私は以前のエントリーで、「世の中に存在するほとんどの商業雑誌は、広告がなければ経営的に成り立たない」と書いた。それを象徴するかのようなイベントが9月27日にある。山岡俊介氏のブログ「ストレイ・ドッグ」によれば、大学教授と弁護士が外国特派員協会で、「セブン-イレブンは税法・商法違反だ」などとする記者会見を開くという。巨大な広告主であるコンビニをタブー視する日本のマスコミ相手じゃ話にならん、というわけだ。
山岡氏によれば、会見を開くのは北野弘久・日本大学法学部名誉教授と中村昌典弁護士の2人。くわしくは山岡氏のブログをお読みいただきたいが、要点はこうだ。
1 「セブン-イレブン・ジャパン」のフランチャイズ契約には問題がある。
2 加盟店を騙し、利益を吸い上げるシステムだ(不当利得=ピンハネ、商法違反等の疑い)。
3 ところが同社は日本のマスコミにとって巨大な広告主である。
4 またコンビニの店頭で売れる出版物の数も膨大だ。
5 ゆえに日本のマスコミは、コンビニの問題点を報道しない。
6 日本のマスコミじゃお話にならないから、外国特派員協会で記者会見しよう。
コンビニのフランチャイズ・システムは、あちこちで問題点がささやかれていた。要は本部側だけが儲かり、フランチャイジー(加盟店)はやせ細る構造になっている、ってお話だ。
しかしまあ、「日本のマスコミはアテにならないから、外国特派員協会で記者会見を開く」とは、またずいぶん日本のマスコミも恥をかかされたものである。
大昔の瓦版屋みたいな時代とちがい、現代のマスコミが広告依存体質なのは周知の事実だ。たとえば雑誌に限っても、純粋に購読料だけで食えてる媒体なんて探すほうがむずかしいだろう。
すると当然、広告のクライアントを慮った自主規制が行われる。あるいはクライアントから実際に圧力がかかれば、媒体の発売前に記事の内容を変える。もちろんすべての媒体がそうだってわけじゃないが、こういう構造が常態化してるのは事実である。
ただし私の個人的な意見をいえば、杓子定規に広告そのものを否定する気はまったくない。広告と編集のバランスをいかに取るか? がメディア経営のキモだと考えている。
私は20年ほどフリーランスで駄文を書き散らしているが、いままでクライアントがらみで記事を書き直したことが2回ある。1回は編集長自身の判断による自主規制だ。「お上からお達しが下った」わけである。
一方、残る1回は、書かれた側が掲載媒体のクライアントを通して圧力をかけてくる、てなよくあるパターンだった。
後者のケースでは、担当編集者のAさんがその場で突っぱねた。その上で私に対し、「松岡さんはどうしたいですか? (筆者である)松岡さんがしたいようにします」という。ちなみにAさんはこの件に限らず、私が20年間で組んだ膨大な数の編集者のうちベストテンに入る優秀な人物である。
Aさんはだれに相談することもなく、自分の責任において先方の要求を拒否した。で、いま、「松岡はどうしたいのか?」と問いかけている。報道言論の自由だの検閲がうんぬんという大層な問題以前に、Aさんのこの言葉からは、筆者である私に対する配慮を強く感じた。
「あなたに書き直すつもりがないのなら、私はあなたといっしょに戦いますよ」というメッセージなのだ。
もちろん本音をいえば、私は記事を書き直したいわけがない。だけどもし自分の意思を通せばどうなるか? Aさんは社内的にのっぴきならない立場に追い込まれるのはあきらかだった。で、私は自分の意思を飲み込んでこういった。
「私は特にこだわりはないですよ。Aさんはどう考えていますか? Aさんの判断におまかせしますよ」
Aさんにボールを投げたのだ。
そもそも私がそのとき書いた内容は、別に社会悪を追求するものでもなければ、世の中に重要な問題提起をするテーマでもない。たいした話じゃないのである。単に「書かれた側にとって都合が悪い」ってだけなのだ。
私はそんなことよりも、Aさんの身を案じた。「筆者である松岡さんがしたいようにします」というAさんの言葉だけで、私にはもう十分だった。
ひょっとしたら「ジャーナリスト」としての私は、あのとき死んだのかもしれない。だけど私はそんなちっぽけなことよりも、Aさんに生き残ってほしかったのだ。
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山岡氏によれば、会見を開くのは北野弘久・日本大学法学部名誉教授と中村昌典弁護士の2人。くわしくは山岡氏のブログをお読みいただきたいが、要点はこうだ。
1 「セブン-イレブン・ジャパン」のフランチャイズ契約には問題がある。
2 加盟店を騙し、利益を吸い上げるシステムだ(不当利得=ピンハネ、商法違反等の疑い)。
3 ところが同社は日本のマスコミにとって巨大な広告主である。
4 またコンビニの店頭で売れる出版物の数も膨大だ。
5 ゆえに日本のマスコミは、コンビニの問題点を報道しない。
6 日本のマスコミじゃお話にならないから、外国特派員協会で記者会見しよう。
コンビニのフランチャイズ・システムは、あちこちで問題点がささやかれていた。要は本部側だけが儲かり、フランチャイジー(加盟店)はやせ細る構造になっている、ってお話だ。
しかしまあ、「日本のマスコミはアテにならないから、外国特派員協会で記者会見を開く」とは、またずいぶん日本のマスコミも恥をかかされたものである。
大昔の瓦版屋みたいな時代とちがい、現代のマスコミが広告依存体質なのは周知の事実だ。たとえば雑誌に限っても、純粋に購読料だけで食えてる媒体なんて探すほうがむずかしいだろう。
すると当然、広告のクライアントを慮った自主規制が行われる。あるいはクライアントから実際に圧力がかかれば、媒体の発売前に記事の内容を変える。もちろんすべての媒体がそうだってわけじゃないが、こういう構造が常態化してるのは事実である。
ただし私の個人的な意見をいえば、杓子定規に広告そのものを否定する気はまったくない。広告と編集のバランスをいかに取るか? がメディア経営のキモだと考えている。
私は20年ほどフリーランスで駄文を書き散らしているが、いままでクライアントがらみで記事を書き直したことが2回ある。1回は編集長自身の判断による自主規制だ。「お上からお達しが下った」わけである。
一方、残る1回は、書かれた側が掲載媒体のクライアントを通して圧力をかけてくる、てなよくあるパターンだった。
後者のケースでは、担当編集者のAさんがその場で突っぱねた。その上で私に対し、「松岡さんはどうしたいですか? (筆者である)松岡さんがしたいようにします」という。ちなみにAさんはこの件に限らず、私が20年間で組んだ膨大な数の編集者のうちベストテンに入る優秀な人物である。
Aさんはだれに相談することもなく、自分の責任において先方の要求を拒否した。で、いま、「松岡はどうしたいのか?」と問いかけている。報道言論の自由だの検閲がうんぬんという大層な問題以前に、Aさんのこの言葉からは、筆者である私に対する配慮を強く感じた。
「あなたに書き直すつもりがないのなら、私はあなたといっしょに戦いますよ」というメッセージなのだ。
もちろん本音をいえば、私は記事を書き直したいわけがない。だけどもし自分の意思を通せばどうなるか? Aさんは社内的にのっぴきならない立場に追い込まれるのはあきらかだった。で、私は自分の意思を飲み込んでこういった。
「私は特にこだわりはないですよ。Aさんはどう考えていますか? Aさんの判断におまかせしますよ」
Aさんにボールを投げたのだ。
そもそも私がそのとき書いた内容は、別に社会悪を追求するものでもなければ、世の中に重要な問題提起をするテーマでもない。たいした話じゃないのである。単に「書かれた側にとって都合が悪い」ってだけなのだ。
私はそんなことよりも、Aさんの身を案じた。「筆者である松岡さんがしたいようにします」というAさんの言葉だけで、私にはもう十分だった。
ひょっとしたら「ジャーナリスト」としての私は、あのとき死んだのかもしれない。だけど私はそんなちっぽけなことよりも、Aさんに生き残ってほしかったのだ。
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