しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「もし戦争が始まったら、日本の勝味はないと見ていた」

2024年12月08日 | マッカーサーの日本

雑誌社と新聞社が競うように週刊誌を発行し、その週刊誌の文化が絶頂期の頃
週刊新潮に「マッカーサーの日本」という記事が毎週掲載された。

その連続ものが掲載中、自分の今までの人生で唯一、週刊誌を毎週購入した。
おもしろい記事だった。
それを何ヶ所か当ブログに記事にして残そうと思う。

 


・・・


「マッカーサーの日本(上)」  週刊新潮編集部  新潮文庫 昭和58年発行


「戦略爆撃調査団」④ 
 

質問者は調査団の中でも最も切れ者の、副団長ポール・ニッツ氏になる。


ニッツ
「陸軍は戦争終結のためにどんな計画を持っていたのか」
近衛
「陸軍の指導者が持っていたプランはただひとつ、あくまで戦い抜くということだ。
だから、もし天皇の決断がなかったら、われわれはいまだに戦っていたであろう」

ニッツ
「私の質問は1941年(昭和16年)の秋、陸軍はいかなる方法をもって戦いを終らせようと思っていたのか、ということだ」
近衛
「私はそのようなことは聞いたことはない。事実、そんなプランは何もなかったと思う」

ニッツ
「ではあなたの意見だと、陸軍は何ら戦争終結の見込みのないままに戦争に突入したことになる。
終りなき戦いを挑んだというわけか」
近衛
「局外者として見ていると、結論として陸軍は、何ら終結の具体案を持っていなかった、ということになる」

ニッツ
「われわれは、戦争を企てた諸君は非常に有能な人々だと考えている。 
プリンス近衛、われわれは彼らが終結の構想をまったく持たずに戦争を始めたとは思わない。
私はあなたの発言に納得がいかない」
近衛
「いや、もし陸軍がかりに構想を持っていたとしても、そんなことはわれわれに洩らしはしなかったでしょう。
しかし、どうも、そのようなものは持っていたとは思えない」

 ニッツ
「これまでの印象では、あなたはいかに勝利を得、いかに戦いに終結をもたらすかについてまったく情報を持たずに、
合衆国との戦争を始めることに同意した・・」
近衛
「たしかに同意という形だが、それは条件付き同意だった。 10月の中旬までに交渉が妥結するだろうと踏んだ上で、同意したのだ」


ニッツ
「ひとつだけハッキリしておきたい。
われわれはあなたの責任いかんに興味を持っているのではない。
われわれはあなたが戦争に同意したとき、戦いがどのようなものになるかということを、あなたがどう見ていたのか、
その点の、正直なところを知りたいのだ。
くりかえして聞くが、あなたは戦争になった場合、日本がどのような状態になると考えていたのか。
また戦争をどのような計画を持って、どう展開しようと していたのか」
近衛
「私が強く印象づけられたのは山本(注=五十六連合艦隊 司令長官)の〝戦争になれば最初の一年はやって行けるが、
その後のことはうけあえない”と いう発言であり、
私はできる限り戦争は避けようと決心していた。
もし戦争が始まったら、日本の勝味はないと見ていた」


ニッツ
「いいかえれば、あなたは1941年12月の時点ですでに、日本は戦争を成功に収拾することはできないと思っていた、と、こういうわけか」
近衛
「まったく、あなたのいわれるとおりだ。全然、チャンスはないものと思っていた」


こうして、調査団としては納得のいかない、近衛公にとっては小突き回されたような、緊張の三時間が終った。
このアンコン号上の尋問で強い衝撃を受けた近衛公は、帰途、
しばらくは「やられた、やられた」とひとり言のように繰り返していたという(牛場氏の話)。

11月22日、公は改憲についての意見書を天皇に提出したのち、栄爵拝辞の手続きをとった。
月が変って12月6日、近衛公、木戸侯爵に対する戦犯容疑の逮捕令が出る。
そして戦犯として出頭するよう定められた16日早朝、服毒自殺を遂げた。55歳であった。

・・・

近衛「まったく、あなたのいわれるとおりだ。全然、チャンスはないものと思っていた」
こうして、調査団としては納得のいかない、・・・・

一億国民は何も知らず・知らされず・知ろうともせず戦争へ、銃後へと向かった。
戦後になってみると「国民としては納得のいかない」戦争が始まった。

 

・・・

・・・

 

「マッカーサーの日本(上)」  週刊新潮編集部  新潮文庫 昭和58年発行

 

近衛公の戦後の動き

近衛公が、東久邇内閣の副総理としてマッカーサー元帥を初めて訪問したのは9月13日。 
その2日前に東条英機元首相が自殺を図って果さなかった。
10月4日、マッカーサー元帥と2回目の会談。
この席上、マッカーサーは、「公はまだ若いのだから、これからの日本は、あなたが背負ってくれなくては」といって、
近衛公を立てるような発言をしたといわれる。
そして11日、天皇も公を呼んで、改憲の準備をするよう命じた。
つまり、ここまでは、 周囲からも、そういわれたし、また自分でも、なんとなく戦後の政局を担当しなければならないようなつもりになっていたわけである。

10月21日には外人記者団と会見して、「天皇退位」をほのめかすような発言までした。 


ところが11月1日、GHQは突如として声明を出した。
「占領軍当局と近衛とは何の関係もない」――。
これは、公を〝戦犯〟とみなすニューヨーク・タイムスなどが不満を書きたてたことにも関連があるようだが、
ともかく、公としては、完全にハシゴをはずされた形となった。
彼の「天皇退位説」も、ワシントンの統合参謀本部の、
「本国政府の承諾なしに、GHQが独断で天皇を退位せしめることは相成らん」という訓令で、
とんだ場違いのものとなっていた。
これと前後してやって来たのが、戦略爆撃調査団の喚問だったのである。


・・・

 

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「私は笠岡高等女学校を4年で卒業した」

2024年12月07日 | 昭和16年~19年

大阪府高槻市に住むおば(父の弟の妻)が、「これが最後」と言いながら故郷の笠岡を訪問した。
せっかくの機会だから、
激動の時代を背景にした、おばの女学生時代を聞いてみた。


おばの同学年は、日本の中等教育史上、唯一のできごとがあった。
それは中学校や女学校の生徒で4年生は、4年と5年の”選択卒業”制で、自分で卒業年を選ぶことができた。

・・・


日時・2024年11月21日
場所・笠岡市中央町(旅館・辻与にて)
画像・「笠岡高校70年史」 笠岡高校 昭和47年発行

 

・・・

おばの履歴等

昭和5年3月25日 岡山県小田郡神島内村に生まれる


6歳 昭和11年 4月1日 北木尋常1年 
7歳 昭和12年 4月1日 北木尋常2年 
8歳 昭和13年 4月1日 北木尋常3年 
9歳 昭和14年 4月1日 神内尋常4年 
10歳 昭和15年 4月1日 神内尋常5年 
11歳 昭和16年 4月1日 神内国民学校6年 
12歳 昭和17年 4月1日 笠岡高女1年 
13歳 昭和18年 4月1日 笠岡高女2年 
14歳 昭和19年 4月1日 笠岡高女3年 
15歳 昭和20年 4月1日 笠岡高女4年 
16歳 昭和21年 4月1日 岡山女子専門1年
17歳 昭和22年 4月1日 岡山女子専門2年 
18歳 昭和23年 4月1日 岡山女子専門3年 
19歳 昭和24年 4月1日 就職(新制中学教師)
20歳 昭和25年 4月1日 同上 
以下同上

 
小学校と女学校時代が、完全に戦争時代と重なり、
それにともない学制の変更もあった、稀有な世代となっている。

 


・・・・・・


昭和11年4月 北木尋常小学校 1年入学


お父さんが北木島の小学校の校長先生をしていた。
それで6歳から北木島の大浦に住んでいた。

幼稚園とか保育所は北木にはなかったと思う。
小学校から始まった。


昭和14年4月 神内尋常小学校 4年 

北木島から、お父さんが笠岡の学校に転任したので、それからは神島に住むようになった。


戦勝記念か?皇紀2600年か?寺間の”あさのう”まで歩いて行った。


昭和16年4月 神内国民学校6年 

 

(村役場とか神島瀬戸等での)軍人の出征の見送りは・・・、した記憶、見た記憶がない。

(学校が「国民学校」、生徒は「小国民」となったが・・・)
何も覚えていません。


記念行事とか、以後の教育内容のことで記憶に残るような変革はなかったようだ。

 

・・・


昭和17年4月 笠岡高等女学校1年入学 


小学校の私らのクラスで3人女学校へ進学しました。
笠岡高女は私だけ。

奉安殿の想い出

女学校の時は、ぜったい。
そこまで行ってお辞儀をして、学校の教室に入っていた。(←おばは、この部分は強調した)
(小学校の時は?)
なかったような。
記憶にない。


女学校への通学

私は自転車通学じゃった。
自宅から自転車で(神島)瀬戸まで行って、渡し舟に乗って、瀬戸へ行った。

潮によって舟の航路はかわって、「今日はこんなとこまで行くのが」いう時もあった。
瀬戸はいつも潮が流れていた。

(笠岡高女に限らず)笠商、淳和の人も同じ。
(神島内浦に限らず)外浦の人も自転車で瀬戸まで来ていた。※外浦でも水落地区と思える。


学校では縫物がおかった。
最初に浴衣を縫うた。

片島の海水浴場へ水泳の訓練にいきました。

高島にも、、なんかで、学校でいきましたよ。
なんか訓練で。神島側へ。

 

・・・

 

昭和20年 笠岡高等女学校4年

 

防空頭巾で通学。持って通学した。
千鳥の防空壕・・・わすれた。

 

学徒動員

水島に飛行機を造る手伝いにいきましたよ。
機械工場だった。技師のような仕事。
2~3ミリのネジを打ち込んでいた。

二つ工場があり、爆弾が真ん中に爆弾が落ちた。
真ん中に落ちたので被害はなかった。

亀島山の山の中に寮があった。

 

岡山空襲の夜

岡山が空襲の時は金光にいた。金光の寮から倉敷に通ようた。
「こっちにも落ちにゃあええけどなあ」
いいながら土手に逃げた。
防空壕はちいさくて、とても皆んなはいれない。
空から(落ちる焼夷弾は)きれいだった。

爆弾は神島にも落ちたことがある。


昭和20年8月15日・玉音放送 笠岡高等女学校4年

玉音放送

その時は親といっしょだった。
家で家族全員で聴いた。
負けるとは思ようた。
終わったけえよかったなあ・・・思った。
(その訳は)
金光へおるとき空襲を受けて。戦争がいやだった。


戦争に負けたら、すぐに寮はひきあげた。


2学期が始まると、
山の上のほうへ開墾に行きました。
山に時々行った。
先生といっしょに行ってたよ。

 

昭和21年3月


卒業は昭和21年3月4年生で卒業

(おばの1学年上は全員4年生で卒業。
おばの同級生は4年卒と5年卒を選択できる。これが
おばの1学年下は全員5年卒)

3月に4年生で卒業させてもらった。
学校を受験して、なんとか通った。
それで卒業を選んだ。

4年と5年は比率は・・・もうわすれた。
上級学校へ行く人は4年で卒業した。(そうでない人は5年に進級した)

 

16歳 昭和21年 4月1日 岡山女子専門学校 1年入学


岡山清心女子専門学校。(岡山女専または女専とよんでいた)
3年制。
あとで大学(ノートルダム清心女子大学)になった。


・・・

 

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あこがれの”ふるさと”

2024年12月07日 | 令和元年~

管理人の通った城見小学校・金浦中学校は、ほとんどの親が農業・漁業の家で、
転校して来る生徒、去る生徒といえば、お巡りさんの子どもくらいだった。
そのお巡りさんも笠岡市から笠岡市への転任だが、当時は当然のこととして転校していた。

自分の記憶では9年間で、同級生に限れば転校生は2人いただけ。2人とも親がお巡りさんだった。
つまり小中学校の9年間の同級生全員に「故郷」があり、全員が「故郷」とは「笠岡」だった。


転校生とは漫画や読み物に登場する人物のことだった。


・・・

 

 

大阪府高槻市に住むおば(父の弟の妻)が、「これが最後」と言いながら故郷の笠岡を訪問した。
高齢のおばには、従弟妹がつきそいで同行した。

 

・・・


従弟妹の話 (2024.11.21)

おじとおばは笠岡市出身だが、その子たちは大阪で生まれ、親の転勤で転校を繰り返した。

僕は小学校と中学校で、大阪と名古屋と東京と、6回引っ越しして5回転校した。


だから故郷がない。

「ふるさと」という、言葉にあこがれる。
僕の故郷はどこなんだろう?

就職後に、商談や飲食の席で、「出身は?」ということが会話になることがよくある。
東京にいる時は「大阪です」と答え、
大阪にいる時は「東京です」と答えていた。

すると、
大阪ですと言えば・・・「発音にクセがないね」といわれ、
東京ですと言えば・・・「その割には(東京弁が)なめらかでないね」といわれた。
そのことは、生粋な江戸っ子の妻からも言われる。

ふるさとを持っている人がうらやましい。
それで、無理にでも自分の心の中での”ふるさと”をつくった。
それは、東京の世田谷。
その理由は、世田谷では唯一庭がついた家だった。
他はすべて県営住宅のようなアパート、土地があるなしの違いは大きかった。


・・・


従妹

転校は好きだった。
「次の学校ではどんな自分を演じようかな?」
転校のたびにわくわくしていた。


・・・

従妹の話は新鮮だった。
その学校にいる期間は平均2年の、期間限定。
自分のことを知る人は誰もいない中に入っていく。
”演じる”可能な条件がそろってはいるが、それは言われて気が付いた。
転校生にはそういう楽しみもあったんだな、
逆に、現実にあわせた悲しい楽しみだったのかもしれないが。


・・・

昭和期の後半(昭和40.50.60年代)はさんちゃん農業となり、
新卒の農業は、弁護士の合格者数よりも少なくなった。

転校生も、すっかり普通の光景となり
現在は、外国人の小学生も地方都市でも、普通に見る光景となっている。

 

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いかさティラノサウルスレース  (岡山県笠岡市平成町・笠岡総合スポーツ公園)

2024年12月04日 | 祭を見る

 

ティラノサウルスが笠岡に大集合した。

 

 


それで、恐竜王であり、暴君王であるティラノサウルスが何をしたかと言えば、
”かけっこ”。

 

 

 

走る”暴君王”

速い!

 

 

 

恐竜も人間も双方が楽しめたイベントだった。

 

行った日・2024年12月1日

 

 

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農フェス (岡山県笠岡市カブト西町・笠岡ふれあい空港)

2024年12月03日 | 祭を見る


笠岡ふれあい空港の長い滑走路を使用して「農フェス」があった。
今どき、非常に短い名称のイベント。

 

 

見に行ったのは初めてだが、
ポスター類にも第何回とか書いてないので、今回限りのイベントなのかもしれない。


当日は日本晴れに恵まれ、多くの家族連れが来場していた。
大型トラクターや空飛ぶクルマの展示・記念写真。
牛乳搾り、バターづくりなど体験型のイベントだった。

 

 

行った日・2024年12月1日

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大仙さま (岡山県笠岡市笠岡・大仙院の縁日)

2024年12月03日 | 祭を見る

月1回、旧24日が”大仙さま”の日。通称”だいせんさん”。
今は別名「おかげ市」とも言う。
だいせんさんにお参りすると「おかげ」がある、ということだろう。
ただ「市」の方は、相当すたれてしまった。

 

 


初めて大仙さんに行ったのは、茂平にバスが開通して1~2年後のことだった。
土曜日の午後、バスに乗って笠岡に行った。
笠岡駅前から大仙院までは、たいへんな人の数だった。
大仙さんでは鐘を撞いて、煙を身体にあてたのをよく覚えている。

 

 


戦前までは水子供養で知られ、井笠地域ほぼ全域からお参りにきていたようだ。
現在ではペット供養も受付している、古人もびっくりだろう。

 

 

 

 

行った日・2024.11.24

 

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「下町の太陽」

2024年11月30日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

笠岡市の威徳寺は古刹で、”いも代官”井戸平左衛門のお墓がある事でも知られている。
有名な音楽家・長田暁二さんは威徳寺の出身だが、
2024年11月4日、94歳で亡くなられた。
新聞に12月開催のお別れの会の告知記事が載っている。

笠岡市出身・長田さんのことを忘れないためにも、ページにして残す。

 

・・・

下町の太陽


書名・世界と日本の愛唱歌・抒情歌事典
著者・長田暁二
発行所・ヤマハミュージックメディア 
発行・2015年

・・・

著者紹介
おさだぎょうじ
長田 暁二 (音楽文化研究家)
1930年3月19日 岡山県笠岡市生まれ。 
駒沢大学英文科卒。 
キングレコードの童謡担当ディレクターを振り出しに、ポリドール学芸部長、 徳間音楽工業常務取を経てフリーに。
とくに日本の歌の歴史的研究では権威的存在。 

・・

昭和37(1962)年の春、キングレコードの童謡担当ディレクターだった私は、社命により歌謡曲をも兼任することになりました。 キングレコード創立30周年の事業として、歌える映画スターのスカウトと育成が、私の初仕事になりました。
というのも当時、
テイチクは石原裕次郎の「銀座の恋の物語」、 
コロムビアは小林旭の「北帰行」 
ビクターは吉永小百合の「寒い朝」、
ポリドールは赤木圭一郎の「霧笛が俺を呼んでる」といった具合に、
映画スターの歌が次々ヒットして、 それぞれのレコード会社の台所を潤していたからです。
ところが私の在籍したキングは、 歌う映画スターの持ち駒も実績もゼロで、
〈キングでは歌う映画スターは絶対に育たない〉といったありが たくないジンクスのようなものが、 
映画会社の間で定評になっていました。

そこで私は、松竹少女歌劇出身、36年「斑女」でデビュー、 
「ふりむいた花嫁』など花嫁シリーズで活躍中の倍賞千恵子にターゲットをしぼりました。
童謡係だった私は、彼女が子供のころからポリドールで「ひばりの赤ちゃん」のレコードを出し、
松竹少女歌劇も首席で卒業、
NHKに出演して「さくら貝の歌」 「あざみの歌」などの抒情歌を歌いこなす抜群の歌唱力があることを知っていました。
数ヶ月間、彼女に密着し、池袋東口の一杯飲み屋「田舎家」で、やっと倍賞父娘のOKを取りつけました。 
レコード5社との激しい争奪戦の末、ついにキングが契約したのです。

9月に発売されたデビュー曲は、彼女の気さくな庶民性を生かした「下町の太陽」で、
多くのプロ歌手を尻目に、日本レコード大賞でいきなり新人賞を受賞しました。 
デビュー曲の作詞を依頼した横井弘は、 初めて彼女を見た印象が、
〈女優さんらしくなく、下町の横丁から下駄をはいてカラコロと出てくるような、
素朴で、 明るい感じのお嬢さんだったので、 「下町の太陽」のようなイメージを抱いた〉と言います。

当時、下町を歌のタイトルに使うのはタブー視されていましたが、
“太陽”をつけたことで、親しみやすく明るい、人情味あふれる庶民の街というイメ ージになりました。
横井の抒情的な歌詞も、大衆の支持を受ける一因になりました。
江口浩司の曲は、倍賞の清潔で明るいいい面をひきだす心温まるもので、きれいな旋律と彼女の透明な声が見事に融合しました。
この曲のヒットで、「下町の太陽」は倍賞千恵子のキャッチフレーズのようになったのです。
このヒットを受けて映画化されたとき、山田洋次が初めて倍賞と組んで監督しました。

・・・

・・・

 

「下町の太陽」  作詞・横井弘

下町の空に 輝く太陽は
よろこびと 悲しみ写す ガラス窓
心のいたむ その朝は
足音しみる 橋の上
あゝ太陽に 呼びかける
 
下町の恋を 育てた太陽は
縁日に二人で分けた 丸い飴
口さえきけず 別れては
祭りの午後の なつかしく
あゝ太陽に 涙ぐむ

・・・


昭和37年レコード大賞は「いつでも夢を」。
映画もレコードも大ヒットした。
その後、歌った橋幸夫も吉永小百合も国民的歌手・スターになった。

その年の新人賞は、
「下町の太陽」の倍賞千恵子、
「ブンガチャ節」「泪船」の北島三郎だった。
新人賞の二人もまた国民的歌手・スターとなった。

こうしてみると、昭和37年くらいから日本そのものが登り龍になっていった。
映画も歌も、そして経済も暮らしも、成長と明かるさしかなかった。
昭和39年に東京オリンピック。♪はぁー4年経ったら
昭和45年には大阪万博。♪こんにちわぁ

そして昭和46年、管理人は社会人としてスタートした。

 

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「おかやま民俗芸能フェスティバル」白石踊   (岡山県笠岡市白石島)

2024年11月29日 | 祭を見る

会場・岡山県浅口市寄島町・ふれい交流館「サンパレア」 
公演・白石踊会

 

 

 

白石島は瀬戸内海国立公園で、

白石島の「白石踊」は国の重要文化財、2022年ユネスコ遺産にも登録された。

 

笠岡市民の誇りでもある、日本を代表する盆踊りの一つ。

 

 

・・・

 「おかやま民俗芸能フェスティバル」リーフレット

 

白石踊   白石踊会 (笠岡市)

笠岡諸島の白石島に古くから伝わる盆踊りで、 
昭和51年に国の重要無形民俗文化財に指定され、令和4年には風流踊としてユネスコの無形文化遺産に登録されました。
もとは、「回向踊」とも呼ばれ、 先祖の霊を供養するための踊りでした。 
その起源は、源平水島合戦の戦死者の霊を弔うために始まったともいいます。
一つの音頭と太鼓に合わせて何種類もの踊りを踊る点が特徴で、
男踊、女踊、娘踊、笠踊、奴踊、 二つ拍子など、 13種類の踊りが伝わっています。 
本日は「那須与一」の音頭に合わせて、6種類の踊りを披露します。

 

・・・

 

瀬戸内海地方には多くの源平合戦の、平家の落ち武者や弔いに関する地名や行事が多いが、

この「白石踊」もそれで、平家の敗死した武者を供養する踊り。

 

   



 

 

 

踊りは13種類のものが伝わり、

勇壮や優雅で、見る人に感動を与える盆踊り。

 

 

現在は踊りの後継者を白石島から本土まで募集し、

岡山県・広島県の有志の方々が踊りを次の世代に引き継ぐ努力をしている。

 

行った日・2024年11月24日

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「おかやま民俗芸能フェスティバル」高田神社獅子舞  (岡山県津山市上横野・高田神社)

2024年11月29日 | 祭を見る

会場・岡山県浅口市寄島町・ふれい交流館「サンパレア」 
公演・高田神社横野獅子舞保存会(津山市)

 

津山の高田神社獅子舞は岡山県指定重要無形文化財。

その舞は演者のチーワークで見る者に感動を与える。

 

・・・
   「おかやま民俗芸能フェスティバル」リーフレット

高田神社獅子舞 高田神社横野獅子舞保存会(津山市)
 
   
高田神社の獅子舞は、伝承によると、和銅6年 (713) に美作国府が開設されて以来、
毎年9月9日に美作11社の神々が総社に神幸したときからこれに加わっていたといわれています。 
文化・文政期から明治期にかけてはとくに盛んで、
人々に悪魔払いとして信仰を受けて来ました。 
この獅子舞には、獅子頭と呼ばれる指揮者がいて、 
獅子を使う技術と人物を見込んで氏子たちが選出します。 
現在では、毎年7月の納涼祭と、10月の例大祭において奉納されています。

・・・

 

指揮者が1名、獅子舞者が6名。

仕事や家庭の事情で普段の練習もたいへんだと思うが、”一丸”で獅子は動き、舞う。

 

 

 

睨み合う・噛み合う獅子同士。迫力と獅子の姿の美しさが際立つ。

 

見た日・2024年11月24日

 

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「おかやま民俗芸能フェスティバル」吉川八幡宮当番祭  (岡山県加賀郡吉備中央町吉川)

2024年11月28日 | 祭を見る

会場・岡山県浅口市寄島町・ふれい交流館「サンパレア」 
公演・吉川八幡宮文化財保存会

 

寄島のサンパレアで「おかやま民俗芸能フェスティバル」があった。

 

最初に「吉川八幡宮当番祭」が演じられた。(岡山県三大祭りの一つ)

このお祭りは約一月間つづく長い祭り。

 

お祭りの説明もあった。

「二人の男子当番が馬に乗っての神幸だが、ステージでは無理です」

 

・・・

   「おかやま民俗芸能フェスティバル」リーフレット

吉川八幡宮当番祭  吉川八幡宮文化財保存会(吉備中央町)

当番祭は、 吉川八幡宮 (岡 山県加賀郡吉備中央町吉川) の秋の大祭です。 
毎年10月 初旬から10月下旬まで1ヶ 月近く神事が続く祭りで、 岡 山県指定重要無形民俗文化財 に指定されています。 吉川地 区内の10歳前後の2名の男児が神人である当番となり、 第4日曜日に大祭が行われ、
馬に乗った当番を中心とした「行列」が神社に参拝します。 
また、日々練習した 「祭りばやし」 「獅子舞」 を神社に奉納します。
本日は、 大祭の様子を皆さんに披露します。

・・・
 

 

 

笛や太鼓の音色が美しい。

四匹の獅子は観客の頭をかじりまわって歩いた。

 

 

優雅さを感じる吉川八幡宮当番祭だった。

 

 

見た日・2024年11月24日

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