読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

【たまには名著を】歳を重ねることでさらに味わえる、社会と人間の虚飾を剥ぐことばの数々『ラ・ロシュフコー箴言集』

2021-04-11 18:45:00 | 本のお噂


『ラ・ロシュフコー箴言集』
ラ・ロシュフコー著、二宮フサ訳、岩波書店(岩波文庫)、1989年


17世紀フランスの名門貴族のひとりであったラ・ロシュフコーが書き綴った、人間と社会の本性を鋭く突いたアフォリズムを集めた箴言集です。
「フランスのモラリスト文学の最高傑作」と称えられる一方で、「後世の多くの高名な読者に反発、怒り、苛立ちを感じさせ、槍玉にあげられる光栄に浴してきた、あくの強い刺戟的な古典」(いずれも巻末の解説より)でもある本書。20代のはじめに読んで以来、かなり久しぶりにじっくりと再読してみたのですが、あらためてその鋭いことばの矢に射抜かれ、うーむと唸らされたのであります。

再読してあらためて唸らされ、かつ頷かされたのは、きれいごとに満ちている人間と社会の虚飾を、容赦なく剥ぎとっていく箴言の数々です。

「あらゆる立場でどの人も、みんなにこう思われたいと思う通りに自分を見せようとして、顔や外見を粧っている。だから社会は見かけだけでしか成り立っていない、と言える」
「われわれはあまりにも他人の目に自分を偽装することに慣れきって、ついには自分自身にも自分を偽装するに至るのである」

他人に向かって「こう思われたい」という自分をアピールするあまり、自分の本当の姿を見失ってしまう・・・。そんな人間の振る舞いは、現代のSNSでもお馴染みの光景でありましょう。
そのSNSにおいて、正義感ぶって他者を非難したり、自分が他者よりも優れているかのようにアピールする、いわゆる「マウントをとる」ような人物への皮肉をこめた箴言も見受けられます。これにもまた、苦笑いとともに「あるある」と頷くばかりであります。

「人が不正を非難するのは、不正を憎むからではなく、そのために自分が不利益を被るからである」
「われわれは、自分と同じ意見の人以外は、ほとんど誰のことも良識のある人だとは思わない」
「人は他人の欠点をすぐ非難するが、それを見て自分の欠点を直すことはめったにない」

ラ・ロシュフコーは、自分は他者よりも優れているかのように思い、傲慢にも他者を非難したがるような精神構造に、痛烈な矢を放ちます。そしてその矢に、わたし自身も射抜かれるような思いがいたしました。

「傲慢はすべての人間の心の中では一様なのであって、ただそれを外に表す手段と趣に相違があるに過ぎない」
「精神の狭小は頑迷をもたらす。そしてわれわれは自分の理解を超えることを容易に信じない」
「他人に対して賢明であることは、自分自身に対して賢明であるよりもたやすい」

いくら他者に向かって自分を偽装し、他者より優れているように思いこんだところで、しょせんは自らの欠点から逃れられないわたしたち。ラ・ロシュフコーは、そんなわれわれに痛烈な矢を放つ一方で、ある意味で勇気づけられるようなことも言ってくれています。

「欠点の中には、上手に活かせば美徳そのものよりもっと光るものがある」

そして、すでに人生後半戦に突入しているわたしが勇気づけられたのは、以下のことば。

「われわれは生涯のさまざまな年齢にまったくの新参者としてたどり着く。だから、多くの場合、いくら年をとっていても、その年齢においては経験不足なのである」

歳を重ねるとついつい、自分はもう衰えていくだけでたいしたこともできないだろうと、自分の可能性にフタをしてしまいがちになります。ですが、いくら歳をとってもその年齢においては経験不足ということであれば、その年齢に応じた経験を積み重ねていくことで、充実した人生を送ることができるのではないか・・・。上に挙げたことばは、そんな希望を与えてくれるように思えました。
とはいえ、くれぐれもいい気にならないよう、ゆめゆめ気をつけなければなりませぬ。本書には、こんな箴言もあるのですから。

「年寄りは、悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる」


本書後半の「考察」は、人間と人生の諸相について論じた、少し長めの文章が収められています。ここでは、「交際について」と「会話について」の2篇が、とりわけ印象に残りました。
「交際について」では、交際の楽しさのためには「少なくとも利害が相反しないことが必要」とした上で、「物を見るためには距離を置かねばならないのと同じに、交際においても距離を保つ必要がある」と説きます。また「会話について」では、「自分が傾聴して欲しかったら人の話に耳を傾けるべきである」と述べた上で、どうでもよいことに異議を唱えたり、権威ありげに喋ったりすることなどを戒めています。いずれの文章も、現代のわれわれにとっても有益であるように思いました。

資生堂の名誉会長であり、財界人きっての読書家・教養人でもある福原義春さんは、堀田善衛『ラ・ロシュフーコー公爵傳説』や、『箴言集』の別訳である『箴言と考察』の冒頭に収められた田辺貞之助の文章を引きながら、『箴言集』のバックとなっているラ・ロシュフコーの人物像について述べておられます(『本よむ幸せ』求龍堂刊より。実は本書を再読しようと思ったのも、この本にある『箴言集』の紹介文を読んだのがきっかけでした)。それによれば、ラ・ロシュフコーは陰謀によって戦いの渦中に巻き込まれ、銃で両眼を撃たれて40歳にして失明の淵をさまよったといいます。また、陰謀を牛耳った女たちにあざむかれ、何度か煮湯を飲まされる経験もしていたとか。
20代のはじめに読んだときには、ただただその辛辣な語り口に痛快さを覚えていたのですが、ラ・ロシュフコー自身が歩んだ波乱に富む人生を知った上で本書を読むと、辛辣さの裏に隠された苦さが、じんわりと感じられてまいりました。加えて、わたし自身が年齢を重ねたことで、おのずと本書の読み味も変わってきたのではないかと感じるのです。

昔も今も変わることのない、人間の本質を突いた洞察に満ち、その時々の年齢で違った読み味を感じることのできる本書は、まさしく今に生きる古典としての価値を保ち続けている一冊であると思います。

〝怠け者〟だからこその鋭い洞察と、飄々としたユーモアに魅了された、梅崎春生の『怠惰の美徳』

2021-04-11 11:08:00 | 本のお噂


『怠惰の美徳』
梅崎春生著、荻原魚雷編、中央公論新社(中公文庫)、2018年


一読するとたちまち、心を鷲掴みにされてしまいました。自らの戦争体験をもとにした、シリアスな純文学の書き手、という印象の強かった梅崎春生が、こんなにユーモアに満ちた愉快な随筆や短篇小説を書いていたとは!

本書『怠惰の美徳』は、梅崎自身の「怠け者」としての生き方から生み出された随筆26篇と短篇小説7篇、そして2篇の詩を文筆家の荻原魚雷さんが選び、一冊にまとめた文庫オリジナルの作品集です。
作家になる前の小役人生活を回想した表題作「怠惰の美徳」。ここで梅崎は、「仕事がさし迫ってくると怠け出す」自らの傾向について触れ、

「仕事があればこそ怠けるということが成立するのであって、仕事がないのに怠けるということなんかあり得ない。すなわち仕事が私を怠けさせるのだ」

などと語るのです。なんという堂々たる屁理屈(笑)と思いつつも、実は似たような傾向があるわたしとしては、なんだか妙に頷けるところがございました。
食後に横になることを禁じられた幼少時のきびしい家庭教育や、満足に横になって寝ることすらできなかった軍隊生活の反動から、だらしなく横になって寝るのが好きになったと語る「只今横臥中」。ここでは一日十時間、これに夏のあいだの昼寝の時間が加わると年間平均は十時間を上回る、という自らの横臥好きを告白し、「そんなに眠っては、起きている時間がすくないから、一生を短く生きることではないか」という問いに対しては、

「起きてぼんやりしているよりも、眠って多彩で豊饒な夢を見ている方が、はるかに有意義である。はるかに人生を愉しく生きていくことになると、私は思っている。それに十時間も眠れば、休養が充分にとれて、長生きができようというものである」

と、これまた胸を張って(?)主張するのです。これはこれで、妙な説得力のようなものがあるかもなあ、と思ったのでありました。

たっぷりと横になる中で、頭に浮かんできた妄想を綴った随筆にもまた、面白い味があります。
ズバリ「閑人妄想」と題された随筆では、狭い国土に一億人もの人間がひしめき、仕事はおろか釣りや登山といった遊びをするのにも忙しい思いをしなければならない日本の状況を嘆きます。その上で、思い切って体質改善(?)して背丈を1メートルぐらいにすれば、電車も混まないし、ゴルフ場も三分の一に縮小でき、建物も五階建てが十階分に使えるのでは・・・と、過密する人口問題への珍妙な〝解決策〟を妄想するのです。
「チョウチンアンコウについて」も、短いながら愉快な一篇です。体の大きさがメスの十分の一しかないチョウチンアンコウのオスは、メスの体に唇で吸いついたあとはメスの体の一部と化し、不要となった消化器官や眼、脳などが退化して「いぼ」のような形に成り下がってしまうが、精巣だけは残っていて、メスの産卵に合わせて精子を放出すると、深海ゆえ洗い流されることもなく卵にくっつく・・・という知見を紹介した上で、「この瞬間のことを考えると、私はなにか感動を禁じ得ない」と記すのです。・・・どういう「感動」なんだか(笑)。

ユーモアに溢れる愉快な随筆がある一方で、「怠け者」だからこそ見えてくる「規則通りに動いているかのようにおもえる世の中のおかしさ」や、「人間の本能、あるいは理性や知性の脆さ」(いずれも、編者である荻原魚雷さんの巻末解説より)を鋭く突いた随筆も、いくつか収められています。それらの作品に籠められたことばがより一層、わたしの気持ちを鷲掴みにいたしました。
「エゴイズムに就て」と「世代の傷痕」では、われわれの、そして梅崎自身も持っているエゴイズムとの向き合い方が語られています。梅崎は、すべての人が生きていくために多かれ少なかれ、他者の犠牲の上に成り立っている自分のエゴイズムを容認しながら生きているにもかかわらず、小説などにおいて善意への郷愁や待望ばかりが語られるということの嘘っぽさといやらしさを鋭く突いた上で、このように述べるのです。

「ルネッサンスが個人の自覚に始まったと言うなら、今の時代はエゴイズムの自覚と拡充から始まる。どの途(みち)現世の頽廃は底まで行き着かずにはおかぬ。生き抜く事が最高の美徳であり、犠牲や献身が最大の欺瞞であることを僕等は否応なしに思い知るだろう」  (「エゴイズムに就て」より)
「私とても自らのエゴイズムを良しとするわけではない。しかしそれを認容しなければ生きて行けないから私はそれを肯定する。肯定する処から新しく出発したい。もし現世に新しい倫理があり得るなら、人間の心の上等の部分だけでなれ合ったようなかよわい倫理でなく、人間のあらゆる可能性の上に、新しく樹立されるべきであると私は思う。私は既に日常生活に於(おい)て、私自身に対して前科数百犯の極悪人だ。だからこそ私は自分の悲願の深さを信じる。そして血まみれの掌を背中にかくして、口先ばかりで正論めいた弁舌を弄する論者や、果敢(はか)ない美をうたう詩人や、うそつきの小説家を憎む」  (「世代の傷痕」より)

思えば、今もなお続いている新型コロナウイルスをめぐるパニック状況は、わたしたちの中に潜んでいた醜いエゴイズム的本性が、マスコミが煽り立てる恐怖や不安によって白日のもとに晒される過程でもあったように思われてなりません。
マスクやトイレットペーパーなどを買い占めてはそれを平気で転売する。感染した人やその周囲の人たちを村八分扱いにする。〝自粛〟に従わない人や店舗を〝正義〟の皮をかぶりながら誹謗中傷する。そんなことが横行するような世の中を前にして、当たり障りのないきれいごとや理想論を、上から目線で述べるばかりの〝文化人〟や〝知識人〟・・・。この一年あまりの世の中の状況は、われわれ人間が「生」を脅かすような不安や恐怖心に駆られることでエゴイズムをむき出しにする存在である、ということを否応なしに、あらためて思い知らされることとなりました。
こういうわたし自身もまた、エゴイズムと無縁であるはずもなく、もしかしたら他者よりも一層、強いエゴイズムを底に秘めているのかもしれません。そもそも、他からの干渉や抑圧に抗し、「個」として生きようとすることもまた、ある種のエゴイズムに基づいているでしょうし。
それだけに、自らを含む人間の中にあるエゴイズムを自覚、肯定することから出発することを決意した梅崎の鋭利なことばが、いまのわたしの気持ちにぐいぐい、食い込んでまいりました。

「衰頽からの脱出」と題した一篇では、梅崎が「精神の本質的な衰頽である」と言い切るところの日本的気質に鋭くメスを入れています。その気質とは、「自我を埋没して他によりかかろうという」「自我の壮大な完璧さをいとう」封建的な精神のこと。それは戦後になってもなお、日本全体をおおっていて、「最も進歩的」であるはずの団体ですら、その内部は「親分子分の関係」でつらぬかれていたり、文化面にも徒弟制度という形で存続したりしていることを、梅崎は指摘します。
そして、そんな気質を有する日本的衰頽を嫌悪しながらも、それに惹かれる気持ちも充分にあるということを梅崎は認めた上で、そこから出発して「できることなら脱出を完成してみたいのである」として、次のごとく宣言するのです。

「私は日本人であることよりも、人間であることに喜びを感じたいのだ。もし日本人というのが、日本的衰頽を身につけた人間という意味であるならば」

自らは「自我を埋没して他によりかか」りながら、自我を持って立とうとする人間を侮蔑し、さらには迫害までするような日本的気質の悪い面も、目下のコロナ騒動によって炙り出されているように思えてなりません。ゆえに、日本的気質からくる「精神の本質的な衰頽」と向き合い、それを超克していくことも、また必要であるように感じました。
日本の文学で主流となっている「リアリズムと称する自然主義や、私小説的精神や、花鳥風月の精神や、日本的ロマンティシズム」と決別して、「何物にも囚われることを止そう」という決意を語った「茸の独白」の終わりのほうで、梅崎はこう言います。

「私は今まで誰をも師と仰がなかったし、誰の指導をも受けなかった。それは文学上のことだけでなく、生活の上でもそうだった。私は何ものの徒弟でもなかった。また私は徒党を組まなかった。曲りなりにもひとりで歩いて来た。今からも風に全身をさらして歩きつづける他はない」

「自我を埋没して他によりかか」ることを拒否して、曲がりなりではあっても自らの足で立ち、歩きつづけようという梅崎の決意が、感銘をともなって気持ちに響いてまいりました。

短篇小説では、中間小説誌『小説新潮』が初出の「猫と蟻と犬」がとりわけ気に入りました。家の者をやたらに引っ掻いたり、火鉢に糞をするなどの悪行をほしいままにする飼い猫「カロ」のエピソードを軸にして、庭に生息するアリたちの生態観察や、いやに神経質で臆病な飼い犬の行状を絡めた本作は、ユーモラスな書きっぷりが際立っていて実に愉しい一篇。「カロ」を捨てにいこうと悪戦苦闘するくだりには、もう抱腹絶倒でありました。
また、戦時統制下にあってささやかな酒と肴を提供する酒場に並ぶ人びとの生態を描いた「飯塚酒場」や、防波堤へ釣りに集まる人びとを通して、普通の人びとが持つ醜い一面を描き出した初期の作品「防波堤」も、印象に残る作品でした。

「怠け者」だからこそ見えてくる、人間社会の歪みを突いた洞察と、飄々としたユーモアに溢れた梅崎春生の文学。これを機会に、代表作である「桜島」「日の果て」といった戦争文学をはじめとする、ほかの梅崎作品も読んでみたいと思っております。