雑誌社と新聞社が競うように週刊誌を発行し、その週刊誌の文化が絶頂期の頃
週刊新潮に「マッカーサーの日本」という記事が毎週掲載された。
その連続ものが掲載中、自分の今までの人生で唯一、週刊誌を毎週購入した。
おもしろい記事だった。
それを何ヶ所か当ブログに記事にして残そうと思う。
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「マッカーサーの日本(上)」 週刊新潮編集部 新潮文庫 昭和58年発行
「戦略爆撃調査団」④
質問者は調査団の中でも最も切れ者の、副団長ポール・ニッツ氏になる。
ニッツ
「陸軍は戦争終結のためにどんな計画を持っていたのか」
近衛
「陸軍の指導者が持っていたプランはただひとつ、あくまで戦い抜くということだ。
だから、もし天皇の決断がなかったら、われわれはいまだに戦っていたであろう」
ニッツ
「私の質問は1941年(昭和16年)の秋、陸軍はいかなる方法をもって戦いを終らせようと思っていたのか、ということだ」
近衛
「私はそのようなことは聞いたことはない。事実、そんなプランは何もなかったと思う」
ニッツ
「ではあなたの意見だと、陸軍は何ら戦争終結の見込みのないままに戦争に突入したことになる。
終りなき戦いを挑んだというわけか」
近衛
「局外者として見ていると、結論として陸軍は、何ら終結の具体案を持っていなかった、ということになる」
ニッツ
「われわれは、戦争を企てた諸君は非常に有能な人々だと考えている。
プリンス近衛、われわれは彼らが終結の構想をまったく持たずに戦争を始めたとは思わない。
私はあなたの発言に納得がいかない」
近衛
「いや、もし陸軍がかりに構想を持っていたとしても、そんなことはわれわれに洩らしはしなかったでしょう。
しかし、どうも、そのようなものは持っていたとは思えない」
ニッツ
「これまでの印象では、あなたはいかに勝利を得、いかに戦いに終結をもたらすかについてまったく情報を持たずに、
合衆国との戦争を始めることに同意した・・」
近衛
「たしかに同意という形だが、それは条件付き同意だった。 10月の中旬までに交渉が妥結するだろうと踏んだ上で、同意したのだ」
ニッツ
「ひとつだけハッキリしておきたい。
われわれはあなたの責任いかんに興味を持っているのではない。
われわれはあなたが戦争に同意したとき、戦いがどのようなものになるかということを、あなたがどう見ていたのか、
その点の、正直なところを知りたいのだ。
くりかえして聞くが、あなたは戦争になった場合、日本がどのような状態になると考えていたのか。
また戦争をどのような計画を持って、どう展開しようと していたのか」
近衛
「私が強く印象づけられたのは山本(注=五十六連合艦隊 司令長官)の〝戦争になれば最初の一年はやって行けるが、
その後のことはうけあえない”と いう発言であり、
私はできる限り戦争は避けようと決心していた。
もし戦争が始まったら、日本の勝味はないと見ていた」
ニッツ
「いいかえれば、あなたは1941年12月の時点ですでに、日本は戦争を成功に収拾することはできないと思っていた、と、こういうわけか」
近衛
「まったく、あなたのいわれるとおりだ。全然、チャンスはないものと思っていた」
こうして、調査団としては納得のいかない、近衛公にとっては小突き回されたような、緊張の三時間が終った。
このアンコン号上の尋問で強い衝撃を受けた近衛公は、帰途、
しばらくは「やられた、やられた」とひとり言のように繰り返していたという(牛場氏の話)。
11月22日、公は改憲についての意見書を天皇に提出したのち、栄爵拝辞の手続きをとった。
月が変って12月6日、近衛公、木戸侯爵に対する戦犯容疑の逮捕令が出る。
そして戦犯として出頭するよう定められた16日早朝、服毒自殺を遂げた。55歳であった。
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近衛「まったく、あなたのいわれるとおりだ。全然、チャンスはないものと思っていた」
こうして、調査団としては納得のいかない、・・・・
一億国民は何も知らず・知らされず・知ろうともせず戦争へ、銃後へと向かった。
戦後になってみると「国民としては納得のいかない」戦争が始まった。
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「マッカーサーの日本(上)」 週刊新潮編集部 新潮文庫 昭和58年発行
近衛公の戦後の動き
近衛公が、東久邇内閣の副総理としてマッカーサー元帥を初めて訪問したのは9月13日。
その2日前に東条英機元首相が自殺を図って果さなかった。
10月4日、マッカーサー元帥と2回目の会談。
この席上、マッカーサーは、「公はまだ若いのだから、これからの日本は、あなたが背負ってくれなくては」といって、
近衛公を立てるような発言をしたといわれる。
そして11日、天皇も公を呼んで、改憲の準備をするよう命じた。
つまり、ここまでは、 周囲からも、そういわれたし、また自分でも、なんとなく戦後の政局を担当しなければならないようなつもりになっていたわけである。
10月21日には外人記者団と会見して、「天皇退位」をほのめかすような発言までした。
ところが11月1日、GHQは突如として声明を出した。
「占領軍当局と近衛とは何の関係もない」――。
これは、公を〝戦犯〟とみなすニューヨーク・タイムスなどが不満を書きたてたことにも関連があるようだが、
ともかく、公としては、完全にハシゴをはずされた形となった。
彼の「天皇退位説」も、ワシントンの統合参謀本部の、
「本国政府の承諾なしに、GHQが独断で天皇を退位せしめることは相成らん」という訓令で、
とんだ場違いのものとなっていた。
これと前後してやって来たのが、戦略爆撃調査団の喚問だったのである。
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