サッカーには相手がいる
前に何度か書いたことがあるが、日本のサッカー界はとかく単純な二元論でモノを考えようとする傾向がある。トルシエのときの「個か? 組織か?」論争もそうだし、ザックのときの「アクション・サッカーか? リアクション・サッカーか?」もそうだ。常に極端な二択でものごとを考えようとする。
サッカーには「相手がいる」ことを忘れているのだ。
例えばボールをキープしてポッゼッション率を高め、主導権を握って能動的に仕掛けるポッゼッション・サッカーを目指すのか? それとも相手にあえてボールを持たせ、まず攻めさせて自陣のバランスを崩させ、そこを突いて仕留めるカウンター・サッカーを目指すのか?
こう考えると、またもや二元論になる。
だがここに、(1)相手との力関係はどうか? (2)相手はどんなやり方をしてくるのか? という2つの要素を加味すればどうなるか?
すなわち自分たちより強い相手がポゼッションでくればカウンターを狙い、逆に相手がカウンター・サッカーならばじっくりポゼッションし、相手のほころびを見つけて仕掛けるサッカーをするーー。
こんな考え方もできる。
つまり相手の出方によるのだ。
「オレたちはどんなサッカーをするのか?」でなく、シチュエーションに応じてやり方を変えられる試合巧者なサッカーを目指す。
日本がひと皮むけるには、そんな発想が必要だろう。
前に何度か書いたことがあるが、日本のサッカー界はとかく単純な二元論でモノを考えようとする傾向がある。トルシエのときの「個か? 組織か?」論争もそうだし、ザックのときの「アクション・サッカーか? リアクション・サッカーか?」もそうだ。常に極端な二択でものごとを考えようとする。
サッカーには「相手がいる」ことを忘れているのだ。
例えばボールをキープしてポッゼッション率を高め、主導権を握って能動的に仕掛けるポッゼッション・サッカーを目指すのか? それとも相手にあえてボールを持たせ、まず攻めさせて自陣のバランスを崩させ、そこを突いて仕留めるカウンター・サッカーを目指すのか?
こう考えると、またもや二元論になる。
だがここに、(1)相手との力関係はどうか? (2)相手はどんなやり方をしてくるのか? という2つの要素を加味すればどうなるか?
すなわち自分たちより強い相手がポゼッションでくればカウンターを狙い、逆に相手がカウンター・サッカーならばじっくりポゼッションし、相手のほころびを見つけて仕掛けるサッカーをするーー。
こんな考え方もできる。
つまり相手の出方によるのだ。
「オレたちはどんなサッカーをするのか?」でなく、シチュエーションに応じてやり方を変えられる試合巧者なサッカーを目指す。
日本がひと皮むけるには、そんな発想が必要だろう。