しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「奥の細道」行ゝてたふれ伏とも萩の原 (山中温泉)

2024年09月12日 | 旅と文学(奥の細道)

曾良は腹を病んでいた。
温泉療養のかいなく、芭蕉と別れることになった。

芭蕉・曾良・北枝の三人が別れの句を詠んだ。

 


・・・


「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行

行々てたふれ伏すとも萩の原   曾良

(私は病気の身で旅立って行くのだが、歩いた末に行き倒れになるかも知れない。
それが折から盛りの萩の原であったら、死んでも本望である。)

と書き残した。
行く者の悲しみ、残る者の無念さ、
これまで何時も一緒だった二羽の鳧(けり)が別れ別れになって、雲間に迷うようなものである。

・・・

 

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旅の場所・石川県加賀市「山中温泉」 
旅の日・2020年1月28日                  
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「芭蕉物語(中)」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


七月二十七日から八月五日まで、芭蕉は十日間も山中に滞在した。
ずいぶん長い滞在であったが、それは和泉屋で大事にされて居心地がよかったからであった。

しかしそれだけではなく、この温泉で曽良にゆっくり休養させ、その全快をまっていたのである。
曽良は金沢に滞在中から健康を害していた。
山中で湯治をしてみたが、完全になおるまでには至らなかった。
もともと芭蕉の労を助けるために、同行して来たのだが、
健康を害した自分がいつまでもつきまとっていては、かえって迷惑をかけることにもなる。 
苦楽を共にした長い道中も終りに近づき、 今は北枝が随行しているし、
福井には師の旧知の等栽もいることだからという安心感もあった。
曽良は芭蕉と別れて、伊勢の長島で病を養うために、ひとり先行することになった。


馬かりて燕追ひ行くわかれかな  北枝

芭蕉と別れて一足先に伊勢の長島に行く曽良を見送る句である。
馬をやとって、南に帰る燕を追うようにして帰って行く曽良の姿を想像しながら別れを惜しんでいるのである。

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「奥の細道」山中や菊はたおらぬ湯の匂 (山中温泉)

2024年09月11日 | 旅と文学(奥の細道)

北陸本線『加賀温泉駅』には、三つの温泉地が大きく観光表示されている。
それが「片山津温泉」「山代温泉」「山中温泉」で、まとめて加賀温泉郷と呼ばれる。
近接した駅に『芦原温泉駅』もある。

芭蕉一行は、芭蕉と曾良に加え北支の三人で金沢から山中温泉を訪れた。
なぜ数ある名湯のなかで、山中温泉が選ばれたかと言うと
和泉屋という温泉宿の主をしている久米之介に会うため。
和泉屋は代々風雅のたしなみがあった。

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旅の場所・石川県加賀市「山中温泉」 
旅の日・2020年1月28日                  
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行

山中や菊はたをらぬ湯の匂(にほひ)

(昔、菊慈童が桃源郷に、大菊から滴り落ちる甘水を汲んで、八百歳の齢を保ったというが、
この山中の温泉は、長寿延命の菊を手折るにも及ばぬ、かぐわしい湯の匂いであるよ。)

 

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行

「菊はたおらぬ」の謎とき。


芭蕉が逗留した和泉屋前に共同浴場「菊の湯」がある。
山中温泉の総湯で、緑瓦の天平造りだ。
玄関前の植込みには松と石灯籠があり、日が暮れると軒下の提灯に灯がついた。
入浴料を払って入ると広い脱衣場があり、浴室はもうもうたる湯気につつまれている。 
浴槽の中央に大理石の柱があり、そこから四方へ湯が出ている。
無色透明のカルシウム・ ナトリウム泉でかなり熱い。
しかし入って一分もすると熱さになれる。
浴槽は深さ一メートルもある。
これが天下にきこえた山中の名湯だ。芭蕉はこの山中温泉に八泊した。

山中の湯は、湯上りがすっきりする。
いつまでも軀がほんのりとあたたかく、湯を出て和泉屋跡に立つと、「俳文・温泉頌」の石碑があった。
芭蕉が泊った和泉屋主人久米之助 は、十四歳の少年で、水もしたたる美少年であった。
乞われるまま「桃妖」の俳号をつけてやった。
桃青から「桃」の字を与えるのは、よほどのことで、それほど久米之助がかわいかったのであろう。
その思いが、この旬に秘められている。

桃妖の墓は医王寺山中の墓地にあるが和泉屋は没落していまはない。
「旅人を迎えに出ればほたるかな」のいかにも宿の主人らしい句を残している。


芭蕉は山中温泉で大垣藩士の如行へ手紙(元禄二年七月二十九日付)を出した。 
「奥州の旅を終えていまは山中の湯にいる。これから敦賀のあたりをへて、十五日の名月を琵琶湖か美濃のあたりで見る。
その前後に大垣に着く。塔山 (大垣町人)や此筋子(大垣藩士、一家そろって蕉門)らによろしくお伝え下さい」

手紙を受けとった如行は芭蕉が大垣にくるのを待っていたが、芭蕉はなかなかやってこない。
山中温泉で曾良はひと足さきに発った。
体調を崩したためという。
「山中や菊はたおらぬ湯の匂」
は難解な句である。 
「山中や」はわかるが「菊はたおらぬ 湯の匂」がわからない。
山中温泉は無色透明のサラリとした湯で匂いはない。
それがなぜ「湯の匂」なのか。
さらに「菊はたおらぬ」とはどういう意味なのか。

山中温泉の効能--皮膚や筋肉がつややかになり、湯が骨にまでしみて心がゆったりとして、顔色が生き生きとなる。
菊慈童が菊の露を飲んで長命を得たという故事があるが、菊を折らなくても、湯につかるだけで延命長寿の効能がある。
そもそも菊慈童とはなに者であるか。
菊の露を飲むと、それが不老長寿の仙酒となって七百年の長寿を得た。

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「奥の細道」石山の石より白し秋の風 (石川県那谷寺)

2024年09月10日 | 旅と文学(奥の細道)

芭蕉は那谷寺(なたでら)を訪れ、
句に那谷でなく石山寺を詠み、いっそう那谷寺をひきたてた。

学説では、石山寺でなく那谷寺の石山が多数派であるようだが、
とにかく那谷寺の奇岩は白く晒され、境内をとりかこむようにつづいている。
みごととしか言いようがない。

芭蕉は秋の風の頃訪れたが、いちばん見事な時期は紅葉。
奇岩の周辺はモミジ一色で覆われる。

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旅の場所・石川県加賀市「那谷寺」 
旅の日・2020年1月28日                  
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

八月五日に芭蕉は曽良に別れ、北枝とともに生駒子と出会うために小松に戻った。 
この前は小松から北陸道を動橋に出て、山代から山中に入ったが、
今度は山代から別れて那谷に参詣し、それから小松に出ることにした。

那谷寺は真言宗で、世に那谷の観音という。
観音堂は岩窟内にあって岩壁に寄りかかるように建っている。 
萱葺の小堂で、前に舞台があり、自然石を刻んで階段にしている。 
養老元年(七一七)に僧泰澄の創建と伝えられ、自生山岩屋寺と号した。
その後花山法皇が三十三箇所の観音を参拝なされたのちに、
ここに大慈大悲の観世音菩薩の像を安置され、那智と谷汲から二字を分け取って那谷寺と命名されたということである。 
那智は三十三箇所の第一番目の札所である紀州の那智山青岸渡寺であり、 谷汲は最後の札所濃州の谷汲山華厳寺である。 
第六十五代花山天皇は在位三年で、寛和二年(九八六) 六月ひそかに禁中を出られ、東山の花山寺で落飾され、
叡山、熊野、 書写山などで仏道を修行された方である。

山はそれほど高くもないし深くもないが、すこぶる閑寂である。
しらじらと風に曝された奇岩怪石が多く、 老松が生え並び、風景がすぐれているばかりでなく、
霊場としてまことに殊勝な場所である。
芭蕉はこういう句をよんだ。

石山の石より白し秋の風

石山といえば近江の石山を指すのが当時の通念であった。
芭蕉も那谷の山をみて、すぐに近江の石山を連想した。
そしてこの那谷の石は近江の石山の石よりも白いと直観した。
そして「石山の石より白し」と、なんのためらいもなく表現したのである。

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


石山の石より白し秋の風

那谷寺は養老元年(七一七)に開基された真言宗の古刹で、神仏混淆の寺である。
古くはイワヤ (岩屋寺と呼ばれた。白山信仰の拠点となった。
南北朝時代に足利尊氏軍の城塞となり、新田義貞軍が攻めこみ、寺の堂宇はことごとく焼失した。
多くの兵士が没した寺である。
それを加賀藩三代藩主前田利常が再興した。

小松に隠居した利常は、
寛永年間に岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院などを造った。
山門を入ってすぐ左手にある金堂華王殿は平成二年に再建された鎌倉時代建築様式の塔頭である。
ここに祀られている十一面千手観音像が艶っぽい。
重要文化財がたち並ぶ境内のなかにあっては新らしい仏像だが、
典雅なる品格、慈愛あふれるまなざし、白山の神秘、優美なる肩、光かがやく光背。

参道を進むと、左手に白い岩肌があらわれる。
これを奇岩遊仙境という。
そそりたつ岩はヒマラヤの岩窟に似て、人間の顔にも見え、仙人が棲む岩山にも見える。 
ここには生と死の宇宙がある。
海底噴火した岩山が、水の浸食によって、このような奇岩となった。
岩壁沿いに細い石段がつながり、朱塗りの鳥居がある。
芭蕉が訪れた元禄二年(一六八九)は、利常によって復興されてから五十年近くの年月がたっていた。
芭蕉は那谷寺という名称に興味を持ち、「花山法皇が、西国三十三ヶ所の巡礼を終えたのち、
那智山(第一番)の那と谷汲山(第三十三番)の谷の二字を取って命名した」と『ほそ道』に書いている。
「奇石がさまざまの形となり、松を植え、萱ぶきの小堂が岩の上に造られている」と絶賛した。 

 

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「奥の細道」むざんやな甲の下のきりぎりす (石川県小松市)

2024年09月08日 | 旅と文学(奥の細道)

源平時代に幾多の合戦で、勇猛で名を馳せた斎藤実盛。
最晩年は白髪を黒く染めて出陣した。
合戦で馬が田んぼの稲株につまずき倒れ、そこで討取られた。

首実験後、木曽義仲は実盛の甲を多田神社に奉納した。
全国各地には今も、田んぼの虫送り行事”実盛さま”が伝わっている。

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「平家物語」  世界文化社 1976年発行

実盛

武蔵の国の住人斎藤別当実盛は、味方の軍勢はすべて逃げていったが、
ただ一騎、
引き返しては戦い、引き返しては防ぎ、戦いしていた。
木曽方からは手塚太郎光盛、よい敵と目をつけ
「やあやあ、ただ一騎残って闘われるのか。
さてもゆかしき武者ぶりよ、名乗らせたまえ」と声をかける。
「おうよい敵にあった。寄れ、組もう、手塚」

駆けつけてきた家来に、手塚は実盛の首をとらせ、義仲の前に駆け付けた。
「おお、あっぱれ、これはたぶん、斎藤別当実盛ではないか。
幼目に見たことがあるから覚えているが、その時もうごま塩頭であった。
今はさだめて白髪になっているはずなのに、この首は鬢髭の黒いのは解せぬ。
樋口次郎は、年来親しくつきあっていたから見知っておろう。
樋口を呼べ」
という、樋口次郎は一目見るなり、
「ああいたましい、たしかに斎藤別当実盛でございます」
と、涙を流した。
樋口次郎はなおも落涙しつつ、
「この首は白髪を染めております。
ためしに髪を洗わせてごらんなされませ」
義仲が、その首を洗わせてみると、なるほど白髪になってしまった。

 

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旅の場所・石川県小松市上本折町・多太神社    
旅の日・2020年1月28日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

 

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「奥の細道の旅」  講談社 1989年発行

多太神社


小松駅からバスで10分ほど北西に行った小松市上本折町にある。
芭蕉はこの神社で、平宗盛に仕え、木曽義仲追討の軍を進めたときに斎藤別当実盛がかぶった甲に接し、
「むざんなや・・・・」の句を詠んでいる。

 

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「芭蕉物語・中」 麻生磯次  新潮社 昭和50年発行

小松というところに来たが、小松とはかわいらしい名である。
その名にふさわしく可憐な松が生えていて、
その小松に吹く風が、その辺にある萩や薄をなよなよとなびかせている。
芭蕉はいたく旅情をそそられたのである。

多田神社に立ち寄り、次の句を奉納した。

むざんなや甲の下のきりぎりす

「甲」は多田神社へ奉納された実盛の甲である。
芭蕉はその甲を実際に見て、その悲壮な最期を思い浮かべたのである。

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行

むさんやな甲の下のきりぎりす

石川県小松の多太神社にある斎藤別当実盛の兜の下で、蟋蟀(こおろぎ)が秋の哀れを誘うように鳴く。
神社境内でみつけたきりぎりすを謡曲「実盛」の悲劇に重ねた。
小松の多太神社は格式の高い神社で、曾良が持参した『神名帳抄録』に記載されており、 最初から旅の予定に入っていた。
多太神社にある斎藤実盛の兜は、芭蕉がこの句で追悼、 詠嘆したことで一躍有名になった(いまは行方不明)。

斎藤実盛は木曾義仲軍と闘って討たれた老武将である。
義仲は幼いころ上野国で実盛に命を救ってもらった恩があった。
討ちとられた実盛の髪は白髪を黒く染めており、義仲はそれを見て号泣したという。
その故事が謡曲「実盛」となり、それを念頭において、芭蕉は「むぎんやな...」の句を詠んだ。

多太神社は荘厳な石の鳥居の横に「式内社」の石碑が建つ。
鳥居の左下に、黒石で作った兜のレリーフが奉納品として飾られている。
境内には竹垣に囲まれて「むざんやな......」の句碑があるが、摩耗してほとんど読むことができない。
境内はしんと静まりかえり、謡曲「実盛」の故事を記した史跡保存会の看板がある。

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「奥の細道」しほらしき名や小松吹萩すゝき (石川県小松市)

2024年09月08日 | 旅と文学(奥の細道)

小松市は古い歴史の町だが、現在は
地上にブルドーザー工場、空に戦闘機が飛び交う自衛隊航空基地の町。

芭蕉が訪れた当時は北陸路の”しおらしい”町だった。
白山連峰が見え、安宅関にも近い。
町には秋の花・萩が咲き、ススキが揺れていた。

 

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行


「しほらしき名」とは小松という地名をいったので、
昔の小松引きの行事なども連想されて、いかにもしおらしい名だ、といったのである。
「小吹吹萩すすき」の「吹」は小松にも萩すすきにもかかる。
小松は地名であると同時に実際そこに生えている姫小松でもあり、
小松を吹く風が同じくしおらしいさまの萩やすすきにも吹き渡るといったのである。
多分、亭前に萩やすすきがあったのであろう。
主が古風な連歌の人だから、ここでは小松とか萩、すすきとかみやびやかな景物を詠みこんで、
時に応じた挨拶句に仕立てたのだ。

 

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旅の場所・石川県小松市材木町    
旅の日・2020年1月28日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


小松は加賀藩三代藩主前田利常の隠居城があった城下町で、海沿いには安宅の関跡がある。
弁慶と義経の歌舞伎十八番 「勧進帳」の舞台である。
小松に着いた芭蕉は、

しほらしき名や小松吹萩すすき

と、小松の地名をほめている。
芭蕉が歩く小道に萩の花が咲いていた。
それが小松という地名と二重になって、すずやかな風が吹いてくる。

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「奥の細道」あかあかと日は難面もあきの風 (石川県金沢市)

2024年09月07日 | 旅と文学(奥の細道)

金沢で、弟子や縁者に囲まれ、すっかりくつろいだ芭蕉の様子が句にあらあれている。


金沢は、太平洋戦争で米軍の空襲をまぬがれ、現在も加賀百万石の城下町の雰囲気がよく残っている。

 

・・・


「芭蕉物語(中)」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

 

十七日は、浅野川の大橋付近にあった北枝亭に招待された。
曽良は気のゆるみが出たせいか、寝込んでしまって、お供はしなかった。
芭蕉はこの席で、

あかあかと日は難面もあきの風 芭蕉

という句を披露した。
越中路から金沢へ入る途中、十三日、十四日、十五日といずれも快晴で、暑気が甚だしかった。
加賀の大国に入るのだと、心をふるいたたせてみても、身心の疲れはどうすることもできなかった。
十四日は大暑と疲労のために気分がすぐれなかった。
炎暑の中を歩き続けたので身心ともに疲れ果てたのである。

あかあかとした夕日を顔にうけながら、うら寂しい秋風の吹く中を、旅を胸に抱いて、
とぼとぼと歩いて行く旅人の思いを描き出した句である。


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旅の場所・石川県金沢市    
旅の日・2016年2月2日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行

 

あかあかと日は難面もあきの風

「あかあかと」は真赤な夕陽、「難くも」は「つれない顔をして」いること。
秋になったのに日は赤々と照りつける。ここにも一笑への追悼がある。
忍者寺で知られる妙立寺の裏が願念寺で、門前に芭蕉「塚も動け............」の句碑がある。 
願念寺は小さいながらも、鐘楼があり、真宗独特の大屋根を持つ本堂といい、コンパクトに一山を構えている。
境内には一笑塚があり、一笑辞世の「心から雪うつくしや西の雲」の旬が彫られている。
芭蕉が金沢へ着いたのは七月十五日で、二十四日まで九日間滞在した。

 

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「わたしの芭蕉」 加賀乙彦 講談社 2020年発行

あかあかと日は難面も秋の風

これも、太陽と風の二点セットである。 
「あかあかと」でA音の勢いがつき、残暑の日光の力を感じさせられる。
一転、秋の冷風で慰められ、そこにもA音が用いられていて、
 自然の力と慰めが見事に表現されている。

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「奥の細道」秋涼し手毎にむけや瓜茄子 (石川県金沢市)

2024年09月06日 | 旅と文学(奥の細道)

ナスビは江戸時代に急速に普及し、戦前まで果菜類のなかで最も生産量が多かった。
庶民はぬか漬けで食用し、武士やお金持ちの家では焼いても食べていたのだろう。
縁起もよく「一富士二鷹三茄子」、夢や絵画に登場する。

 

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「芭蕉物語(中)」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


その夜は雨がひどく降って、明け方まで続いたが、
十八日、十九日はともに快晴で、俳人たちが芭蕉のもとに集まって来た。
二十日は斎藤一泉の松玄庵に招待された。
松玄庵は松幻庵、少幻庵などとも書き、犀川のほとりにあった。
このあたりは川幅も広く、中洲もあって、川を渡る風は涼しく、掬すべき風情があった。
この日の献立は、芭蕉の希望したように、たいそうあっさりしたものであった。
芭蕉はこの席で、
残暑しばし手毎にれうれ瓜茄子 芭蕉
という句を作ったが、これは改作されて、

秋涼し手毎にむけや瓜茄子 芭蕉

となった。
秋も初めの頃で、まだ暑さが残っていたが、どことなく涼気がうごいていた。
瓜茄子をめいめいに皮をむいていただこう、とくつろいだ気分を出したのである。


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旅の場所・石川県金沢市    
旅の日・2016年2月2日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

 

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行

枕すゞし手毎にむけや瓜茄子


犀川のほとり一泉庵での吟。
秋の涼気を覚える新鮮な瓜や茄子を馳走された。さあ、皮を剥いていただこう。
秋とはいえ残暑がつづく日、いただいた茄子を「手ごとにむこう」という即興で、
「手毎にむく」は「手向ける」(没した一笑へのたむけ)の気持がある。

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「奥の細道」塚も動け我泣声は秋の風 (石川県金沢市)

2024年09月05日 | 旅と文学(奥の細道)

芭蕉は新潟県、富山県を歩き、やっと門弟の多い加賀百万石の城下町金沢に着いた。
届いた知らせは、楽しみにしていた一笑の訃報だった。
去年の冬に若死にしていた。

芭蕉は塚が動くほどに泣いた。

 

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行

金沢には一笑を中心にして、蕉門のグループがまだ見ぬ師の来訪を首を長くして待っていた。
あまり芭蕉に心を寄せる者のいないみちのくや越路の長旅の後に、
そのような加賀衆に会うことは、芭蕉にとってもこの旅の楽しみの一つであった。

芭蕉が、いかに、一笑との対面を心に抱きながら、歳月を経てきたかがわかる。
一笑への愛情は数年にわたって持続され、昴まってきたもので、その金沢に折角たどりついてみれば、
もはや一笑は影も形もないのである。
この句にはその悲しみが激しく表出されている。
塚も鳴動してわが慟哭の声に応えよ、といっているのだ。

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旅の場所・石川県金沢市    
旅の日・2015年3月10日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行

塚も動け我泣声は秋の風

金沢入りした芭蕉のもとへは前田家の息のかかった俳諧師が集まってきた。
さっそく竹雀 (旅館・宮竹屋)と一笑 (茶屋)へ連絡すると、一笑は七ヵ月前三十六歳で没していた。
じつのところ、芭蕉は事前に一笑が没したことを知らされていた。
金沢に寄ったのは一笑の追善が第一の目的だった。
芭蕉を迎えて、一笑の追善会が墓のある願念寺で催された。 
江戸時代の連衆は追悼して大声をあげて泣く。
塚も鳴動して、私の慟哭の声は秋風となって吹きめぐる......。

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「奥の細道」わせの香や分入右は有磯海  (富山県那古の浦)

2024年09月04日 | 旅と文学(奥の細道)

市振を発った芭蕉は加賀百万石の城下町金沢に向かった。
越中の黒部川、庄川、小部川を渡ると加賀が近くなった。
そこに、万葉集の歌枕”有磯海”がある。
源義経一行の、雨宿り伝説の残る「有磯海」を訪れた。

 

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旅の場所・富山県雨晴海岸    
旅の日・2015年8月1日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

わせの香や分入右は有磯海


歌枕担籠は『万葉集』以来藤の花の名所であるから、
藤の花咲く「春ならずとも初秋の哀とふべきものを」と執心を燃やした芭蕉であるが、
結局は諦めざるを得なかった。 
その心残りを託したのがこの一句で、七月十 四日(陽暦八月二十八日)のことである。
今や加賀の国にはいろうとしているが、この黄金の穂波の遥か彼方には行くことを断念した有磯海が 青々と広がり、白波が打ち寄せていることだろう、の意。

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行

わせの香や分入右は有磯海 

富山県高岡から広い早稲田の平香がする岸に分け入り、倶利伽羅峠をめざした。
峠から右手を見ると、はるか彼方に有磯海が望見された。
高岡から倶利伽羅峠へむかう海岸を雨晴海岸という。
海峡ごしに雪の立山が連なって見える。
雲に海の色が反射し、青い影となっている。この海が有磯海だ。
佐渡の荒海とはちがって、おだやかな海である。
その有磯海へむかう高揚感があふれている。
日本海は芭蕉の目前で、その様相をさまざまに変化させて、それにつられて芭蕉の心も揺れ動く。
曾良は「翁、気色勝らず 暑さ極めて甚だし」(『旅日記』)と書いている。
あんまり暑いので芭蕉さんの体調はすぐれない。
この日の行程は九里半(三八キロ)であった。
金沢はもう目の前である。
ここまできたら、さきを急ごうと腹をきめて、旧北国街道を南下し 倶利伽羅峠を越えた。 
標高二七七メートルの倶利伽羅峠は源平合戦の古戦場で、木曾義仲が平家の大軍を破ったところである。
芭蕉は義仲が好きで墓は故郷の伊賀上野でなく大津の義仲寺にある。

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「奥の細道」一家に遊女もねたり萩と月  (新潟県市振)

2024年09月02日 | 旅と文学(奥の細道)

新潟県糸魚川の駅前から歩いて、通りを日本海に向かうと左手に北アルプスの北端が見えた。
北アルプスは急角度で日本海に飛び込むように終了する。
その崖下が「親知らず」「子知らず」「犬戻り」「駒返し」で、白波が狭い渚を洗っている。
すごい光景だ。


越後と越中の国境、市振の町には糸魚川駅から市振駅まで鉄道(旧北陸本線)で行った。
トンネルの合間から何度もチラリと日本海が見える。
その海岸線の「恐怖」を車窓からもじゅうぶん感じられた。


市振駅から芭蕉や遊女が泊った町に向かって歩いていると、
交通が発達した現代でさえ、遠いところに来たなあと思った。

 

・・・

「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行

市振(いちぶり)

今日は親不知・子不知・犬戻り・駒越しなどという北国一の難所を越えて疲れたので、
枕を引き寄せて早く寝ると、 一間隔てて表の部屋に、二人ばかりらしい若い女の声が聞えてくる。
年老いた男の声も交って物語するのを聞いていると、二人の女は越後の国新潟というところの遊女であった。
伊勢参宮をしようとして、この関まで男が送って来て、明日は男を故郷へかえすので、返す文をしたため、
とりとめない伝言などをもしてやるところであった。

翌朝出立のとき、われわれに向って、「行方も分らぬ旅路の憂さ、あまり不安で悲しうございますので、
見えがくれにも御跡を慕って参りたいと存じます。
坊さまのお情で、広大な慈悲心をお恵み下さって、
どうか私どもにも仏道に入る縁を結ばせて下さいませ」と言って、油を落した。 
「お気の毒とは存ずるが、われわれは所々で滞在することが多い。
ただ人の行く方向に向って行きなされ。神様の加護でかならず無事に着けましょうぞ」
と言い捨てて立ち出でたが、あわれさの気持がしばらくは止まないのであった。

一家に遊女も寝たり萩と月

・・・

 

 

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旅の場所・新潟県糸魚川市青海町市振
旅の日・2020年1月29日   
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

・・・

 

 

「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

今日は親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなど云ふ北国一の難所を越えてつかれ侍れば、
枕引きよせて寐たるに、一間隔てて面の方に、若き女の声二人ばかりときこゆ。
年老いたるおのこの声も交り物語するをきけば、
越後の国新潟と云ふ所の成りし、伊勢参宮するとて、此の関までおのこの送りて、
あすは古郷にかへす文したためて、はかなき言伝などしやる也。

「白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、
日々の業因、いかにつたなし」と、物云ふをきく寐入りて、あした旅立つに、我にむかひて、
「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍らん。
衣の上の御情に、大慈のめぐみをたれて結縁せさえ給え」と泪を落す。
不便の事には侍れども、
「我々は所々所にてとまる方おほし。
只人の行くにまかせて行くべし。
神明の加護かならず恙がなかるべし」と云捨てて出でつつ、哀さしばらくやまざりけらし。

一家に遊女もねたり萩と月

曽良にかたれば、書きとどめ侍る。

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(桔梗屋跡)

 

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行

 

一家に遊女もねたり萩と月

芭蕉が市振の宿に泊まると、隣の部屋に二人連れの遊女がいた。
伊勢参りをするため、 新潟からきた遊女であった。
翌朝、遊女から「見え隠れしながら後をついて行きたい」と涙を流して頼まれた。
しかし、「われらは風まかせの旅である」と断り、「神様のご加護で無事に行けるだろう」とはげました。

同じ旅の宿に遊女と泊まりあわせると、庭さきに萩が咲き、月光がさしていた。
ここで読者は、「やや! 遊女が出てきた」とガゼン目をみはることになる。
『ほそ道』には、いくつもの仕掛けがあり、
前半の日光に対して後半の月光(月山)、
松島に対して象潟、という陰陽の対比がある。
『ほそ道』の前半に「かさねという名の少女」が出てくる。
那須の黒羽で「かさね」という少女に会った。聞きなれない名であるが、
撫子の花弁をかさねといった。
那須では撫子、市振では萩の花。

萩の花を遊女にみたて、月光を世捨て人である自分に見たて、
芭蕉が遊女たちと泊まりあわせているが「萩と月」なのだ。
寂しい町であっても、色っぽいつやが漂い、これもフィクションである。

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「奥の細道」の解説書には、例外がないほどに、
この遊女たちとの一夜は作り話であると書かれている。
その解説は必要があるのだろうか?

紀行文「奥の細道」は江戸を発つときからして、
”鳥啼 魚の目は泪”とありもしないことを書いている。
道中で人との出会いを場所や時間を入りまぜ、脚色した話があっていいし、
それでこそ名作と思う。

多くの芭蕉学者が、「ウソの話です」とわざわざなぜ言うのだろう?

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コメント
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