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宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

【読了本】『利休の茶を問う』 ~茶の湯を通して問いかける、現代社会が忘れがちな価値観と美意識

2013-06-06 23:24:59 | 本のお噂

『利休の茶を問う』 立花大亀著、世界文化社、2012年


茶の湯のメッカとしても知られる京都の大徳寺。そこを代表する名僧で、2005年に105歳で遷化(=逝去)した著者による、茶の湯と禅のこころを説いた遺稿から31編を選び出し、新たに一冊にまとめたものです。
実のところ、茶の湯にも禅にもまったく疎い凡俗の徒であるわたくしですが、本書に収められた文章の一つ一つはまことに味わい深く、心に響いてくるものがありました。

茶の湯において重要視される「侘び」という思想。これまでは、「もの寂しくわびしいこと」といった、いささか後ろ向きなイメージで捉えていたところがありました。しかし、大亀師は「侘び」には「ものを生かすという思想」がある、といいます。
たとえば、お茶事に客を迎えるときの「打ち水」。千利休は、打ち水を生かすためには「打ち水は早く打ちすぎてもいけないし、遅く打ちすぎてもいけない」と説いたそうです。早く打ちすぎては乾いてしまって打ち直さねばなりませんし、遅く打ってしまっても打ち水としての効果を失ってしまいます。ゆえに、打ち水を生かすためには、迎える側はもちろん、迎えられる客の側も、時間を厳格に守らねばならない、と利休は説くのです。
そういった利休の姿勢を受け、「ただ消極的に打ちこもるのではなく、打ちこもるがために、そのものをして積極的に生かしめるということ」が「侘び」の本質であることを大亀師は力説します。
同時に「侘び」は、大阪は堺の貿易商の家に生まれ、過度なぜいたくを何よりも嫌った「経済人」としての利休の経済的智恵でもあり、「そこには実に強い、たくましいものが秘められている」とも大亀師はいいます。そして、その思想は資源を消耗し、使い捨てにしている現代において、ますます大事になっていくことを訴えます。
これまで「侘び」ということを中途半端にしかわかっていなかったわたくしでしたが、そこに込められた思想や智恵を、初めてきちんと理解することができた気がしました。

茶の湯の文化を通して語られる日本の美についての考察も、本書における興味深いところでありました。
茶の湯の文化は「おのずから発展とか進歩などとは無縁の文化」であり、「完成の美ではなく、欠陥の美」だと大亀師はいいます。それは、利休が茶道の本質であると考えていた美のあり方でもあり、「日本人が究極的に求める美」である、とも。

「日本は取り合わせがよほど上手でなければなりません。取り合わせと扱い方で、下手も上手になります。上手も下手に陥ります。欠陥に美を求め、頽廃に美を求めなければなりません。子どものころ、大阪の道頓堀の赤い灯を美しいと感じた私ですが、そんな私であってはなりません。」
(「日本人にとっての美とは何か」より)

正直、まだまだネオン輝く繁華街の風景も大好きなわたくしではありますが(苦笑)、それでも年齢を重ねる中で、本書がいうところの「欠陥の美、頽廃の美」に惹かれる自分がいることも、また確かであります。それだけに、あらためて日本における美のあり方について考えさせてもくれました。

本書には他にも、読んでいて琴線に触れるところがいくつかありました。その中から1ヶ所だけ引いておきます。

「私が常に思うのは、このお茶の味のことです。
ほろ苦い味のことです。
ほろ苦い味。どうも浮き世の味に似ているようです。一生涯を通じまして、私は人生の味はほろ苦い味と断ずるのです。
(中略)
この味を心の底から醍醐味と受け取ることが肝要と思います。お茶を心からいただくように、このほろ苦い人生を心からちょうだいするのが大事なことと思います。このほろ苦さはきらって逃げおおせるものではないのですから、進んでいただくのが肝要と思います。
人生をありがたくいただく心です。」
(「茶のほろ苦さは人生の味」より)

いや、このくだり、読んでいてじんわりと心に沁みてきました•••。ままならない人生を生きていくための、糧となるようなことば、なのではありますまいか。

本書のオビの背の部分には「茶人必読の書!」とあります。無論、茶人の方々にも得るところの多い本だろうと思われますが、茶道や禅には無縁の日々を生きる全ての現代人にとっても、忘れがちである大切なことを教えてくれる一冊であると感じました。

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