すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

参加型ジャーナリズムと「衆愚」のあやうい関係

2005-09-25 21:05:07 | メディア論
 ちょっと前にブログ「~大ブロ式~」さんからご指名でトラバをもらってたんだけど、反応しそこねてた。で、2点に絞って反応してみる。1点は「参加型ジャーナリズム」なるものが、いわゆる衆愚に陥る可能性について。もう1点は民主主義と衆愚のあやうい関係についてだ。

 まず初めにお断りしておくが、私自身はことさら「ジャーナリズム」なる言葉を使う気はあんまりないし、それについてうんぬんするつもりもない。このエントリーはあくまで「~大ブロ式~」さんのトラバに対するリアクションだ。

 さて「~大ブロ式~」さんの『ソーシャルブックマークこそが(市民)参加型ジャーナリズムである論』を読むと、「~大ブロ式~」さんが考える発端になったのは、私が湯川さんの「参加型ジャーナリズム」にツッコミを入れたエントリーを読んだのがきっかけらしい。

 で、以下、2点だけ、みんなで考える材料を作るために、あえて問題提起をしておきたい。田原総一郎風にいえば、「あえて暴論を言います」ってやつだ(笑)。

【1】~大ブロ式~『(1)「ジャーナリズム」の定義』

 だがより本質的に考えるなら変わっているのはジャーナリズムの「定義」ではないのだとオレは思う。変わっているのは基準やそれを決める主体の方だ。

そして今言われているジャーナリズムの変化が本当に変革と呼べるような大きなものであるのなら、そこで変わろうとしているのはまさしく「主体」の方であると考えられる。

・「誰が」情報の格付け、優先順位を決めるのか

問題はここだ。

そしてここまで考えればライブドアの堀江社長の言った「価値判断はユーザーがすべきだ」というのは正しくジャーナリズムに対する革命的な言葉であった事が分かる。
 ほりえもんさんのこの言説に対しては、私は以前書いたエントリーですでにツッコミを入れてるので、そちらをご参考に。内容が重複するから、ここではカンタンにまとめておこう。

 まあそりゃユーザー自身が情報の優先順位を決める、って方法もアリだとは思うよ。だけどそうなると必然的に、私が上記のエントリーで書いたように最大公約数のネタが誌面にならぶことになる。でも私自身は「みんなが同じように興味のあるお題」ってあんまり読む気がしない。

「いま、韓流がホットですよぉ」とか、「モヒカン族と非モテが、いまやネット界じゃトレンドになってますよぉ」なんていわれても興味がわかないのだ。

 もうひとついえることは、テレビや雑誌はもう十分に、いかにもユーザー自身が「価値がある」と判断しそうなテーマで作られてる、ってことだ。つまりマスコミの商業主義である。

 ブロードバンド・コンテンツといえば、どこもかしこも韓流を大々的に取り上げるし、実際にそういう紙面構成・サイト構成をした媒体が売れる。2月になればそこらじゅうがバレンタイン・デー特集だらけだし、これから10月になったら温泉特集なわけよ。見ててみな、必ずそうなるから(笑)。

 で、こういう造りの媒体が現実に「売れる」というのは、すなわちユーザー自身が価値判断をしてそれを「買ってる」ってことなわけだ。

 つまり現状は、たまたま編集者やらライターやらがメディアの側にいてコンテンツを作ってるわけだけど、内容的にはもうゲップが出るほどユーザー自身の価値判断にもとづいて誌面が作られてる、ってことね。だって現にそれで「売れてる」んだから。

 ゆえに「価値判断はユーザーがすべきだ」というほりえもんさんの言葉って、別に革命的でもナンでもない。というよりむしろ彼の発言は、とにかく人気のあるテーマを扱って売れる部数をふやそう(商業主義)=すでにいまマスコミが採用している既定路線の拡大再生産にすぎない。

【中間まとめ】

 メディア側の最大の関心事は、売れるかどうか? である。彼らは売れるものを作るために、ユーザーに支持されそうなテーマ選び、切り口の設定をする。売れるとはすなわち、ユーザー自身の価値判断そのものにほかならない。

 政治家は有権者の「映し絵」である、って言葉がある。それはマスコミだって同じだ。メディア側があたかも、ユーザー自身の価値判断とは異なる何かを作っているかのように感じるのは、大いなる幻想である。

 次は第二のポイントだ。

【2】~大ブロ式~『(2)はてなブックマークは(市民)参加型ジャーナリズムである』

 ここで改めて一番最初の記事の湯川さんへの松岡さんの突っ込み「質を問うことと誰もが平等に参加できる事の矛盾」に答えたいです。要するに

誰もが参加できるジャーナリズムとはソーシャルブックマークの事である。そこでは基本的には誰もが平等に一票の影響力を持つ事ができる。だが「たくさんブックマークされる記事」やそれを書く人は極わずか。そこでは当然にして質が問われる。
という事。(まぁ質が高いから多くブクマされるわけではないのだけど)

これで何の矛盾もないと思うのだけどどうだろうか。
 はい、矛盾はないです。

 ただし私の個人的な意見を言えば、「誰もが参加できるジャー○○ズム(あえて伏字)」って、実はインターネットそのものなんだけどね。私の考えでは。

 それからおっしゃる通り、「はてブ」も「人気ブログ・ランキング」のたぐいと同じく、必ずしも質が高いものにたくさんの点数がついてるわけじゃない。この点にスポットを当て、最後にひとつだけ問題提起しておこう。

「~大ブロ式~」さんや湯川さんのマスコミ民主化理論を突き詰めていくと、必ず「衆愚なるものが抱える問題点」に行き着く、ってことだ。これって民主主義の永遠のテーマみたいなもんで、私の知る限りじゃカンタンな処方箋はない(あったらゴメン)。

「参加型ジャーナリズム」って要するに、大マスコミ(資本家)が独占しているジャーナリズムの世界に共産主義革命を起こし、ジャーナリズムを民衆(労働者階級)の手に取り戻そう、みたいな話でしょ? たとえていえば。つまりジャーナリズムの民主化みたいなことだよね。

 で、革命を起こしたあとに、人々はジャーナリズムを民主主義にのっとって運営しようとするわけだ。ところが民主主義による意思決定っていうのは、最終的には多数決になる。もちろんその前提として、いろんな意見をもつ人々があれこれ議論したあとで決を採るわけだけど。

 さてここで民主主義と衆愚のあやうい関係が浮上する。これは民主主義につきまとうパラドックスみたいなものだ。

 たとえば100人中、99人の人が「韓流はおもしろい」ってことになれば、誌面は民主的に韓流一色になる。99人が「10月だから温泉に行きたい」と考えれば、誌面は同じく民主的に「温泉特集一色」になる。

 そういう画一的な世界って、おもしろいの? てな話である。

 で、そんな状況を打ち破るのがインターネットなわけだが、この話を続けると以前書いたことの繰り返しになるのでここではふれない。興味がある人は以下のエントリーをお読みいただきたい。

『偏った視点でブログを目利きする「必殺選び人」待望論』

「主義」と名のつくものに、完全無欠なものなんてない。民主主義って絶対的な真理だと思ってる人も多いだろうけど、民主主義にも必ず弱点はある。それが衆愚に陥る可能性だ。

 チャーチルいわく、「民主主義は最悪のシステムだ。しかし、それ以外のどのシステムよりもましだ」。要はそういうことなのである(どういうことだ?)。

 話をわかりやすくするために、極端な例をあげよう。仮に100人中、99人がこう考えたとする。

「オレらの国は、いま経済が傾いてるよなあ。こりゃもう戦争をして植民地を作るしかテがないわ」

 これで民主的に、戦争が始まる

【本日の結論】

 世の中には、絶対的な真理なんてない。だからつねに疑う心をもて。目の前で繰り広げられてる言説は、はたして「正しい」のか? 自分の頭を使って、客観的に考えろ。

 それこそが、ジャーナリスティックな生き方である。
コメント (13)
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