おはようございます^^
皆さんの中で 読捨新聞を購読されていらっしゃる方 ん‥読捨て ?違いますよ、読売新聞ですか^^
ハイ、ハイ そうです 読売新聞でした^^ 実は私は何を隠そうアンチ巨人、 なのに 読売新聞とはこれ如何(いか)に^^
そう聞かれても 世の中そう理屈通りにいかないようですね。私の友人に 大の巨人ファンがいて 購読しているのは産経新聞。
たまに出逢うと おい、巨人どうした、とからかいますが 彼も負けじと 輝(阪神の今年入った新人選手)は顔以外にもどこか悪いんか(佐藤輝さん失礼)
おいおい 顔意外とは随分やないか、私が抗議しますと、あいつはよく打つけど、どう見たって22歳には見えん、おっさん顔や。と、どこまでも口の悪いヤツですね。
ところで のっけから 読売新聞を出しましたが それには理由がありまして、昨日の朝、何気なく新聞を見ていましたら、内匠頭(たくみのかみ)の年賀状
という大きな見出しが目に止まりました。 これはいわゆるエッセーの記事でして歴史の先生がひと月に一回(違ってたらごめんなさい)コラムで載せていらっします
内匠頭 といえば 二日ほど前に『赤穂浪士の討ち入り』があったのでいろんなところで取り上げられていたばかりでした。
私も記事のネタに困ってしまうと、今日は何の日からめぼしいところを拾い上げていますが、この赤穂浪士の討ち入りは12月14日なのですが、この事件があった江戸時代は
暦が(今風ならカレンダー)旧暦でした。旧暦の基本は月の満ち欠けで日にちを表わしています。 今の新暦に移行したのが明治5年12月3日。この日を境に
翌日からいきなり明治6年1月1日としました。新暦は太陽の周回を基本にしていますが月の満ち欠けはどうも太陽ほど規則正しくないらしくて ひと月違う時があるかと思えばひと月半
もズレるのでした。新暦は四年に一度閏年(2月29日)を設けて それで誤差を調整していますよね。ところが旧暦は四年に一度ひと月くらいの修正があって11月の次に
閏(うるう)月があって一年が13か月になっていたそうです。
そんなに狂っていたのでは 話しにならん! という事で西洋カブレしていた明治の新政府はアジアで初めて新暦に移行したのでした。
‥横道に逸れてしまいました。
冒頭の 内匠頭とは 浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)のことで 彼が赤穂藩のお殿様、彼が江戸城の松の廊下で 吉良上野介に討ってかかったのが発端でした。
城中での刃傷沙汰(にんじょうさた‥刀を抜いたらアカンという法律)はご法度でしたので 即、浅野内匠頭は切腹、お家(赤穂藩)は断絶、お取り潰しになりました。
今 国会で誰か議員が他のベテラン議員に刀で切りつけたとしたら どうなるでしょうか? 国会内での刃傷沙汰は即 切腹‥そんな強烈な裁きはないでしょう。
それどころか弁護士を呼べ、だとか こんなところで刀を振り回すなんてどうかしてる、そゃ、一遍精神鑑定に回してみい、となったりして 結審するのに
何年も 下手したら十年も経つかも知れませんぜ^^
とまぁ又横道に逸れてしまいました。さて この浅野内匠頭(赤穂藩)は新家(分家)でして本家‥母屋は広島にありました。その本家の重役に宛てた年賀状が
最近見つかった という話しでした。
古文(原文)に興味がある方のために 抜粋をしました。
年始乃為嘉儀、家来方迄芳礼欣悦乃至候。為謝礼、如是候。恐々謹言
浅内匠頭
正月十五日 長矩 (花押)
山田蔵人殿
徳永次郎兵衛殿
山田五郎右衛門殿
御宿所
【注釈】として 浅内匠頭とは野が抜けたのではなくて浅野内匠頭のことで片名字といって苗字を省略することで当時の大名は少し威張りたい時こんな書き方をしました。
内容は年始に家来まで書状をくれてうれしい、その謝礼です。
そんな事が書いてあるんだ…意味を知ってから改めて見ると何となく判りませんか^^
この時代にはカタカナもあったはずですが 正式な文章には漢字だけで書くのだったのでしょうか。又、文法というか文章が漢文的ですよね^^
このような文面を見ると 日本語は中国語の方言の一種だ、と言った外人がいたのも頷けますよね。