■パブリックな精神は自律的に生まれる
ITジャーナリストの佐々木俊尚さんは著書「フラット革命」の中で、『「公共性の見えない世界へ』という節を立て(P209)、「フラットな社会の中で、公共性は保証されるのか? インターネットは公共性を保証できるのか?」と問題提起している。
私は「公共性がそこにある状態」って別に誰かが与えてくれたり、システムが保証してくれるものじゃなく、「自分で勝ち取るもの」だと考えている。もっといえば、ネット上でそれは自律的に形成されて行くというのが私の結論だ。
■公共性って「アーキテクチャー」が作るのか?
佐々木さんは同じ節の中で、2006年12月に筑波大学で開かれたパネルディスカッションの1シーンを紹介している。会場で質疑の際、ある大学院生がこう質問した。以下、同書から引用する。
そしてパネリストの1人だった佐々木さんは、この質問に答えている。佐々木さんの結論は私の考えに近いんだけれど、ちょっと気になるのは回答の途中に出てくる以下の佐々木さんの表現だ。
ここでいう「アーキテクチャー」とは計算して作った仕組みのことではなく、「自然にそうなる社会構造のありよう」のことを指しているのだろうか?
もしそうなら私の考えに近い。ただ新聞出身のジャーナリストらしいなあと思うのは、「自律」が本質である集合知を語っていながら、何ものか他者が人々を導き、よき方向へと「向かわせる」かのようなニュアンスを感じさせる点だ。
別に佐々木さんを批判するつもりはないが、この発想って<たとえ人々の関心がなくても新聞が「それ」を報道し、人々を啓蒙し、教え導くんだ>というのとルーツが同じであるような気がする。
それを作るのはシステムや技術、アーチテクチャーじゃなく、自律的な「人間」そのものだと私は考えるのだが。
■インタラクティブなコミュニケーションが証明したネット上の公共性
それならインターネット上で、公共性はどこでどんなふうに発生し、形成されているのだろうか? 具体論に移ろう。
文章をアウトプットした時点で「自分のものじゃなくなる」と自覚することは、すなわち公共性を意識するということである。いや正確には、たとえ意識してなくても結果的にそうなる(後述)って話だ。
で、自分が書いた文章やコメントが他人と共有され、自分だけの所有物じゃなくなる事実を考えることから、だんだんこんな意識が生まれてくる。
「いま自分が書いてることは、みんなの利益にかなうか?」
「他人が読みやすい書き方(=公益)を心がけよう」
「ウケる(=人の役に立つ)情報を発信しよう」
こういう感覚は、ネット上に広がるバーチャルな「公」を意識すると自然に出てくる。もちろん公を意識しながらあえて私的なことを書く人、ケースもあるし、また繰り返しになるが、意識はしてないけど結果的にそうなる場合も多い。
■「自分のため」が「他人のため」になる
こうした感性は別に「Web 2.0だから」とか、いまあらためて新しくできたわけじゃない。昔からあったものだ。
ブログやSNSなどのコミュニケーションは、相互に意思や情報をやり取りするインタラクティブな要素が強い。だから他者との接点がふえ、そのことがネット上に存在する公共性をひときわ目立たせているだけだ。
たとえば掲示板文化が華やかりし頃、板に集う人にはパブリックを意識する感覚があった。(これはいまのQ&A掲示板にも引き継がれている)
「ADSLが開通したけど速度が出ません」
そんな質問があると「あなたのRWINはどうなっていますか?」とか、「もし接続が切れるなら、家の保安器が6PTの初期型じゃないですか?」てな感じで、自分のトクになるわけじゃないのにみんなが手間をかけてレスをする。
他人のことを考え、他人のためにと手間を惜しまず回答するわけだ。
もちろん自分の知的探求のためとか、「オレにはこんなに知識があるんだぞ」と自己顕示欲を満足させるために回答する人もいるだろう。だけどインターネット上では、そんな自分のためにした情報発信が他人のためになることって多い。
■公共性はインターネットの属性だ
またパブリックを意識すれば、「他人のために回答する」というだけじゃなく、掲示板を使う場合のあらゆる立ち居振る舞いについて公共性を考えるようになる。
たとえば「適当なところで改行したほうが閲覧者は疲れない」(これも公益だ)てな書き方の問題から始まって、「質問する前にはまず過去ログを読む」(リソースの節約と他の閲覧者に対する配慮=公益)とか。
あるいは「この論点はここの掲示板ではまだ出てないから、一度書いておけば閲覧者全体の利益になりそうだ」などなど。そこに集う人々が能動的に、そのコミュニティにおける公共性の維持・確保と公益を考えるようになる。
今回はたまたま掲示板文化の例をあげたが、過去を振り返ればメーリングリスト文化にしろオープンソース文化にしろ、パソコン通信文化にしろ、こうした公的な感覚や概念はネット上では継続してあり続けた。
冒頭の話にもどると、「発信した文章は自分だけのものじゃなくなる」(=公共性を帯びる)というテーゼはWeb 2.0特有のものじゃなく、インターネットの属性だって話である。
それは別にアーキテクチャーやシステム、技術がそうさせてるんじゃない。そこに集う人間自身が、自律的に生み出しているのである。
ITジャーナリストの佐々木俊尚さんは著書「フラット革命」の中で、『「公共性の見えない世界へ』という節を立て(P209)、「フラットな社会の中で、公共性は保証されるのか? インターネットは公共性を保証できるのか?」と問題提起している。
私は「公共性がそこにある状態」って別に誰かが与えてくれたり、システムが保証してくれるものじゃなく、「自分で勝ち取るもの」だと考えている。もっといえば、ネット上でそれは自律的に形成されて行くというのが私の結論だ。
■公共性って「アーキテクチャー」が作るのか?
佐々木さんは同じ節の中で、2006年12月に筑波大学で開かれたパネルディスカッションの1シーンを紹介している。会場で質疑の際、ある大学院生がこう質問した。以下、同書から引用する。
たとえばアフリカの飢饉や内戦といった情報や理論を伝える媒体は、これまではマスメディアが担っていたんですよね。それがインターネットのような媒体が拡大していき、逆に旧来のマスメディアが市場を占める割合が少なくなってしまうと、社会貢献が困難になってくると思います。そういう場合、公共性はだれが担っていけるんでしょうか?
●佐々木俊尚・著「フラット革命」(P211)
そしてパネリストの1人だった佐々木さんは、この質問に答えている。佐々木さんの結論は私の考えに近いんだけれど、ちょっと気になるのは回答の途中に出てくる以下の佐々木さんの表現だ。
だから集合知が実現すれば、アフリカに行く人も出てくるでしょうし、それまで興味を持っていなかった人がアフリカのことを知ることも可能になる。
だから問題は、そうした仕組み--人々が関心のない問題に対してもきちんと接することができて、それに対して何らかの知見を得られるようにできるようなアーキテクチャーを、インターネット上でどれだけ実現できるかにかかっているんです。
●同書・P212より引用(強調表現は松岡による)
ここでいう「アーキテクチャー」とは計算して作った仕組みのことではなく、「自然にそうなる社会構造のありよう」のことを指しているのだろうか?
もしそうなら私の考えに近い。ただ新聞出身のジャーナリストらしいなあと思うのは、「自律」が本質である集合知を語っていながら、何ものか他者が人々を導き、よき方向へと「向かわせる」かのようなニュアンスを感じさせる点だ。
別に佐々木さんを批判するつもりはないが、この発想って<たとえ人々の関心がなくても新聞が「それ」を報道し、人々を啓蒙し、教え導くんだ>というのとルーツが同じであるような気がする。
それを作るのはシステムや技術、アーチテクチャーじゃなく、自律的な「人間」そのものだと私は考えるのだが。
■インタラクティブなコミュニケーションが証明したネット上の公共性
それならインターネット上で、公共性はどこでどんなふうに発生し、形成されているのだろうか? 具体論に移ろう。
自分のエントリーは、たぶん、アウトプットした時点で自分のモノじゃないんだと思ってます。
そこにコメントがついたりして、いろんな人の手垢がついて。
そしてしばらくたって、それを(検索してきた人とかが)見たときに、
「ああー、こりゃ集合知だわ」っていう1つの話題ができあがってるんじゃないかなと。
●Attribute=51『Web 2.0での上手な発信方法』(行間を詰めた)
文章をアウトプットした時点で「自分のものじゃなくなる」と自覚することは、すなわち公共性を意識するということである。いや正確には、たとえ意識してなくても結果的にそうなる(後述)って話だ。
で、自分が書いた文章やコメントが他人と共有され、自分だけの所有物じゃなくなる事実を考えることから、だんだんこんな意識が生まれてくる。
「いま自分が書いてることは、みんなの利益にかなうか?」
「他人が読みやすい書き方(=公益)を心がけよう」
「ウケる(=人の役に立つ)情報を発信しよう」
こういう感覚は、ネット上に広がるバーチャルな「公」を意識すると自然に出てくる。もちろん公を意識しながらあえて私的なことを書く人、ケースもあるし、また繰り返しになるが、意識はしてないけど結果的にそうなる場合も多い。
■「自分のため」が「他人のため」になる
こうした感性は別に「Web 2.0だから」とか、いまあらためて新しくできたわけじゃない。昔からあったものだ。
ブログやSNSなどのコミュニケーションは、相互に意思や情報をやり取りするインタラクティブな要素が強い。だから他者との接点がふえ、そのことがネット上に存在する公共性をひときわ目立たせているだけだ。
たとえば掲示板文化が華やかりし頃、板に集う人にはパブリックを意識する感覚があった。(これはいまのQ&A掲示板にも引き継がれている)
「ADSLが開通したけど速度が出ません」
そんな質問があると「あなたのRWINはどうなっていますか?」とか、「もし接続が切れるなら、家の保安器が6PTの初期型じゃないですか?」てな感じで、自分のトクになるわけじゃないのにみんなが手間をかけてレスをする。
他人のことを考え、他人のためにと手間を惜しまず回答するわけだ。
もちろん自分の知的探求のためとか、「オレにはこんなに知識があるんだぞ」と自己顕示欲を満足させるために回答する人もいるだろう。だけどインターネット上では、そんな自分のためにした情報発信が他人のためになることって多い。
■公共性はインターネットの属性だ
またパブリックを意識すれば、「他人のために回答する」というだけじゃなく、掲示板を使う場合のあらゆる立ち居振る舞いについて公共性を考えるようになる。
たとえば「適当なところで改行したほうが閲覧者は疲れない」(これも公益だ)てな書き方の問題から始まって、「質問する前にはまず過去ログを読む」(リソースの節約と他の閲覧者に対する配慮=公益)とか。
あるいは「この論点はここの掲示板ではまだ出てないから、一度書いておけば閲覧者全体の利益になりそうだ」などなど。そこに集う人々が能動的に、そのコミュニティにおける公共性の維持・確保と公益を考えるようになる。
今回はたまたま掲示板文化の例をあげたが、過去を振り返ればメーリングリスト文化にしろオープンソース文化にしろ、パソコン通信文化にしろ、こうした公的な感覚や概念はネット上では継続してあり続けた。
冒頭の話にもどると、「発信した文章は自分だけのものじゃなくなる」(=公共性を帯びる)というテーゼはWeb 2.0特有のものじゃなく、インターネットの属性だって話である。
それは別にアーキテクチャーやシステム、技術がそうさせてるんじゃない。そこに集う人間自身が、自律的に生み出しているのである。