記事をどこか脳裡の片隅に残していたのでしょうか、このことを ふと思い出したのです^^
併しゴールデンウイークでありながら不用不急の外出は避けないといけません、ですが この五月の青空、爽やかな風、澄んだ空気…ちょっとくらいいいんじゃぁと我田汲水になってしまいますと
もう行きたくて行きたくて 居ても立っても居られないようになりました。昨日もお話をしましたが、現代のネットの優秀さは如何なものでしょうか。いくつかのキーワードを書いて検索をすると
忽(たちま)ちのうちにそのお屋敷の住所やいくつかの写真が出てきました。これを見て もう行かなかったらそれは ネットを愚弄しているようなもので、ここは有難くその住所を
ナビに入れまして ほら貝の合図で時の声を上げ 勇ましく皆のモノいざ出陣!えいえい お~!^^ <すみません、この続きは明日にします>